松尾芭蕉のわびさびの俳諧はおくのほそ道が極意的だ

気付いたらわびさびの極意は光陰矢の如しで、ぴったりの思いが松尾芭蕉おくのほそ道の書き出しに認められてならなかった。


月日は百代の過客にしてゆきかふ年も又旅人なり舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふるものは日日旅にして旅をすみかとす古人も多く旅に死せるあり


つきひははくたいのかかくにして、いきかうとしもまたたびびとなり。ふねのうえにしょうがいをうかべ、うまのくちとらえておいをむかえるものは、ひびたびにしてたびをすみかとす。こじんもおおくたびにしせるあり。


松尾芭蕉のおくのほそ道(仮名は筆者)

松尾芭蕉のおくのほそ道の書き出しは中国の李白という詩人の言葉に典拠があるらしい。春夜宴桃李園序の「夫天地者,萬物之逆旅;光陰者,百代之過客」だった。気持ちとしては天地は萬物の逆旅(万物の宿屋)で、光陰は百代の過客(長年の旅人)なので、全ては自然に生きながら移ろいと共にあるばかりのイメージで歌われている詩の一節だった。


李白は春夜宴桃李園序の冒頭で「天地」と「光陰」で空間と時間を表していて非常に哲学的だけど、存在とは何かを明らかにするように世界を根源的に作り上げている時空から全てを捉えてみていた。


言葉通りならば「天地」と「光陰」の時空は自然なので、人生に立脚してこその世界を「萬物の逆旅」と「百代の過客」の存在に詩として極めて具体的な知覚に基づいて表現している。


気になるのは命の視点と、若干、異なる。それがわびさびに接近する感じがして松尾芭蕉も見逃さなかったのかも知れない。自作でおくのほそ道の書き出しに置いたわけだ。


宿屋の万物とは何か、旅人の長年とは何か、生と死を同等に扱っているイメージだから命の視点として必ずしもロマンチックな太陽ではない。もしも太陽ならばいつか消滅すると二十一世紀の科学ではもう既に予告されているけれども物悲しさを伴って受け取られてしまうので、謎を残すような形で、神秘的に止まって認識においてさらに奥義的に行き着くところまでは李白は示さなかった。


最も興味深いのは生と死の世界観だと思う。いい換えると自然の厳しさが見出だされた。人間の逃れられない虚しさが詩によって慰められるように素晴らしく和まされている印象が著しく認められる。


杉山杉風の松尾芭蕉

松尾芭蕉はおくのほそ道の書き出しで、李白の言葉の「百代之過客」を丸ごと取り入れてそこから変奏曲のように自分の言葉を紡ぎ出して行ったけれども独創的なのは「ゆきかふ年も又旅人なり」と個人 の日常生活に目を向けた。生と死の世界観が哲学的だとすればそうした概念のアクチュアリティー(実効性)が求められているといって良いわけで、日常生活の中でどのように発現しているかを知りたかったみたいだ。


個人が経験する生と死の世界観が正しくわびさびとして現世で味わわれる対象だと考えると松尾芭蕉は自己表現から主題化していて極意的だと取り分けおくのほそ道があからさまに受け取られるから凄いと驚く。


何をいいたかったのか。李白の春夜宴桃李園序を典拠に人生の物悲しさに触れて自然の一切が内面から爆発するように捉え返されている。


松尾芭蕉のおくのほそ道は日本的な情けに繋がるけど、生と死の世界観を自分に引き受けてしまって「古人も多く旅に死せるあり」と歴史から頷く他はない。


すると詩によって掻き消される印象も極めて薄くて気持ちが本当にわびさびとしかいいようがなくなるし、誰もがいつかは倒れると自分を含めて親身に感じながら生きていたのではないかと甚く想像させる。


朽ち果ててこそ真実の存在と考えたに等しい。なので松尾芭蕉は哲学者だとしたら恐ろしいかぎりだけれどもどうして世界は成り立つのかが確かに経験として日常生活に得られるならば無限に細かく可能だと生気論的に把握されるだろう。時空において。


おくのほそ道の書き出しは李白への自己証明とも過言ではなくて「古人も多く旅に死せるあり」と生と死の世界観を唱えた詩人でさえも消え果てた事実から心底と逃れるすべもないと覚悟したように松尾芭蕉が見えて来る。


達人ではないか、もしもわびさびが与えられるならば。松尾芭蕉は生き方がわびさびと切り放せず、物悲しい人生という人間の逃れられない空しさを誰よりも感じ取っていたに違いなさそうなんだ。


俳人で、幾つもの俳句、生前の江戸時代には俳諧と呼ばれていたけれどもどれを読んでもわびさびが断トツに味わわれるスタイルなので、何なのかと思っていた。


松尾芭蕉の代表作ながらおくのほそ道の書き出しにヒントが隠されていた。


閑さや岩にしみ入る蝉の声


しずかさやいわにしみいるせみのこえ


松尾芭蕉のおくのほそ道(仮名は筆者)

俳句を挙げると「蝉の声」がわびさびを世界中に解き放って衝撃的だ。


何しろ、「岩」が死を予感させる。または終わりを告げる様子なので、聞こえて来たはずの「蝉の声」も極限の世界を教えてくれる。


無限に細かく可能だと生気論的に把握されるそれこそ存在だけれどもわびさびの極意として感じ取られる。胸も抉るほどの情けがなくては目を向けもしなかった美しさではないか。日常生活でやり切れなさにはかりにも打ち負かされず、生き抜いた松尾芭蕉の言葉が感動的だし、俳諧が魅力的なんだ。


出だしの「閑さ」が「岩」を介して「蝉の声」から振り返ると本当にわびさびそのものを示している。


生と死の世界観が引き受けられて何もかも朽ち果てた後の音沙汰のない状態が今此処で如実に想像されるにせよ、一つの俳諧として芸術的に象徴化されているとすると知覚も時空を越えてしまったに等しいゆえではなかったか。


風合いは精神的な安らぎ以外ではあり得ないし、平和ならば気持ちも突き抜けた先の楽園なので、だからおくのほそ道と松尾芭蕉は題して紀行文だけれども俳句を相応しく添えながら仕上げたのかも知れなかった。


わびさびを存在の透き通ったイメージが自然を覆い尽くすように広がって行くままに伝え届けている、つとに感心させられるばかりだ。


参考:春夜宴桃李園序 現代語訳・書き下ろし文

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