ヴァン・ゴッホの馬鈴薯を食べる人々と親身に堪え忍ぶ貧困生活

日本で学生が多く働き出したという現状と付随して子供が食事も碌に取れなくなっているらしい。テレビでくう ねる あそぶ こども応援宣言こどもごはんを観た。畢竟、学生が多く働いても家庭は日々を食い繋ぐのが精一杯の貧困生活に殆ど変わらないと認識が裏付けられてしまった格好だった。


かつて小泉首相が大企業を優遇する政策を実行したせいだ。経済の国際競争力を高めようと製造業の派遣社員を増やした。派遣法の改正だけれども暫くして「派遣切り」と明らかに正反対の結果を出していた。好景気に余りに遠過ぎるせいだ。国内に就業格差、または賃金格差というどんなに働いても身分的にどうしようもないみたいな貧困生活を社会構造からがっちり引き起こした要因が小泉首相の政策に含まれていた。


労働力を安くして大企業の資金を削らなければ海外の大企業に商品やサービスの売り買いで負けない経営ができて日本の経済は世界的に持ち堪えるという発想から来ている。折しも中国やインドが安い労働力によって経済状況を国の内外で急速に高めていた時期だった。中国は取り分け十年くらいで日本もアメリカも追い越して世界一へ上り詰めたかも知れない。小泉首相は安い労働力を早まって国内に取り入れたから挫折したと僕は分析している。


人口が日本は少ないから中国やインドという国土も広いし、十億人以上(日本の十倍近い)も人口を抱えている国と労働市場の取り扱いが同じでは経済政策も状況的に上手く行かないのではないかと却って買い手が付かないように経営者からは世の中の消費が落ち込むだけのちぐはぐな様相を呈するのは直ぐに察しが付くはずにも拘わらず、果たして無理なところが政治の難しさという他はない。


待ったなしなので、ひょっとすると小泉首相でなければ現状はさらに過酷だったみたいな仕方で、他のところから受け留めれば全国的にまだ益しだったらしく、経済の国際競争力も本当に大事だったのかも知れないし、十分に悲しみ得ないと妙に想像されなくはない気持ちも事実だったりはする。


目下、何れにせよ、日本の生活水準が中国やインドの辺鄙な田舎町まで逆さまに突き当たっても嘆きようがない。自家用車なんか僕もそうだけど、もう持てないよね。出かけるのも遠めでは自転車だけが頼りみたいな実況なんだ。衣食住は本当に簡素な状態に置かれざるを得ない、労働力が安かったら。


日本で優遇された大企業も小泉首相の思惑とは相容れず、自分たちの生き残りばかりへ取り込むように資金の内部留保を必要以上に増やしながら万一の倒産に備えるべきならば中小企業も追従せずにはいられないまま、利益を上げても皆の給与へ還元しないからもはや社会上の癌細胞に等しいくらい経済学者ならば誰でも叩き捲っている。


経済そのものは貨幣が流通しないと生物の血行障害に準えられる。死という崩壊を免れ得ない。そのためにアベノミクスも評価されるし、現今では見守られているわけだ。安倍首相が取り組んでいるのは中央銀行(発券銀行の日銀:日本銀行)へ働きかけて貨幣を増やし捲って普通ならば強引なまでに人々へ回そうとしている。日本で小泉首相以来の「格差社会」を是正するためならば企業全体が不愉快な眠りから覚めるかどうか、ちゃんと人々へ利益を給与として還元したり、雇用についてもいつか潰れるかも知れないと怯えながら誰もなるべく招き入れないみたいな不景気を上昇気運へ変えられるかどうかに全てはかかっている。


日本の経済全体が回り切らない貨幣を主軸に硬化している情勢で、貧困生活が広がり続けている。当たり前になって欲しくないけれども非常に苦しい。僕も目の前に自殺ばかりちら付いてうんざりにせよ、堪え忍ぶしか道はないだろう。新しい認識は人々へ向けて必要な知識としてしっかり纏めたから些細な日常がアクセスアップを果たせば大丈夫なはずだと祈りながら待つだけだ。しかしリンク/シェアがいきなり増えないように社会そのものが反対向きに動いている間をどう生き延びるかが大切だと感じる。死んでも無理だし、僕は無名のままで昇天するかも知れないにせよ、いやはや神も降臨するほどの現時点(抱かれるか、あの世へ)ならば止まらない貧困生活への対処法を知っておくのが賢い。


ヴァン・ヴァンの馬鈴薯を食べる人々

ヴァン・ゴッホ馬鈴薯を食べる人々が注目された。農民たちが質素に自活している風景というと現代人には作物を養い育てる土地も珍しいから一般的な絵では必ずしもなさそうだ。しかし心に響くのはなぜか。見ていて胸が締め付けられる。食卓に馬鈴薯しかないのはヴァン・ゴッホの詩情で、人間とって生きるとは何か(自活するならば存在において孤独なかぎり)を示すためだとしても貧困生活に被っているイメージが印象的だ。


健康上、長寿遺伝子が発動し易いから食い足りなさは嫌がるどころか好みさえもして良いと思う。恐ろしいのは栄養失調だけだ。貧困生活ではだから栄養学を弁えてないと生き延びるのは大変ではないか。


総じて腸内環境が重要だから野菜と果物とナッツ類を中心にしながら栄養バランスをぎりぎりに纏めるのが素晴らしくて最も安上がりな食生活だと僕は実行している。


皆にはできないとすると栄養学だけでなくても気持ちも違うかも知れない。


僕は食事は基本的に好きではない。できるならばブレサリアン(気食人)として食物は何も口にしないで生きて行きたいし、空気だけで済ませられれば申し分ないだろう。食事が好きな人には大変かも知れないし、美味しさを求めると貧困生活はさらに辛いと想像される。


毎日、栄養バランスだけではなくて味付けまで頭を同じくらいか、それ以上に使わなくては納得できなさそうだ。


生きるために食事が必要だと考えるときっと食欲は減る。面白いのは馬鈴薯を食べる人々でヴァン・ゴッホは暗示している。馬鈴薯しかなくても不満な食卓に見受けられないのは嘘ではないし、本当に食欲が薄いから事足りてしまっているのではないか。まさか気不味いせいみたいに可笑しければ食欲は薄いにしても皆へは衝動として極度に細く切り詰められているヴィジョンといっても良いだろう。つまり生きる喜びの強さだけが絵に描き出されているようで、画面の色調は暗いけれども空気がとても澄んでいる様子なのはそのためではないか。人間性が潔いし、受け取る趣きならば清貧としか呼べない。本当に慎ましやかな世界そのものだと感銘させられるわけだ。


貧困生活を気持ち良く過ごしたいほどに食欲は少ないにかぎるし、あれもこれも食べるべきだと余計に苦しまないように食事の美味しさに囚われては苛立ちまで覚え兼ねないとも教えられてしまう。


君には分かるか。私は小さなランプのそばで馬鈴薯を食べている農民たちは皿に置いた手によって彼ら自身の土地を耕したという観念を人々が持つように本当に仕上げたかった。つまりそれは手仕事と――彼らは食糧を従って正直に稼いだ。私たちとは生き方がすっかり異なるという観念を与えようとした――文明人を物語るんだ。つまり私は皆が直ぐに誉め称えるか、またはなぜかも分からずに良いと思って欲しくは確かになかった。



ヴァン・ゴッホは馬鈴薯を食べる人々の制作過程で「手」を重視していたらしい。


結構、分かり辛い。絵の皆の「手」から特に変わった様子は受け取らないし、言葉から何がいいたかったのかと訝られてしまう。


馬鈴薯を食べる人々が慎ましやかな世界そのものをエッセンスとして想定しながら完成されたとするとヴァン・ゴッホの「手」は「農民たち」を掴んだ詩ではないかと感じるんだ。


画家にとってメインは「農民たち」だったし、絵としてもそれ以外は目立たないはずだけど、皆の心境が「手」なんだ。農村で自活しながら生き抜いている状態を人々へ深く深く訴えかけているように見えなくはないし、一言ならば文学性かも知れないけれども溢れ出た「本当に仕上げたかった」も自己表現が成功したどうかについての芸術的な随感としてまさか納得するしかなくなる。


するとヴァン・ゴッホが馬鈴薯を食べる人々を通じて本当に実現してみせたのは些細な日常の思考だった。


清貧だし、衣食住は最低限でも喜ばしければ幸せな暮らしにせよ、他には数え切れないほどの悲しみが察知されながら平和を守るためか、貧困生活を免れるためか、どちらにしても思考なしには無理なわけだし、将来へも不味いに違いないと親身に告げてくれていたと覚えておきたい。


僕もどうしようもないし、食事も碌に取れない子供が増えるばかりの日本だけれども取り敢えずは落ち込み過ぎず、自然に立ち上がるような気持ちから夢見て頑張るだけが対処法というか、かりに祈りも無駄骨とひもじさに死に絶えても美しい人生なのは間違いない。

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