人々が読みながら聞きながら躓かない文章でどれだけ言葉を実質から的確に並べて行けるか 結城永人 - 2017年1月26日 (木) ブログで美輪明宏を取り上げて内容もさることながら題名がいつにないくらい気持ち良く決まった。 まるで作詩しているかのような錯覚さえも味わった。やはりブログでは上手く行かないというか、作品としてエッセイ風の日記だけれども流石に詩と全く同じような仕方ではなかったと痛感された。 美輪明宏のヨイトマケの唄へのエンヤコラだけれども作中にエンヤコラの掛け声が出て来てとても気に入っていてブログの記事の題名でテーマの美輪明宏のヨイトマケの唄に捧げる形で付け加えられたという。 記事の全体がエンヤコラの一言に集約された感じが詩に匹敵するのではないか、今までもやっていたかも知れないけど、とにかく面白いと自覚されてしまった。 キーワードとしてGoogle検索からのアクセスアップにも繋がるはずだし、さらに詩的だったら本当に狙い通りのブログの言葉遣いになっているから気付いたかぎりは積極的に取り入れる必要があると考えてしまう。 ただし題名が詩の言葉遣いでしっくり来るというのは記事そのものが相当に充実してないと作品として名折れになりそうなので、一言一句に集中力を注ぎながら丹精を込めて仕上げるという自己表現が求められて来るだろう。 案外、できてなかったかも知れない、ブログで。詩的にやるといってもただぷらぷらさせているだけで、イメージで遊んでいるに過ぎない言葉遣いだったのではないか。面白いのは確かだけれども耳を世界の時空の繋ぎ目に攲てるや否や天使がもうちょっと本格的な味わいを求めているようだし、文章だけではなくて作詩するくらい言葉への思いを引き上げながらブログの記事を纏めても良いと思う。 スタイルとしても難しいので、避けたかった部分も自分自身に全くないわけではなかった。 言葉を重視するならばむしろ文章がそれに見合うだけの強度を持たなくてはならないし、バランスが崩れるので、するとやはり論文調になって人気が出ないか、または詩の実作〈本質的な認識としての永遠〉と同じで超難解で誰も寄り付かないパターンになりがちだから困らざるを得ないと手も伸びないわけだ。 本当に猿でも分かる日本語、俗にいえばだけれども人々が読みながら聞きながら躓かない文章でどれだけ言葉を実質から的確に並べて行けるかが問われるだろう。 やれればきっともっと面白くなるブログ、些細な日常だと期待されるし、美輪明宏を取り上げながら認め出したのは非常に有り難かった。 ブログを更新するにもテーマがないような感じもしていたので、昨今、作家活動の表現力を変えてみれば又新しい地平が開けて興味や関心が湯水と湧き出して記事に取り組み易くなるかも知れない。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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