クレーの絵が詩そのものなのは死と隣り合わせで意欲的な画家だったせいだ 結城永人 - 2016年7月20日 (水) Paul Klee by Alexander Eliasberg / Public domain 画家のクレーが四十歳過ぎの大回顧展のパンフレットに記した言葉が非常に興味深かった。現在は墓碑に刻まれているらしくて墓はスイスの彼の故郷ベルンのパウル・クレー・センターに置かれている。 クレーの非常に印象深い言葉 私は現時点で受け入れられない 未だ生まれもしないような 死者に囲まれて暮らしているためだ いつになく創造の心へは幽かに近付く しかし十分に近付きはしてない。 原文 Diesseitig bin ich gar nicht fassbar Denn ich wohne grad so gut bei den Toten Wie bei den Ungeborenen Etwas näher dem Herzen der Schöpfung als üblich Und noch lange nicht nahe genug. Paul Klee|PAUL KLEE’S EPITAPH, THE MEANING(訳出)|NGRAVITYstudio Contemporary Art Blog まるで詩人の認識のような味わいがする 目に見えるものを描こうとしているような風情では全くなくて芸術について私たちが見えるようにしてくれるものという言葉も残していたと聞かれる。 この世で見えないものは心の目に全て映っているわけならばクレーはきっと心の目で世界を見詰めることのできる数少ない絵描きだったのではないか。 ならば言葉遣いも同じだろう 死は説き伏せられない。手に入れられないまま、少しも触れないで、世界に定着される死者の傍らで創作意欲が増すといっているわけだ。心の目で見ている、死を。恐ろしくも安らかでもない。人生を締め括るものとしての終止符と呼ぶとスタイリッシュながら意味合いが又随分と違って来てしまう。 クレーの持ち前の感性が詩そのものなんだ だから面白いよ。色彩で描かれた詩はこういうものかと味わわされる。 よもや魔術のような筆捌きの片鱗が漂っていて碑文には正しく相応しいと認める他はない。 クレーにとって創作活動が死と隣り合わせで意欲的だったとすると命の輝きは確かな認識に取って換わる美しさを如実に醸し出しているはずだろう。 関連ページクレーの理解者は対象を持たない自我が面白い コメント 新しい投稿 前の投稿
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