パガニーニの悪魔扱いされたほどの音楽へ 結城永人 - 2016年5月1日 (日) 生前、パガニーニ(作曲家、ヴァイオリニスト)は人々から自身の演奏について「悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されていたらしい。録音が全く残されてないかぎり、一体、どんな音色が奏でられていたのかは現今では知る由もない。 音楽でデモーニッシュな魅力と呼ばれる感覚がある Nicholo Paganini by Harris & Ewing Collection / Public domain いい換えれば蠱惑的な喜びだろう。聴きながらぞくぞくさせられるような表現だとしたら必ずしも演奏だけではなくて作曲でも受け取ることはできるのではないか。 パガニーニの作品にはデモーニッシュな魅力/蠱惑的な喜びが非常に含まれている。考えてみると気持ち良過ぎるような印象を与える。音楽と共に世界が終わりそうな、命が燃え尽きるみたいな形で、それでも悔いの残らない《芸術上の絶頂》へ向けながら音符が紡ぎ出されて行くということなんだ。 素晴らしいにせよ、身を滅ぼし兼ねないから危ないといえば危なくて人々も警戒心が働いたのかも知れない。逸話ではパガニーニの死後に彼の遺体は数十年にわたって至る所で埋葬を拒否されたらしいんだ。丁重に葬れば地獄の祟りに見舞われるように忌み嫌われたと推測される。 社会で悪魔扱いされるなんて本当に稀有だろう パガニーニが人々を虜にしてしまう心酔の余りの音楽を成し遂げたせいで、生よりも死を思わせるほどの官能の極致ともいうべき状態から抜け出せなくなりそうな真実味を強く強く齎したのかも知れなかった。そして実際に本人の演奏は無理だけれども作曲を通して触れてみると特有の持ち味が確かに頷かれて来る。 石川綾子のカプリース第二十四番(パガニーニ)がしっくり聴けた Paganini Caprice No.24 -Ayako Ishikawa-|ayakoishikawatv いうと何よりも知りたかったのは《芸術上の絶頂》だけれども多く伝わって来たよ。本格的な演奏ではないかと感心させられた。 パガニーニの音楽人生にかけた情念が分かる。だから彼自身もやるという。何で好きなのか、演奏や作曲も。一つの止められなさを追求した結果が《芸術上の絶頂》に結び付くと僕には思われてならない。 表現方法に凝ったもののようだけれども飽くまでも情念のためだろう 何よりも情念が大事だと考えたい。音楽に全てを掴まれてしまった人生がパガニーニにはあって自分らしさとして素直に出して行こうとしていたのではないか。 人間性も真面目だったはずだ。伝記的には病弱の薬漬けでボロボロだったみたいで、それが原因の副作用で亡くなったといわれている。可哀想だけれども作品には悲しみが如実だった。なので癒されて優しさに取って代わるような響きの美しい音色が求められていたと認める。 恋愛に一途で、気に入りの創作活動を投げ出すまでの時期も見られたり、我流で色んなことに突き進んで行くパガニーニは自由奔放というか、無邪気そのものなので、素敵ながら本当に真面目な人としか受け留められない。 きっと自分に嘘が付けないような性格だった A homage, NICCOLÒ PAGANINI by Sérgio Valle Duarte / CC BY 個性をとことん大事にしていた。見習うべきだと思う。イメージが悪魔の生まれ変わりかどうかはオカルトにせよ、自由こそ個性を大事にしなくては手に入らない。生きた心地のする世の中でパガニーニは音楽をやっていたわけならば素晴らしいのも間違いなさそうだ。 石川綾子の演奏は音楽の表情もくっきり奏でられるので、パガニーニの生き様が醸し出されるようだ。一人の人間としての存在感が示される。あるいは個人的な状況から掴まれたはずの自分なりの良さが見えて来るというか。 しかも詩情がある。劇的にも拘わらず、静けさが好ましくて涙を誘われる。パガニーニの心の柔らかさのせいだろう。感性が裸だった、何しろ。まっさらな境地にやおら気付かされる。有り難くて嬉しくて望ましい。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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