アフリカのランボーの貧しいから働くだけで誰も殺さなかった只一人の人間の愛 結城永人 - 2016年8月1日 (月) テレビを観ていたら大量殺人の事件が日本で起きていた。しかも病人だけを襲うという惨たらしさこそ示した。世間的には相模原事件と呼ばれている。 犯人はヒトラーの名を口にしたこともあったそうで、ドイツのファシズムの首相で当時は日本も同盟を組んでいたけれども第二次世界大戦の引き金になったような国会議員だった、第二次世界大戦の原因~戦争の引き金~によればドイツがヨーロッパで非常に苦しめられてもいたらしくて一概に全ての責任をヒトラーに押し付けることは哲学的ではないだろう、只、ユダヤ人の虐殺という民族差別の意識も持ち合わせていたところに犯人は感化されていたようだった。 関連ページやまゆり園で障害者ばかり襲った植松聖の反社会的で独善的な差別意識の存在は悪魔の操り人形だった 握り締めた手の温もりは世界を救うためにあると良いのに Rays of light shine through the clouds by minka2507 / Pixabay 二十代の若者で、近頃だと綺麗なお姉さんや優れて可愛い人もいるけど、相当に危ない人も少なくないかも知れない。というのは不景気のせいで、自分が生き延びるために他人を蹴落として構わないという残虐な発想を持ち易くなってしまっている。 むろん若者にかぎった不景気ではないし、日本全体でもブラック企業とか社畜なんてはっきり聞かれるわけで、キャラクターでいえばカネゴン(ウルトラQ/ドラマ)のように金銭が全てで人間性を失っているのではないかと痛ましく感じざるを得ない状況は否定できない。 僕は二人が思い当たって男女一人ずつでどちらも狂暴だった。しかし切り抜けることができて大事なのは自分こそ馬鹿にされないというとイジメの対策みたいだけど、残虐な本人たちも心底は悪くなくて自分が生き延びるためだから仕様がないみたいなところも内心では抱えているし、特に若者だと世の中を知らなくて不景気だから残虐を求めるというスタンスも思想的に固まってはいないので、風潮に倣ってやっているに過ぎなければ周りで正面な教育(社会勉強)を受けさえすれば幾らでも立て直せるから間違った生き方をしていると男性には恥を欠かせるような、女性には睨み付けるような真似をしていると暫くして皆仲良くという印象に接し方が変わって来たことも確認されてはいるんだ。 本来ならば学校は基本的な教育だとしても会社が実効的な教育を行うべきだと思う、人として。不景気だから経費を削減するように社員教育も儘ならない。 すると若者は人としてどうしても精神年齢が上がらないために物事の感覚も学歴止まりになってしまう 何歳になっても学生気分が抜けないままで、ある意味、若々しいけど、生き方が伸びないと細かいところで失敗するかも知れないし、顔に似合わないことをやって周りから変な目で見られているうちに密かに落ち込むことも十分にあり得る。 顔は身体の一部だから自然に老けるので、精神年齢が上がらないとどんどん外見と中身の《人間的なバランス》が取れなくなる。生き方の社会的な面と個人的な面といっても良い。ここだけの話というか、良い会社に入ったかどうか、僕は独学道なので、社員教育とは無縁ならば色々と考えながらちゃんと働いているかどうかで、生活上の自由も実感としては増減するはずだ。 相模原事件は不景気に由来する残虐な発想が決定的に露呈したと僕には考えられてならない。 はっきりいって日本が好景気になる可能性は低い。日本だけではなくて外国も難しい。所謂、国際的な経済不況が抜け出せなくて先日もギリシアが倒れるとかスペインが乱れるなんてヨーロッパでは国自体が成り立たないくらい不景気が止まらない。日本やアメリカは旧来の先進国としてはまだ益しだけど、新参の韓国も慌てているし、目下、大盛況といわれる中国やインドならばむしろ経済以外の様々な社会問題に喘ぎ捲っている。途上国はいうまでもなく、全てが厳しいだろう。 もはや詩人を辞めたけれども祖国のフランスを出てアフリカという未踏の地で過ごしていたランボーから《人間の素晴らしさ》を味わいたいところではないか。 ランボーは詩のない世界の気持ちをアフリカから教えてくれる Arthur Rimbaud standing in front of a tree in Harar by Unknown / Public domain 身を休めるためには年金がいります。結婚するにも年金がいります。ところが、そうした年金を私は何一つ持ってはいないのです。だから、まだまだ長いあいだ、私は生計を立てることのできる今の私の道をたどってゆかざるを得ないのです。身を粉にして働いて、一瞬の間でも身を休めるのに必要なものを掻き集めることができるようになるまではね。 アルチュール・ランボーの家族宛の手紙(木下誠訳) 三十代後半、僕は詩を長らく書いて来て作品以外でも詩人として新しく生きたくなった。しかしランボーは決してそうではなかったように思う。本当に詩人を辞めて只一人の人間として生きたかったのではないか。 楽チンならば世界を諦めているに過ぎないし、写真や手紙などの残された資料からどんな本音を受け取るかは人それぞれの耳に任せよう。 とはいえ、世界は詩が全てではないとランボーが誰よりも教えてくれる気持ちは紛れもない。詩人を辞めたからこそ詩以外の世界の真実を胸に伝えて届けるほどの存在を得られた。手を差し伸べたいと僕は認める、詩のないところへ詩を渡すように。 何のために歌うのか。詩が好きな人と盛り上がるためだけではないし、知らない人に教えたり、嫌いな気持ちの詩を変えるためでもあるだろう。 ランボーの手を握り締めることは地球上のあらゆる面での貧しさを愛することと同じだ。 関連ページランボーと永遠への詩学的な考察 コメント 新しい投稿 前の投稿
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