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黒船躑躅に気付いた朝鮮半島や中国大陸の美意識

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躑躅には様々な種類があって些細な日常では躑躅山躑躅を取り上げて来たけれども黒船躑躅は他とは雰囲気が少し違う感じがした。
名前から推測すると舶来物ではないかと見ていて韓国のチマチョゴリが思い起こされた。実際には北朝鮮も含めた両国が分断される以前からの共通した民族衣装らしい。
明るい艷やかさを感じるところが黒船躑躅とチマチョゴリは似ている。日本の他の躑躅が光を吸収するように見えるのとは反対に発散していて花の雰囲気は艷やかなのに色味が明るいのが特徴的だと思う。
黒船躑躅は躑躅の女王と呼ばれるらしい。人を引き付ける美しさが際立っているせいではないか。大きめの花を咲かせると共に光を弾くという印象が強くて記憶に残り易い。国を代表する女王の誇らしい華やかさが黒船躑躅にも多くの躑躅の中ではっきり受け取られてしまう。
中国のチャイナドレスも彩りの明るさが重なる。シルエットは細いけれども色使いが単一的だから光を弾くという印象が原色に近いような趣きを増して来る。煌びやかさがドレスだけに装飾的に一層と著しく認められるようだ。

黒船躑躅は調べてみると朝鮮半島や中国大陸から日本に江戸時代に渡来していた。自生している国にはロシアも含まれるらしいけど、しかしチマチョゴリやチャイナドレスにイメージが繋がるからそうした国の美意識を伝えていると考えたくなる。
花の存在が重要だ、気付くと却って。黒船躑躅から韓国、または北朝鮮や中国のファッションを想像するのはまるで旅行するように面白いけれどもそれぞれに風土と結び付いて人々に美意識を齎していたのではないか。身の周りの物事が自己表現にインスピレーションを与えるというと芸術的に当たり前にせよ、民族衣装とか伝統装束なんて仕方で国全体に広まって人々に受け入れられている現実は凄いし、すると国民性を知るのにも役立つ。
黒船躑躅で捉えると朝鮮半島の韓国、または北朝鮮は明るい艶やかさを民族衣装だから普通に、中国大陸の中国は煌びやかさを伝統装束だから特別に尊重しているに違いない。
日本で様々な躑躅と共に黒船躑躅が定着している様子は素晴らしいし、美意識の由来として国民性に置き換えれば国際関係も和平的だから有り難いに等しいので、心に涙が浮かぶくらい惹かれ捲った。

ハンバーガーの素晴らしい腹拵えの大切な日々

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春先に梅の花が咲く山で初夏に他の花が咲いているかと出向いたけど、しかし雑草ばかりで特に何もなかった。

弁当にマクドナルドのハンバーガーを三つ持参した。写真撮影に意気込んだ思いは虚しかったにせよ、外で食事するのは余りに久し過ぎて面白かったし、高台から町を見下ろしながら味わうのは非常に爽快だった。

写真撮影に出かけるとどうもハンバーガーが食べたくなる。体力を多く消耗するせいか。本当に美味しいと思う。動き回るからスタミナが必要なんだ。ハンバーガーは体力が増して手軽に食べられもするし、写真撮影に持って来いの弁当みたいだ。
山で素晴らしい腹拵えとマクドナルドのハンバーガーに感心していると本場のアメリカのプロ野球のハンバーガーリーグが思い起こされた。
第一線のメジャーリーグへ入って華々しく活躍する日を夢見ながら格下の選手たちは貧乏のゆえに安物のハンバーガーばかり食べて頑張るしかないらしい。
僕も気持ちは同じだからハンバーガーリーグは大きな励みになるよ
人生の軌跡を描くことが幸福ならばどんな苦労にも代えられないだろう。努力の証だ、世界が美しいのも人間にとって。失敗を恐れる必要はない。勇気を振り絞って頑張るだけが本当の成功ではないか。満足感こそ重要なんだ。日々を大切にするべきだし、さもなければ良い結果も付いて来ないと夢見るかぎり、地道に成長して着実に精進するのが賢い。

肘から手の小指側が痺れる肘部管症候群では腕を曲げて肘に強い圧迫を加えてはならない

去年の夏頃、風呂に入っていて左手の小指側が痺れるのが嫌だと感じた。神経が不味いとしたら脳が病んでいる可能性がありそうだ。作家・詩人として終わりだし、天職として思考を本格的に続けるのは無理ではないかと大いに懸念されてしまった。
将来への不安から恐ろしくて調べるのも億劫で、放っておくしかなかったけれども痺れの症状は日増しに悪化する一方だったから耐え切れずに調べ出したら肘部管症候群らしいと分かった。
取り敢えず、ほっとした。脳が病んでいるせいではないのではないか。とはいえ、放っておくにも全くかぎらない病気だったんだ。
肘部管症候群は肘を打つけて手が一時的に痺れるのと原理は同じだけれども肘の尺骨神経が腫れ上がっているために痺れがいつまでも収まらない。酷いと指は変形するし、治すには手術が必要で、後遺症を免れない場合もあるみたいだから本当に侮れない。痺れの症状が軽いうちに見付けて直ぐに治してしまうにかぎる。
日常生活で僕はスマホ/タブレットで創作活動に勤しんでいるけれども左肘を下に付くのが不味かったようだ。いつも疲れてぐだぐだなので、頭を支えられなくてどうしても左肘を立てて左手に乗せてしまいたがる。毎日、長時間、左肘に強い圧迫が加わって肘部管症候群を発症したのではないか。止めなくては仕様がないと悟った。
左肘を下に付かないようにしていると数ヵ月で治った。気付いたのは去年の夏頃だったけど、とにかく左肘を真っ直ぐに保つかぎりは左手の小指側の痺れが少しずつでも収まって来たから助かったよ。
日頃から姿勢も矯正すれば健康的だから頬杖を突き捲るような作家活動は控えるべきだし、酷い疲れのせいならば元気を維持するのが他の病気も予防できるから特効薬そのものだろう。
世の中には職業病で避けられない人もいるらしい。肘を強く圧迫しないようにしなくてはならないけれども建築や工場やスポーツで肘を酷使するような仕事だとかかり易い。変形肘関節症から来るといわれる。手の痺れが増すほどに握力が下がって日常生活にも支障が現れるので、肘部管症候群は見付けたらやはり直ぐに治すしかないだろう。
僕もペットボトルの蓋を開けられないかも知れないと焦ったし、延いてはスマホ/タブレットの文字入力が無理なくらい悪化し兼ねないと肝を冷やしたけど、治ったので、再発させないために疲れがどんなに酷くても腕を曲げて肘に強い圧迫を加えないように注意するばか…

鼻が臭くて頭も微かに痛いドライノーズでは全身に水分を補給しなくてはならない

ブログの記事の作成に気乗りしなくて何なんだと思っていた。宇宙人/地球外生命を取り上げた頃だった。物理学や数学の情報を調べていて不馴れだし、普段よりも疲れても仕様がないのかと訝りながら不調を余儀なくされていた。少し経って鼻が臭くなって来て追い打ちをかけられるように気分も落ち込んだ。頭も微かに痛いからブログの記事の作成はなるべく慣れたテーマが楽で良いと撮影にも出かけた自作の写真などを取り上げ出した。
原因不明の鼻臭さが止まらなくて頭も微かに痛いと参っていたけれども数日後に気付いたのが鼻の乾きだった。
調べてみるとドライノーズという病気がある。ドライアイは酷かったり、昔から良く知っていて他にもドライマウスを知っていた。鼻詰まりで口呼吸が多かったりすると口が乾いて粘膜が機能しないから雑菌に弱くなるみたいだ。嚔百連発の寒暖差アレルギーが酷くて調べながら覚えざるを得なかった。今年はすっかり大丈夫なので、逆に怖がりもしていたけれども案の定というか、ドライノーズに結び付いて来てしまった。乾いた鼻のせいで、鼻水が出難かったのではないか。本当に少ないから焦らされたんだ。まさか鼻まで乾いてドライアイやドライマウスと同じような病気があると知って三回目で驚いたにせよ、どうしようもない状態だから何とかしなくてはならない。
最初、蓄膿症/副鼻腔炎だと思った。鼻が臭いのは先ずは鼻の中に膿が溜まっているのではないか。しかし鼻水が全くといってくらい出て来ないし、乾いているのも完全に近いからドライノーズだと思い直した。蓄膿症/副鼻腔炎と比べれば対処し易いかも知れないので、ちょっと嬉しかった。心なしか笑みが溢れたというのが本音だろう。辛いのは間違いないし、例えばロバートの秋山の面白さには及ばない。不調ながら頑張ってブログに載せたけれども実情とは必ずしも相容れないまま、健康を回復する祈願が込められてもいた。
ドライノーズの症状としては鼻の違和感が主で、鼻が乾いて粘膜が機能しないから鼻血も出るらしい。鼻臭さは少ないけれども出血から瘡蓋が生じると雑菌の影響で引き起こされるかも知れない。鼻は口と繋がった鼻腔だけではなくて額や目の周りに副鼻腔が広がっているから加えて頭痛も全く考えられないわけではないんだ。
ドライノーズの原因は全身に水分が足りてないせいみたいだ。まさか思い当たる、日々の暮らしに。
飲み物は午前中の珈琲と夕食後…

森の鈴蘭の集落には幸運とカメラの基本

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想定では花が咲くのは来週以降だけれども待ち切れなくて森の鈴蘭の集落を又直ぐに見に行ってしまった。
葉っぱはどんどん広がっているし、蕾の数も相当に増えている。数日前とは本当に見違えるし、花が咲くのは間近だと勢いの良さを感じさせる。

どのくらいの速度で成長するのかが分からないし、知らないので、しっかり覚えておきたいという気持ちも大きい。好きな花の鈴蘭だから少しでも見逃せないわけだけれども身近な森で集落が見付かったのは奇跡だと改めて神に感謝せざるを得ない。初めて喜んだ去年はもう既に枯れかけていたし、折角の機会ならば一年越しの巡り合わせだ。長々と待ちながら実際に戻って来られたのはやはりまさかの幸運だろう。鈴蘭の集落が素晴らしいだけではなくて自殺したいままの状態が酷くても良く生き延びている。真っ先に癒される森がある。人間にとって好きな気持ちこそ不遇に強いのではないか。希望を持てば絶望に打ち勝つのは容易いのが道理だろう。真っ盛りで数多く咲き捲っている鈴蘭の様子が新しく目に浮かぶほどに楽しみでならない。

鈴蘭は一房の下の蕾から咲いて行く。茎が伸びて行った上の蕾は出るのが遅いから後から咲くんだ。蕾と花が上と下ではっきり分かれていると如何にも神秘的な印象を与える。成長の流れが時間を止めたように伝わって来るよ。
幾つか花が見付かって必死に写真に収めたものの殆どが失敗だった。大きさは手の小指の先くらいしかないから輪郭を取るだけでやはり精一杯だろう。ピントが外れるのは辛い。
しかし一眼レフのカメラでレンズを開放絞りにしてシャッタースピードが1/1000s前後ならば良い感じかも知れない。最大限に光を取り込むと共に手振れを減らして撮影すると成功を増やすというとカメラの基本だろう。被写体が難しいほどに疎かにしてはならない。
鈴蘭から学ぶし、初心に帰るけれども写真撮影は描き込みに向いた方法を少しでも多く取り入れるようにすると有利だ。

鈴蘭の蕾に待ち遠しい初夏へのカメラ考察

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森へ行くと鈴蘭が蕾を覗かせていた。四日前の写真撮影で立ち寄ったら茎だけだったから早いと驚いた。もう直ぐに満開だろう。初夏の息吹きを感じる。鈴蘭の花が待ち遠しくも写真に収めるならば来週一杯こそ最高に違いない。再来週以降も暫くは枯れないにせよ、雨風で汚れたり、蜘蛛の巣が張ったりするので、真っ白なままを端的には狙い難そうではないか。
しかしやはり本当に厳しいのはピント合わせだ、カメラにおいて。鈴蘭の蕾を撮りながら一年振りに思い知らされる現実だった。天気は快晴で、シャッタースピードも四桁の1/1000sだから手振れの心配はなかったのに仕上がりに気乗りしないのは描き込みなんだ。似た花のスノーフレイクは四日前の写真撮影でもまずまずだったけれども鈴蘭は小さい分だけ写りが悪くなってしまう。白一色の花でコントラストも低いかぎり、カメラはフルサイズのセンサーでなければ描き込みが不足せざるを得ないようだ。
α5100では完全にお手上げだと感じるよ。高解像レンズのマクロプラナー、Touit 2.8/50Mを着けているにも拘わらず、撮影した写真がいつもイメージ通りに仕上がってくれない。数多く試しながら構図を選び出す以前に納得できないというか、どうにもかっちり写らないので、最初から無駄な努力を積み重ねないためには考え方こそ変えるべきなんだろう。
鈴蘭の花や蕾の写真撮影は輪郭だけ大きく崩れなければ上出来という仕方で取り組むしかない
愛用のカメラとレンズのα5100とTouit 2.8/50Mで、一等に好きな花の鈴蘭が弱点の少ない光の状況を克服しても望んだ写真を表現できない気持ちは悔しいにせよ、他の仕方が全くないわけではないからよもや落ち込み過ぎても頂けない人生だとはいっておきたい。
鈴蘭にはピントが合わせ辛くて狙う位置が狭いけれども、その代わり、周りのぼけは物凄く利いて来るという写真撮影が可能なんだ。
作例はちょっと寄っただけでも幻想的な雰囲気が余程と大きく広がっているのが驚かされる。ぼけで被写体を包み込むようなスタイルが大事ではないか。すると輪郭が幾らか緩んでも気にならない写真が得られそうだ。鈴蘭でなくても写真撮影でいつも考えて損はないし、仕上がりにおいて味わい深さに繋がって来る。重視して然るべきなのはまさか間違いない、写真家として。
鈴蘭は普通に表現するのは大変な被写体だけれどもカメラで周りのぼけを活か…

真っ朱な山躑躅を写真に収められただけでも胸一杯の思いがするのは情熱の光のせいだ

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山躑躅が晩春の山を朱く染め上げていて衝撃的だった。驚くのは自分自身で、昔は気にも留めなかった。
山といえば衝撃的なのは真夏だけれども虫だったし、甲虫鍬形虫を取る以外に好奇心はなかったはずだ。植物も出会いたい虫がやって来易いの木こそ素晴らしいみたいな感じで、他には見向きもしなかった。
年のせいではない、変わったのは。詩だ。というか、かつて作詩の公園を運営しながら詩人を明らかに自認してから命を公平に捉えなくてはならないと考え出したんだ。
元々、なぜ動物よりも植物には引き付けられないのかを訝っていたけど、引き付けられるべきだし、ちゃんと自分らしく生きるならば好きに向き合うのが正しかったわけだ。
石を喜ぶのも同じ気持ちだ、命として根源的には。動物や植物を有機物とすれば無機物も生きているのが宇宙の真髄ではないか。まさか引き付けられない理由もなかったらしい。

山躑躅が一斉に咲いていると山が燃え盛るみたいに生きている万物の命の輝きを感じる。象徴的に味わわせるのは山のせいだ。気付くまで知らなかった全てがそこにあるような歴史の詩に他ならない。世界にとって山は真実そのものだから咲き出した山躑躅は情熱なんだ。求めずにまさか手に入らない。山は知らなければ気付かなかった全てを偉大に包み込んでいる。すると命の輝きは情熱の光だし、真実そのものを手に入れてこそ生きている万物も満足するわけだ。些細な日常ならば造作ないにせよ、本当に尊い。
花言葉を調べると「燃える思い」や「努力」や「訓練」と本当に相応しいかぎりだろう。他にも「曖昧」や「どっち付かず」と、丸っきり、正反対のイメージがあって驚くけれども人間ならば自分に厳しくて他人に甘いみたいな感じから二つに分かれているのかも知れない。
山躑躅は日本では全国的に見られるらしい。春の野山を素晴らしく彩る花だ。俳句でも春の季語になっている。四月から六月にかけて開花するんだ。実が生るのは八月から十月にかけての間みたいだから秋に多い。
植物としては葉っぱが特徴的で、春葉と夏葉を備えている。前者は秋に、後者は一部が越冬して春に次のものへ完全に生え替わるために、一年中、葉っぱは落ち切らずにどちらかが残っているらしい。なので半落葉樹/半常緑樹という性質を持っている。

僕は胸一杯の思いがするよ、真っ朱な山躑躅を写真に収められただけでも。
かつて山へ分け入って甲虫や鍬形虫を見付けたのと気…

ピンクと白の芝桜で希望を引き寄せる自己啓発

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芝桜が可愛い。地面にびっしり生えて咲き出すと踏み潰して歩くのも忍びない思いに駆られる。しかし何気なく歩いている道も普段から同じではなかったか。有り難みを受け取るほどに芝桜に喜びが膨らむんだ。人生は尊いし、道なしには生活も苦しかったはずだから感謝するには越さない、神へ。
するとピンクと白は気持ちに正しく当て嵌まる。芝桜は忍びない思いと人生の尊さのためにピンクと白が似合っているのではないか。自然に受け取るかぎりの神のメッセージだと感じてしまう。ピンクと白の芝桜は本当に美しいし、イメージは晩春から初夏への移り行く季節の詩そのものだ。
素晴らしかった春に別れを告げながら新しく素晴らしいはずの夏との出会いへ明るく期待して行くわけなので、それぞれが通じ合う真実の喜ぶべき繋がりに気付けば芝桜は象徴的に輝かしい花だった。
芝桜いとも容易く澄んだ風
人生で道に迷うとは風向きが読めないに等しい。もしも吹いているならば風に乗ってこそ成功へ近付くだろう。追い風を掴むのは大変だ。頑張っても頑張っても死ぬしかないのではないか。災いに包み込まれて不幸なかぎり、人間が笑うのは奇跡だから全ては自然に委ねるしかない。結局、神頼みで道が開かれるのを待つように努力するのが最善策なんだ。
どんなに虚しくても日々が徒労そのものでも現世で夢を叶えるためには少しでもやり残すわけには行かないはずだ。
芝桜は吉兆を予感させるから心強い。好調ならば造作ないのも人生だ。覚えておくと有利だ。何事もイメージが醜くてはうんざりさせられるし、やる気も萎えるばかりだから生きた心地もしなくなる。夏が春にも況して気持ち良く訪れるように辿り着く未来を望んでこそ力も出し切れるに違いない。笑うしかないし、本当に面白いよ。
自己啓発に等しい。人生のイメージを美しく高めては目標を実現する世界だけが逸早く必要だ。落ち込んでいる暇はない。夢は叶うんだ。辛くても苦しくても諦めている場合でもないし、どうせ死ぬならば地獄で恥じないように情熱を燃やし尽くせ。
奇跡を求めて前進するのが人間なんだ。失敗だらけの毎日でも足元を掬われるべきではない。当たり前の悲しみならばもはや驚きもしないだろう。芝桜の忍びない思いから人生は尊いと知るかぎり、後押しされるようにもはや自分らしさから前進あるのみだった。
目標の実現を神へ祈りながら一生懸命に努力すれば良い。叶わない夢が納得された生活で…

Google2段階認証プロセスのアカウントのセキュリティーを高めるための確認手順と注意点

Googleアカウントのセキュリティーを高めるためにGoogle2段階認証プロセスを使用している。
初めは名前だけ聞いて意味が良く分からなかったし、アカウントのセキュリティーを高められてもログインに手間が増えて面倒臭いに過ぎないと避けていた。
しかしサイト広告をGoogleアドセンスで取り入れているし、アカウントが同じなので、誰かに乗っ取られると生活費を稼ぐという全ての苦労が水の泡と消え失せてしまう。金銭が絡むと危険性が高まるのも間違いない世の中のかぎり、Google2段階認証プロセスは有り難いわけだから是非とも活用するべきではないかと気付き出した。
実際に登録しながらはっきり分かったのはアカウントの遠隔操作に強い。誰かにパスワードを悪用されても大丈夫なのがGoogle2段階認証プロセスだった。つまりパスワードだけではアカウントにログインできないからインターネットでのセキュリティーは万全とも過言ではないわけだ。
テキスト メッセージ、音声通話、モバイルアプリを介してお使いの携帯電話にコードが送信されます。セキュリティ キーをお持ちの場合は、パソコンの USB ポートにセキュリティ キーを挿入することもできます。
Google 2 段階認証プロセス via Google
パスワードに加えて確認コードも必要とされる。メインのデバイスへSMS等で発行されてアカウントにログインする際に入力しなくてはならないんだ。毎回、確認コードは変わるから固定したパスワードのように前以て盗まれる可能性は著しく低い。
両方とも一辺にまさか解読されないとはかぎらないし、誰かに侵入される恐れが全くないわけではないにせよ、アカウントのセキュリティーが非常に高いのは間違いない。パスワードだけでもそもそも大丈夫なはずだったならば鬼に金棒ではないか。面倒臭いのも当然ながら敢えて取り入れる重要性というと頷かれるし、不安の忍び寄る影が薄まるばかりの日々こそ気持ち良い。
Google2段階認証プロセスは案外と便利だ
確認コードがメインのデバイスへSMS等で送られるけれどもサイトやアプリでアカウントにログインするとログアウトしなければ必要とされないので、パスワードも入力しないまま、手間は全くかからずに済んでしまうから何もしてないのと同じだろう。
デバイス毎に確認コードが発行されてそのようにデバイス毎にアカウントへのログインが許可…

ロバートの秋山は最終的にはそこにいるだけでお笑いとして面白いわけだったんだ

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ロバート秋山というと小煩い母親のコントを良く覚えていた。面白いと思ったけれども又新しく気付いた。のんある気分のテレビCMでドラマ仕立ての真面目な役作りにくすくす笑ってしまって如何にも珍しかった。個性的だと考えると人々の隙を付くように笑わせるスタイルがロバートの秋山のお笑いとしての持ち味だったんだ。
ロバート秋山、広末涼子の専属マネージャーに サントリーノンアルコール飲料『のんある気分』新CM「楽屋編」「オリエン編」 via oricon
ロバートの秋山が広末涼子の専属マネージャーという設定なんだ。広末涼子がのんある気分のイメージ・キャラクターで、ロバートの秋山が専属マネージャーとしてちゃんとできるかどうかを取り仕切っている。
小煩い母親と結局は同じだけど、改めて注目される人間味としては相手と自分の立場が逆転している。母と子の関係ならば子が成長して母を追い越した後ではないか。手掛けるタレントが成人ならばマネージャーが口出しするのは根本的には控えなくてはならないみたいだ。
ロバートの秋山に驚くのは気持ちがデフォルメされてない。言動が普通なのに面白いのが不思議だ。滑稽だから気付けば直ぐに笑える現実があるとすると些細な日常を掴んでいるせいだ。くすくすが凄い。日々の狙いが分かると良いんだ。広末涼子の専属マネージャーでは真面目が生きている。たとえ口出ししても打つかる以前にそうした思いから理解できるようにロバートの秋山は仕向けているわけだ。
素顔のままの笑いと呼ぶしかなくて日常生活に見付け出して実行するのは計算高い。
悲しみを紛らせるために現時点では不可能な明るさから物事を捉えている。たとえ虚構でも不可能な明るさを引き受けているうちに気持ちが晴れて来るという人生の朗らかさがロバートの秋山は好きだし、お笑いにおいて追求しているならば人柄は厚いだろう。世の中で救いに期待する気持ちが著しく大きい。存在そのものが皆に励ましを自然に分け与えるように考えられるとすると性格も根っからの楽天家ではないか。
ロバートの秋山は最終的にはそこにいるだけでお笑いとして面白いわけだったんだ。
生活上、小煩いまでに口出しされるならば鬱陶しいにせよ、気持ちに罪はないと教えてくれる。愛するかぎりの思いに触れるとよもや悪も締め出されるようだ。人間関係で大事なのは真っ先に理解力ではないか。
意見が打つかるほどに息苦しいのは他でも…

α5100とTouit 2.8/50Mで晩春の花々の写真撮影

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久し振りに写真の撮り歩きに公園へ出かけた。カメラとレンズはα5100Touit 2.8/50Mだ。レンズは手振れ補正が付いてなくて辛いし、大分、写真を撮ったからもうそろそろというか、偶には交換しても良さそうだけれども止められない。何しろ、仕上がりの透明感が清々しくて気に入っている。
昨年、鈴蘭を見付けた穴場を目指した。ピントが合わなくて非常に苦しんだし、枯れかけてもいたので、もう一度、早めに行ってそして頑張ってみたかった。大好きな花なので、悔いは少しも残したくない。
しかし鈴蘭は一つも咲いてなかった。周りに生えていたはずの雑草もなくなっていて市役所で刈り取られたかも知れないので、本当にショックを受けずにはいなかった。地面を詳しく調べてみると細長い茎が幾つも伸びていたから五月に入れば大丈夫かも知れないとも感じた。
今春は寒い日が続いていたし、咲くのが遅れているだけならば鈴蘭を写真に収めるチャンスはありそうだ。暫くしたら又来てみたい。

面白いのは鈴蘭と良く似ている花で、スノーフレークこそ真っ盛りを迎えていた。
写真に収めるのは構図が難しい。向きが上手く行かないし、数多く咲いているからバランスが取れない感じがする。鈴蘭と同じで、何枚も何枚も撮ってやっと一枚だけ気に入った写真が手に入るみたいな花だろう。
天気は快晴で、シャッタースピードは四桁の1/1000sを楽に越えるから手振れの心配はなかった。本当に有り難いし、室内よりもまさか写真撮影の喜びが格段に増して来る。α5100とTouit 2.8/50Mも本領を発揮するよ。

晩春だけれども水仙もまだまだ残っていた。街中で良く見かけるので、しょっちゅう写真を撮っているけれども真っ白の水仙は初めてだった。まるでケーキのクリームのような風合いが可愛らしい。明るさが十分だし、白一色でカメラもレンズも描き込みが厳しいはずだったけれども光の陰影に満足している。

地元の幼稚園で植えたみたいで、チューリップも良く咲いていた。花柄の大きな品種だと思う。丸々と膨らんでいるからコップにしてジュースを注いで飲みたくなるし、見ながら児童期を振り返った。人生に夢が満ち溢れていた記憶が幸いだった。年を取っても希望を絶やすべきではない。
チューリップの手前の一輪にピントが合っているけれども花弁の冷たさが出せたのはTouit 2.8/50Mならではの個性ではないか。日差しが…

ブログの記事のアクセスはタイトルの付け方によって差が付いてしまう

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ブログの検索エンジンからのアクセスを調べていたら記事毎にタイトルの付け方によって差が付いてしまうと気付いた。
人を呼べるかどうか。記事のタイトルをこれは何だとあからさまに示すよりも何かはこういうわけなんだと、少々、回りくどいけれども詳しく付けておくと良いみたいだ。
検索エンジンの利用者にとって検索結果のサイトはどこの誰がやっているかも概して分からないはずだし、余程の人気サイトで知名度が高くないかぎりはサイト自体を何も知らなくて訪問するのに不安があるのは間違いないだろう。
だから検索結果で最も目立つ記事のタイトルに親切心が受け取れるかどうかが重要なのではないか。検索エンジンのサイト評価でも分かり易ければ有利かも知れないし、アクセスアップのためには見逃せないと感じている。
一言では気持ちを出すべきだ。記事の必要性が問われている。他人任せにしない。ブロガーが必要性を持って記事を仕上げているとタイトルで分かると検索エンジンで探している皆が自分の必要性という気持ちから引き寄せられるように繋がって来易いと予想される。
記事のタイトルは中身を伝えるだけではなくてどんなふうに捉えられているかまで明かしてもおきたい。
例題として本稿に「ブログの記事はタイトルの付け方によってアクセスに差が付く」とタイトルを付けるならばちょっと物足りない。
客観的で気持ちが薄い。検索エンジンの利用者は「あぁ、そう」と検索結果の些細な日常へは見向きもしないみたいな恐怖感に苛まれてしまう。人を呼ぶには差し詰め熱気が欠かせないのではないか。
すると「ブログの記事のアクセスはタイトルの付け方によって差が付いてしまう」こそ相応しいと感じる。
なぜ、どうして、本当なのか。却って人々の興味や関心を唆る。気持ちが分かる、必要性で繋がると想像が膨らむせいだ。覚え易くもなれば有り難いし、言葉遣いの精神的な脈絡が記憶力を刺激する、訪問者は良い印象を抱くほどにブログそのものへブロガーのために何度でも帰って来るかも知れないだろう。

宇宙の真髄から宇宙人/地球外生命を理解しながら見付け出そう

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アメリカのNASAが土星の衛星のエンケラドスに地球外生命の可能性を発表した。土星探査機のカッシーニが液体の水と代謝のエネルギー源となる炭素、水素、窒素、酸素、燐、硫黄を主に発見したせいだった。
地球外生命が存在する条件がエンケラドスでは非常に整えられていてもはや十分に生み出され得るとはっきり考えられ出したわけだ。
Ocean Worlds Slideshow by Courtesy NASA/JPL-Caltech/Kim Orr via NASA Jet Propulsion Laboratory
宇宙には水を持つ星が幾つかあるけれども海の状態が活動的ならば地球外生命の可能性が高くてエンケラドスの他にも木星の衛星のエウロパが同じらしい。
どうも気になるのは宇宙人ではないか。地球外生命が実現されるかぎり、当然、地球人と似たような存在も生まれるはずだし、さらに知能の上回る生物でさえもいるように想像されずにいないんだ。
宇宙人について調べるとフェルミのパラドックスが面白かった。科学者のフェルミが提起したパラドックス(逆説)で、かつて宇宙人はどこにいるのか。私たちに知る兆しがないのは本当に奇妙だと疑問を発したと伝えられる。
フェルミ自身は宇宙には数多くの星が長年にわたって存続していて地球外生命は出現してさらに何年も経っているくらいだから対外的に交信する可能性が非常に高いと想定していたらしい。しかしながら実際には地球上の人間にとって一度も確認されてないゆえに実際にはパラドックスとしてしか捉えられなかった。
Enrico Fermi at the blackboard by ENERGY.GOV [Public domain], via Wikimedia Commons
土星の衛星のエンケラドスに地球外生命が発見される可能性が殊更と現実味を帯びているし、フェルミのパラドックスをヒントに僕もなぜなのかと好奇心から注目してしまう。
理解されない宇宙人/地球外生命は見付からない
考えてみると人間へ向かい出す宇宙人ならば能力が優れているのは間違いない。能力が劣っていたら宇宙へはどんな生命でも自分たちの星から一歩も抜け出せないわけなので、かりに人間が宇宙船で飛び回っている現状ならば先読みされて見付からないようにすることは宇宙人にとって容易いのではないか。宇宙人は人間よりも優れた能力の分だけ逃げ隠れして…

MOTOROLAのMoto G5 Plusを使い出してのスマホレビュー

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道沿い(緑) © 天使のモノクローム
店頭で実物を確認しないで、インターネットでBIGLOBEに注文してしまったから少し焦った。二日で届いて、随分、早いと感心しながら開梱して手に取った感触はとにかく素晴らしかった。
全体的に小気味良い丸みが施されていて非常に持ち易い。以前、スマホの工場で働いていたことがあるから何種類も記憶に残っているけれどもMoto G5 Plusの感触は断トツだ。大きさと重さのバランスが巧みに取られているとしかいいようがない。5.2インチの画面だから大きくて手に合わないのがちょっと辛いくらいで、デザインを優先すれば5インチの画面のMoto G5こそ小さめで良いはずだと予想していた通りだったし、完全に納得してしまった。
背面のカメラの縁取りが大きくてそのままでは邪魔かも知れない。カバーを着ければ気にならなさそうだけど、しかし僕はやってないので、カメラを傷付けないために保護シートだけ貼った。出っ張りが机などに打つかるとやはり危ないと思う。写真に全く影響しないわけではないからなるべく避けたいにせよ、仕様がない。カメラの縁取りがしっかりしているのは撮影に適しているはずだし、性能を少しでも保たせるのではないか、良い写真が得られるとは期待している。
驚くのは背面の中央に浮き彫られたロゴだ。Moto G5 Plusを下から持つと人差し指が軽くかかったりする。ストッパーではないか。なので安心感を受け取る。カバーを着けないかぎり、持っていてスマホを地面に落とさないと心理的に仕向けられるのは有り難い。
スマホは三台目だけれどもブランドが初めてのMOTOROLAだし、Moto G5 Plusの初期設定に相当に手間取ってしまった。
マイクロSDカードの挿入が厳しかった。SIMカードも同じだけど、先ずは蓋を開けるのが一苦労だった。専用の棒が付いていて穴を押さなくてはならないとは知らなかった。スマホの上部側面で、やっても直ぐには無理だった。強力に押すべきか、よもや壊してしまいそうだから本当に参った。説明書を読んでも押すとしか載ってないから少しずつ少しずつやって開いてくれと祈るばかりだった。するとパカッとトレイが飛び出して来た。喜びながらなぜなのかと咄嗟に確かめるとトレイの留め具を専用の棒で押して外すような構造になっていた。たとえ強力でも簡単には壊れなかったみたいだ。トレイの留め具の先…

舌を出したアインシュタインの気持ちとは

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Albert Einstein by Arthur Sasse via The Guardian
カメラマンに「笑って下さい」といわれて咄嗟に舌を出したアインシュタインとは何者か、どんな気持ちからはぐらかしたのかをちょっと考えてみたくならせる。
普通ならばお茶らけているはずだ。気に入った写真は誰にも撮らせたくない。あかんべー。子供たちにお馴染みのユーモアからすると如何にも無邪気な表情らしい。まさか老人でも変わらないなんて人間として素敵なかぎりだ。天使よ。
しかしアインシュタインは二十世紀で最大の科学者の一人と呼ばれる。IQ(知能指数)も200近いといわれていて常人の二倍くらい頭の回転が早かったみたいだ。
本当にお茶らけで済ませて良いのか。謎めきに触れるや否や殊更と意味深な世界に引き摺り込まれるのを感じる。良く見れば目付きが心なしか物悲しい。老いのせいとばかりはいえなさそうで、皺が増えて肌が弛んだにはかぎらず、性格が出ているようではないか。
アインシュタインはいつも穏やかに暮らしていたといわれる。だから舌を出してお茶らけるのは意外だったんだ。他の写真では澄まし顔が殆どだろう。
すれば閃いた。物理学の様々な理論を作り出したように思考の切欠としてのインスピレーションが弾けた瞬間が舌を出したアインシュタインの写真にははっきり見て取れなくはなかった。あっと驚く。天使よ。人生の束の間の喜びが漏れ出していた。精神からよもや写真に一つの表情として収められてしまうなんて本当に珍しいばかりの境地だろう。研究室か、アインシュタインのそばにいれば容易く見られたかどうかは何れにせよ、人間が閃いた場面の気持ちこそ象徴的に伝えられたならばやはり知っておきたくなりもするわけだ。
僕は自分まで賢くなるようだ。面白いとしかいえない。アインシュタインのインスピレーションが精神へやって来る。舌を出した顔付きの思考の切欠が物理学の理論ではないけれどもアイデアを個人的に齎してくれそうだ。
インスピレーションは飛び火する
アイデアもおよそ人から人へ刺激的に連鎖するに違いない。僕が経験したのは本当に確かだ、舌を出したアインシュタインの写真から。人生を愉快に盛り上げて行くほどの精神、すなわち気持ちの高まりを得たという。
胸打たれた衝撃に見上げた空こそ素晴らしく青く、詩的に受け留めては感動に涙を誘れながら一人だけだとは物悲しさも募って…

BIGLOBEの格安SIMでMoto G5 Plusにスマホも買い換え

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スマホのタッチパネルが不調だったけれどももはや画面の大半が反応しなくなってしまった。どうしようもない。最短でも四年くらい持たせるつもりで勢い込んで購入したにせよ、予定を変更せざるを得ない。
古いスマホが一年しか使わずにあるからメインに切り替えるか、または新しいスマホに買い換えるかと悩むけれども前者は今ではもう不便に感じるし、出費は嵩むものの通信契約も踏まえると後者が望ましいようだ。

ブログにも載せず、黙っていたけれども格安SIMはBIGLOBEが、一番、良かった。手持ちのスマホがauだからmineoにしていて次回からは通信契約をBIGLOBEに変えようと考えていた。
安い。調べると通話付きの6GBで二千円ちょっとだからmineoの通話付きとデータのみの3GBの二回線よりも三百円くらい下がる。一年で四千円近く助かる。
丁度、春先の入学や入社のシーズンのせいか、キャンペーンをやっていた。新しくスマホを買い換える人が多そうだけど、新規の通話付きの3GB以上と同時購入で一万円のキャッシュバックが貰える。しかも機種によって三千円のクーポンも出している。タイミングはぴったりなんだ。
因みにプレゼントもやっていてTwitterのフォローとリツイートからスマホが当たるかも知れないので、応募しておいた。
新しいスマホは何にするかが非常に重要だけれどもXperiaは止めざるを得ない。Sonyが好きで、ガラケーに参入してからずっと使ってスマホもXperiaだけしか頭になかったにせよ、今回、踏み潰しかけて駄目になったから僕のせいとはいえ、製品の耐久性に疑問が膨らんでしまった。
スマホは精密機器で、製品の耐久性がどうしても難しければいつか壊れてしまっても悲しみが少ないように最初からなるべく安いのを買っておかないと不味いのではないか。
Xperiaは高い。今までの半額の二三万で抑えたいと思う。予定外の出費なので、それでも辛い。しかし長く使えるように総合的に気に入る機種はどうしても二万円以下では厳しい感じがしてしまうんだ。
BIGLOBEのクーポン付きのスマホのラインナップでMOTOROLAMoto G5 Plus(ルナグレー)が高めで、三万円を越えるけれども性能とデザインで最も引き付けられた。
電池持ちが長い5.2インチの画面が使い易い処理速度に優れるマイクロSDカード使用可1.7F/12MPのカメラが良い纏…

新井将敬の存在理由を喪失した正義感のための自殺

さっぱり分からないというか、かつて知って不可解だったのが国会議員で、テレビの討論番組で良く見かけていた新井将敬が、突然、他界された事実だった。
証券会社の借名口座から多額の金銭を代議士として不正に受け取っていたのではないかと警察から捜査されていてもはや逮捕される寸前まで来ていたので、闇の黒幕に口封じされたみたいに他殺という雰囲気が濃厚だったものの実際にはホテルの一室で首吊りの自殺を図ったと報道されていたし、取り立てて事件性はないとさらに追求されもしなかったらしい。
普通、汚職で自らの命を絶つ公務員は珍しい。日本の武士道からすれば国民への責任を痛感する余り、生き恥を晒すわけには行かなかったかも知れないし、自殺するのが当たり前の考え方を受け取るけれども民主主義においては必ずしも公務員に全ての責任を負わせるのは躊躇われざるを得ない。社会が病んでいるかぎりは事実を解明しながら同じ過ちを繰り返さないように努めるのが本筋ではないか。張本人が直ぐ様と自殺して人々の知りたい気持ちを現世に置き去りにするままではむしろ無責任として咎められ兼ねないだろう。
新井将敬が民主主義の政治家にとって必要な考え方を全く理解できなかったとは感じないし、特に相応しい人柄は思い付かないにせよ、僕も忙しくて個人的に細かく追いかけている暇はない、所謂、説明責任を果たさない気持ちで公職に就けるような世の中では古くて古くて現実にはあり得ないのではないか。
だからきっと汚職というか、そうした疑惑から逮捕されると目に見えている状況の中で自殺するならば苦汁の決断が受け取られてしまった。
死の前日、新井将敬は「最後の言葉だけは聞いて下さい。私は潔白です」といっていたらしい。
気持ちは証券会社での取り引きについて自分が持ちかけたわけではなかったけど、それが事件を捜査する警察においては反対の展開になっていた。新井将敬が意図的に汚職を目論んでいるという嫌疑が強まっていて逮捕されれば代議士として酷いだけではなくて地位も名誉も失ってしまうはずだった。どっちもどっちではないか。誰かに唆されるのがまだ益しと納得するのも訝しいけど、新井将敬の口振りでは自分から汚職に手を伸ばしたと人々に受け取られるのが物凄く耐え難かったんだ。
警察は取り調べで証券会社と新井将敬に尋問しながら事件性が前者よりも後者に大きいと判断したわけだけど、すると全ては騙されたと…

雪見だいふくのメッセージは本当に平和だ

アイスの雪見だいふくの蓋を剥がしたらその裏側にメッセージが記されていて心を惹かれた。
雪見だいふくを食べてくださりありがとうございます。
皆さまは少し距離を感じる人っていますか? 雪見だいふくは2個入りです。
もし少し距離を感じる人がいたら、勇気を出して1個分けてあげてみてください。
誰かに優しくできたとき、なんだか心があたたかくなっていませんか?
皆さまの心がいつもポカポカでありますように。
雪見うさぎの皆さまへ
とても良いと思う。メッセージの文面は手紙だけれども詩的なエッセイと呼ぶに相応しい。分かり易くて雪見だいふくを食べてないのに経験が伝わって来るようだ。面白いし、芸術的ではないか。まだ知らない人には発見があるし、もう知っている人には共感がある、雪見だいふくへの。素晴らしい言葉遣いだと称える。
微笑ましいのはアイスが「ポカポカ」なんだ。冷たいはずの世界が温かいという。心が浮き彫りにされて現実味を増している。すると「距離」とは何か、「優しく」とは何か、問いかけは二つにかぎらず、総じて心からイメージを新しく捉え直させる。
終局、生活も幸せになる。メッセージを通じて雪見だいふくの思いに触れるせいだから言葉遣いが分かり易いかどうかは本当に大事だと学ばされる。思いの触れ合わない心が寂しいわけなので。言葉遣いが分かり易いほどにそうした人々の繋がり、内面的にいうと僕と君の絆が増して行って生活に幸せが訪れる。
驚く間もない速やかさで受け入れた心こそ透き通っているに違いないと感動する。
平和としか呼べない。一つの繋がり、または絆としての心ならば愛だろう。雪見だいふくの思いの中身も愛だった。真実の手応えが凄いのは平和のためだ。
非常に興味深いけれども愛は見出だされると著しいまでに美しい。幸せな生活から平和が得られたのはなぜか。世界の心が万物への愛だと覚えた。綺麗な喜びが広がり出せばもはや気分も最高だろう。自然が一番だ。
まさか雪見だいふくに魅了されては売り出したロッテへも感服しないわけには行かないらしい。
愛が心から真実かどうかを判断するのは難しいけど、ただし綺麗な喜びが掴み取られるかぎり、素晴らしい手応えによってすなわち著しいまでに美しいと理想的だから有り難いのは確かだと認める。

後藤浩輝と抑鬱傾向による突発的な自殺

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中央競馬でトップ騎手の一人だった後藤浩輝が亡くなっていると気付いた。二千十五年だからまだ二年前の死だった。競馬ファンならば誰でも知っているくらい有名なはずだけれどもテレビのバラエティー番組でも見かけていたと思う。個人的にはダービースタリオン(ゲーム)に熱中していて後藤浩輝の名前を覚えた。二十世紀末、若手でメキメキ頭角を現すように伸び盛りで頑張っている騎手という印象を抱いた。
Hiroki Goto on Espoir City by Nadaraikon [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
享年四十だから本当にまだ若かったと訃報に衝撃を受けたし、同年代に近いと新しく気付きもした。第二の人生は四十歳からとすると晴れやかな門出を前にして何があったのか、亡くなった原因も首吊り自殺と報道されていたので、謎や疑惑が深まるばかりと考え込まされてしまう。
調べると遺書がなくて周りの人たちも全く分からないくらいいつも明るく過ごしていたらしい。
本人のFacebookには死の少し前にも栃木県那須塩原市のご当地スターで宇都ノ宮晃のコンサートへ出向いて「楽しかった」と投稿されていたんだ。
およそ自殺と結び付かない生活が窺われるかぎり、実際には他殺ではないかと感じた。大金が蠢くほどの競馬界を踏まえれば裏社会に巻き込まれて酷い目に遇わされたみたいな気分に駆られるわけで、情報は詳しく掴めないし、それも闇の黒幕に揉み消されたせいかどうかは何れにせよ、自殺が却って事実かどうかで最初から精確に見極めなくては考えても推測の域を出ないままだと思い直してみるとやはりと感じるような情報も確かに少なくはなかったと気付いた。
後藤浩輝は競馬で落馬事故が目立つ。大怪我を何回も経験していた。只でさえ極めて危険なはすだけれどもレースで転落したりすれば周りの何頭もの競走馬から高速に揉みくちゃにされながら騎手にとっては生き残る方が珍しいくらい致命的だろう。競馬では馬同士が互いに打つかり合わないように安全策の取り決めがあるらしい。走行を妨害してはならなくて騎手は幾らか隙間を空けながら手綱を取らないとペナルティーを食らう。しかし勝つために割り込みを敢えて狙うとギリギリの攻防で、反則スレスレの激闘が強いられるかも知れない。
又感じるんだ、何かの誰かの陰謀ではないかと後藤浩輝だけが落馬事故の災いを増や…

大笑いさせるヴァン・ゴッホは卓越した感性で希望の光を描いた

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ゴッホの手紙を読んでいて大笑いした。本当にまさかだったし、人生は諦め切れないとも唸らされる。ならば夢はきっと叶うだろう。
物凄く面白いのはヴァン・ゴッホがアルルでアトリエに住み着いた場面なんだ。パリから引っ越して来てホテルに寝泊まりしていたものの二つの居を構えては銭がかかり過ぎるからアトリエに家具を入れて二階に住み着けば安上がりで良いと考えるようになる。生活費を出している弟のテオに手紙で訴えた。前借りするみたいな仕方で、暫くして普段よりも多めに受け取った銭で、アトリエに家具を入れて寝泊まりするに至るけれども本当に嬉しさが溢れていた。
The Bedroom by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
大笑いさせるのはヴァン・ゴッホは絵が売れなくても素晴らしい生活を自然体で実現しているせいだ。
貧乏を忘れ果てる。アトリエも芸術家の家として自分一人が住み着くだけではなくて大勢を呼べるようにも作り上げて行く。生活費が浮かせられて創作活動にも適していると予測していた。仲間を増やしながら画家として飛躍するべく、夢が一層と大きく膨らむんだ。
アトリエに家具を備えつけて、結局は良いことをしたのだという確信をもっている。仕事のことで早くも僕は、今までのように不必要な苦労で悩まされずにもっと自由にやれそうな気がしている。
テオ宛のゴッホの手紙(硲伊之助訳)
弟のテオに生活費を出させて申し訳ない気持ちがかつて強かったヴァン・ゴッホだけれどもアルルのアトリエに住み着いてから相当に克服されたのではないか。すればテオも煩悶する兄を見なくて済むはずだ、涙を忍びながら咽び泣くように。ヴァン・ゴッホと同じように喜んでいたに違いない。少なくとも安心感が芽生えたと想像されずにいない。
本当にヴァン・ゴッホとテオの兄弟愛は人情がいつも通っていてそれこそ日本的な思い遣りを感じさせる。アルルのアトリエでの素晴らしい生活はヴァン・ゴッホが憧れた美しい日本のイメージにぴったりではないか。人間にとって悲しみが全てではない。たとえ貧乏でも幸せが得られるならば命の尊さしかないはずだけれどもゴッホの手紙という人生によってはっきり気付かされた。
方法論的にいうと感性が卓越している。生きる喜びから世界を捉えなくては無理だし、心を押し潰されるばかりの貧乏でしかない。幸…

ヴァン・ゴッホの美しい日本のために生きたというベーコンの習作から最大限に受け取っても素晴らしく感動的な人間性

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The Painter on the Road to Tarascon by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
ヴァン・ゴッホタラスコンへの道を行く画家(仕事へ向かう途中の画家)は見付けるや否や物凄く良い絵だと思った。本当に可愛くて素晴らしい作品ではないか。雰囲気が自然なのに加えて画家の大きさが絶妙なんだ。小さめで動きが軽快に出ている。漫画風だけれども構想としてはきっと日本画の影響だろう。十九世紀後半にフランスで大流行していて出会って江戸時代の葛飾北斎歌川広重という浮世絵に芸術上の規範を仰いでいたらしい。全てが明るめの色彩と共に平面的に溶け合わさっている。ゴッホの手紙を読んでいるとヴァン・ゴッホは日本画を通じて日本への憧れを猛烈に抱いていたと分かるけれどもタラスコンへの道を行く画家はヴァン・ゴッホが日本に来たのと同じだと澄み切った景色の広がりに大喜びながら絵に新しく精力的に取り組み出したアルル(フランス)での創作だったんだ。日々の浮き立った気分がはっきり示されていて微笑ましい。感じ入るほどに綺麗な心を養い育てられるし、知って瞬く間に生まれ変わるような魂の一枚だ。
日本人にとっては逆に国内の芸術について考えさせられる。浮世絵は何が良かったのか。徳川幕府による天下泰平の世相を反映していた。戦乱の日々に歯止めがかけられたならば日本人は相当に寛ぎを得られたはずだ。生活そのものは身分差別が横行しているように決して楽ではなかったにせよ――精神的な打つかり合いから国民同士の紛争もまさか夥しく引き起こされるならば坂本龍馬で率先される明治維新まで何百年と変わらないほどの重苦しい悲しみを強いられてたに違いないのではないか――酷薄なばかりの殺し合いの苦というどうにも不穏な毎日だけは避けられたから理知的な生き方こそ浮世絵に示されていたんだろう。だから温故知新として評価するべきだし、現代でも決して捨て去る必要はない。美しさが人間性に迫っているかぎり、画家一筋のヴァン・ゴッホが称賛したのも当然だったにせよ、年代を越えているわけだ。
僕の仕事はみんな、多少とも日本画が基礎になっている。
テオ宛のゴッホの手紙(硲伊之助訳)
タラスコンへの道を行く画家が漫画風なのはヴァン・ゴッホの芸術が方法論的にも時代を先取りしていた証拠だ。…

ヴァン・ゴッホの自画像の心の目に見えて来る神様

一枚だけだけれども画家一筋のヴァン・ゴッホの記事で引用したヴァン・ゴッホ自画像に神様が見えて来たからブログに改めて取り上げておきたいと感じた。
僕の言葉遣いが霊感そのものなのと同じで、気付いた訪問者がいれば一人怪しく訝らせるのは忍びない。
ヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来ても君だけではないし、僕もそうだから間違いなく、安心して欲しい。
きっと僕の言葉遣いが霊感そのものだと気付くよりも人々にとって可能性は高いだろう。
理由は簡単だ。サイト全体のイメージに合ってないというか、些細な日常のブロガーがゴッホではないから僕ばかりの自己表現が多いところで、取り上げられた他の誰かの作品の個性的な特徴が比較的に目立ってしまうせいだ。
本当に驚くし、僕は絵から神様と出会うのは初めてだったので、ヴァン・ゴッホへも興味や関心が変わってしまう、一段とさらに素晴らしく。
ヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来るのは心の目でしかないはずだけれども普段とはちょっと違う。例えばモーツァルトの音楽のように普遍的な芸術作品ではないのではないか。ブログの記事で取り上げる以前にも良く見ていたのに似通った気持ちは全く湧かなかった。神様と出会うという可能性は基本的に想定されないし、ヴァン・ゴッホ自身も絵を描きながら意図してなさそうだったんだ。
すると些細な日常の記事の画家一筋という文脈から引き出され得た真実になっているといって良い。
この世だけで神を判断してはいけないとだんだんおもうようになった。世界は彼のしくじった試作なのだ。
作者を愛していれば、失敗した習作でも――それほど非難せずに――黙って居るだろう、そうじゃないか。
でも、もっとよいものを要求する権利はある。
テオ宛のゴッホの手紙(硲伊之助訳)
絵の見方が特別に指定されるためにヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来たのではないか
心の目からすると最も重要なのは顔の表情が包括されていた。普遍的な芸術作品と受け取られる内容を備えているせいだ。ヴァン・ゴッホは一筆毎に色や形を変えながら自画像を精密に制作していて天才としか呼べないけど、それは珍しくない。集大成としては烏のいる麦畑が完璧だし、世界は容易には汲み尽くせないくらい自然と不可分なまでにリアリティーを超常的に高められている、いい換えれば一筆にメッセージが込められていて互いに寄せ集められながらイメージを無限大に展開…

悲しくても必死に生き抜くつもりならば画家一筋へ情熱を燃え上がらせたヴァン・ゴッホのように

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ゴッホの手紙を読んでいると元気が湧いて来る。絵だけではないと本当に感じる。ヴァン・ゴッホは画家だけれども同時に作家だったのではないか。興味深いのは文学は手紙でしかないから特にやってないという雰囲気が文体から伝わって来る。ヴァン・ゴッホならではの画家としてのイメージを手紙の文面に重ね合わせているに過ぎないにせよ、個人的に納得してしまわざるを得ない。
ヴァン・ゴッホならば画家一筋に情熱を燃え上がらせていたから他の創作活動には本気を出して取り組んで欲しくないけれども人間的に手抜きを受け取るのでは物足りないせいだろう。
手紙は文学なんだけれども作品として十分に仕上げられてない、本業の絵と比べると芸術性が低いに過ぎないだけで、必死に生き抜くほどの掴み取られた真実においては実質的に変わらないと感じる。
Self-portrait by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
ヴァン・ゴッホは貧しくてモデルに料金を払えなかったから代わりに自画像を多く描いたといわれるんだ。
ゴッホの手紙を読んでいると画家として自作絵が売れない悲しみが目立って出て来る。自画像はもちろんのこと、風景画でも他の肖像画でも同じで、何を描いても駄目だった、生涯で売れたのはたった一枚の赤い葡萄畑しかなかったらしい。振り返ると死ぬ間際に少しずつ世の中に受け入れられて来たようだし、彼自身が努力を惜しまずに絵描きに励み続けながら後一歩のところで心から待ち望んだ幸せを取り逃がしてしまったと感じるんだ。
悲劇的だから謎めきそのものではないか。人生に唸らされながら運命を見届けると夢は星に匹敵する。夜空に瞬く光の中には命を生まれてから死ぬまで素晴らしく勇気付けた希望しか知らなくて良いはずだ。
The Red Vineyard by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
生前、ヴァン・ゴッホにとっては有り難いばかりの赤い葡萄畑を購入した人物は画家のアンナ・ボックという知り合いの一人だった。弟のウジェーヌ・ボックが詩人の知り合いで、数年前にヴァン・ゴッホはウジェーヌ・ボックの肖像を描き上げてもいた、彼の姉がやって来て赤い葡萄畑を気に入って四百フラン(十一万円程)を払ったらしい。
一見して赤紫が支配的…

作家は一般人に分からない言葉へは文章をどれほど細かく追求しても良いはずだ

皆は意外と言葉が分かってない。だから文章を分かり易くするだけでは理解され難かったようだ。一般人と呼ぶしかない。作家にとって手強いのは人それぞれの言葉を生きている皆だったんだ。どれほど細かく追求した文章でも理解されるには不充分かも知れない。
言葉が分からなければ意味も価値も変わってしまうわけで、本当に厳しい自己表現を迫られてしまうんだ。個性を出せないのではないか、作品に。もはや一般人のために文章を徹底して細かく追求するかぎりだ。
作家は分からない言葉を減らしながら世界が理解される喜びこそ想定するしかない。他には個性もなくて良いと覚えよう。良いんだ、いっそ文章が分かるためならば完全に。皆が知っている言葉は決して誤りではなかった。手の届かない気持ちが作家にとって苦しくも免れたいだけだ。
一般人に必要なのは柔らかい言葉だ。言葉が柔らかいと一般人は直ぐに納得してしまう。
気持ちは文章なんてどうでも構わないくらい易しいし、世界をすんなり理解しながら言葉だけを跳び跳ねるように時間の許すかぎり、作家が長々と並べ立てた一万字でさえも速やかに受け取らないとは断定できないだろう。
言葉が分かり易いと良い。一般人の思いは辞書みたいだ。使え、使え。分からない人はいない言葉がある。本当かどうかは又別だし、分からない言葉が見付け出されても文章を遠ざけるならば皆へは示さずに済ませよう。
作家は辞書として一般人の思いを取り上げながら柔らかい言葉を増やさなければ作品から理解されない世界を一人寂しく抱いているほどの気持ちも当たり前ではないだろうか。
日常生活に置き換えれば文学だけれども余りに厳し過ぎるという爪弾きの全てが一般人にとって興味深いにせよ、言葉が固ければ文章は同じように分からないままだから読まれなくて書いてなかった作家の真実に等しい。
どうして人は固い言葉を求めてしまうのか。真実だし、個性だから自分一人でも生きなくてはならないためだろう、およそ。作家は辛い。孤独ならば一般人と気持ちは変わらないにせよ、特徴的なのは言葉を敢えて固くしながら本当に一人ぼっちでしかないと作品で確認しているんだ。または自己証明といっても良い。慣れるほどに固い言葉こそ愛するように誰も寄せ付けないくらい拘泥っていた。
気付くと不思議だけれども一般人もやはり同じなんだ。抱えた孤独から拘泥りの存在を得ている。部屋を花で飾ったり、風呂に入浴剤を…

ヴァン・ゴッホの馬鈴薯を食べる人々と親身に堪え忍ぶ貧困生活

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日本で学生が多く働き出したという現状と付随して子供が食事も碌に取れなくなっているらしい。テレビでくう ねる あそぶ こども応援宣言こどもごはんを観た。畢竟、学生が多く働いても家庭は日々を食い繋ぐのが精一杯の貧困生活に殆ど変わらないと認識が裏付けられてしまった格好だった。
かつて小泉首相が大企業を優遇する政策を実行したせいだ。経済の国際競争力を高めようと製造業の派遣社員を増やした。派遣法の改正だけれども暫くして「派遣切り」と明らかに正反対の結果を出していた。好景気に余りに遠過ぎるせいだ。国内に就業格差、または賃金格差というどんなに働いても身分的にどうしようもないみたいな貧困生活を社会構造からがっちり引き起こした要因が小泉首相の政策に含まれていた。
労働力を安くして大企業の資金を削らなければ海外の大企業に商品やサービスの売り買いで負けない経営ができて日本の経済は世界的に持ち堪えるという発想から来ている。折しも中国やインドが安い労働力によって経済状況を国の内外で急速に高めていた時期だった。中国は取り分け十年くらいで日本もアメリカも追い越して世界一へ上り詰めたかも知れない。小泉首相は安い労働力を早まって国内に取り入れたから挫折したと僕は分析している。
人口が日本は少ないから中国やインドという国土も広いし、十億人以上(日本の十倍近い)も人口を抱えている国と労働市場の取り扱いが同じでは経済政策も状況的に上手く行かないのではないかと却って買い手が付かないように経営者からは世の中の消費が落ち込むだけのちぐはぐな様相を呈するのは直ぐに察しが付くはずにも拘わらず、果たして無理なところが政治の難しさという他はない。
待ったなしなので、ひょっとすると小泉首相でなければ現状はさらに過酷だったみたいな仕方で、他のところから受け留めれば全国的にまだ益しだったらしく、経済の国際競争力も本当に大事だったのかも知れないし、十分に悲しみ得ないと妙に想像されなくはない気持ちも事実だったりはする。
目下、何れにせよ、日本の生活水準が中国やインドの辺鄙な田舎町まで逆さまに突き当たっても嘆きようがない。自家用車なんか僕もそうだけど、もう持てないよね。出かけるのも遠めでは自転車だけが頼りみたいな実況なんだ。衣食住は本当に簡素な状態に置かれざるを得ない、労働力が安かったら。
日本で優遇された大企業も小泉首相の思惑とは相容れ…

詩を降りる気持ちは皆から離れ去りながら初めて掴まれるように生きられていた

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世界を止めるわけでもなければ決して難しくはなかったはずなのに降りた詩は口に直ぐに出なかった。
慣れるし、あっという間にペラペラだから忘れっぽい天使クレー)だったかも知れない、詩人として向き返して観想するかぎり。
Vergesslicher Engel by Paul Klee [Public domain], via Wikimedia Commons
どこから降りたのか。自分からだと人間は教える。ならば聞いたのは沈黙だった。しかし元々の詩は内面にはなかったはずだ。手に入れたのは自分の言葉からではない。言葉そのものが皆から来ていたわけなので、詩も同じだし、自分の言葉は最初から霊感ではない。
降りる気持ちの詩は霊感だ。だから人間も自分からだと見詰めるにせよ、霊感の詩を遡るかぎり、皆からしか妥当には認識されない。
人間は苦しむ。間違っていたのか。詩を降りる僕へ偽物のイメージを指摘していた。霊感が分からなかったために早合点したならばもう二度と気持ちだけを他人の言葉から汲み取るのは止めるべきだ。貴方は狼狽えるばかりかも知れない。
僕は反対に見詰めた。途中からは正しかった。思考の皆から降りるまでの間に詩は霊感に置き換えられた。つまり霊感に置き換えられなかった詩の雰囲気は気持ちではなかったとはいい切れない。部分的には非の打ち所のない認識だったし、十二分に妥当だった。
なぜか吠える犬が人間性の暗闇の崖に姿を現すと世界が凍り付いた束の間に和らぎが少しずつ返されて行った。水田から蛙の合唱も鳴り響けば夏の夜中のだろうか。風流な趣きに触れながら人間は言葉を呑み込むしかなかったようだ。
僕にとって詩を降りる気持ちとは皆から来ている言葉を自分らしさに相応しく作り直す作業といって良いだろう。自分の言葉を持つために真実の世界を離れ去り、夢見られた風流な趣きでさえも身を捩って消え失せるように後にしてしまうせいなんだ。
思う、貴方は死んだかと。または自殺行為に等しくて眉間に皺を寄せながら安否を念じるばかりだ。
人々は三輪車に乗り出した幼児を転んでも可笑しくないと仲睦まじくも付き添っている。
自分の言葉を持つための作業が危ないのは確かだ。しかしながら一人でなければそれを上りながら作詩できないし、詩人も思考の最初から最後まで皆と、丸っきり、同じでは無責任でしかないだろう。
だから皆から離れて詩を降りる気持ちは一つの孤独な作…