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邪馬台国の卑弥呼は日本の国内に資料が全く残されてない

古代日本の女王だったとされる邪馬台国の卑弥呼(やまたいこくのひみこ)だけれども詳しく調べてみたら国内に資料が全く残されてなくて古代中国の書物に記されただけの人物だった。


昔から存在は良く聞かされていたし、歴史上の出典が他国にしかなかったなんて物凄く驚かされた。


弥生時代の終わり(紀元前二世紀後半)に卑弥呼の邪馬台国が日本で一大勢力を誇っていた。それが後続の古墳時代のヤマト王権に繋がる切欠になってさらに飛鳥時代の君主制/推古天皇が齎されて日本も生まれた/名付けられたのではないかと考えられる。


以前の古代日本は倭(わ)と魏(ぎ)の古代中国から歴史書の三国志の「魏志倭人伝」などで呼ばれていた。因みに当時の中国大陸は魏の他に蜀(しょく)と呉(ご)の三つの地域に人々が大きく分かれていて三国志ならば題名の由来にもなっていたわけだ。


天皇そのものは神武天皇が最初で、弥生時代から認められていたようで、日本の祝日の建国記念の日(二月十一日)も神武天皇が即位した日が採用されている。ただし実在感が乏しくて神話上の人物かも知れない。


神武天皇は古事記(日本最古の歴史書)や日本書紀(日本初の正史)に記されていて初代天皇として認められているけれども天照大神(あまてらすおおみかみ)との触れ合いがある。日本神話の太陽神で、人々や天皇も崇めている。現在ではそうした所縁の神明神社が全国に広がっていて伊勢神宮が総本社として捉えられている。


様々な調査から神武天皇は弥生時代でも終わり頃の人物だったかも知れない。すると卑弥呼との関連性が出て来る。一説によると卑弥呼は日本から見た天照大神ともいわれている。卑弥呼を神話化した人物が天照大神だったならば国内に資料が全くないのも当然かつ自然だろう。何もかも天照大神として語られてしまい、中国からのみ卑弥呼として書物に記された。物凄く分かり易くて良いと思うけど、ただし卑弥呼が天照大神だったかどうかの信憑性が歴史学では喧々囂々の議論の只中にあって確実視されるわけには行かないんだ。


吉野ヶ里遺跡/南内郭の王の家

弥生時代を考えると農耕が非常に栄えていて食糧難が前代の狩猟が主体だった縄文時代よりも避け易くなって人口もさらに大きく賄える可能性が高かったようだ。卑弥呼の邪馬台国が突出した形で、他の地域との戦禍――非常に大きな内戦で、倭国大乱と呼ばれている――を潜り抜けながら勢力を拡大して古代中国からついに「倭国の女王」と呼ばれるほどになった。卑弥呼の時代背景からすると人々に安定感を味わわせているために女神として知覚されたかも知れない。存在そのものは天照大神にも遜色のないイメージを持っているのは確かだ。


倭国大乱の以前には帥升(すいしょう)が最有力だったらしくて初代の「倭国王」と見做され得る人物だけど、それから暫くは人々も安定感を比較的に受け取っていたとすると卑弥呼の登場は邪馬台国と共にかつての生活のイメージの復活劇に近いと推し量られる。


人々にとって偶々だった帥升の頃よりも卑弥呼こそ有り難みが大きくて戦争の毎日から生活を賭けた素晴らしい夢を叶えたという点で途方もなく畏敬されるのが普通だと僕には認められる。


日本神話の天照大神の実在するモチーフだっかどうかは別としても次代を担うヤマト王権の治世への発想には寄与したに違いないだろう。


一つの奇跡的な力が諸々の地域を国として纏め上げるという考え方を加速させたのではないか。


飛鳥時代に推古天皇が国策に参与するに至って政治的にも中央集権型の体制が整えられ始めて摂政に任命された聖徳太子(しょうとくたいし)の人間離れした飛んでもない有能振り――大勢の意見を同時に聞いて全てを個別に記憶しているなど――に代表される仕方で天皇を本分とした日本独自の君主制、または朝廷の基礎が築かれて行った。


人々にとっては日本独自の君主制、または朝廷から日本を振り返って再構成しようとすれば天皇の系譜が重視され出したはずだし、神武天皇が元祖だから後世の古事記日本書紀でもクローズアップされるようになったと思う。それと相俟って天照大神が祖神として改めて根強く注目される結果にも繋がったのではないか。すなわち《神の国》というような感触が日本に芽生えたのは飛鳥時代が端緒だったと捉えられる。


天皇が神として崇められる風土が二十世紀の第二次世界大戦まで日本にはあったわけだけれども推古天皇を軸として大昔の神武天皇を介して呼び戻された天照大神が国の主権者の君主としての天皇へと重ね合わされたせいだった。


邪馬台国の卑弥呼について国内に資料が全く残されてないからヤマト王権の成り立ちに疑問が生じるし、古代中国の三国志などに典拠を求めるしかないけれども確かに実在した人物だとすると治世への着想を与えたはずだから日本にとってはインパクトが甚だしく大きかったといわざるを得ない。


弥生時代の終わりの帥升から飛鳥時代の推古天皇までの日本史の流れを決定付けた最重要人物と考えるべきだろう。そこから聖徳太子によって天皇寄りの君主制という日本的な朝廷が国に根付くような流れに初めて向かった。一つの政体において人々も国民として理解され出したのではないか。すれば国の実権を握るかどうかが生活では新しく大事になるから現代にも通じる政府の気に入った在り方が求められるように変わった。


参考:邪馬台国 日本の歴史 ヤマト王権 弥生時代 倭国大乱 朝廷 飛鳥時代

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