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8月, 2016の投稿を表示しています

サイト運営を長続きさせたければデザインとコンテンツこそ無料でも欠かせない

朝からブログのアクセスが十人を越えていたから非常に嬉しくてブログでも良いけれども急ぎたければGoogle+にいつもよりも早く気持ちを載せておこうかと考えたのに何もかも失意に終わった。
迷惑メールが来ていた、ホームページにブログにはメールボックスを置いてないせいで、ブログについて。
共有ボタンを下の方に置いていて誰も気付かないようだけど、上のリンクには流石に気付いて貰えるようで、ブログからホームページへやって来る人も徐々に現れている。
素晴らしいことだと思う。ブログを見て僕ならば気に入らないとホームページまでは行かない。面白いからこそ他のサイトも知ってみたくなるわけなので、そういったところからも些細な日常のアクセスが将来的に伸びる可能性は否定できなくて努力する甲斐もあると認められて来るんだ。止めてしまうには惜しいはずだ、まさか。
僕はサイト運営で迷惑メールは殆ど受け取ってない。何かの宣伝は別として十数年で数えるほどしか来てないんだ。サイトや作品の人気のなさとも繋がるかも知れないけれども気が付くと訪問者を選んでいた。デザインによって来る人と来ない人を振り分けることが可能なんだ。つまりは訪問者が素通りするか、しないかを自分自身で決められるという。
迷惑メールを避けるためにはページをあらゆる面で矛盾させてはならない。デザインの論理的な完全性が強いほどに打ち負かされないというのも妙だけれども迷惑メールを送り付ける心理と大きく関わっている。気に入らないと思われずに済むとすれば矛盾したデザインのページは不用意に付け入る隙を与えしまうことに等しかった。
僕は迷惑メールは欲しくないし、芸術/創作活動の邪魔にしかならないので、命懸けで死に物狂いでやっているにも拘わらず、何一つ理解されない世の中の下らなさには心底と死にたいとしかいいようがない、なのでデザインも完璧に仕上げて迷惑メールは寄せ付けないように努めている。
考えればスマホのウェブからだとブログの最上段が少し長くなっていてデザインが崩れていた。これが原因だろう、端的にいって。デフォルトのモバイルテーマに変えてしまえば直ぐにでも直せるけど、しかしながら追加したデザインが出なくなるのも耐えられなさそうなので、個人的には控えたくなる。
以前、ランク・アートでも一回だけ同じような迷惑メールがあった。無視するしかなかった、余りに頓珍漢な内容だったので。た…

サイト運営で注意するべき著作権法の引用

自分のサイト、または作品に他人のサイトのコンテンツ、または作品を載せる場合には著作権に注意しなくては行けない。2016年8月時点で著作権は親告罪だから相手から法律的に訴えられないかぎりは事件にはならないとはいえ、無断で行うかぎりはそうした可能性が常に付き纏ってしまう。うんざりだから他人のコンテンツ、または他人の作品は自分のサイト、または作品に載せないように注意したくなるんだ。
無断でやって法律的に構わない場合もあって引用と呼ばれている。著作物の複製としては他にも幾つかあるけれども自分の著作物に自分以外の著作物を含めて公開するためには引用が重視される。
第三十二条 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
著作権法 via 法令データ提供システム
引用における注意事項
他人の著作物を自分の著作物の中に取り込む場合,すなわち引用を行う場合,一般的には,以下の事項に注意しなければなりません。
(1)他人の著作物を引用する必然性があること。
(2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。
(3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。
(4)出所の明示がなされていること。(第48条)
(参照:最判昭和55年3月28日 「パロディー事件」)
著作物が自由に使える場合 via 文化庁(引用の「第48条」とは著作権法の条文)
僕はどうしても他人のコンテンツ、または作品を自分のサイトに載せなくてはならない場合には引用を考えている。
尤も引用だから大丈夫とはかぎらないし、誰かに裁判所に呼び出されて法律的に引用として厳格に成り立っているかどうかと争われる危険性は免れ得ないんだ。
自分のサイトに他人のコンテンツ、または作品を載せたければ引用を注意深く捉えながらやって行くしかないだろう。
しかし気付いたのは画像や動画のように人物が入っていたりすると他人のコンテンツ、または作品の著作権に加えて入っている人物の肖像権なども考えなくてはならない。
恐ろしいと思って人物の入っている画像や動画は通常よりも警戒したくなって来た。
考え直してブログにレオナルド・ディカプリオの写真をWikimedia…

何て可愛い白猫なんだ

Coby The Catさん(@cobythecat)がシェアした投稿 - 2016年 5月月6日午前11時12分PDT
布団に顔を少しだけ埋めている様子に姪を思い出した。タオルで頬を覆うような仕草を良くしていたんだ。激かわのお洒落さんの雰囲気が凄く伝わって来るような白猫ではないかと思う。気に入らずにもいられなかったわけだ、僕にとっては。
しかし白猫というと些細な日常のスタートで、一件目の投稿だった。他にも後から一つ載せたけど、本当に可愛かった。
ブログで初心を忘れてはならないと白猫には明らかに感じるよ。
激かわのお洒落さんならば姪のためにやるべきかも知れないけど、ただし訪問者は様々だから永遠の楽しさを与えるだけでは上手く行かないので、姪を気持ちの励みにしながらアクセスが少なくても本当に腐らずに諦めずに続けて行けばいつかきっと幸せも掴めるのではないか。
今此処でただ生きているだけでも些細な日常は十分だとすれば流れ星になれるかどうかが決め手だろう。死ぬ間際に振り返って彼処から飛んで行ったんだと存在こそ確かに認められるように頑張らなくてはならない。
良い言葉だと思えば綺麗だとも感じるし、我ながら天晴れの底力にせよ、天使も微笑んでいる。

腸内環境を高めるためにビフィズス菌のヨーグルトを

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人間の赤ちゃんの腸内環境はビフィズス菌が大部分を占めていて年齢と共に減少して老人においては殆どなくなっているといわれる。そして善玉菌としてはアシドフィルス菌の活躍する機会がビフィズス菌を凌ぐように取って替えられるともいわれるので、僕はアシドフィルス菌に注目するべきだと考えてビフィズス菌には期待しないでいた。
ところが気絶しかけるほどの腹痛に見舞われたりもするし、腸内環境は決して芳しくは感じられない。
以前、テレビ番組で見栄晴が自分は、毎日、山盛りの野菜を食べているから腸内環境は善玉菌が多くて好調なはずたと喜びながらいざ科学的な調査に挑んでみたら実際には悪玉菌が非常に多くて自信も喪失されるばかりだったので、見ていて僕も驚かざるを得なかったし、腸内環境を高める食生活の難しさが痛感されてしまったんだ。
個人的な経験としては腸内環境への取り組みはナッツ類(落花生、胡桃、アーモンド、マカダミアナッツなど)が最も効果的だと思われる。
食物繊維が善玉菌の餌になって増殖を助けるためだけど、野菜や果物の水溶性の食物繊維よりもナッツ類の不水溶性の食物繊維はその点では劣っているので、なぜ効果的なのかはむしろ老廃物を排出するのに向いているためではないか。悪玉菌の餌を減らして増殖を抑えることに繋がる。
腸内環境は善玉菌と悪玉菌と日和見菌(善悪の多い方に加担する菌類)の三つに大別される。しかも三つで満杯になるように常に動いているから悪玉菌が減ると必然的に善玉菌か日和見が増えて来るわけなんだ。何れも空いた部分に増殖できる、または悪玉菌が弱れば打ち倒すような形になるからナッツ類の不水溶性の食物繊維は腸内環境の助け船といっても良いだろう。
考えると善玉菌は直接的に増やそうとするだけではなくて悪玉菌を減らすという間接的な働きかけも欠かせないわけだ。
善玉菌を増やすのは野菜や果物の水溶性の食物繊維やそこには酵素も含まれていて重要だけど、さらに発酵食品の有用菌や様々な食品のオリゴ糖が良い。
悪玉菌を減らすのはナッツ類の不水溶性の食物繊維や酢だ。個人的には黒酢を欠かさない毎日だけど、酢は酢酸の力で腸内細菌を死滅させる。なので善玉菌も減らすだろうけれども主に大腸菌が減り易いらしい。悪玉菌で多いのは大腸菌だから効果的だと思う。因みに大腸菌が少なければ大腸癌も避けられるかも知れないし、僕にとっては黒酢を止められない理由の一つで…

ジェームズ・ディーンがなぜ言葉通りの人だったのかまでは明かすには及ばない

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ジェームズ・ディーンが本当に良いと思うようになった切欠は主演作の一つだけれども理由なき反抗という映画を観たことだった。
振り返るとタイトルのイメージに以前から踊らされていたという印象が最も多く残されている。何だろう、理由なき反抗とは。凶暴な人物が描き出されているのではないか、必ずしもホラー映画ではないにせよ、見るに絶えない光景が繰り広げられているとすれば有名な作品でタイトルは直ぐに覚えられたとしても実際に観てみようというところまでは気が進まなくもなるわけだった。
とはいえ、映画そのものは普通だったようだ。普通というか、予め想定されたよりは遥かに衝撃が少なかった、恐ろしさの。反対に美しさや素晴らしさといった映画の芸術的な凄さが衝撃としてそれこそ恐ろしいまでに胸に打ち込まれた思いがした。
Rebel Without a Cause - Trailer via Warner Movies On Demand
言葉では直ぐに人には伝えられないようなイメージが透き通るまでに味わわれて以来、ジェームズ・ディーンの理由なき反抗は僕にとってかけがえのないものの象徴として認められもしたし、映画としては不朽の名作に他ならないと心から感激されて誉め称えてしまうことも難しくないはずだった。
綺麗なのは世界だった、何よりも。人物や物語も素敵だけれども僕が詩人だからか世界の純粋さが理由の反抗を大きく特徴付けているといいたくなる。本当に人物や物語も素敵なのに世界こそ綺麗で、胸打たれる映画なんて危ないくらい力強い。今正に理由なき反抗の素晴らしさ、または主演のジェームズ・ディーンの凄さへ懐かしくも触れ返しながら胸に空いてしまった大穴を人は、一体、どのようにして持ち堪えられるというのか。詩が些細な日常すらも追い越して行く。そのうち血が流れ出して大穴の胸の断片から心を真っ赤に染め上げることだろう。美しく飾り立てる薔薇のように天使の頬も又目立って血色を匂わせているならば気持ちは甘い。世界も詩を通じてこそ綺麗に受け留められたに違いないと思う。疑い得ない。
ジェームズ・ディーンの理由なき反抗のポスターが探せば色々な種類があるけど、取り分け赤いジャケットで煉瓦の壁に寄り立っている仕草なんか作品そのものとイメージが少しだけずれているようで考えさせられてしまう、妙に。映画を知った後で特に違和感が強まって来るんだ。
余裕に満ちて…

何かに感動しながら暮らせたら寿命を縮めずに済むかも知れないので

今夏、高校野球の甲子園が非常に面白くてテレビで試合を幾つも観ていた。
作新学院の今井達也投手がとにかく気に入ってしまって三回戦で気付いて次の準々決勝からちゃんと観るようになって毎試合を追いかけているうちに全国制覇まで成し遂げられたので、まさかとは感じながら注目し続けたけれども凄かったし、今井達也を含めて作新学院の選手たちがあれよあれよと勝ち進みつつは最後の優勝旗を手にするなんて嬉しくも信じられないような結末だった。
Google+にそれぞれの試合に纏わる記事を投稿していた。
三回戦/対花咲徳栄
作新学院というと怪物と呼ばれた江川卓以来の衝撃だろう
準々決勝/対木更津総合
スーパースターが出て来ると情熱も殊更にヒートアップして
準決勝/対明徳義塾
結局、今井達也にはカリスマがある
決勝/対北海
今井達也はメンタルが素晴らしかった
作新学院がエースの今井達也と共に優勝を決めると本当に感涙せざるを得なかった。素晴らしいチームだったし、試合振りも申し分のない見事さだったのではないか。久し振りに心も洗われるような世界を目の当たりにできて好運だったと思う、非常に。
個人的には日頃の思い悩みの数々もどこかへ吹き飛ばされるくらい楽しめた数日間だったし、何かに感動しながら暮らせたら寿命を縮めずに済むかも知れないので、もはや悲しみが減るどころか健康と長生きに役立ちさえもすると可笑しく悟らされた。
些細な日常ならば感動できる何かなんて身の周りに幾らでもある。悲しみが全てではないから人生に期待するべきだ。何もかも駄目では死ぬしかない、誰だって。暗いままの気分では夢は掴めないと決め込みながら這い上がるように前進するんだ。どうしようもなくても終わりではなければ大丈夫だろう。未来へと諦めだけはするな。

Googleアナリティクスのデータはパソコンで改竄してサイトに容易に載せられるらしい

サイトのアクセスをどうにか伸ばそうとそれについて色々と調べていると莫大な訪問者を抱えているというサイトがゴロゴロ見付かるので、俄かには信じ難い光景なんだけれどもやはり事実を偽っている場合もあり得ると分かってしまった。
たった数分でアクセス数を100倍に増やしてみせる裏技
Googleアナリティクスのデータを表示してこのようにアクセスが莫大に伸びていると示されたとしても鵜呑みにしてはならないわけだ。
僕はやらないと断言しておきたい。ブログにアクセスの記事を載せているし、成功例を示せば人気が出るかも知れないとは思う。ただし実際に訪問者が増えないかぎり、やってもブログそのものの信用性を失ってしまう。
人生と同じように抱えたボロが人前に出てからでは何もかも取り返しが付かないので、最初から手だけならば付けるどころか伸ばしさえもしないでおくにかぎるよ。
良心を咎めるようなサイト運営はしてはならない。誤った情報は流さない、好んでは。口に出しても誰も認め切れないはずならばおよそ僕が事実を偽っているかどうかは自分のために考えるしかないんだ。
妙な話、Super Leakは一日に十人がやっとだけど、もしかしたら何千万倍にも達している。皆にも分からないし、僕にしか事実は掴めない。さてぞ勘繰る人にとっては何千万人も来ているのではないか、サーバーがパンクしないのも不思議なくらい魔法の杖でも振るいながらやっている一日みたいに思われてしまってはもっとずっと少ないと泣き崩れても通用しないだろう。
僕は本当に自分へ向けて明かすしかない、こればかりは。訪問者へは事実を偽らない。サイト運営も誠実でなければ自分らしくないだろう、きっと。
愛が必要だけど、しかし訪問者も分かって貰えるのは愛だ。愛を大切に温めながらやって行けば良い。親鳥が雛鳥を卵から孵すように信用されるまで誠意を尽くすんだ、望んでは忍耐強く、そして胸を張って正々堂々と励み続ける、全てに。絆が得られるはずの偉大な愛にだけは背いてはならない。末永くも絶対に誓うべき神へ向けて素晴らしく生きろ。

コーラと逃げ出さない俳句の極意

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夏の暑さにコーラが美味かった。健康を考えると糖分を控えたいけれども偶には良いのではないか。
炭酸が多いと驚いた。当たり前だよ、コーラだから。知っていて確かめて喜びたかったのではないか、久し振りだし。本当に喜べたから驚くしかなかったと思う、今さっきを振り返りながら。可笑しいにせよ、コーラが懐かしくも気持ち良く飲めたのは嬉しかった。
八月の机に馴染む缶コーラ
言葉を詩に感じるために文章の動詞を別の何かに差し替えることがある。水を折るなどと世間一般ではあり得ない表現を行うと如何にも世界が優しい香を放って来るんだ。
ただし苦肉の策だから動詞が世間一般と同じでも人は作詩できる。感性にそぐわない文章にかぎって動詞に問題を抱えている可能性が高いのかも知れない。動詞を別の何かに差し替えると上手く行ってしまう。
今作は「置いた」で考えてどうしても缶ビールに合う。そして「立てた」でも殆ど缶ビールなんだ。困った挙げ句に動詞を抜いて考えてもみたけど、やはり匂いが缶ビールに繋がってしまう。
夏の季語の「八月」が缶ビールにぴったりなので、語感が呼び寄せてしまうんだろう、本当に苦肉の策として「馴染む」に差し替えると良い感じに収まってくれた。
名詞も世間一般で「缶コーラ」は殆ど聞かないし、缶ビールが普通だからそれ自体が回りに嵌まる言葉を持ってなくて難しかったよね。浮いた存在では「缶コーラ」が可哀想で僕には詠み抜くか、断念するしかなかった。
出来上がりは非常に詩的だ。動詞の「馴染む」が生きている。むしろ俳句の季語の世界を霞ませるくらい輝いてしまって印象としてはユニークだろう。
気付かされるのは俳句は詩よりもイメージに近くて言葉に遠かった。言葉からイメージを醸し出さず、イメージから言葉を掴み取ると気持ち良い。全体的な纏まりが物凄く大事だと思う。
文字数が少なくて文章が短いと侮ってはならない。むしろ僅かな狂いで丸潰れだから俳句は恐ろしく難しい。逃げ出さないところに極意をしかし覚えられるのも間違いないんだ。
コーラの俳句で分かるなんて有り難い。俳句を詳解できて今日は最高だ。コーラのお陰だ。人生に素晴らしい思い出を持つ。

スポーツの芸術性に目覚めるオリンピック

リオオリンピックが閉幕した。最も印象に残る日、名場面は何だったのかと問いたくなる。やはり高橋尚子と野口みずきの仲の良さだろう、試合とは関係ないけれども。試合は咄嗟には思い出せない。僕は殆ど観てなかった。
というか、ちゃんと観た試合は一つもなかった。400mリレーの決勝はブログに載せるために動画で確認しただけで、これはテレビのニュースで日本のバトンの受け渡しの技を知ったせいだからスポーツとして真っ先に注目されてはいなかったんだ。昔と比べれば余程と興味も関心も減ってしまった。
リオオリンピックはいつ終わるのかとかまだ続いているのかなんてのんびり関わるような見方が強かった。僕もスポーツに引き付けられない人たちの仲間に加わってしまったのではないかしら、生まれて初めて。
世の中は大いに盛り上がっているらしいけど、ただし自分には合わないし、テレビのチャネルもそうで、気は向かないにせよ、必ずしも悪いことではなくてむしろ良いことならば過ぎ去ってしまう全てが又寂しく感じるばかりだった。
運動は健康に役立つからスポーツも無視するべきではない。そしてスポーツには芸術性も含まれているから個人的には興味や関心を減らし過ぎては行けないのではないかと注意したくなる。
芸術性からスポーツを捉え返せばリオオリンピックではサッカーのブラジル代表のネイマールがピカ一だったのではないか。
スーパースターの証明 ネイマール オリンピック全ゴール
リオオリンピックの開催国のブラジルはサッカー大国といわれていて最高に盛り上がる競技もサッカーに違いなかったはずで、その中でしかもブラジルが頑張っていて取り分けネイマールが国民の期待を背負いながら素晴らしい活躍を見せてくれていた。
プレイもさることながら大きな大きな夢を叶えたところに涙が止まらなくなるんだ。しょちゅう口に出してはいたけれども素晴らしいとはこういう世界だと今更ながら打ちのめされずにもいない。気持ちこそ透き通るよ。
一つだけだから綺麗なんだ、夢も。優勝を目指して栄冠を掴み取る。他には何も要らない。格好良いし、称えるほどに自分でも恥ずかしながらネイマールと同じように生きたいと欲する。心から誓いを立てるように信念を明らかに願わされてしまう。
どんな競技のどんな選手でも気持ちはきっと変わらないし、人生からすればすなわち信じるままに突き進んだ道の上でそれぞれの夢を描き出していたはず…

日本がオリンピックの短距離走の400mリレーで銀メダルなんて凄いと思った

リオオリンピックで日本代表が銀メダルを獲得した男子400m/4×100mリレーの決勝を観た。
ノーカットで400mリレー決勝! アジアの短距離史上 最速の走りを目撃せよ
四人でやっているけれども一人ずつは決してメダルが狙えるほどの走者ではないわけだから他国の有力選手を揃えた幾つものチームに追い付けないはずではないか。
しかしリレーはただ走るだけの競技ではないという特徴を独自に追究した結果らしかった。
日本は、下からバトンを手渡す世界でも珍しい「アンダーハンドパス」を15年前から採用しています。
世界を驚かせたバトンパス 400mリレー via NHK NEWS WEB
かつて北京オリンピックで銅メダルを取った際にも驚かされたけど、走りの手の動きに合わせながら無駄を削ぎ落とした「アンダーハンドパス」が流れも良くて効率的にタイムを縮められたんだ。
短距離走の400mリレーでは試合もあっという間に終わってしまうし、バトンの受け渡しで僅かにでもぐずぐずしていたら致命的なミスに繋がってしまう。
前の人が下からバトンを渡すと後の人は落とし易いから危ないのではないだろうか。
日本はまるで綱渡りみたいな技を磨いて個人は遅くてもチームのリレーでは速くなっていた。
芸術や文化で手先の器用さが日本的だと感じるし、そうした物作りの巧みさで経済でも発展して来たはずだけど、スポーツにも出ているというところが非常に面白いし、個性的で良いと思った。
今回のリオオリンピックの銀メダルについてはもう一つの技が含まれていたらしくてバトンを受け取る選手が早めにスタートを切っていた。普段よりも遠くでバトンを貰うようにするとさらにミスの可能性は高まるもののスピードに乗り易いからタイムは縮められるみたいだった。
正しくギリギリの挑戦だろう。知って素晴らしいと称えたくなった。自分が弱くても考えればチャンスはあると学ばされる、人生を。知恵を絞って物事を自分に有利な形で捉えて行けば取り組む結果も好ましく変わり得るという。日本の短距離走の400mリレーが実例を示してくれた。
もしも夢を叶えるとしたら必死に頑張ると共に求めている夢とは何かを見極めることも重要なんだろう。

Googleと僕~自分らしさを貫くにも長所から~

十年以上前、ガラケーでインターネットを初めてやるようになってホームページを開設して作詩するようになって生活の幅が広がった。
検索エンジンはGoogleを使っていてシンプルで見易いから良いと思って何気なく選んでいた。ガラケーの画面メモにGoogleのトップページを取り込んで検索窓から直ぐに色んなサイトを見て回っていた。
当時はGoogleの他に検索エンジンが幾つもあって使い心地は団栗の背比べと大差がなかった。しかし気付いてみればあれからGoogleが断トツに伸びていたと驚く。世界でトップの検索エンジンに上り詰めた。検索エンジンは他では影が薄くなるばかりだ。ユーザーエクスペリエンスで人気を大きく博したGoogleなんだろう。ただ見易いだけだったと僕は振り返らずにいない。
人気なんて本当にちょっとしたことだ。しかしGoogleは検索エンジンが見易いという使い心地を追求したのではないか。一つの長所を考える中で、ChromeブラウザやAndroidスマホも出て来たようだ。世界でトップの検索エンジンというけれどもChromeブラウザやAndroidスマホにGoogle検索が付いている昨今では単純にそれだけではもう他と比べれられないところまで達している。別次元のものに成り代わっていると思う、検索エンジンとしてならば。
僕はGoogleと共に同時代を歩んで来た気持ちが凄く強い。そしてGoogleの発展を考えると自分はどうだったかと悔しくも惨めさが溢れる。人気ならば落ちて落ちて盛り上がっていた昔のホームページとは比べようもないし、見る影もなさそうなサイト運営だ。Googleとは正反対の方向に衰退の道こそ彷徨うなんて状態では涙が足りない。泣いても泣いても悲しみが底抜けだろう。
長所を伸ばせば良い、Googleを見習っても。自分では皆ために何ができるかは分かり難いにせよ、僕ならば幸いにも三つ挙げられる。
可愛いね(透き通った心の持ち主)優しいね(天使的な人)遊んで(激かわのお洒落さん
三人の言葉が本性と素性と根性なので、混ぜ合わせながら人間性を明確に掴むことができた。人間性の中に長所があるわけだから後はそれを担って突き進むだけだ。
もちろん愛がサイト運営に欠かせなくて個人的にいえば永遠の詩人としての喜びを人々に与えるべきだろう。
考えると僕こそ皆が目の前にいないからデバイスの画面越しでは真実味が下がっ…

詩と人生のためにダ・ヴィンチのモナリザに隠された芸術上のヒントを追え

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ホームページに「詩集はさらに七つくらいまで追加できると思う」といった予定は無事に遂行された。
風のシエスタへぞなこそもにを心当てちじくがわあらまし柄の遥かに救いの手夕凪へ
公開した詩集も全部で二十二に増えた。気持ちは、大分、落ち着いて来たし、ホームページにいつか載せなくてはならないとした焦りは解消されたに等しい。
昔の詩集だけれども詩の題名や本文や詩集での並び方も変えながらやっていると今だからこそ出せたのかと思ったりもする。
一度は完成品として公開しておきながら後から修正せざるを得なかったものもあるし、どこで区切りを付けるかとなると芸術家にとって芸術作品において俄かに問題視されてしまう。
Mona Lisa by Leonardo da Vinci [Public domain], via Wikimedia Commons
芸術作品の区切りというと真っ先に思い浮かぶのがダ・ヴィンチモナリザだろう。完成してないんだ、本当はというか、作者にとって。どこからどう見ても完璧に感じられる絵ではないかしら。
ダ・ヴィンチは死ぬまでモナリザに筆を入れ続けていたらしい。尤も見せてもいなかったみたいだ、人々には。一人で後生大事に抱えながらアトリエで何年もかけて描き続けながら亡くなってしまった。
こういうと他にも例はある。絶筆とされる自己表現だし、個人的にはカフカ審判、日本ならば夏目漱石明暗といった小説が作者の死によって妨げられずに書き続けられたらどうなったかと未完成の残りを想像させられて止まないんだ。
ダ・ヴィンチはちょっと違う。もう十分に完成している、モナリザなんか見れば。未完成の残りは全く気付かれないし、後生大事にの言い伝えからすれば何だろうと首を傾げざるを得なくなる。
只の煽りかとありもしない謎を匂わせるためにわざわざ筆を入れ続ける振りをしていたに過ぎないとダ・ヴィンチの脇腹を人差し指で突いてみても気持ちそのものは分かるわけでもなさそうだ、夢の中でただし。
生産的には参加することに意義があると知られるオリンピックと変わらない。描き続けることに意義のある絵、やり続けることに意義のある芸術、創作活動をダ・ヴィンチは身を以て教えてくれていたのではないか。もはや人生と切り放せないくらい作家自身が作品になってしまっている。
僕は「パフォーマンス=アート」というけど、とにかく死ぬまでモナリザを描き続…

どうすればアクセスを伸ばせるかを真剣に考えてみた結果

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伝わってないと思う、僕の愛が訪問者に。端的にいって訪問者に向かってサイト運営をやるべきだ。
ブログでゴッホについて載せたり、銀色夏生について載せたりしてたぶん訪問者は僕のゴッホへの愛、銀色夏生への愛は分かってくれている。これではしかしアクセスは伸びるわけがないんだ、ゴッホや銀色夏生からしかおよそ。僕の訪問者への愛こそ訪問者にキチンと分かって貰えなければどうしようもないと思う。
難しくて今まで殆どできてなかった。掲示板やメールのようにどうやって訪問者のためのコンテンツを生み出せるか。いうと自分のことが載っていると誰にでも同じように分からせられる管理人でなくてはならない。

自己表現のスタイルを皆に向かって取り纏めると良いのではないか。気付けば易しかった。管理人の思いをテーマに打つけない。どんなに頑張って取り組んでもサイト運営で愛のために思いを打つける先は訪問者にしておくという。
訪問者に思いを打つける自己表現のスタイルは気の持ち方でしかないからできる人は直ぐにできるはずだし、Google+なんか挨拶だけで大勢の人を呼んでいたりする光景を目にしては驚かされていた。管理人の「おはようございます」から百人の常連が掴めるサイト運営は事実なんだ。あり得ないと思って写真が良いとか他の魅力を探りたくなるけど、しかし本当は「おはようございます」が訪問者に向けられた言葉で愛として理解されているせいだ。
実生活でも同じだ。そっぽを向いた挨拶では「何だ、この野郎」(アントニオ猪木)と思わせてしまい兼ねない。プロレスならいざ入らず、誰もサイトという名のリングには上って来ないだろう。忙しくても暇でも見ず知らずの誰かという管理人との縁は愚か、絆にも優れず、かぎりなく薄かった。訪問者に向かって挨拶を送るようなコンテンツが是非とも求められる。
テーマは皆でなくて構わないし、人類について取り上げてなくてはならないわけではない。または自己表現のスタイルが訪問者に向いてなければテーマが何だってアクセスは変わらないと予想されてしまう。
町作りで道を整備するようなものだ、手広い自己表現のスタイルとは。管理人の周りでコンテンツを終わらせない。離れた訪問者まで届かせられれば望ましい。気持ちがまさか全てだ。管理人とテーマだけではなくて訪問者も巻き込んだサイト運営を考えなくてはならない。
昔のように掲示板に頼らず、できると期待するの…

Wiz Kharifaは生きたいように生きられるままにマリファナも吸うラッパーだ

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Wiz Khalifa - Pull Up ft. Lil Uzi Vert via Wiz Khalifa
美意識に惹かれた。Wiz Khalifa(ウィズ・カリファ)というラッパーだけれども全身が刺青だらけで、しかも物凄く痩せている。極端なイメージに好奇心を掻き立てられてしまった。
YouTubeのチャンネルで彼のPull Up ft. Lil Uzi Vertを聴いたら本当に居心地良さの溢れたようなサウンドだったので、気に入ったし、世の中には色んな人がいるものだと味わわれてもしまった。
否、刺青と細身と居心地良さの取り合わせなんて記憶になかったのではないか。格好良い。独創的だし、生きたいように生きられていて自分らしさを貫いているとしか称えようがない。
煙草を吹かし捲るのも特徴的で、もしかしたら違法薬物でもやっているのかと調べてみるとマリファナ(大麻)に関連した容疑で逮捕されたこともあったらしいんだ。
4月20日は“ハッピー・フォー・トウェンティ”とも呼ばれ、マリファナ愛好家らが一斉にそれを吸って祝う「マリファナ記念日」である。全米各地でマリファナの合法化を求める煙モクモクの集会や、マリファナパーティが開かれていた。
【イタすぎるセレブ達】4月20日は「マリファナ記念日」。合法化を訴えるセレブに後悔するセレブも。 via Techinsight
アメリカではマリファナを吸うと公言する有名人も多いみたいで、Wiz Khalifaもそのうちの一人だけど、四月二十日をマリファナ記念日として合法化が大勢から求められてもいるようだから日本とは偉い違いだろう。
僕には興味も関心ないし、幾らかでも危ないかぎりは止めれば良いのにとしかいいようがない……。
ともかくここまで魅力的な世界を提示できるならばWiz Khalifaは素晴らしいと思った。計らずも癖になる、病み付きになるような面白さが活かす。

結婚したDAIGOと北川景子の写真を目にするやお似合いの二人だと率直に認められた

DAIGOのブログで北川景子との結婚写真を見た。白いタキシードと白いウェディングドレスの一枚が色も揃っていて如何にもお似合いで印象的だった。幸せを絵に描いたように見えた、正しく。
目付きが似ているから理想的なカップルではないか。瞳の力強さからすると北川景子がDAIGOに一目惚れのようなので、恐らくはDAIGOの一生を賭けた思い遣りによって結ばれたんだろう。
本当に眼差しまで良く似ているから別れ難い二人だといいたくなる。理想的なカップルは思われた方が思う方へ逃げ腰みたいになると結ばれ難いし、確かに結ばれても壊れるかも知れないと予測される。だからDAIGO次第ではないか。DAIGOが自分は駄目だと北川景子に相応しい男性は他にいるとなると二人は終わり兼ねない。ただし目付きどころか眼差しさえも似ているとDAIGOの思い遣りも相当に深いものがあって決断に決断を重ねがらこの人しか見ては行けないくらいの気持ちを込めて北川景子に寄り添ってそうで、良い顔をしていると唸らされる。
僕は北川景子は月の恋人(ドラマ)で観て凄く良い俳優だと思ったので、十年くらい前かも知れない、結婚したというのも注目されてしまった。
主役の男性に妹みたいに気安く付き纏いたいけれども少し引いて大人しく近付くしかない女性の役だった。考えると難しい。気持ちが厳しい(他の女性は寄せ付けない)けど、しかし見かけでは静か(貴方しか見えない)なんだ。この裏表が主役の男性との交流から和まされて行って好きな人のためならば自分が全てではないと恋人選びではそれこそ捨てられながら精神的に柔らかく成長するという感じだった。
北川景子が月の恋人では卵から幼虫や蛹を経て蝶になるような変幻自在の役を上手くやり熟して、可成、目立っていた。嵌まり役かも知れないし、ドラマと共に自分も同じように成長していたら素敵な女性になったとしても不思議ではない。
その後、SonyのカメラのCMに出ているのを見ては非常に微笑ましかった。表情に柔らかみが出ていて可愛らしかった。
個人的には懐かしいかぎりだ。振り返れば日々を頑張ってこそ「ウィシュッ」(DAIGO)にも巡り会えた北川景子のはずだ。僕も自分なりに精一杯の道を極め尽くすしかないと思う。
ホームページやブログで自分らしさを出しながら本当に気に入ってくれる人が素通りしてしまわないように励んで行くべきだ。

高橋尚子と野口みずきは女子マラソンのライバル同士だったものの最高の笑顔で太陽と月のように仲良しだった

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リオオリンピックの女子マラソンのテレビ中継で元金メダリストの高橋尚子野口みずきがゲストに出ていた。十数年来、二人は仲が悪いのではないかと思っていたから本当にビックリせざるを得なかった。
テレビの企画で嫌々ながら一緒にいるようにも見えなくて本当は仲が良くなくても普通くらいには収まっているのではないかと感じたんだ。
<女子マラソン金メダリスト・初のスペシャル対談>高橋尚子×野口みずき 撮影風景 via Sports Graphic Number
しかし高橋尚子と野口みずきが初対談。スクープ企画の舞台裏と動画公開!という記事を見付けて二人は同時代のマラソン選手として互いに切磋琢磨しながら自らの記録を非常に伸ばし合えたかけがえのないライバル同士だったと分かって又驚かされてしまった。
心から改めて高橋尚子と野口みずきを見ていると二人揃ってこそ最高の笑顔が溢れているようだ。
僕は高橋尚子が好きでシドニーオリンピックの女子マラソンで金メダルを取ったレースは最初から最後までずっと見ていてどうなるかという感じだった。まさか優勝して金メダルを取るとは想像もしなかったし、好きな人が走っているのを気にかけ続けるばかりだった。試合が終わってみると殆ど楽勝みたいな感じで高橋尚子が表彰台の真ん中の、一番、高いところに日本の選手団の青い服を着て立っていたわけだ。日本人で初めての女子マラソンの金メダルだったし、それでなくともオリンピックの花形とも目されるトラック競技で優勝なんて殆ど縁のないようなところで、ずば抜けて強いと日本人だから駄目だと思わなくて良いんだとはっきり教え込まれた瞬間だった。
オリンピックで二大会連続の金メダルをアテネでも取って欲しくて彼女には期待せざるを得なかった。只、そこに立ちはだかった全てが野口みずきみたいな印象はかつて否めなかった。国内の選手枠が三人で高橋尚子が落選した。考えれば弱いだけだった。早く走れなかった。それが野口みずきのせいというか、彼女が新たに物凄く強くて結果的には金メダルまで取ってしまうほどに世界で最も早く走れたけど、しかしながら羨みも大きかったようだ。高橋尚子への夢はどんなに素晴らしくても他の誰かに叶えて貰っては困る……。
僕にとって野口みずきは一つの栄光の影に隠れて目立たない存在だった。強ければ強いほどに高橋尚子への夢が膨らんで、益々、見え難くなるという感じがしていた…

速やかに流れる生活は有り難くも疲れを寄せ付けない

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朝から疲れが酷い。ブログでサイト運営の意気込み情熱使命を取り上げながら逆にくたくただ。自然体で良いから口に出した激しい言葉に必要以上に踊らされても仕様がないと思う。少しずつでも着実に進むべきだ、前へ。疲れだけは避けたい。
昨日も一昨日も午後十時頃に寝て次の日の朝は何れも五時起きだ。慣れれば苦にならないというか、早起きすればその分だけ早寝したくなるから気持ちに逆らわなければ直ぐに身に付く。
生活に速やかな流れが欲しいと思う。個人的に文章で《神憑りの滑らかさ》を目指すというけど、または創作活動にかぎった自己表現ではなかった、やはり。生活の流れも速やかなほどに心地良くて疲れも減らせそうだ。
止めたければ止めるし、続けたければ続ける、何事もというと誤解されるかも知れない。周りと打つかると速やかではない。一人でも何かで癇癪を起こすけど、しかし人間関係が加われば工夫がさらに求められる。物事が淀みなく進むようにしたい。
自作詩ならば風任せの心境だ。毎日、自然の一部として存在するといっても良い。やりたいこともやりたくないことも自分の外側からやって来るんだ。受け取った流れに即して過ごせば速やかな生活ではないか。
いい換えれば周りから生かされる喜びに感謝を込めて祈りを捧げるように思いを分け合う。自分一人によって意気込みでも情熱でも使命でも余りに飛ばし過ぎれば誰も付いて来られないかも知れない。疲れも呼んでしまうわけだろう、情けなくてもはや。人々への思いは分け合いながら開放するにかぎる。

何かを掴もうとしている詩人の手は馬鈴薯のようだ。

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感じるにほくほくの美味しさを漂わせている。そこには心だけで掴まれた真実がある。詩人の手はきっと世界を知りながら夢こそ追いかけていた。落ち着いて過ごせば良い。たとえ空っぽの手が悲しくても心では涙が手に入っているように本当は違う。笑うしかない、ただ生きているだけで。
些細な日常の訪れに詩人の手をはっきり認める。良い思いができずに厳しいばかりの人生ならば心の真実だけを掴んで行こう、空気のように。それは他でもなく物事の過程を大事にしている。悔しがりながらでも夢に向かっているんだ。人生で良い思いができるまで涙だけを集めるべきだ。降って湧いたような喜びなんか得られない。神様は動いてくれなかった、どんなに愛したとしても僕のためには。
幾つもの涙を繋げてこそ夢への階段も作られて来る。良い思いが待っている天辺へはもはや駆け上がるにかぎる。だから心の真実を予め掴まない手はないわけだ。詩人ならば是非とも覚えておきたかった。直ぐにへこたれて夢を諦めるな。涙を心から掴むんだ。
詩人の手が物語るのも努力の美しさだろう。優しさが試されるように悲しみを知って来たのではないか。厳しいのに人生は終わらなかった。心で掴んだ涙という悲しみの真実に触れながら優しさは磨かれる。さもなければ人生は終わりだ、ただ厳しいだけで。努力しても無駄だ。馬鹿らしいから止めてしまえ。夢は叶わない。負け犬の餌に過ぎないといえよう、世界も。しかし涙は否零れた。悲しくも掴んだ心ならば宝石と輝きを放ったはずだ。努力して人生を再び続けた分だけ優しさは身に付けられるし、夢の良い思いにはたとえ厳しくともきっと切り抜けられるようになる。美しいとやはり呼ぶしかない。詩人の手は努力して悲しみに打ち勝つかぎり、優しさを示してもいるわけだ。
僕は誓う、詩人の手にかけて人生を。そして些細な日常において夢を追いかけるとブログにも記しておく。今も昔も厳しいのはサイト運営のアクセスが殆ど全てだから一人でも多くの人に所有サイトが見付けて貰えるように必死に努める。または素晴らしく気に入るはずの人がちゃんと来られるようにして行くことも天職の使命なので、上手く行かなくても直ぐに投げ出してはならない。

夏の暑さに参るから雪の写真を取り出しながら涼もうか

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昔よりも信じ易くなった、人の心向けを。風鈴の音色にしてもどこが涼しいのかと疑っては特に何も始まらない。というか、本当は涼しくないから風鈴や雪の写真は良いんだ。
どちらも夏の暑さに参っていると考えると自分と同じだった。心の励みになるところが捨て難い。一緒に頑張ってくれているわけなので、よもや頼もしいかぎりだろう。
人の情けが大きい。風鈴や雪の写真にはそれが託されている。暑くても倒れない願いがあると分かれば向こうから自分に跳ね返って来る。この瞬間こそ心の底から涼しいと計らずも雄叫びを上げたくなるほどの世界が湧いて来てしまうようだ。なぜかしらと正しく思うよ。
根本的にいうと倒れなければまだ涼しいかも知れなかった。ほんの僅かな些細な日常でしかないくらい取るに足りないような暑くなさを認められるかどうかが気持ちの分かれ道だった。参りつつも過ごし切れるうちは涼しいと呼んで強ち誤りではない。
するや願いは大切だ、本当に。願いが風鈴や雪の写真を通して涼しさにほんの僅かでも気付かせてくれた。気温は全く変わらないのに気持ちが暑くて参るよりも涼しくて耐えられるとなると過ごし易さも同じように変わるんだ。
専ら涼しくなくて良いものが涼しさをきっちり運んで来るから人生も止められなさそうだ。だったら最初から願っておくべきだったのではないか。悲しみに覆われて気付かない世界を明るみに出せるのは喜びを願ってこその成り行きだった。
些細な日常の視点からすれば何事も気持ちで十分なんだ。耐えられるかぎり、決して終わりではない。笑えるものは笑い、泣くしかないものだけを泣く。
風鈴や雪の写真にも涼しい気持ちのかぎり、決して暑くはないはずだし、快適そのものだ。

燃え上がる情熱からサイト運営に気持ちを爆発させよ

昔と比べてサイト運営でアクセスが伸び悩むのは僕の気持ちとして皆と仲良くする思いが減っているのではないか。
もう一度、人々との交流を強く願ってやってみたいと感じる。皆に心から来て欲しいということは盛り上がるホームページやブログが素晴らしいと夢見ているせいなので、そうした気持ちこそ伝わるようにサイト運営を改めて行うべきだろう。
長らくもコンセプトを重視していた。コンセプトが良ければ人に尊ばれるはずだし、アクセスには何よりも欠かせないと考えたわけだ。
ところが駄目というか、寄り付き難いようだ、人はコンセプトに。堅苦しく見られがちだから所有サイトを何とか柔らかく仕上げて気軽に入れるように取り計らうにせよ、それも逆効果かも知れなかった。手を尽くしても馴染めない人には馴染めないままに終わると感じざるを得ない状況という。
何を前面に出すか。コンセプトが良いから来てくれとか入って損はないなんて仕方ではサイト運営の未来も先細りが否めないので、本当に僕の見ている夢こそを広げるしかない。いい換えると理想を掲げるんだ、信念よりも。夢の理想ならばモットーがアクセスに向いているのではないかしら。皆が寄り付き易くなると思われる。
一日に十人がやっとで、現状は決して夢見られる生活ではあり得ないし、むしろ絶望の淵を逃れるだけが精一杯の本音だ。しかし夏の風鈴や雪の写真が涼しいみたいに精一杯の本音が夢見られる生活に繋がっている。極僅かでも喜びながら理想を掲げると自分への激励といっても差し支えないくらい有り難いし、生き甲斐も増して来ればサイト運営や創作活動も尚更と捗ってしまうはずだ。
自分でも確かめてみたい。昔と同じように情熱に燃え上がりながら人々に呼びかけられるかどうか。原因は掴んだし、間違なくできる。信念は控えて理想を掲げれば良い。それこそ昔は何も知らずにできていたに過ぎないからインパクトはさらに高まりもするはずだろう。理想に全精力を積極的に注ぎ込む。気持ちが爆発してもう良いやとサイト運営は十二分に満足されて止めたくなるくらいのところでもしっかりやり続ける。
夜空を彩る花火ならば何千万発の勢いで、いつまで見上げさせるのかと呆れて逆に欠伸が出るほどの安らぎの形が《ずっと一緒にいたい人》のイメージも煽る。狙いはその他でもない。管理人としてか、作家・詩人としてでも変わらなくて僕が訪問者に《ずっと一緒にいたい人》と思って…

日本語で作詩する意義/中原中也と山本陽子と銀色夏生のその後で

ブログで好きな詩集に銀色夏生のあの空は夏の中を選んだ。
詩人としても銀色夏生は特別視されるので、さらに追加して自分の気持ちを明らかにしておきたい。
銀色夏生は好きな詩人の一人だ。本当に良い詩集を、沢山、出しているし、読み応えに嵌まりながら何冊も買ってしまわざるを得なかった。
ところが乗り越えるべき大きな壁のような存在だった、日本の詩人として歴史的に捉えてみれば。
個人的な見解だけど、国内で現代詩の流れが中原中也から山本陽子を経て銀色夏生で止まっていた。時代順に三人を並べて考えるとそんなふうに受け留められて来る。
僕はその後に入るつもりでいつも作詩していてつまり日本において銀色夏生の先の世界にまで現代詩を持って行きたいという願いを抱きながら正しく取り組んでいるわけなんだ。
中原中也は真実に優れた詩集を残した
中原中也は詩人として詩でないものとの接触を完全に果たしていた。地球的にも例は少ないはずではないか。かつてノイローゼでボロボロになりながら生きていたりもした。いい換えると人生の苦しい場面で役立つような真実に優れた詩集を残すという偉業を成し遂げたに違いない。
山本陽子は詩でないものを受け入れた
山本陽子は詩人がノイローゼになるような母国語の言語体系の乱れを熟知していたと思う。それこそが詩人の生きる道であるといわんばかりだった。全ては詩でないものを積極的に受け入れたせいだろう。察しては素直の為せる業だけど、しかしながら詩はそこでしか生まれない。詩でないものの中から詩が生まれて人も初めて詩人になるかぎり、至極全うな考え方だ。
銀色夏生は飛び抜けた詩を持っていた
銀色夏生は神憑りの言葉を掴んでいる。何よりも詩でないものの中から詩が生まれるという世界の果てしない衝撃、または崇高な美意識によって作詩している。本人も気付いてないかも知れないけど、とにかく詩の感触が途轍もなく素晴らしい。生活に必要不可欠なイメージとしかいえない。
僕は永遠を歌うし、詩は素晴らしいと殊更に感じて止まない。事物の本質的な認識で、神憑りの状態なので、この言葉から詩を永遠に示していると考えると銀色夏生の先の世界に到達しているに等しかった。
日本の現代詩の大きな流れとして中原中也、山本陽子、銀色夏生が注目された中で自分の位置付けを図ってみると詩でないものから生まれる詩の神憑りの素晴らしさが永遠だと告げているところにしかなかったんだ。

好きな詩集を人生で一つだけ挙げるならば

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僕が銀色夏生あの空は夏の中(詩集)をどうにも手放したくない最大の理由は神様を感じさせてくれるためだ。
恋愛詩として読めるのは受け取られたイメージの外観的な要素でしかないと気付いてから本当に素晴らしい詩人の言葉が散りばめられた詩集だとあの空は夏の中を考えるようになった。
銀色夏生の神様への内観に触れながら味わうとこの詩集は恋愛詩としても計り知れない良さを持っていたということが分かって来る。
本当に面白いのは作中の「あなた」を神様に重ね合わせて感じられるところで、一つの思いが崇高な世界を伴って表現されているせいだったんだ。
銀色夏生はきっと狙ってはいない、作者として。しかし恋人がかけがえのない存在だと詩的に追求している気持ちは率直ではないだろうか。
詩人の意向がそのような真実と汲み取られるかぎり、言葉の端々に崇高な世界を垣間見ることも断じて強ちではない。
僕は考えるけど、むしろ人生でかけがえのない存在に触れた瞬間の記憶、数えるしかないほどに衝撃的な経験の素晴らしい自分らしさから詩人は生まれて来るべきだとさえもいえるかのようだ。
銀色夏生のあの空は夏の中と付き合っていると人間も美しいと今更ながら認められて来てしまう。神様と同じように信じられるはずだし、すれば愛し返されもしないとはかぎらないという。安らぎを覚えるには正しく十二分の彼方だった。
今此処では奥深い気持ちの言葉にせよ、僕こそ真剣に、または眉間に皺を寄せながら詩集を手にする天使にせよ、互いに信じ合い、愛し合われて知り出し得た安らぎにとっての崇高な世界ならばおよそ何も変わることはないだろう。
一人の詩人と出会っていた。生まれたままの姿で、しかもだけれども星の光と見紛うばかりの輝きを放って聞こえて来る歌声の先に銀色夏生を見出だすこと、果たしてcite>あの空は夏の中でなくては不可能だったみたいだ。優しさに満ちた有り難い印象と相俟って心から惹かれないわけには行かない。
すなわち好きな詩集に他ならない。認めるほどに手放したくないと僕は本当に思う。
つめたくしてごめんね
つめたくすることしかできなかったの
あなたをとても好きで
あなたをずっと待っていたことが
とても悲しくて とてもくやしくて
うれしかったのにどうしようもなくて
つめたくしてしまったの
銀色夏生のあの空は夏の中
二十歳の終わり、僕は天使的な人に運命の恋を感じたけれども考えると…

本当の自分もなぜ生きているのかも悲しみも

ホームページに自作詩詩集のちじくがわを掲載するのに表紙に銘としてクレーの言葉を引きたいと思って探していたら見付け出された。
芸術は私たちの見る何かを写し取らない、というか、私たちが見えるようにしてくれるんだ。
Paul Klee via BrainyQuote(訳出)
大分、前だけど、ちじくがわはクレーの絵をヒントに歌おうとそれこそ銘を打って出来上がった詩集だったし、一つの創作意欲を示すためにもぴったりだった。
クレーのシンプルで力強い言葉だ。絵も観念どころか生き方そのものとさえも受け留められるかぎり、クレーはきっと正しい。
僕の考え通りだし、すなわち「パフォーマンス=アート」のスタンスで自己表現、または自分らしさを作品に打つけるように生きられた人ではないかと感心させられるよ。
気持ちならば芸術/創作活動の真実を、そっくりそのまま、当て嵌めることができて極めて素晴らしい。
もしかすると僕も注意しなければならない、言葉遣いに。自己表現、または自分らしさのために求められる世界は決して内面だけではなかった。それ自体こそも大事なので、やることがとにかく必要という。実際にやらなくては芸術/創作活動は始まらないし、動き出さなければ生活は進まないはずなんだ。
人前に内面を晒け出せば喜びを掲げれば全て終わりだと思われては困る、僕について。それがたとえ本当の自分だとしてもまたとない自己満足が齎されるとしても如何に晒け出すか、如何に掲げるかの頑張りは知って欲しかった。
ライフスタイルを踏まえれば自分で何とかなるような代物でもないけど、ただし「パフォーマンス=アート」のスタンスは捨て去るべきではない。
人生は《筋書きのないドラマ》だと分かる。僕がゲソを齧るように夢ばかり見ながら笑っているのもどうにもならないせいで、なぜ生きているのかを手に入れた結果だった。もはや死に切れないかぎりだ。
夢に向かって直走る。勇気と情熱と努力があれば悲しみにも負けないと思うよ。栗毛の駿馬に跨がるつもりで、ずっこけた詩人だろうが抱かれた希望に変わりなく、生きる力こそ養われてしまう。どんな幸せを掴むためにも欠かせはしないさ。
クレーは狙っているようだ。芸術を通して見えて来る世界の有り難さを教えてくれる。訪れるほどに美しいくらい目映い。

オリンピックは古代ギリシアのオリンピアの祭典に基づく

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十九世紀末にフランスのクーベルタン男爵がオリンピックを提唱した。古代ギリシャのオリンピアの祭典を現代に蘇らせる。以来、オリンピックは世界中に規模を広げながら止まることを知らないまま、今に至っている。
2016年の開催地のリオデジャネイロで取り入れられた難民選手団という発想にオリンピックの平和を強く覚えてブログに載せた後もGoogle+で「平和の祭典ならば世界各地でやって欲しいものだ」と載せながら詳しく知ろうと調べていたらブログに全てを纏めるように又載せてみたくなった。
オリンピアの祭典とゼウス信仰
古代ギリシャのオリンピアの祭典の成り立ちそのものは判然としないらしい。只、紀元前九世紀頃には行われていたようだ。日本だと縄文時代の終わり頃に当たる。残される資料も極めて少ないわけで、時代が余りに古過ぎて人々の事実を掴むことは非常に厳しいに違いない。
元々はオリンピア地方でギリシャ神話のゼウス(万能の神)に捧げるべく開催される四年に一度の宗教的な行事だった。
Temple of Olympian Zeus in Athens By A.Savin (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
そこには運動だけではなくて芸術も含まれていたとされる。作家・詩人の僕にとっては素晴らしいと瞬く間に思われてしまう、尊ばしくも。それこそ詩を歌い聞かせ合う詩人たちの競演も開かれていたらしい。
オリンピックも1896年のアテネ大会で初めて実現されて徐々に盛り上がりながら1912年のストックホルム大会で運動部門と共に芸術部門がオリンピアの祭典に倣って追加されて運動選手だけでなくて芸術家も金メダルを貰うように変わった。
しかし1948年のロンドン大会を後に1952年のヘルシンキ大会からは芸術部門が廃止されてしまった。作品の採点がし難いのが主な理由だったみたいだ。
推察すれば古代ギリシャでは身体と精神が一つに合わさってこその《人間そのものの能力》を様々な領域で讃えるように世界の統治者のゼウスに捧げながら固有の祈りに代えてオリンピアの祭典が催されたのかも知れない。
オリンピックの平和とは何か
僕が最も引き付けられたのは平和なんだけれども殺し合いが禁じられていたといわれる。非常に興味深く感じられた。
オリンピアの祭典の競技としてはレスリングも長時間で過酷だったらしいけど…

オリンピックの平和と癒しに触れながら

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昼間、テレビでリオオリンピックの開会式を観ていた。
新しく難民選手団ができたらしい。国や地域に属してない人でも出場して良いんだ。オリンピックは平和の祭典といわれるように難民選手団はイメージにぴったりだと感じた。当たり前かも知れないにせよ、国際情勢を踏まえて適切に受け入れた気持ちが胸に染みた。
そして聖火ランナーの最後が開催国のブラジルのリマだったのは感慨深いものがあった。
リマというとアテネオリンピックの男子マラソンで楽勝ムードで走っていたのに観客が乱入して道で止められて優勝できなかったのをかつて観ていたんだ。
本当に可哀想な人だったけれども母国のオリンピックで聖火台に火を灯すという大役を任せられたのはとても光栄だろう。
金メダルを不測に取り逃がしたかつての酷い悲しみが素晴らしく癒されるようで、心温まるばかりだったし、人生の良い場面を一人静かにもせよ、紛れもなく知らされていた。

意気込んで予定を立てて速やかに実行して

日々、追い詰められていて忙しさの余りに参ってばかりいるのはホームページに載せてない詩が多いせいでないかと思ったんだ。
何をやっても予定が進むどころかどんどん引き離されさえもしまっているなんてあり得ない。心深く焦り続けているように物事がしっかり捗らない、創作活動にも打ち込み切れない感じが残っているのも手元に抱える詩の数々をホームページにいつか載せなくてはならないとした現実にどうしようもなく苛まれる結果ではないのだろうか。
出すべきものはさっさと出しながらやれば次の新しい全てにも急ぎ捲らずに済むように感じられてならない。
するとやはり予定を立てることが大切だ。他の動きを止めてでも先に求めるしかない。一つの大きな予定を残しているから何かも落ち着かないに等しいわけで、これは決して目標ではないかぎり、本当に酷い忙しさだ、ドライアイで目がガビガビなんて汚れたコンタクトレンズを知らずに付けていた頃と何一つ変わらないし、放っておいては碌なことにもならないだろう。予定を立てて載せられる詩集は漏れなく、ホームページに載せて行って満足しながら御馳走でも平らげたような気分から右横腹を右手で宜しく叩いた後ならば日々を安定して暮らすことが素晴らしくできそうだ。
立て続けに自作詩集のDusty diamonds真っ只中レジリアンスを公開し出している。ちゃんと載せられた詩集もあるし、デザインは後回しで詩だけを載せる詩集もあるし、とにかく詩を手元に抱えておかないことを重視して最速でやるには詩集のデザインは後回しで、ホームページの更新情報も後回しで、今此処では詩を載せることだけに集中したいと考えている。
ホームページに一つの詩集を載せるのに半日以上もかかる。計算すれば一日に一つの詩集でも楽に終わるはずなのにどうにも気が向かなくて殆ど実行されて来なかった。
もしかすると恐がっている。未公開の詩集を全てを出したら自分には何も残らないのではないか。とはいえ、インターネットの外で余りに喜び過ぎていてもサイトの訪問者への愛を削がれ兼ねない。ホームページやブログで隠し立てせずに訪問者と喜びながら気持ち良く抱き合えるような管理人になることがアクセスにもきっと繋がる。分けてもサイト運営の潔さが問われている。
人々への自己表現は全力では伝わらないのかも知れない。超全力でやってやっと普通の思いが受け取られるみたいだ。自己表現だか…

目薬を付ける際には目を開けたままで一分くらい馴染ませると良い

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只、天井を見ながら暇だし、待ち切れなくて直ぐに動き出したくなるよ、およそ眠り込みでもしないかぎり。
思い付いたのは目をぐるぐる回しながら疲れを解すべきではないか。目薬の目を開けたまま、一分くらい持たせるには気分も優れて良さそうに感じる。
しかも楽しさの余り、目薬が終わっても余韻に浸りながら目を閉じていたくなるんだ。何もせずに目を休ませることが尚更とできてしまう。
目薬の使い方としては容器の先端を睫毛などの目に付けないことが大事だともいわれる。
雑菌が目薬に移ると容器の中で繁殖する可能性がある。それでなくとも早めに使い切るというか、使い残して古いものほどに危ないと覚えておくべきだ。
目薬の種類によって添加物が少ないものは薬の副作用の心配は減るけど、防腐剤も少ないし、短期間で使い切らなくては駄目だろう。

健康とダイエットへは水から

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夏の暑さに水を幾らでも飲んでしまう。汗で直ぐに出て行くから不足しないように注意するべきだ。
Crystal clear water by Jonathan Wilkins (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
水は健康に良いし、取り過ぎなければ嬉しい
全身の栄養や酸素を運ぶのは血液だけれども流れが水による。他の様々な体液もそうだろうけど、とにかく水が少ないと疲れは抜けなくて元気も湧いて来ないのではないか。
昔は味がなくても健康のためと不満でも飲み物に水を選んでいた。水を飲むことで格好を付けていた時期も確かになかったわけではない、正直に白状すれば。もしかすると長生きのせいだ、今は水こそ美味しいなんて。
考えてみれば水には栄養が殆どないから健康のために飲んでも気持ちとしては厳しいはずだった。
ところが長生きからすると食品も直接的な働きだけではなくて間接的な働きにも目が向き易くなるので、求められる効果が少なくても続けて行くかぎりは健康に良いわけだから自分に役立つという実感も増して来る。
取り過ぎれば水中毒もあるらしい。症状が軽ければ疲労感だけれども頭痛、嘔吐、そして精神にも異常が現れるように進行して極めて重ければ呼吸困難などで死亡してしまう。水というか、飲み物ならば一日に1~1.5リットル(食事と合わせて2~2.5リットル)程度が適量といわれるので、注意しなくては行けない。
水に栄養が少ないことはダイエットにも繋がる
分けても糖分と脂肪は取り過ぎたくないと思うし、血糖値やコレステロールが高くては健康も長生きも得難い、飲み物で増やしたくなければ打って付けだ。
参考:水飲み健康法の効果水中毒水の飲みすぎで水中毒になりやすい人がいる!正しい水分補給方法は

ルソーは人生の絵を描き切って只一人の個性的な画家で

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ルソー私自身:肖像=風景はインパクトの大きい絵だと思う。モチーフの迫力が凄まじい。
画家の本人の自画像だけれども僕が自作詩の自画像で追求した気持ちによれば個性の由来と源泉を探ることが重要だった、望ましく描き出すためには。
すると自分は自分だという内面を織り上げている前提条件としての経験を掴み取った自画像は素晴らしいと考えられる。
人間味が伝われば何でも構わないけれども《世界の退っ引きならなさ》が表現されているほどに他の誰でもないと個性が分かり易くなって芸術上もインパクトを増すのではないか。
見ているとルソーの絵は本当に凄かった。
Myself: Portrait - Landscape by Henri Rousseau [Public domain], via Wikimedia Commons
タイトル通りというか、自画像にはやはり完全には見えない。自画像とは何かと僕が作詩から捉えた認識からすれば画家のイメージがむしろ弱くて瞬く間にはインパクトも小さい。
しかし風景ともいい切れない。風景と見ようとすると画家が視界を遮るようにしてデカデカと真ん中に突っ立っているせいだ。
この絵の最も不思議な点は自画像とも風景とも見ることのできる《相関関係の構図》うちに含まれている。
対象の大きさと共に配色も画家よりは風景が目立つようになっていて画面の中央が全てには思われて来ない。
しかし自画像ではないか、全体的には。絵の隅々まで見渡してみれば諸々の対象から具に立ち上るイメージにルソーを知ることは決して吝かではないだろう。
自画像には完全には見えないというけれども画面の中央に目立って描かれるスタイルを抜きにして味わうと絵の一部始終が人生を物語っているし、平板なほどに物事が幅広く克明に表現された作品だと受け取られるんだ。
タイトルの「私自身」の言葉を踏まえてみれば自画像は決して画家としてのものではなくて身の回りの生活を丸ごと捉えた上での人間性そのものを示しているはずで、画面に描き出されたあらゆる対象が画家を含めて一人の人間の内面を織り上げるべき真実こそしっかり掴んで放さない絵だと考えると素敵だし、素晴らしい感動を呼び起こさずにもいない。
永遠に生きるつもりで夢見て、今日は死ぬつもりで生きよ
ジェームズ・ディーン via James Dean(訳出)
同じなんだ、気持ちはルソーも。世間体を越えて一人の人間として…

ドライアイのために目薬を買うことにした

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ソフトサンティア参天製薬)は添加物が少ないから良いと思う。
ただし薬効もさほど期待できない。パッケージに「人工涙液型点眼剤」とあるように涙を補充するだけのような感じなので、ドライアイが酷いとモイストタイプのものにして潤いを長引かせたかった気もするけど、いつものソフトサンティアに手が伸びてしまった。
ドライアイを自分で直すための補助と考えて目を休ませながら使わないとどちらにしても駄目だから悔やんではいない。
今日は予定通り、瞬きを深く多く繰り返してドライアイの症状は減って来た。
タブレットが創作活動に非常に適していて文章もどんどん書けるから勢い付いて直ぐに目が開き放しになるはずだ。嬉しいけれども危ない。
以前、職場で倒れた人がいたのと同じだ。物凄いスピードで軽作業をやっていて比較的にスムーズに動けるようなものだから余り飛ばし過ぎるのもどうかと怪しんでいたらやっぱり目が回ったみたいだった。
まさか自分もドライアイで創作活動に力を出し切れなくては仕様がない。

格好良過ぎるくらい素敵な気持ちしか込められてない言葉

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James Dean in Rebel Without a Cause by In-house publicity still [Public domain], via Wikimedia Commons
ジェームズ・ディーン(俳優)を調べていて公式サイトが見付かったので、デザインも非常に優れていて格好良い感じだったけれどもトップページの中段の帯みたいなところに凄く良い言葉が載っていた。
永遠に生きるつもりで夢見て、今日は死ぬつもりで生きよ
James Dean via James Dean(訳出)
これは凄いと見るだに全身が痺れるほどの素晴らしい感動を呼び起こされた。
まさかとは思うけど、万一、他の人の言葉だったら勘違いなので、念のためにGoogle検索にかけて確かめたけれどもジェームズ・ディーンの名言の一つとして認められたよ。
格好良過ぎるくらい素敵な気持ちしか込められてない言葉だといってみたくなる。
僕も肖るべきだし、見習うべきだし、人生を大事にする詩情があって美しいばかりにせよ、何事にも情熱を持って取り組むべきだと心から学ばされた。

ドライアイが酷いから目の負担を減らそう

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一ヵ月くらい目脂が止まらなくて目の痒みも増しているなんてドライアイが相当に深刻化しているかも知れない。コンタクトレンズを付けずに過ごしていても殆ど変わらないんだ。
朝、起きると目がガビガビで少し開け難い。スマホ/タブレットの創作活動で一日に何時間も目を労らずに使い続けてしまっているのも事実なので、十五分程度に刻んで休ませるのこそが効果的だろう、ドライアイを退けるためには。
若いうちならば、多分、耐えられたとすると現状は目の新陳代謝が衰えていてもはや目の中の水の流れも悪いと考えられる。このままだと眼圧が上がって緑内障を引き起こし兼ねないから要注意だけど、しかし飛蚊症や光視症や目の回りの痛みなどは以前よりも少ないのは大丈夫かも知れない。
黒酢だよ、何といっても助けてくれたのは。視界にうようよ覆い尽くさんばかりのあの酷い飛蚊症を抑えられる方法は黒酢にしか見出だされなかった。残される違和感は目の疲れくらいか、およそ。
念のために断っておけば緑内障は自覚症状を伴うとはかぎらないので、目に違和感があってもなくても自分はかからないと安心することはできない。原因も良く分かってない病気みたいだけど、眼圧が高いと危ないらしくて本当に心配ならば病院で検査する以外には細かくは知り得ない。
僕は実感として大丈夫かも知れないと病気へは行かずに過ごしている。ドライアイが緑内障の引き金になる可能性は十分にあり得るから目の疲れも含めて気にかけて気にかけて生きて行かなくては仕様がないだろう。
緑内障は若ければ少ないようだから老化との関係が大きいはずだし、アンチエイジングの取り組みも怠ってはならない。すると他の様々な病気も免れ易くなるから良い。人生を有意義に送るためにも止められるわけがない。
創作活動でスマホ/タブレットと必死ににらめっこせざるを得ないかぎり、途中で目を長めに閉じたり、深い瞬きを多く繰り返して行くことが求められるんだ。
やる気が削がれるというか、乗りに乗って勢いがまるで蒸気機関車のように如何にも大きく奮発しているところで、少しでも妨げられたくないと思う。ただし目を閉じれば瞑想できて精神統一に役立ちそうだから自然は良くできているとも思うし、神様は面白い。
就中、精神統一で引っ張ってこそスムーズな創作活動が得られるのではないか。するとスマホ/タブレットでの目の負担も減るし、生活において全てが上手く回って行く…