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3月, 2017の投稿を表示しています

思想の意義としての心地良いばかりの世界

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人間は世界とは何かの思想を持つと素晴らしい気持ちを味わう。しかし信念が胸に広がったせいだとすると本当に重要なのは自分自身の思想を生活に組み込めるかどうかにかかっていたらしい。
鳥が大空へ羽搏くためには翼が必要だけど、翼だけでは得てして無理なので、どう羽搏くかを知らないままの鳥では気持ちは素晴らしいにせよ、大空からは見下ろされるかぎりの自然でしかなかった。
日本人の知性と思考の方法論的な哲学人々に大衆への理解は本当に可能か平和の原理/抽象力を有する人間性/論法そのもの人間の精神/心理のための感受性の理論
挙げると些細な日常の四つの記事が著しく目立った。思想を持つだけではなくて信念において生活に組み込むように有用な認識としての効果を高めもするためには方法、見方、原理、理論が欠かせなかったとはっきり分かって来た。
心地良さが増している、人生に。だから気持ちも現実に素晴らしいわけではなかったか。一言で知恵ならば思想の意義は他でもなく、どう生きるかの認識力にかかっていたに違いないだろう。喜ばしい魂の世界と捉え直しても良い。
注意すると頑張り方が問われたせいではないんだ。夢を叶えたくて予め案じて講じながら幾つもの思考へ励んでは来たものの直接的に必ずしも知恵ではなかった。どれも生活の知恵だけれども思想の意義へは触れてなかったわけなので、向き返すと恐ろしいほどの真実だから容易には手が付けられなかったようだ。
飛び込んでも底無し沼に匹敵する対象がある。気になると性急に取り組んでも思考は解き解せないまま、対象へはズブズブ沈み込んで行くばかりで、快適な暮らしへはもはや手を伸ばすだけが精一杯なほどの窒息を強いられてしまいそうだから不味いと直ぐに思い止まっていた。偶さか感じるのも深入せずに助かったみたいな印象ではないか。底無し沼の対象からは逃げ出した勇気というか、よもや思考こそ名折れならば生き残っては微かに憂鬱なかぎりの誇らしさだったはずだ。
躑躅の咲き乱れ via 天使のモノクローム
皆にも現時点での心地良さを受け取って欲しい。本当に強力な精神かも知れない、人間にとって。ただし思想の意義を掴むのは大変だからイメージを示して教えても翼を与えるだけで済んでしまい兼ねないし、どう羽搏くのかという方法、見方、原理、理論を自力で引き出さないときっと有用な認識として身に付かないので、知恵ならば実現してからあの人はあ…

人間の精神/心理のための感受性の理論

姪が治療抵抗性統合失調症でのクロザピンの投与から少しずつ回復しているようだ。使用できるか、異変はないか、効果が挙げられるか、三つの懸念を幸いにも突破しているらしくて最終手段の医療が進展している。
しかし大事なのは日常生活にどこまで追い付けるかが本当に気がかりだし、どうにも不安がられずにいない。
触れ合いについて考えておきたいと思う。僕のそばにいれば精神を病むなんてあり得なかったはずにせよ、クロザピンで脳から精神状態が新しく変わるとしたら健康のために万全の注意を払うかぎり、従来通りで、本当に大丈夫かどうか、自己批判こそ求められてしまう。
たぶん感受性と超自我が均一化されるために気持ちが全般的に落ち着くのかも知れない。衝動そのものを抑制するのがクロザピンの精神、または心理への影響ならば概して自我の位置取りが曇りがちなはずだし、感性の動きも意志的に下がり易い。世界へは感受性から主に知覚されるという可能性が高くなると僕には推測される。
精神論的にいうと人間の気持ちは無意識と自我と超自我によって構成されていてフロイト心理学の用語が近い。超自我に理性が含まれていて感性/直観と統覚と判断力で形成されていてカント哲学の概念が鋭い。さらに見落としてはならないのが感受性で、世の中で理論として取り立てて提示されてないみたいだ。自我や感性と混ぜ合わせて把握されるかも知れないけど、詩人がはっきり口に出したりすることが多い。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
茨木のり子自分の感受性くらい
断っておくとだから人は精神を病むわけではないだろう。感受性だけが原因ではなくて気持ち、または内面には他にも様々な要素が絡み合って脳などの身体も引っ括めながら全体的に不調を引き起こされた結果として統合失調症でも鬱病でも捉えないと最初から間違えて一歩も先へは進めなくなりそうだ。
健康なのに悔いて頭がこんがらがるという状態ならば気持ち、または内面が人格と齟…

平和の原理/抽象力を有する人間性/論法そのもの

思い付いただけで大革命が起きている。人間性の中心に火山が著しく噴火しているせいだ。しかしマグマ大使の出番はなかった。驚きがキラウエア火山へ向けられていたためか、日本人には富士山よりも身近ではなかったし、または大革命が学校の授業ならば先生も話題を逸らしているに過ぎない。笑った生徒は疎らだったけど、とにかく良く聞いて欲しい。全員、もしも出て行かせるつもりならば多めに触れていたはずの金色の巨人に悔やんでは僕はいない。分析できたと今現在はイメージに満足している、却って。抽象性が手に入った気持ちは確かだ。まるで白玉団子が薄く平らに伸ばされるように世界へ染み透る知識ではないか。平和を呼んでいる感じがする。まだ起きているならば大革命も本当に静かなかぎり、原理的な仕方だったに違いない。かりにも驚きへは慣れて来たという一言で通り過ぎるわけには行かなさそうだから探し求めずにはいられない、明日、死に絶えるとしても。
ディーンの名言からそれは夢だった。まだ午前六時過ぎだ。十五時間以上も皆には残されている。煽っているのではない。秋刀魚の塩焼きならば天界まで取っておきの御馳走ではないか。今更、いきり立っても人生が勿体ないだろう。ゆっくり堪能するためにこそ夢を抱き締めたかった。ビビっているのも世紀末のせいではないし、あるいはバンドの聖飢魔IIならばリーダーのデーモン小暮を筆頭に案外と良い人たちだから恐いのは顔だけにしておくべきだと思う。どうだろう、僕に賛成する君の手は上がるはずにせよ、心のままにもどかしい今時分。認めたから何も要らない。ただ知りたいのはなぜ反対の方角から大砲が打ち鳴らされたのかの一点に尽きる。見詰めるな、見詰めるな。南南西で踊る鳥の名前ならば直ぐにいい当てられるし、カタカケフウチョウだ、ただし調べたかぎり。すると納得できないのは自分の立ち位置でしかなかった。砲弾は手品の一種だったし、飛び出した道化師が騙し打ちを目論むテロリストでもなかったのだから大丈夫だ。どうしても不安ならば太鼓判を押しても良い。大好きなスタイルならば対象は何だって構わないし、さもないと地獄が寄って来て鬱陶しい。無言を決め込むにかぎろう。只、無言が八つ裂きにされるのを考えると僕としては嘘にしておけば益しだったと嘆くだけだ。八つ裂きの嘘からは真実こそ認識されるはずではないか。苦しいのは知識が地獄のお陰になって生涯を…

人々に大衆への理解は本当に可能か

スピノザ神学・政治論で大衆について次のように捉えていた。
大衆はものごとを賞賛したり批難したりするのに理性ではなく衝動によっておこなうものである。
スピノザの神学・政治論(畠中尚志訳)
正しいかどうかはちょっと怪しい。というのほ些細な日常でスピノザの方法そのもの知性そのもので、二回、本格的に取り上げながら倫理学以外では思考の強度が下がると目に見えて明らかだったので、敬愛するほどに何でも信じ込まないように警戒しなくてはならないためだ。
教説としては現代でも変わらないくらい世の中に当て嵌まっている見方が面白いかも知れない。すなわち〈知識人と一般大衆の構図〉が示されている。
社会の様相は何世紀にもわたって、全然、進歩してないみたいに感じると僕笑っちゃいます風見しんご)を聴きたくもなるよね。
欽ちゃんファミリーのアイドル路線は男性では風見しんごが走りだったのではないか。調べると驚くのはブレイクダンスをアメリカから日本に広めた立役者だった。本人も正しく素晴らしく上手い。情報によると四曲目の涙のtake a chanceから舞台へ取り入れたようだけど――本場のニューヨークで思い切って修行した――ブレイクダンスで風見しんごの右に出る者は芸能界でもとても少ない。すると欽ちゃんファミリーだからお笑いと見られれば気付き難いにせよ、アイドル路線としてしっかり捉えれば必ずしもそうではないのではないか、風見しんごもメインのパフォーマンスは他にあると分かってしまう。
だからスピノザも大衆への認識力が鈍ったと仮定すると気に入った見方に囚われていて自分のアイデアに合わない人々を捨象していたわけだ。
夢の旅人ならば詩的な生活として許されるにせよ、学問では真実だから困るし、幾分とも遠ざかって冷ややかに見詰めざるを得ない。
現時点、感じ入れば人類の世紀が革命的に動いている。つまり《大衆の線分的な見方》が発明された寸刻に皆というか、ブログの訪問者の貴方は立ち会っているわけだろう。些細な日常からはっきり著すことができたのは作家・詩人として僕には光栄のかぎりなのは潔くも恭しい気持ちがしている。まさか人々の少なくとも一員へ存分に知って貰えたようだ。
注意すると現代には知識人はもういなかったかも知れない。当初の〈知識人と一般大衆の構図〉という想定が無効ならば些細な日常から新世紀に出会してもエヴァンゲリオンと仮想的に捉えられざ…

日本人の知性と思考の方法論的な哲学

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お笑いの有吉弘行が哲学について本を出していると知った。毒舌訳 哲学者の言葉という題名で、数多の哲学者たちの言葉を題材にして自説を述べている。インターネットで偶々だったけれども紹介しているサイトを見かけたから気になって訪れてみたんだ。
哲学とは…変わり者の人が適当に言ったことをなんとか普通の人たちが解釈してあげて無理やり「わかるわかる」と納得してあげているもの
有吉弘行の毒舌訳 哲学者の言葉
心外というか、哲学は本質的に思考だから、表現上、間違っていると項垂れるしかない。しかし目を背けてはならないはずだ。お笑いとして許される気持ちを棚上げとすれば真面目に日本を過ごし易く変えるためには現時点で知性改善論のような思考が人々に求め叫ばれているのではないか。まさか興味深い世相が露呈し捲っている。有吉弘行で示し出されたというのは本当に物凄く面白いし、僕は思考が超大好きなんだ、お化けなんて呼ばせない。
笑いたい人は笑って、それが一つの狙いならば余談だけど、大きな息を吸うように。
ぷよぷよでもないにせよ、こんがらがった頭が哲学だと感じる日本人が多いとすれば有吉弘行の言葉遣いは取り立てて珍しくはない。だから哲学者を「変わり者の人」と捉えているわけだろう。思考そのものは外れてない――疑ってかかるだけでも脳味噌を置き去りにされ兼ねなくて危なさそうだ――から有吉弘行こそ哲学者と見えなくはないし、お笑いにしておくのも勿体ないくらい知性が巧みに働いているんだ。
泣きたい人は泣いて、それが一つの習いならば余談だけど、大きな空を仰ぐように。
スカウトはしない、有吉弘行を哲学者へ。白い布切れを一枚だけ羽織いながら古代ギリシャよりも現代アメリカのまるで自由の女神のように思慮深く立ち尽くしていた。どんなに可笑しくても僕はプロデュースするつもりはない。有吉弘行のイメージがお笑いから哲学者へと変貌を遂げる間際に心を素晴らしく擽られるのはなぜか。天使よ。腹を抱えるのは僕だけではないはずだ。きっと人々も感じているに違いない、思考から引き起こされる苦悩という頭がこんがらがってしまう気持ちは現世で未だ経験されない死ほどにも想像上の可能性でしかなかったと。
悲しい人は尊んで、それが一つの憧れならば本題だけど、美しい風を纏うように。
問おう。なぜ有吉弘行こそ哲学者なのか。知性が働いて思考を纏めたかぎりだけれども方法だけで人は誰も哲学者…

ハーバード白熱教室に正解はなくて良い

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かつてテレビで観て衝撃を受けたハーバード白熱教室は本当に珍しかった。類例のないテレビ番組として記憶に著しく刻まれてしまったという他はない。振り返るとよもや日本で制作されてなかったのも辛いかぎりだろう。
Justice: What's The Right Thing To Do? Episode 01 "THE MORAL SIDE OF MURDER"via Harvard University
アメリカのハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講義が放映されていた。講堂の熱気が凄くて学生たちに勉強へのやる気が漲っていた。授業が対話形式で進められていて学生たちがマイケル・サンデルの思いに触れながら吸い寄せられるままにどんどん巻き込まれて行って一人残らず、考えなくては行けないというか、身を乗り出しながら取り組まなくてはあり得ないみたいなイメージだった。
学校において盛り上がる授業がよもや骨董品ならば「良い仕事ですね」(中島誠之助)と誉め千切られるくらい教育の鑑に見えた。
僕は少ししか気に留めなかったけれども教育論を踏まえると日本の「ゆとり教育」に引っかかっていた。現在は「脱ゆとり教育」とはいえ、上手く行くためにはハーバード白熱教室の熱気が最低線だったのではないか。本当に物凄く難しいので、子供たちに知的な好奇心を与えるにはそれでもまだまだ自主性を勉学に勤しむと朧気にも引き出させるには至らなさそうに考えると国が偏に取り下げるのは如何にも尤もらしい。
畢竟、浅田彰が憂国的に呟くほどに巡り巡って世の中から後ろ指を指される日本人が大半なのかどうかは又別の社会性にせよ――ドゥルーズの「ミクロの政治学」とは何か――たぶん僕がブログで明白に取り上げたから国民の様相は変わって来てしまうというのも実況かも知れない、同じように重ねてみるかぎり。
むろん僕と浅田彰では知名度は天地の開きも吹き出すくらいかけ離れ捲ってはいるものの面白いのは「私はダイナマイトだ」(ニーチェ)なので、本当に良いものとか真実なんて知識は皆が力強く欲しがるから世の中に広まるかどうかは作者の知名度では必ずしも計れない。
考え方はスピノザから来るよ、きっと。知識、または経済ならば商品なんだ、一つの喜びに胸打たれて引き付けられるのはなぜかとニーチェもドゥルーズも浅田彰も本当に良く分かっているから僕も危ないとい…

スピノザの生活規則を良い知性から僅かでも理解するための思考

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久し振りに知性改善論スピノザ)を読み返してみた。といっても時間がないし、速読もできないので、一時間で数十頁しか進まなかった。
しかし相変わらず、文章が手強くて通常よりも読解を迫られると驚かされる。作家の気質としては学者そのものだろう。細かいところまで日常生活に支障がなくても取り上げて認識に纏めないと不誠実だと思ってしまうのではないか。
学校嫌いの口癖ならば「勉強しても生きるのに役立たない知識」が多くて辛い。
ただし大事なのは世界を理解するために必要なんだ。背を向けるほどに認識そのものが曖昧になって社会へ出ても分からないままなので、経験に対しての判断力は学歴通りで止まってしまうわけだ。後から独学しなければ生活力としても上がって来ないかぎり、もはや学校で済ませるのと中身は同じだろう。人生設計を効率的に組み上げるならば最初から勉強好きの気持ちが期待される。
僕の言葉遣いも概念は難しいかも知れないし、例えば世界といきなり聞かされると皆が躓いてしまいそうだ、心で。個人の内面というか、厳密には《自我論的な宇宙》を指し示している。なので世界が理解できないとなれば自分らしさがないという意味合いが非常に大きい。幸せとは何か。そこに判断力が欠けていれば世の中に振り回され易いし、良い人と悪い人がどのくらいの割合で算出されるにせよ、やはり幸せを得られる出会いも偶然でしかない、根源的に。自力で何とかしかしたいのがきっと人類なんだ。
アインシュタイン相対性理論ゲーデル不完全性定理を分からなくて誰も死にやしなくても学問の全ては必要なのではないか。
現代では本当に問われる。学者が無駄な研究に大金を使うのは社会問題だし、アメリカもだから宇宙探査を縮小しながら中国に経済どころか科学ですらも後塵を拝しかけている。どんな勉強が有益なのか。人類の日当たりが探られているといって良い。中国だって無闇矢鱈に取り組んでいれば直ぐに資金は底を突いてしまう、求めるよりも。コンピューターが開発されて見聞できる世界が物凄く広がったせいではないか。作り出したのは人間だから頭脳が進歩した結果なのは少なくとも間違いない。
何がいいたいのか。勉強は知識だし、どれもこれも繋がっているわけならば生活力に加えるためにはたぶん理解力が前提条件だろう。実地に方法といえば哲学だけれども知性とするとスピノザが僕は気に入っているので、文字通り、知性改…

カントの物自体が教える確実性

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カントの物自体は認識論的に不可能な対象だから思考の内実は事象でしかない。
すなわち現象学における超越論的な主観性の効果として理論上で要請される直観の確実性と同一視される。
Immanuel Kant by Gottlieb Doebler [Public domain], via Wikimedia Commons
カントは現象学者では全くなかったけれどもそうした方法に気付いていたからこそ物自体を敢えて証明するような必要を持ち併せなかったわけではないか、哲学に。
理性が成り立つのは不可知のゆえではないのは当たり前にせよ、人間に確実性が物自体として備わっているためだといい直せばグッと分かり易くなるんだ。
歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。
イマヌエル・カント via Wikipedia
カントは理性を本当に哲学的に純粋に捉えていたし、認識力を丸ごと抽象化していた。だから一つの方法として理解すると親身に気がかりなのは存在だけになってしまう。
すると諸々の概念の機能を知るように哲学そのものと出会えたかどうかが経験にかかって来るから思考を自己本意的に終わらせたに等しい。
精神に確実性は教えなので
カントは理性の成り立ちを物自体によって整合的に掴み得たはずの認識論に即しながら振れても仕様がない人生を完膚なく示唆していた。

読む気スラスラの君たちへ守るべき沈黙の作家には抜け出せない涙

もしかしたら僕だけど、君たちも読む気スラスラだから困る、昨日の午後から自作へ気が狂いそうで。
可笑しいし、本当に正気を失ってしまうならば素晴らしい思考が見付かった。経験そのものから精神とは何かを知るべき手がかりになる。というか、君たちへ送り届けるのが詩以外では非常に難しい言葉遣いを迫られずにいない世界へ生き出しているんだ。
詩と思考の命題は厳しかった。なぜなら哲学を批判しなければ永遠には辿り着けないからだ。スピノザの教えで終わらせるわけには行かないという実情はもう既に些細な日常の一つで示したはずだし、作家としても繰り返す必要はないだろう。
明かしておくべきなのは気持ちだけだ。それが分かったから脳味噌が飛び散りかけているとは漫画でもなければ涙としか呼べない。人は悲しくて泣くわけではないし、漫画ならば本当に喜んでいる可能性もあるわけで、またはゲームでも同じではないか、重要なのは泣くという涙を伴った経験としての《気持ちのメカニズム》を捉えながら君たちへは詩以外に守るべき沈黙だろう。
悩ましい。だから心苦しくも待つ。思考が開かれるまでは気持ちの向かない精神の冬だったとも過言ではない。実地には思いだから注意しよう。彼処で気持ちでは余りに歌い過ぎていた。とすると詩も又悩ましく新しく作り出され得る。ないか、そうでは。涙を包む全ては人生のためならば言葉遣いは定義されないと唱えても良い。
渋い宇宙が生まれて間もなく可愛いらしい手を伸ばして来るのだから今此処はParadiseの引き写しかも知れない。
僕はサイトのアクセスアップで生活費が稼げる暁には改めて作詩するつもりもないわけではないし、メインのブログとは又別の夢を掴んでしまっているけれども余りに歌い過ぎるという小さな小さな悲しみを今直ぐには将来へ取り上げてはならないと認めている。
時として、何かある単純な矛盾があったというだけのことで自殺してしまうような意識があるものだ。そのためには、はっきりそれとわかる、分類済みの狂人である必要はない。それどころか、健康で、それなりの理由があれば充分なのである。
アントナン・アルトーヴァン・ゴッホ(粟津則雄訳)
引用も過度だからイメージが完全に被っているのは驚きにせよ、既視感の思い出に数えられるかも知れない、久しくも著しくこそ。
君たちから僕へのスラスラの読む気は「健康」ではないか。ならば僕の君たちへの守るべき沈…

北川景子のInstagramが偽物で削除されて

ブログを移転していてDAIGOと北川景子の結婚式の記事を改めてチェックしたら異変に気付いた。写真が表示されなかったという。北川景子のInstagramから埋め込んでいたから咄嗟にリンク先を見に行ってみると削除されていた。調べるとアカウントが偽物だったらしい。北川景子はブログしかやってなかったんだ。
参った。写真に合わせて文章を載せたから完全にバランスが崩れてしまった。試行錯誤の結果、写真の代わりに描写を「白いタキシードと白いウェディングドレス」と言葉で載せたらイメージが逆に良くなったので、笑ってしまったよ、本当に。
諸々の部分がブログの記事の全体に合っているかどうかかが問われるし、完成度に響く。狂いないほどに作品として魅力的に仕上げられそうだ。自己表現の本質からは間違いない。皆にもきっと分かり得る。
なので気付いた、自信を持つべきだと、つまり作家・詩人として。
サイトのアクセスアップに写真や動画を載せると有利だと巷で聞かれるけれども文章だけで十分にカバーできるような実力を備えているのではないか。二十年以上も文章へ取り組んでいれば誰だって描写くらい上達するに違いないだろう。文章だけならば表示速度も下がらなくて嬉しいし、とにかく合わない写真や動画を無理に載せるよりは良いに決まっているんだ。
DAIGOさん(@daigo_breakerz_)がシェアした投稿 - 6月 8, 2016 at 5:19午前 PDT
DAIGOInstagramは本物だ。僕も警戒しているし、公式サイトにリンクが貼ってあるかどうかで判断しなくては行けない。ソーシャルメディアをやっていれば大体は相互リンクで見付かるんだ。DAIGOのInstagramはDAIGOのホームページにリンクが貼られたTwitterの「とうとう我慢出来なくて、インスタはじめました!笑」にリンク付きで紹介されていたから大丈夫だ。
大元の公式サイトが本物かどうかはホームページでもソーシャルメディアでもコンテンツで判断するしかないだろう。本人に相応しい自己表現が取られているか。すると相互リンクされた他のサイトのコンテンツも参考になる。インターネットで信用性を高めるためには公式サイトとしてホームページやソーシャルメディアは多めにやるべきというか、忙しいほどに大変ながら苦労しても決して損はしないと僕は思うよ、人々へ向けて。
北川景子については…

教育論を本気で真剣に子供たちの未来のために打つにはどうすれば良いのだろう

二十世紀末、浅田彰は日本の教育について学生の学力崩壊を指摘していた。
振り返ってみると十数年後には職場で「ゆとり世代」が上手く働けないみたいな社会問題として文部科学省への教育批判が出てしまったから物凄く的を得ていたし、先んじて観察眼が鋭かったと感心する。
学校などというところは、語学なら語彙(ごい)と文法をきっちり暗記させればいい。臨機応変に会話する力とか、創造的に考える力とか、それは個々人が社会生活の中で身につければいい。果ては学校で「生きる力」を育てるなど、傲慢(ごうまん)だと思います。学校ではむしろ基礎知識の詰め込みを効率的にやって、後は個々人の自由な活動の機会を増やしていくべきでしょう。
浅田彰/学問と知 浅田彰・京都大学経済研究所助教授に聞く via 日本財団図書館
僕が注意すると遊ぶのも大事だと少年に訴える気持ちと殆ど重なっていて「個々人の自由な活動の機会を増やして行くべきでしょう」の認識力は流石だと唸らされる。
学生へ向けて「基礎知識の詰め込み」が由々しく減っている現状を踏まえながら所轄する文部省(文部科学省の前身の教育面)への教育批判が「傲慢」と根底的に導き出される。
国の方針とすれば政治と切り放せないし、民主主義ではその後の「ゆとり世代」も含めて当時の政策に賛同した国民(有権者)に原因があるわけだ。
ただし浅田彰はそこまで含みすらもしない言葉遣いが特徴的だと思う。
一部の国民が悪い、または多数派の有権者に全ての責任があるのは間違いないにせよ、難しいのは選挙に参加しない人をどう捉えるのか。
投票しなくても賛成するつもりならば同列だけれども国への意思表示がなければ批判の文部省の法案を国会で通させた原因にはならないから考えても反対派が弱かったと嘆くに等しいし、理知的には賛成派、または支持する意見を問わなければならないというのが浅田彰のスタンス(詳しくはドゥルーズ主義者の生き方)なんだろう。
人々の痛いところは突いてなくて世の中が悲しくてもそれを生み出したはずの皆は否定しない、民主主義において。人間ではなくて題目の意見こそ浅田彰は取り上げているわけなので、何かが問題視されるならば起因としての本当に末端の何人かが苦渋を飲まされる程度の口振りでしかない。
しかし多少とも訝しいのは国の行政の是非という政治的な文脈を踏まえて考えると認識力が客観的過ぎる。学校にとって「基礎知識の詰め込…

少年の職場の悩みへの認識力の社会学

家の近くでスマホの音量を上げて喋る少年がいた。中学生だったけれども卒業したのか、去年の始めから日中にぷらぷらし出したようで、不可解に受け留めていた。聞こえて来た一本の通話からはっきり分かった。先方の友達も同じで、中学校を卒業したものの短時間のアルバイトをやっているみたいなんだ。だから時間が余っていてぷらぷらし出したわけだけれども改めてちょっと悲しかった。二人とも進学せず、正面に就職もできてない。
何を望んでいるのか、周りの大人たちは先生も親も。それとも不況で、仕事が減っているからもはや短時間のアルバイトでも仕様がないのか。
一年くらい経って音沙汰がなくなった。ぷらぷら少年の毎日の勤務時間が伸びたのかも知れない。アルバイトなのか、正社員なのか、どちらにしても何もしないでいるよりはせめて益しだろうとほっとしなくはなかった。分からないので、どこかのひね曲がった道にでも迷い込んでなければ良いと思うし、幸運を祈るしかない。
NHKスペシャルの見えない“貧困” ~未来を奪われる子どもたち~で、近年、日本の子供たちが学生でもアルバイトで多く働いていると取り上げていたけれども考えると世相が昭和以前に逆戻りしているのではないか。江戸時代なんか本当に当たり前だった。年少でも人間は働くべきと常識化されていて現在の途上国と日本も変わらなかったはずだ。今又、そうなりかけている。社会的に退化しているようで、耳の痛い実況だった。
ただし面白いのは僕も含めて働かずに済んだ学生が本当に勉強一筋だったかどうかは怪しくて学校に在籍しながら中身は遊んでいるだけならば働かざるを得ない子供たちこそ余程と幸せではないか。
社会的には危険だし、勉強しない人ばかりでは国もまさか進歩しないので――スマホ一つどうやって作り得るかも物理学者にしか分からない――博学を推進するべき政治が理想としては掲げられるだろう。
注意すると遊ぶのも大事だ。遊んでこそ僕も永遠の詩人になれた。高校時代にランボーカフカスピノザを読んでなかったら、または大学時代にフランス現代思想ポストモダンの批評をやってなかったら天使的な人に愛されたかどうかは決して定かとはいえないと思う。学校の授業とはさほど関係なくてむしろ遊びだった。自分が気に入ってそうした知識へ向かっていたからゲームやアニメと変わらないんだ。どう生きるかが問われていた。およそ世間一般の学習では…

書行による作家のための思考と存在証明

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書くことがない。ということを書く。やはりない、書くことが。
終わったと書く。書いてみる。書くことが終わった。まだ終わらない気分の中で始まった始まりを終わらせるかどうかに悩みながら書いている。書けた。ということは書けるんだ。
嬉しい、書けると。辛かった、書けなくて。なぜなのかは書きたかったためなんだろう。書かなくてはならなくて書くことがないと辛いんだ。
分かった。書くことがなくて書かなくてはならない場合には書くと良い。只々、書いて行く。どうして書けなかったのに書けるのか。
書くことがないのに書くためには行くしかない、書いて。
思考ではないのではないか。確かに思考だ、書きながら寄り添っているのは。思考がなければどうして書いていられるだろうか。無理だ、書き続けるなんて書いて行くのも。
書いて行くためには思考のそばで書き続けるか、少なくとも書く。書くと生まれるんだ、書けるような力が湧き出して暫くして嬉しいと感じ取るまでに至れば気分に相当に乗っているに違いない。

畢竟、書くことがないと辛いけれども書かなければならないのも大変だから書いて行きたい。書くこともなく、只々、書き続けるように書けるだけではなく、書いて行けるかどうかが重要だろう。
笑ってしまう。なぜならば思考が必要だからだ、書くことへは寄り添っていたに過ぎなかったにも拘わらず。本当に重要な知識を得るために役立つのは思考しかなさそうだ。今此処では間違いなく思考が訪れているし、他には何も取り上げられなどしなかった。
書いて行けるかどうかを問う。思考と共に書いて行くのは辛い。書くことがないのに書かなければならないのと同じだ。只々、書かせてくれ。書いて行けるだけで良いはずだ。書いて行くことと一体化してない思考こそ疲れが大きい。気楽に書きたいかぎり、思考は案外と厄介だ。勢い付いて書き続けるのには助かるけれども休まなくてはならなくて結局は途絶えがちに書いて行くばかりだから書けないに等しくて気分が滅入ってしまう。
思考よ。振り返ると本当に重要な知識のために呼び寄せたけれども書くことそのもののに支障を与えるかぎり、気楽には書けなくなり易いから気分に溶け込ませるべきなんだろう。書くことと一体化した思考だけが面白いように書かせてくれる。どんなに書いても疲れないみたいな元気を与える思考こそ僕にとって有り難いわけなんだ。
書いて書いて書き捲る。偶には良いというか…

エピクロスの余りにも清貧な思想

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古代ギリシャの哲学者で、紀元前四世紀頃のヘレニズム期の初めに生きていたエピクロスが日毎の質素倹約を絵に描いたような余りにも清貧な思想を持っていて驚きながら共感を覚えてしまった。
アタラクシア(平穏な心)という身近な幸せを大事にする気持ちから世界を捉えていた。
エピクロスの哲学では感覚が重視されていてそれに見合った生活がアタラクシアとして考えられている。感覚は欲求によって疎外され得るし、哲学的に真実も分からなくなると三つに区別されている。
自然で必要な欲求自然でも不必要な欲求不自然で不必要な欲求
日々、アタラクシアへ通じる感覚、すなわち正しいとエピクロスが哲学者として判断したのは自然で必要な欲求だけだった。生きるために衣食住や人間関係は最小限で済ませると良いという発想が清貧な思想ながら余りにも容易いと感動させられもする。社会的には僅かな品物と微かな人付き合いで満足するべきだとエピクロスは教えているに等しいのではないか。まるで子供のように可愛いし、普段から必要以上に多くを求めず、いってみれば等身大の美学に貫かれた方法を体現する存在だったと考えると心から称えたくならせる。
Epicurus by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
しかし人間的には必ずしも楽ではないというか、大変なのは他の二つの生き方を避けられない場合なんだ。大邸宅や御馳走などの贅沢は自然でも不必要な欲求だし、地位や名声や権力などの見栄は不自然で不必要な欲求だから生活に取り入れてはならないと考えられている。
怪しいのは自分と他人への思いを切り捨てている。贅沢は前者で、見栄は後者だ。人生の動機付けが精神的に失われる。つまり夢は小さいほどに目先の物事に囚われて将来的に失敗する可能性が増えるためだ。恐ろしい。エピクロスの教えはだから現実には危ない。
知ってか、知らずか、生前から人々には考え方が相当に叩かれていたらしいんだ。
同時代にストア派の哲学が主に対立していたとされる。エピクロスと同じようにアタラクシアを生活のモットーに掲げていたけれども徳を重視していた。人生の目的は徳にあって幸せは精進した結果でしかないからそうした報酬を第一に主張するのは許し難いばかりの愚かしさそのものみたいな仕方で、エピクロスは散々と非難され捲っていた。人伝てによればそのせいで著作の殆ども残され…

ヨーグルトのナチュレ 恵 megumiに感じる整腸作用の望ましい効果

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昨年から雪印メグミルクのナチュレ 恵 megumiを良く食べている。健康と長生きのために腸内環境がとても大事だと考えていたけど、さらにビフィズス菌が自分とって有効ではないかと気付く切欠になった。
二日連続で食べると調子が上がった。小分けではなく、丸ごとで二つ分なんだ。感じたのは腸内環境で悪玉菌に対してもう一押しだった善玉菌に力添えが為されたのではないか。以前よりも動きが軽くなったから腸内バランスが良好に向かったように認めているんだ。
以来、一週間に一つくらい食べるようにしている。野菜、果物、そしてナッツ類を中心にしながらヨーグルトで乳酸菌を追加するという食生活が望ましいと思っていたけれどもナチュレ 恵 megumiがすこぶる魅力的だった。
ビフィズス菌だけではなくてガセリ菌も入っているらしい
調べてみるとガセリ菌は人間の腸内に長く留まる性質を持つから整腸作用が高い。しかも日本人の多くに見付かっている定住菌の一つとして国内では比較的に合い易いように考えられていて腸内に住み着けば日毎に善玉菌の勢力を広げてくれるかも知れない。理に適っていると感心するし、悪玉菌が減るかぎり、ビフィズス菌は赤ちゃんに多くて年を取るほどに減るけれども優れた力を発揮する助けにもなっているわけだろう。
専門的にはガセリ菌が小腸で、ビフィズス菌が大腸で働くという仕方から腸全体への効果を踏まえながら二つが大きく配合されているんだ。
小腸は、食物を消化し必要な栄養を吸収する働きを担います。気になる脂肪の吸収にも関わり、さらに近年では免疫・代謝などにも重要な役割を果たしていることが次々と解明されてきました。この小腸に主に存在するのがガセリ菌。一方、大腸の働きは、小腸で吸収できなかった水分やミネラルを吸収して、便を作り出すこと。ビフィズス菌は主にこの大腸に住む乳酸菌です。ふたつの腸の役割を見つめ、ふたつの乳酸菌を、それぞれの特徴を生かして使い分ける。それが、現代日本人のための新しいヨーグルトです。
これからは「ガセリ菌SP株」 via 雪印メグミルク
ナチュレ 恵 megumiは腸内環境を高めるためにビフィズス菌の攻めとガセリ菌の守り――というのも人間の腸内細菌の大部分は大腸に存在するから小腸よりも遥かに重視されるはずなので――によって磐石のデザインみたいだ。止めるつもりにはなれないし、ヨーグルトは腸内バランスへ効果的な…

写真の被写体に合った構図による臨場感

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クリオネの記事を仕上げるのに写真を引用しようとWikimedia Commonsをチェックしていたら数も少ないし、気に入ったのがなかった。
あちこち探し回っていてOpenCageというサイトが動物の写真をクリエイティブ・コモンズの商用可で提供していてクリオネの写真で幾つか気に入ったのが見付かったので、使わせて貰って非常に助かったんだ。
Chamaeleo calyptratus by Daiju Azuma [CC BY-SA 4.0], via Google+
管理人はDaiju AzumaというけれどもGoogle+もやっていた。写真はサイトと同じようにクリエイティブ・コモンズの商用可で使って構わないみたいだ。見ると画質がGoogle+ではさらに上がっているようだから嬉しかった。
写りが本当に良いと思う。被写体が分かり易くてしかも背景に甚だ溶け込んでいるから自然さが際立っている。臨場感が素晴らしい。
柔らかみが特徴的だ。カメラのレンズの円やかさが巧みに引き出されているとすると構図こそ合っているせいだろう。エボシカメレオンもあるがままの姿をしっかり捉えているんだ。当たり前にせよ、カメラは実際には難しいと思う。写真の構図はやはり少しずれただけでも仕上がりの印象を大きく変えてしまい兼ねない。きっとセンスが問われるんだ。
Daiju Azumaは被写体の気持ちを伝えているから見ていて安心できるような纏まりに秀でた写真を撮っていると好感を抱かせた。

自殺したいままに生きている状態

散々、幸せへ向けて考えて来てまだ逃れられないどころか、死こそ近付いてさえもいるのでは生活そのものがうんざりするばかりの気持ちだと嘆かざるを得ない。
何もかも裏目に出ているのか。どうして生活費が稼げないんだ、作家として。人気取りで金儲けを果たそうなんて世の中では一握りの好運でしかない。止めるべきか、父親の教えに背くように考えているせいならばそれだけでも撤回するしかなさそうだ。自殺したいほどの不幸は本当に何なのかを知らなくては夢も半ばに潰えるかぎりみたいな予感がする。
Googleでのサイト評価は少しずつ上がっているはずだし、アクセスアップも間違いなく果たされていると思うので、サイト広告で収益化が必要十分に実現されるところまで待てるかどうかなんだ。
時間がかかってどうしようないし、検索エンジンでのアクセスアップにはサイト年齢が重要だから一朝一夕では得られない喜びでしかない。
今此処で余りに望み過ぎては駄目だ。野村克也の三年計画を仰いでみればプロ野球というチームの皆で力を合わせても天地を引っ繰り返すほどの結果を直ぐ様と出すには行かなかったわけで、忍耐力こそ試されるといわざるを得ないのではないか。本当に辛いだけだ。
父親の教えも頑張り抜くためには受け入れなくても仕様がない。肝心なのはやはり僕自身が勘違いないしないように志を掴んでおくべきだ。何一つ背くためではないし、泣かせたくて情けなさを見せ付けるつもりではないんだ。日々、自分らしく生計を立てられるかどうかが目的だから取り違えてはさらにさらにどうしようないと思う。
本当にだから切羽詰まり捲って地獄へも笑いかける隙間がないような気持ちこそ不幸そのものなのではないか
自殺したいだけだ。世の中を見渡して誰も死んでないせいで、つまり優しく考えながら自分ばかり人生を降りる状態が訪れてしまうとすると恥ずかしいせいだろう。示せない、もはや神明にしか。
詩人を止めたランボーとそっくりの精神ならばそれを死と捉えたブルトンも人間的にか、又別の詩人として流石だったと称えるべきだ。

夜の大部屋ではみんな腹ぺこだ――
まったくのところ……
発散してくるもの 爆発するものがある
「おれはグリュイエール・チーズだぞ」
ルフェーブルいわく「ケレールだぞ」
物の精いわく「おれはブリ・チーズだぞ」
兵士たちはパンを切りつつこう言う
「これが世の常さ」
物の精――「おれはロッ…

Bloggerでサイドバーの動画のサムネイルがはみ出したから戻すしかなかった

ブログのウェブバージョンでサイドバーの記事のリンクのYouTubeのサムネイルがはみ出していると気付いた。
何もしてないはずなので、Bloggerでデザインの変更が入ってバグが起きているかも知れない。
ちょっと前にモバイルのインデックスページで記事のリンクでの記事の本文の抜粋が消えるという現象が一時的に起きていたんだ。サーバーからデフォルトのデザインを動かされたみたいだった。タイトルとサムネイルしか出なくて本当に焦らされたし、Bloggerブログを使っていて初めてバグが出ると分かった。
今回のサイドバーのサムネイルのはみ出しは僕のせいとは考え難い。
メインのコンテンツではないからブログのウェブバージョンのサイドバーはサムネイルを消して表示しても良かったけれどもそのままで続けるのも折角だから気が向くかぎりははみ出さないように直さざるを得なくなった。
.item-thumbnail img {max-width:74px;}
Bloggerの編集でテーマのカスタマイズの上級者向けのCSSを編集から十分に元に戻せると分かった。
ウェブバージョンの画像は固定サイズだから比較的に簡単に指定できる。表示されるデバイスの画面幅でばら付きがないせいだ。せめても助かるよ、崩れたデザインを直すのは大変なかぎりなので。
サイドバーのサムネイルが「item-thumbnail」のクラスだったので、そこから「img」の「max-width」で画像の最大幅を「74px」に指定するとはみ出さずに従来通りに記事の左上に小さく収まってくれた。

クリオネに見られる三つの特徴

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水中をほよほよ泳いでいて小さくて可愛いクリオネは見ているだけで心行くまで満足させられてしまっていていつも余り多くを知らなかったのではないか。
果たしてどんな生物かも分からないくらい風変わりな存在なので、もう少し細かく覚えておいて他の生物と同じように捉えられると良いと感じたんだ。
Clione limacina [CC BA-SA 2.5], via OpenCage
クリオネの三つの特徴を挙げる
本体だけの巻き貝流氷の天使バッカルコーン
クリオネは巻き貝の一種で、生まれると普通に貝殻を持っているらしいけれども暫くして本体しかなくなる。すなわち貝殻のない貝だから普段は目にしない格好だと珍しく思われ易かったわけだ。
和名では裸亀貝と呼ばれる。亀貝の仲間だけれども貝殻を脱ぎ捨てて完全に裸になっているイメージだろう。暑いせいかと人間に見立てれば直ぐに感じるけれども生息するのは海の寒流域とされる。冷たい水を好んでいて日本では北海道の沿岸でしか見られない。
面白い、裸なのに暑くないなんて想像力を掻き立てられて。寒いのが嬉しいとしたらとても元気で、健康そのものではないかと気持ちはもう咄嗟に見習いたくなる。クリオネは素晴らしい世界を表現しているから引き付けれずにいなかったとも過言ではないだろう。
貝にしては水中を泳いでいるのも非常に不思議だけれども加えて泳ぎ方が他の魚などに比べて又珍しくておよそ人間に近い。全身が細長い感じだし、頭から胴体までが垂直に立っていたりもする。そして胴体に薄くて平たい大きめの翼足が二つ付いていて左右から鳥が空を飛ぶように水中を泳いでいる。
Clione limacina [CC BA-SA 2.5], via OpenCage
クリオネの最も魅力的な特徴かも知れない。詩があるんだ、いってみれば。調べると「流氷の天使」と親しまれている、日本では人々に。幻想的な雰囲気が全体に透き通ったクリオネからは自然に醸し出されて止まないし、海の神秘、または水中の謎めきを心から味わわせてくれる。注目せざるを得ない所以ではないか。
気に入るのも本当に水を飛んでいるところだろう。クリオネは空を歌いながら詩的に感じ取らせる。遠くないし、人々の目の前に引き寄せている。空を間近に見詰める気分こそはクリオネならではの衝撃なんだ。出会いとしてはもはや稀有だといって良いと思う。
Clione Feeding v…

リュシッポスのギリシャ神話のエロスの彫刻

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古代ギリシャの彫刻家の一人で、古典主義のリュシッポスが紀元前四世紀に手がけたとされる弓を持つエロスが素晴らしいと思った。
現存するオリジナルの作品は全くないといわれていて見られるのは一二世紀頃のローマ時代のレプリカだけなんだ。人々がギリシャ神話からローマ神話を作り上げたりしていて文化的に尊重しながら彫刻も複製されていた。リュシッポスの弓を持つエロスも残されていたけれども材質は本来は銅だったのが大理石に変えられているといわれる。
Statue of Eros stringing his bow by Jastrow [CC BY 2.5], via Wikimedia Commons
ポーズが絶妙ではないか。何ともいえないような雰囲気が漂っていて弓を持つエロスなんだと題名通りに一先ずは納得するしかないだろう。
かつて人々にエロスはどのように考えられていたのか。ギリシャ神話の世界観が真実として心から信じられていた宗教性を帯びた現実の中で一緒に生きていたとすればそうしたイメージはテーマに取り上げた他の芸術作品に反映しているはずだ。
彫刻にも作者の気持ちが出ていてリュシッポスの弓を持つエロスはとても興味深いし、ギリシャ神話と古代ギリシャの人々の両方からエロスとは何だったかを詳しく知る手がかりになっていると思う。
第一印象として及び腰に見える。それが物凄く愛くるしい。内股で何かを怖がっている。戦慄きが伝わって来ずにいない。今にも弓を落としてしまいそうなか弱さが如何にも奥床しくて胸打たれもするんだ。
僅かに背中を丸めながら蹲るように立って狙いを定めて弓を構えているというポーズだけれども絶妙なのは可憐しさを象徴的に示していると受け取って良いのではないか。
ギリシャ神話のエロスについて
アポロンが弓を打って遊んでいたエロスを嗜めた。どうも茶化すように迫ったらしい。エロスは何を捕まえて見下しているのかと腹を立てなかったともかぎらないけど、勢い付いてアポロンへ金の矢を放つと見事に刺さってしまう。
ところが同時に通りかかったダプネへも又別の鉛の矢が刺さってしまわずにはいなかったとされる。
エロスの放つ金の矢は人を好きになり、そして鉛の矢は人を嫌いになるので、それぞれには真逆の効果が秘められていた、アポロンは目の前のダプネだけを追いかけ出してダプネは付き纏うアポロンこそ誰よりも避けずにいなくなるわけだ。
よもや…

ハンマースホイに知られる心の襞を潜り抜けた静けさ

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どこか別世界にでも不意に迷い込んだかのような不思議な錯覚を与える絵を見たと思う。平凡な家屋の一室に誰かが僅かに息付きながら少しだけ目立って描かれている、または誰もいなくて室内そのものがひっそり寂しげに佇んでいる様子という絵が多いみたいだ。言葉にすれば音沙汰のない世界かも知れない。見ていると日々の静けさがとても印象的で、周りから取り残された景色だと考えると恐ろしさも禁じ得ないにせよ、詩情を醸し出す静謐な味わいに胸打たれてしまうんだ。
A Room in the Artist's Home in Strandgade, Copenhagen, with the Artist's Wife by Vilhelm Hammershøi [Public domain], via Wikimedia Commons
画家の名はハンマースホイという。十九世紀のデンマークの画家で、幼い頃から絵を学んでいて五十一歳で病気で息を引き取るまで親しみながら絵を描き続けていたらしい。終生の画家だったのではないか、文字通りに。
作風が本当に特徴的で、普通ならば雪景色みたいな心を無言のうちに浚われる感触が風景画でもそうなんだけれども取り分け室内に持ち込まれている画面構成なのが唖然と驚かされる。味わいとしてはおよそ廃墟とも過言ではない。温度的には寒過ぎて人間が生活するには及ばなさそうなイメージが漂っていて殺伐と目を背けたくならないとは決してかぎらないだろうけど、ところが最も印象深いのは絵と共に知ってしまう静けさなんだ。耳を傾けると音楽の前触れだったりもするくらい美しいというか、綺麗なイメージから味わいは一変するのも間違いない。空気は清らかにも心地良さを受け取るので、目を向けるのは吝かでないし、まるで時間を忘れて見入っている自分に気付けば逃れられないと密かにも又逆に驚かされている。
ハンマースホイをコペンハーゲンのストランゲーデの妻のいる画家の家の一室から考えると重要なのは心の襞ではないか。
人々に風が颯爽と潜り抜けるように響いて来る言葉がある。だから絵に描かれている対象の全ての扱いは詩人に匹敵する。難しいと思うし、一見して謎だらけの絵なのもきっと言葉こそ見えている趣きのせいだろう。何もかもが存在を語りかけていてしかもそれぞれが一斉に声を上げているために分からない。何が描かれているかを鑑賞し…

精神力を高めるために勉強するべきだ

どうも午後九時に眠って午前五時に起きると最高の気分だった。僕だけかも知れないけど、午前六時前に一日の作家活動を開始できるととても嬉しい。世の中で人々は寝静まっていてもうそろそろ動き出して俄かに部屋の外も騒がしさを増して来る。何かが生まれるというイメージが創作に重なるせいか、気合いがまるでスイッチを押したように入り易いみたいだ。
十分な睡眠時間を考慮すれば前日はおよそ午後十時前に就寝するべきだろう。
冬は早起きしても暗いから寝起きの予定を少し遅らせたいとも考えたけれども世の中の動きに合わせるならば得てしてそうしたわけには行かなかったんだ。人々の通勤通学は一年を通して変わらない時間帯に定められているのではないか。少し早く目覚めて静けさを味わうには寝起きを遅らせても仕様がないといわざるを得ない。
反省まではしない。最高の気分だから最高の作品が仕上がるならば又別にせよ、基本的にはあり得ないだろう。さもなければ病人には名作は生み出せなかった。梶井基次郎の小説が素晴らしいかぎり、終生、肺病に冒されたままの自己表現だった、少なくとも個人的には最高の気分を余り重視し過ぎてはならないと思っている。
因みに肺病というとカフカ(小説家)やショパン(作曲家)も同じだった、作家活動の後期には。死因に当て嵌まるのは梶井基次郎の場合と等しい。
気分が優れなくても名作が生み出されるのはなぜか
やはり精神力だと率直に感じる。運動選手に身体力が求められるのと同じように精神力が作家活動には何よりも前以て想定されるべき要件だろう。
芸術的には感性かも知れないし、学問的には認識かも知れない。何れにしても一つの精神力に支えられながら創作活動は主に行われているわけだ。
すると勉強しかない、作家活動にとって肝心なのは。運動選手がいつも練習を欠かさないような仕方で実際に励んでいるかどうかが厳しく問われずにはいない。
精神力は放っておくと衰える。身に付けた知識でも使わないと減るから思考が途絶える。
実際、ブロクで>スピノザの方法>ドゥルーズの良さと気に入りの哲学を取り上げるのは必ずしも容易ではなかった。入れ込んだのは二十代だったし、それからは思考するのも自作ばかりだったので、著作を殆ど読んでなかったから月日を長らく経ながら固有の様々な概念を思い出すのに苦労したのは事実だった。
脳の働きとして必要のない情報は遠くに仕舞い込ん…

カリオペに祈りを捧げて作家としての幸せを願う

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ギリシャ神話の神々で、文芸の神、または詩神はミューズと呼ばれる。英語のミュージアム(美術館)やミュージック(音楽)の語源になっていたり、欧米では他の言語でも影響が大きいと思う。
しかし何人もいるらしくてヘシオドス神統記から九つに分けられたとされる。
全てのミューズを纏めるというか、最も権威の高い存在としてミューズの長と考えられるのがカリオペで、それ自体では叙事詩を司るという特徴を持っている。
Calliope, Muse of elegy by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
ギリシャ神話が叙事詩なので、物語調で寓喩を示しているし、カリオペが最重要視される真実は如何にも尤もらしく受け留められる。
すなわちカリオペはギリシャ神話を抜本的に意義付ける立場に置かれているとも過言ではなかった。
人々も初めてギリシャ神話を生活上で意識したのではないか、カリオペを知ると共に。カリオペなしに叙事詩はないとすれば生活上でギリシャ神話自体もそのように成り立つとは考え難かったはずだ。ひょっとすると人々にとってギリシャ神話が一つの世界として現実的に客観的に把握されるように外側から自覚されたのはカリオペのお陰だったし、神統記でミューズを九つに克明に紹介してみせたヘシオドスこそ立役者だったわけだ。
神々はギリシャ神話を飛び出して生活を見守る。元々、そうだったかも知れないし、最初から人々の生活を見守る神々のためにギリシャ神話は生まれたとすれば改めて驚く必要はないだろう。
考えると面白いのは確信が芽生えたのではないか。神々への思いからギリシャ神話が作り出されたけれどもカリオペによって叙事詩としてそれ自体が抜本的に意義付けられながら生活上で再発見されるというのは認識が得られたに等しい。ちゃんと分かったみたいな感じが人々の中に出て来たとすると信仰と愛も一層と加速されると推測されてしまう。
カリオペの持ち物は書板と鉄筆とされる。作家においては根性を味わわせる趣きなんだ。何があろうと叙事詩という物書きを止めないような気持ちがあるわけで、ギリシャ神話の作者に準えれば作品の完全性を高めるイメージに繋がりもするけれども文筆への人間離れした情熱は凄く肖りたいと思う、僕は一人の作家として。
死にかけつつも物書きを止めないような気持ちがあればまだ大丈夫ではなかったか。
何…