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1月, 2016の投稿を表示しています

健康なしに元気なし~筋力トレーニングで血流を高めよう~

今冬、三度目の嚔百連発に見舞われている。寒暖差アレルギーだと思うわけなんだけれども体力が消耗させられてどうしようもない。寝れば多少とも収まるにせよ、数年前から健康に邁進して殆ど大丈夫だったので、突然、降って湧いたように立て続けに襲われるのは悔しくも解せないかぎりだ。
しかし睡眠不足が最も良くないんだろう。予定している七時間が一年くらい取れてない。午後十時半に眠るのが健康への理想なのに午後十一時半過ぎが当たり前になってしまっている。ブログやホームページの更新を含めて創作活動のためだけれども翌日が暇ならば遅くまで眠っていれば良いのに色んなことができて嬉しいせいか、望みもせずに早起きしてしまうし、だから本当にいつでも休まらない感じなんだ。昼寝も全くできない。興奮しているつもりはないけれどもそんなふうに時間があると眠っていられないという。しかし嚔百連発はやり過ぎへの危険信号かも知れない。健康への理想を忠実に守らないと不調に祟られて《帰らぬ人》こそ以ての外ながら創作活動を捗らせるべくは積極的に改善して行かなくてはならないと思う。
時間が足りなければ打ち切って翌日以降に持ち越すしかない。たとえ後少しで目処が付きそうでも二日に分けて良い。考えてみると後少しがどうにも頂けない。引っ張って引っ張っての睡眠不足がもはや日課にも等しい状態だから後少しは《おやすみの合図》として捉えるべきだろう。消灯が迫っている。だから後少しという気持ちにも本当になってしまうわけだ。散々、繰り返しながら是正されるどころかさらに没頭してさえもいるので、このままでは厳しいといわざるを得ない。後少しを夜更かしの口実にするな。明日でも構わない。只、世界が終わって困るようなつもりもなくはないけど、ならば睡眠不足こそいっそまさかの来ない朝だろう。一大事を前にして怯えてないで、さっさと眠るんだ。
そして暇があっても昼寝できるくらいでやらなくては行けない。日中、急ぐようでは夜中もどうなるか。ペースが変わらず、しかも疲労困憊のままでは尚更と睡眠時間が削られても仕様がない。ゆっくりで良い。人生は時間が限られている。できないことは多いほどに自然なんだ。自分にできることを着実に手がけるべきだ。何かを十分にやり遂げてから又別の何かに新しく取りかかるという流れは決して不味くはない。先ばかり求めて元が疎かでは大変なだけではないか、むしろ。そ…

無添加シャンプーで髪と頭皮の健康を保つ

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シャンプーを変えた。牛乳石鹸のカウブランド無添加シャンプーという。ずっと探していたタイプのものが漸く見付かった感じがしたので、試すしかないと買ったら洗い上がりも撓やかで申し分のない使い心地だった。
成分表で水の次辺りに主要な洗剤が記載されているけど、高級アルコール系のラウレス硫酸Naやラウリル硫酸Naではないものが欲しかった。頭皮に求められる脂質まで落としてしまうと懸念される。よもや髪の成長を妨げる恐れがありそうなんだ。
安物では見付からない感じで、高級アルコール系のシャンプーしか使わなかった。しかしついに来た。牛乳石鹸のカウブランド無添加シャンプーは安物ながら洗剤としてはベタイン系のコカミドプロピルベタインとアミノ酸系のココイルグルタミン酸Naが記載されている。僕にはそれだけでもう十分に着目させられた。
商品のタイトルにもあるように無添加なので、シャンプーそのものに関係しない成分は大方が削ぎ落とされている。個人的には生活のキーワードに等しくて食品ならば取り分け注意しなくては行けないところだ。とはいえ、髪や肌にも大事だろう。
特徴的なのはDPG(ジプロプレングリコール)の配合だと思う。玉蜀黍や林檎から作られる、すなわち自然由来の保湿剤・感触改良剤といわれる。洗い上がりが撓やかなのはそのせいなんだろう。他にはシャンプーだけなのに水で濯いでも髪が全く軋まないくらい指通りが軽いと思った。使い易くてまさか気持ち良さも受け取る。長く使って行けるのではないかしら。
ところでシャンプーの詰め替えのボトルは水で洗って完全に乾かしてからでないと黴が生えたりもするらしいから継ぎ足す際には一手間を惜しんではなるまい。
参考:美容院スタッフが本気で選んだ良い成分しか入っていないシャンプー10選カウブランド無添加シャンプーを美容師が評価すると・・・。DPGを使う前に必見!メリットとデメリット☆

写真は一瞬で切り取られた世界の詩だ

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Forevermoreに漸く写真のコンテンツを追加した。僕の創作活動としては大きなものの一つなので、もちろん最初から置くことは考えていたし、とても嬉しいと思っている。
Photo via Forevermore
以前から写真は構図を大事にしてやって来て最近は編集の知識も増えて来ているので、二つの要素をフルに活かして載せて行きたい。
方法としてはブログやSNSや素材の写真でも変わらないけど、しかしメインのホームページは詩と表現をテーマとしているわけだからポエジー(詩情)を主体としてやるべきだろう。
これは詩以外の全ての創作活動にもいえることで、それぞれに特異性はあるにせよ、ポエジーを明らかにしなくては永遠の詩人としての自分らしさが損われ兼ねない。
写真というと個人的には小学時代にガンダムのプラモデルを幾つも撮影して全て手振れで駄目にしたことがあり、長らく手振れの恐怖症みたいな感じだった。昨今の補正付きのデジタルカメラでもしょっちゅうやらかして何なんだという状態が続いているけれども練習しながら少しでも撮り損ないを減らすようにするしかないだろう。
昔と比べると補正付きのデジタルカメラに変わってピントが合い易い。本当に手振れの恐怖症までは苛まれずに済んでいる。頼もしいかぎりにせよ、表現上、構図や編集によって写真そのものが、可成、面白く感じられるようになっていたので、もはやForevermoreのコンテンツとしても取りかかり出したわけだったんだ。
現状は少ししか載せてないけれども撮り溜めた写真は手元には多い。ポエジーを加味しながら適切に選別して作り直すべきものは正確に作り直して徐々にでも着実に増やせると良い。

人生を有意義に送るには期待値を上げる

どうもブログが非常に面白い。根本的にはTumblrが好きなだけかも知れないし、記事を望ましく公開するために選んでいたはずが逆に執筆の調子を予想以上に上げられてないとも否定できない。
考えると広告なしのリキッドデザイン(一列表示)で、さらに記事以外も非常に簡略化されているブログサービスは少ないと思う。ミニマルデザイン(最小限表示)と呼ばれるように余計なものが全て削ぎ落とされているわけだ。当初、何て良いんだと好ましく見惚れていた。Google+がTumblrとそっくりになってからだ、正しく落ち着かなくなって来たのは。
一応、ヘッダーとアバターの画像を消してみたり、どうだろうと考えている。文字だけだと今度は自分の他のホームページとそっくりになってしまう(素材サイトの背景には画像があるけど)。Tumblrをホームページとして扱うか、SNSとして扱うかを決め兼ねているのか。どっちでも構わないし、どっちでも構わないところにTumblrの面白さがあるとは思う。ロゴを見てもブログだから別に決めなくても良いんだみたく表現されてそうで、興味深くも受け取る。
かつて寿司の穴子を食べないでいると「鰻と穴子は兄弟なんだ」と父にいわれたものだった。僕は鰻は食べるけど、穴子は食べない。父はそれを知っていて寿司の穴子も鰻の蒲焼きと同じように食べることを促していた。加えて分け隔てされるのが可笑しかった、両方とも似た者同士なのに。詳しく知らなくて改めて調べてみたらどちらも生物学的にウナギ目なんだけれども穴子はアナゴ科に、鰻はウナギ科に含まれているんだ。

TumblrもサイトとしてはホームページかSNSかは鰻か穴子かに近いのではないかしら。四つの対応関係は曖昧に感じるにせよ、いうと平等だから、僕としてはホームページを鰻と気分的に捉えてTumblrはホームページとそっくりにヘッダーの画像を消したままにしておくのが良いかも知れないというふうに導かれても来るんだ。
ヘッダーが文字だけだと直ぐに記事が並んでいるので、自分の他のホームページとは味わいが異なるし、もっとずっと想像性を刺激するような形になっている。煩いかどうかも気かがりなので、敢えてサイト広告を間に挟むのも手だと考えられた。それが如何にも煩くてブログそのものこそ静まり反ったような印象を与えられれば嬉しいだろう。金銭的にも目立てばだろうけど、まだ誰も来ない日が…

才能は花開く~楽しさを味わいながら自分らしく生きるために~

知り合いで、この人が作家になればとかサイトを運営すればなんて思わされることがある。人柄に優れているので、さぞかし良い感じでやれるのではないだろうか。有望株に見えるだけにやらないでいるのは非常に勿体ない。

僕が声をかければ振り向いてくれるのかしら。貴方へそうせずに一人で重々しく溜め息を吐くような場面などではなかったとしたら笑うしかなさそうだ。
世の中に何等かの才能が埋もれていて、そのまま、終わる。とするや凄く考えてしまう。埋もれるために才能があるなんて死ぬために生まれて来たみたいで、とても悲しい。
能力や才能はそれを認め活用してくれる能力や才能がなければ成り立たない。
池田満寿夫の名言格言 via 名言DB
人は様々な可能性を持って生まれて来た。しかし生い立ちによって才能も変わるんだ。一言では出会いだ。出会いこそ才能を印付ける。
ところが誰かによって才能は必ずしも芽生えない。本人が嫌がってやらない。別の誰かによれば同じことでも嫌がらずにやるかも知れないし、正しく一筋縄では括れないと思う。
本人の自覚が最も重要だろう。だから気付く才能が第一条件だ。本人が気付かないと周りが何を薦めようと寄せ付けない。しかし本人の自覚が最も重要なのはそれだけではないと感じる。意欲によってこそ才能は花開く。自分にはこれが向いているんだという面とこれをやり続けるんだという面の二つの気付きがなくては将来性までは見えて来ない。
社会の編み目に組み込まれながら人は存在している。僕には何でも才能だと考えられてならない。日常の些細な出来事の一つ一つが個人的な気付き、または趣味嗜好や好き嫌いといっても良い、そうした能力から選り選られて実行されているわけなんだ。
生活上、歯磨きや読書など訓練というか、取り立てて奮起しなくても直ぐにできてしまう物事にも本当は能力や才能が深く関わっている。重態、忙殺、監禁、死滅、このような不幸を避けられるかどうかも一定の自然的な要因(どうにもならなさ)を除外すれば大いにあり得るだろう。
健康一つ取っても気付いてやるか、やらないかで結果は同じとはかぎらない。只、訝しいのは才能があって間違える場合なんだ。散々、健康を考えておいて病気に倒れしまうとしたら能力や才能もなかったことになるのかどうか。頑張っても無駄では最初から求めても仕様がない。しかし間違えて結果的に失敗したところから再起したい、もう一度、…