酷い悩みに死にたいほどの一日が有力だ 結城永人 - 2016年10月6日 (木) ブログに表したいことが表せなくて一日を棒に振った。酷い悩みに全てを苛まれている。神様も気の毒だ。それとも僕か。世界で僕だけが悲しみに包まれながら神様こそ優しく迎え入れる存在だったと考えると気分が和らぐのを感じる。最初から生み出さないで欲しかったはずだけれどもいじけるほどに逆らっていたようでもある。神様に愛される生き方を求めておけば良かったのではないか。希望の光が本当に素晴らしい。生きる喜びに付き従いたくなるばかりだ。 A walker in the gloomy fog by cocoparisienne / Pixabay 人生よりも一日が大事というか、一日なしに人生はないから比べれば小さくても台無しにしてはならない。些細な日常に道を発見した。一日を棒に振らないと気付かないなんて馬鹿らしい。台無しにしないと分からないなんて生活も阿呆だろう。しかし頷く、失敗して。失敗しなければ僕は神様だとも容易く思えたに違いない。嬉しい、自分は神様ではないとはっきり知り得たから。酷い悩みが人間性を心底と作り替えてしまう。ならば感謝するべきだろう、僕は僕のうんざりに――。 一日を潰すな、ブログでなくても。人生は正しい道を進むべきだ。二十年も作家活動で物事を必死に考え続けて来て狼狽えている場合ではない。自分らしさを保持すればハッピーパラダイスなのに酷い悩みに囚われていてどうするつもりか。本当に自殺するしかない。 だから立ち直るんだ。富士山麓の樹海ならば神様と共に抜け出すんだ。美しく手を繋ぐように笑えるならばむしろ富士山の水に健康を感じるために赴いたことにしよう。自宅に帰れるだけでも有り難い世の中に触れる。いうと酷い悩みは僕以外にも数多く察知される。皆を助けなくては行けなかったはずだ。可哀想で放ってなんかおけないと認める。 自分を救うことが他人を救うことに繋がるとは実に尤もだ。落ち込みながらでは何もできない。そんふうに自殺しないで、僕は長らく生き延びて来た。無能力こそ心の大きな支えだった。しかし無能力では誰にも理解されないし、サイトのアクセスも伸びない。人生の荒波に思い遣りを込めて助け船を繰り出すつもりならば有力にならないと駄目だろう。沈没していては何一つ役に立たない。どんなに使命感に燃えようと知られないかぎり、気持ちさえも伝わらなかった。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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