明け方の薄暗い部屋の中で布団に潜りながら付けたタブレットの画面の光に照らされた吐く息の白さを微かに見て 結城永人 - 2017年2月3日 (金) 何だろうと思う。ちょっと嬉しい。いつも部屋の中で吐く息の白さを目にすると外と変わらない寒さだだからわびさびの境地を受け取るせいか。辛いし、普段から決して求めるべきではないはずだけれども憧れてしまうんだ、素晴らしく、貧しさに。 なぜ良いのかが本当に不思議だ。寒くて住んでいられない家にも拘わらず、わびさびに引き付けられる、心から。 吐く息の白さはそれ自体で面白い。まるで漫画の吹き出しのようだ。というか、漫画の吹き出しこそ吐く息の白さから生まれなかったとはかぎらないだろう。芸術はどこに転がっているとも定かではない。気付かされるほどに吐く息の白さは面白くて堪らない。 児童機の冬の通学路、毎日の行き帰り、自分や周りの皆が吐く息の白さを止められなくて本当にもう世界が漫画に感じられたせいではないか。心を擽られるばかりだった、面白さに。 そしてきっと日常生活に潜んでいるはずの芸術に触れながら他でも何かを見付けられそうにウキウキしながら過ごせるようになった。 今朝、二つが重なった。五時過ぎに目が覚めてわびさびと吐く息の白さには通じ合うものがあると知った。家の外だと冬に寒いのは当たり前だからどんなに真っ白く息を吐いても貧しさとは結び付かなかったんだ。 しかし部屋の中で不意に目にした気分はもはやわびさびでしかなかったし、吐く息の白さが又別の次元からタブレットの画面の光で微かに見えては切なく味わわれもするけど、気に入ったままの面白さとしては貧しさが癒されるようだった。非常に好ましくて世の中で笑いが求められる所以にも触れた、考えると。 面白ければ辛くても耐えられるのが人生なのではないか。 わびさびと重なった吐く息の白さに癒される貧しさならば素敵だ。結局、素敵だからわびさびは魅力的なんだ。貧しさへの眼差しが人間性を高めるのは間違いだろう。何よりも思い遣りだし、大自然の威力に晒されながら生きる他のない存在を認めては自分だけではなくて何も変わらない万物に対して助け合いの精神が芽生えて来る。 意外と簡単だった、知ればわびさびも。貧しくて辛くて良いわけがないにも拘わらず、引き付けられて止まない気持ちがするのはなぜか。何よりも助け合いの精神が獲られるためだった。喜べば忽ち救われもするから魔法の杖に等しい。メルヘンがある、わびさびには詩的に堪能すると。 布団に潜ったまま、薄暗い夜の気配も直ぐに消え去る感じがした。もう少し浸らさせてくれないか。神へ羨みこそすれどもそれだけ必要なせいなんだろう。時間が急ぎ捲るなんて楽しいばかりの真実としか呼べない。 わびさびの極意は光陰矢の如しだ。必要で、必要で、我を忘れて人生を寄せてしまう。 美味しい食事が直ぐになくなって驚かされるのと同じだろう。誰が食べ尽くしたのか。自分だったんだ。なのに気付かないのはどうしてか。美味しさの余り、あっという間に平らげてしまう。目の前のメニューに一心不乱だから食事かどうかも気に留めないせいだったに違いないと思う。 吐く息の白さから人生の妙を学んだ明け方だった。起きて直ぐに部屋は薄暗くてもタブレットを付けずにいられないのは個人的に作家道ながら目に悪いから本当に不味いと反省されるにせよ、面白くて癒される貧しさがわびさびそのもので、得られる助け合いの精神、万物への思い遣りが良いんだと分かったというのは大きくて新しい。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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