たいかすに父親の穏やかな記憶 結城永人 - 2017年3月7日 (火) かつて父親が食事に出しながらたいかすといって笑っていた。僕は知らなかったので、語感だけで鯛の滓ではないかとそれならば食えるはずもなさそうながら思い浮かべざるを得なかった。結構、良く目にしていたし、父親も好んで出しているようだったけど、味は決して悪くなかったので、たいかすが本当に鯛の滓で良いのかどうかは悩ましくて不可解だった。 もしも食えるならば安物の鯛を意味するはずだった。日頃から何度も口に運ぶという生活も相当に貧しいと考えられるほどに不憫だった。 父親が笑っていたからしかし全ては覆されもした。子供に予め悪いと分かっている食事を出しながら喜ぶような性格ではなかったのではないか。むしろ本当に良いものだけを食べさせるという気持ちがいつも強かったはずなんだ。鯛の滓が安物の鯛で食事に不味く出しながら笑っている父親ならば本当に冗談にもならないと思ったし、分かり難くて参った。 調べてみるとたいかすは鯛の粕漬けだった だから、全然、イメージが合わなかったと気付いた。食えない鯛とは正反対だったし、滓でも何でもなかった。まさか安物とか不味いなんて状態でもなかったわけで、父親の気持ちも普段と一つも変わらずに受け留められて安心させられもしてしまった。 考えると又別の疑問が生じた。父親はなぜたいかすで笑っていたのか。語感が鯛の滓に重なって鯛の粕漬けという良いものと価値転倒を起こしているのは明らかだ。ただしやはり父親の気持ちもさることながら雰囲気として品格にそぐわないのではないかと余程と心苦しかった。 鯛の粕漬けが鯛の滓では下品だし、少なくとも食事において神へ明らかに感謝を捧げるべき場面だから冗談でもないかぎり、人間として心から笑うとすると卑しさを免れないのではないか。 父親がたいかすと口に出して喜んだのは僕が知らないせいだったと考えるしかないだろう。 もしかして鯛の粕漬けを鯛の滓と勘違いしてしまう、語感だけで。食事に出されては可能なものから不可能なものへ気持ちは真っ逆さまに崖から突き落とされてでも行くかのように思われるにせよ、実際は知らなくても成り立つとおよそ大丈夫な食事のゆえに注意すれば凄まじくも漫画こそ呼び寄せているんだ。 たいかすは言葉遊びだったのは間違いない 振り返ると笑っていた父親は穏やかな生活を示していたし、日々の素晴らしい記憶だったと感じ入るばかりだ。 あり得ない現実が本当にあり得なかったわけなので、父親への理解力が試されもしたし、面白がるのは言葉遊びでなければ考えながら悩みがちに自分で自分がうんざりしなかったともかぎらないという知性の経験を得られた。 自他のどちらかが妥当なのか。言葉遊びを踏まえれば貴方は知らない僕を知っているから僕も知っている世界から貴方を矛盾していると決め付けるのは誤りだろう。 生活の全てに取り入れたいし、人間関係でも何でもあり得ない現実が本当にあり得るかどうかを自分にとっては相手の本音を尊重して把握すると意見の食い違いなどの悲しみは減らせると分かる。 心苦しいほどに危うくて後から誤りに気付いて災いも被り兼ねないので、切り抜けるためには是非とも社会的に思い起こすべき指針が言葉遊びには含まれているし、穏やかな記憶と共に平和を暗示しているというのも正しく有り難い父親のたいかすだった。 コメント 新しい投稿 前の投稿
コメント