いつもフランダースの犬の清らかな心には感動を覚える 結城永人 - 2016年12月8日 (木) 児童期にアニメで観て大好きだったフランダースの犬(ウィーダ)は本当に素晴らしい作品だった。人間の心の清らかさが主人公のネロからはっきり受け取られた。 他の作品では意外と珍しくなくてテレビの時代劇のドラマで母親が亡くなって父親が病気で寝た切りで子供はどうやって生きて行くのかと思わせる場面が良く描かれている。江戸時代の貧しい庶民生活の典型的なイメージだけれども政治的に立て直せないせいだとすると世界中の難民と変わらないから極めてリアルな悲しみを伴って味わわれずにもいない。 ネロも全く同じだ。両親がいなくて祖父のジェハンに代わりに養われていたものの病気というか、高齢で望んだような形では殆ど財産もないし、育てることは儘ならない状況に陥っている。なので子供はどうやって生きて行くのかと思わされて仕様がないわけだ。 清らかな心はフランダースの犬では何よりも絵に象徴されていてネロは絵描きとして生きて行こうと考えていた。 アントワープの教会のルーベンスの二つの絵 アントワープ(ベルギー)の教会/ノートルダム大聖堂(聖母大聖堂)にルーベンスのキリストの昇架とキリストの降架の二つの祭壇画が飾られていて理想として表現されている。 ネロは人生の救いを感じて自分も同じように人々に救いを与える絵描きになりたかったのではないか。しかしコンクールで落選して目標を失いながら最終的には祖父も亡くなって貧しいばかりの雪の日の夜に力尽きて死ぬ他はなかった。 時間がないせいだ。もう一度、コンクールに挑戦して絵描きを目指すわけには行かなかった。祖父の死が非常に大きくて自然の流れで老いながら長々と見守り続ける気持ちは果たされないという。だからフランダースの犬で最も素晴らしいのはネロが夢を諦めなかったところだ。結果としてプロにはなれなかったにせよ、この世を去ったのは決して救いへの志を捨てたせいでもないし、自然の流れで時間が待っていてはくれなかったとしか感じられない。 ピーテル・パウル・ルーベンスのキリストの昇架 ピーテル・パウル・ルーベンスのキリストの降架 臨終では愛犬のパトラッシュと共にアントワープの教会でルーベンスの二つの祭壇画の前で神に召されるけれども物語は正しい。なぜネロは死ななくてはならないのか。自然の流れだからやはり神が原因と認識するべきだし、ネロの清らかな心こそ誰よりも理解しながら一人ぼっちの極限的な悲しみ(寂しさそのもの)は天国へ引き上げざるを得なかったのではないか。祈りも虚しく追い詰められたままにネロは惜しまれる世界を遠ざかるように昇天するに至った。愛犬のパトラッシュも一緒に遊んだり、働いたりしていたけれども支え切れなかった絶望に打ちひしがれて終わるよりは忠実に追いかけて行ったに違いないだろう。 考えるとフランダースの犬は真面目に表現されていて物事の成り立ちに矛盾が非常に少ない。世界が好印象に包まれている。取り分け愛犬のパトラッシュが教えてくれるけれどもネロに助けられて生き延びていたからラストは恩返しとして正しく捉えられる。ネロなしに生き残っていては潔さが疑われたはずだし、いうと非情なくらいにせよ、作者のウィーダは人の恩には命懸けで取り組んでいて厳しいかぎりの眼差しを持っていた。 日本ではアニメのフランダースの犬が人気で 昔から翻訳書が数多く出ていたり、アニメや他の絵本や何かでも身近に接せられるのはウィーダの《命懸けの潔さ》が文化的に似通っているせいだろう。つまり侍魂とか武士道なんて人生観の日本独特の味わいに被っている。 愛犬のパトラッシュのイメージも国内の忠犬ハチ公の言い伝えにそっくりだし、飼い主のために死をも恐れず、付き従って頑として離れようとはしなかったわけだ、いつまでも。 僕が悩ましいと感じるのはネロが仲良しだったアロアの父親のバースに物凄く嫌われている。母親のエリーナはアロアと同じようにネロを気に入っていたし、物語の必然性が幾らか怪しい。バースもネロの清らかな心に感動を覚えながら気に入るべきで、さもなければアロアの母親と離婚しないでいるのは納得できないだろう。 結局はネロが貧しいばかりの雪の日の夜にバースがどこかに落としていた破産するほどの大金を見付けてパトラッシュに託して送り届けたらついに目覚めたというか、清らかな心に生まれて初めて触れたように亡くなった祖父の代わりに自分がネロを引き取って養い育てると決意を固めるに至る。 ネロは先に亡くなって何もかも手遅れでしかなくてバースの改心については気付くのが遅いから報われなくて当然だし、かつての敵視していた過ちの全てこそ速やかに反省して貰わなくては困るわけだ。 ただしアロアの母親、エリーナと結婚した理由は謎として残されてしまう。清らかな心で分かり合えない二人がなぜ結ばれていたのか。バースは生きるために金銭を重視していてアロアがネロと仲良しで、将来、もしも結婚したら不味いと父親の気持ちで拒んでいたのは間違いないだろう。原作ではそのように心理描写が施されてもいるけど、駄目だったら自分が助ければ良いだけの人生(改心して漸く分かった人間の本当の美しさ)だから少しでも力になれるように普段から努めるべきだ。バースには些かも思い付かなかった。 むしろアロアへは自分が助けなくても幸せに生きられるような相手こそ見付け出して欲しかったのではないか。ネロだけは貧しいから止めてくれという感じで、絵描きでプロになるとかなんて全く以て期待してないし、拒絶する一方で生前には碌な待遇を示さないでいたんだ。 考えるとバースは元々は清らかな心を弁えていたのではないか。物語としてフランダースの犬が理解に苦しむのはアロアの両親の絆なので、母親だけがネロに優しいというのは可笑しいし、敵対する父親としてのバースの存在意義が余りに薄過ぎる、皆にとって。 清らかな心をテーマとして味わうかぎり、あってはならない設定(人物造形)なので、もはや作者の頭の調子が疑われてどうしようもないわけだった。 正しくは想像するしかない。バースはエリーナと紛れもなく結婚したけれども自分の子供を天から授かって可愛くて仕様がなくてどこの馬の骨とも知れないネロの実情を踏まえては二人の関係が許し難かった。だから卑しい振る舞いも引き離すべく増えてしまった。 すると反省する気持ちも成り行きは著しく速やかだし、バースのネロへの思いはかつての自分自身を取り戻しているに等しかった。好意を示す可能性も最初から持ち併せていた。ラストでは親心によって見えなかったに過ぎないと人生を偉く感じさせてくれるわけだ。 自分らしさを身に付けるのは困難にせよ、一度、実現されれば本当に有り難くて他の何物にも代えられはしない。 参考サイトフランダースの犬フランダースの犬 (アニメ)フランダースの犬(菊地寛訳)フルン広場~ノートルダム大聖堂 コメント 新しい投稿 前の投稿
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