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ランボーと永遠への詩学的な考察

僕が永遠の詩を歌うのは根本的には天使的な人との出会いに基づいている。青春期の運命の恋がなければ永遠の詩は経験されなかった。考えると元々は天使的な人の思いで、それを僕は反省しながら引き受ける形で自分自身に取り込んだに過ぎない。永遠の詩は心の繋がりを知り得た喜びだった。幸せそのものを指し示している。


なぜ気付いたのかはスピノザ哲学の影響が非常に大きかった。彼の永遠の概念は心の繋がりと良く似ている、振り返ると。ただし神と人間との愛を何よりも含意しているので、哲学と詩の相違だけではなくて内実的にも心の繋がりとは差異がある。むしろ溶け合いと捉えられるべきだろう、心として精確には。


スピノザの永遠の概念は心の繋がりと良く似ているために永遠の詩に間接的に関与したのは間違いなかったけれどももう一つ注目するべき永遠の認識があってランボー永遠という永遠の詩はそれこそ僕と同じように詩人として永遠が表現されているのかどうかが気になってしまうわけだった。


アルチュール・ランボー

結論からいうとランボーは僕と同じではない、永遠の詩において。何よりも特徴的なのは気持ち、またはメンタル/内面性がランボーの永遠には強く反映していて僕が事物の本質から永遠性を感じ取って表現しているのとは作詩そのものが完全に一致しない。


ランボーは詩人としては局限された存在だったかも知れない。僕は全ての詩を永遠に歌うしかないし、それは何よりも自分自身というか、生活そのものが命を永遠に抱えている(腕を知る)ためだ。対してランボーの永遠からは事物の本質が見当たらなくて気持ち、またはメンタル/内面性が何よりも重視されているので、他の場合では彼自身が永遠を感じてない可能性が否定できない。ランボーは永遠以外では時間の詩を歌っていたのではないかと思わせてしまう。


永遠の詩はスピノザの概念からしても疑われては成り立たない。時間としては始まりも終わりもなくて一つの本質的な状態を表現しているからランボーの永遠という言葉遣いは局限されていて人間ならば誰でも同じように又別の時間、詩人ならば又別の作品においては無関係な仕方で生きているようなんだ。


また見つかった
何が? 永遠
太陽と溶けあった
海のことさ


ぼくの不滅の魂よ
おまえの誓いを守るがいい
独り身の夜と
燃える昼にはおかまいなしに


従って 世間の評判からも
月並みな方向からも
己れを解き放って
気ままに飛んでゆくがいいのだ……


――望みもなければ
復活の祈りもない
学問と忍耐 つまりは
責め苦こそが必定だ


また見つかった
――何が――永遠
太陽と溶けあった
海のことさ



ランボーの永遠は一篇の詩として完成した後に長編散文詩の地獄の季節に再収録されている。題名はなくて内容が幾らか変更されているので、どちらでも素晴らしいと思うけど、元々の永遠よりも地獄の季節の一部が新しいから取り上げてみたい。


最も驚かされるのは詩の冒頭でいきなり「また」と繰り返されているところだ。あり得ない。しかし納得させられてしまうのはテーマが永遠だからだ。読み進めてちょっと経つと「永遠」と出て来る。何度でも繰り返される物事だろうから作詩とすれば上手いと唸らされずにもいられない。


永遠には再現性があると考えられるのは本質的ではない。というのは始まりも終わりもなくて時間そのものを支える存在が永遠なので、いい換えると無限の形相として広大無辺性を伴っている。ランボーの言葉遣いは時間の延長としての永遠なので、夢に等しい。いつまでも長続きするべき時間があるようにランボーは感じていたに違いないはずだ。


作中、「永遠」から直ぐに「溶けあった」と歌われて如何にも広大無辺性だと思うし、ランボーは真実を見極めていたのかと永遠とは何かについて焦らされるけれども冒頭が怪しいかぎりは展開的に認めるわけには行かないだろう。


夢ならば覚めないで欲しい感じで歌っていると理解するべきだ。ランボーは永遠に喜びを覚えたのではないか。いつまでも長続きするべき時間こそ「見つかった」わけだし、「何が?」と知りたくて「永遠」と呼ぶけれどもさらには「太陽」と「海」が一つになるほどの気持ち、またはメンタル/内面性に至ったと示されたと考えて良い。


永遠の喜びの果てしない膨張が「溶けあった」に象徴されている。太陽が生命の源だとすれば海は存在の礎だろう。生命なしに存在はない、どんな場合でも。もしも存在が可能ならば必要不可欠なはずの生命が永遠だったので、溶けあったかぎりは海は太陽によって底上げされるようにまさか力強く表現されている。本当に素晴らしく美しく味わわれて仕様がない言葉遣いだろう。


そこからはネガティブというか、否定的な世界観、悲しみの言葉が詩を埋め尽くして行くように変わる。なぜか。永遠を夢見て人生も太陽と海で超越しながら《生命の存在論》を掴んだし、哲学的には非の打ち所がないほどの幸せに包まれて然るべきはずだった。ランボーは可笑しい。喜びの果てしない膨張からは本当に及びも付かない。


考えられるのは自己揶揄だ。自分一人で温泉に極楽気分で浸かっているに等しいとすれば永遠も人生の目標としては頷き難いものがあった。ランボーは「ぼくの不滅の魂よ」と呼び換えながら一つの夢の境地を「気ままに飛んでゆくがいいのだ……」と逃れ去るように努めた。


次いで本当の自分らしさに出会っている。人生の目標は「責め苦」に他ならないと認識されたわけだ。考えると受難者として生活したかった。


ランボーは慈しみを永遠に知ったものの自己揶揄から逃れ去った。思索の流れからすれば大元の悲しみに立ち返りながら夢見られた永遠の喜びという幸せな世界の慈しみの重要度を計り直したわけで、詩としては非常に完璧な印象を与えるけれども結果的に「必定」と呼ばれた「責め苦」を負わされた人生は如何にも災いに満ちた存在を指し示していて可哀想だし、切ない気持ち、またはメンタル/内面性の真実が味わわれずにはいない。


後年、ランボーは詩人を止めてアフリカで商人となり、日毎の食事にも事欠くような過酷な環境で苦労ばかりの生活に身を投じながら三十七歳という若さで、この世を離れる。永遠の詩を考えると予告されていたとも過言ではないし、敢えて自らの意志で厳しい人生を求めざるを得なかったのではないかと心ならずも頷かれてしまう。


ランボーの永遠の詩には彼自身の詩人としての気質がはっきり打ち出されていると思うし、見出だされた本当の自分らしさが慈しみと悲しみのどちらへ向かうかは判然としないものの前者よりも後者を信じて疑わないように心に秘めているのは確かではないか。


終結では冒頭の数行が同じように繰り返されて作品は締め括られる。


イメージはもはや已むなく、辿られた不幸への道こそ改めて永遠だと告げんばかりの風合いを伴って受け取られる。逆しまならば皮肉だし、大変な自己揶揄の成れの果てとすれば却って滑稽とも見做されるだろう。


何れにしても真実は掻き消されながら詩人の思いだけが透き通って伝わって来るところは圧巻だし、ランボーの永遠の詩のエッセンス、極め付けの素晴らしさだと感心されずにいない。なぜ引き付けられるのか、言葉を上回るようなイメージのリアリティーが魂こそ呼び覚ます。全てが忘れ去られて作品全体が題名通りの永遠に包まれて行くばかりだ。


どんな詩だったかを再び確かめてみたくなるし、繰り返していつまでも出会わなくてはならないと引き付けられて止まないと感じる。

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