切迫する死の感覚の著しい無力感の笑い 結城永人 - 2017年6月24日 (土) もしかすると良いのかも知れない。無力感を著しく覚えながら生きている。今が変わる。幸せを受け取るためにもう何も行う必要がなくなったせいだと思いたい。 しかしあり得ない望みなのも確かで。呪われているのか、二十年以上も叶わない夢があり、絶望の淵も本当は磨り減って悲鳴のような泣き言も洩らさないとはかぎらなかったほどに荒くれている。 元気でいられたのは嬉しいにせよ、良い加減にして欲しい地獄と振り返って再び前を向いて歩き出そうとする心にとっては足場を失って落ちてしまいそうだ。 絶望の淵もない状態で、どうやって存在を保ち続けられるだろう。 心は認めてない、新しい自分をまだ十分に 悲しむべき生活しか世界に許されないにも拘わらず、一体、どのようにして地獄の外で暮らせるというのか。祈りの先で神は目を閉じて黙っていた。 自力で突破するしかなさそうだから頼るべき方法は思考だけみたいな境地だ。 今正にどうしようもないままに存在を失ってしまおうとしている。ほんの僅かな可能性にしか支えられない心を想像しなければ世界は成り立たず、そして自分自身もまた納得し得る真実を確かに持たないかぎり、心は詩だと認める他はない。 寸分、違わず、僕は言葉で、生きるという情感に包まれている。気持ちは地獄の外で、人生の終わりを待っているようだけど、ただしほんの僅かな可能性が幸せを呼んでいるとも期待されて来るからどっち付かずに揺れている。止めて欲しいのは前者だとはいうまでもないだろう。ところが後者ももどかしくて未来は必ずしも明るくはないとするとやはり死ぬしかないと落ち込まざるを得なくなる。 どちらにしても存在を持ち堪えられない 切迫する死の感覚こそ著しい。八つ裂きの恐怖と共に現世ではもはや逃れれるすべもない無力感を余儀なくされている。 折角、叶わない夢の災いを尻目に嬉しがりさえもした元気から自力では遠いばかりの幸せに虫食いだらけの胸を味わわされてしまうとは不愉快なだけだ。 僕はどうなるのか、本当に。無力感に押し流されて著しく切迫する死の感覚に震え上がりながら毎日を過ごさなければならないのでは人生の終わりこそ自力で果たすのも一つの出口だろう。しかし生きていたいとも感じるんだ。悲しくも本当の気持ちではなくて幸せが訪れず、地獄の外で叶わない夢を抱えているのが不愉快で鬱陶しい余りの言葉でしかない。口に出すのも虚しいばかりでは自分に対しては嘘の上塗りに等しいから恥ずかしくて情けなくてもはや果てしなく切り崩さずにはいられない言葉だ。 悲嘆に暮れるとはいえ、現時点での涙は決して酷いわけではない。元気なのは確かで、放り出されるようにやって来た今此処は少なくとも不幸そのものではない。むしろ地獄の外へしっかり出ているのだから反対の結果が余程と予測されずにいない。原因は正しく天国にあり、神が救いの手を自然に差し伸べてくれたせいに違いないはずだ。 ならば世界は天国に含まれていると容易に想像される。著しく切迫する死の感覚の無力感によって瞬く間に吹き飛ばされる存在でも僕はなかったし、生きるのは全く不可能な状態を強いられているためでは決してないのだから頼るべき思考が引き出す真実も救い主としての神を見詰めているだけだ。 幸せが訪れるのは必然的と受け留める。しかし夢は叶わないままなのが本当に死にたいし、神に騙されているというふうに地獄の親玉の閻魔が世界の裏側で災いを執拗に起こしているような疑惑も避けられないんだ。 天国に含まれているとした真実は嘘で、地獄の外の生活も偽りならば現実には絶望の淵から一歩も抜け出してないようだから改めて参る。 やはり落ちるだけか、人生の終わりへ 叶わない夢が長引くほどに足場は磨り減ってもはや何も見えず、聞こえない悲しみに存在が卑しく打ち壊しにされる。だから自殺するだけが精一杯の自由だと受け入れるしかないような気持ちにもなる。 閃くと面白い、どうするべきかを。精神は睨んだ、時空を解決策として。頼るべき思考が喜ばしく明かす、たとえ地獄の外がその内で全てを支配する閻魔の忌まわしい出任せに過ぎないとしても天国を一瞬でも想起させたからには訪れ得る幸せこそ偏に追求するべきだと。真実でなくても良い、切迫する死の感覚の著しい無力感のままに気付いてみれば。 僕には叶わない夢を抱えるしかないし、どんなに望んでも手が届かない現世での喜び、衣食住への満足感、要するに幸せを待つしかないかぎり、気持ちを探れば著しい無力感と切迫する死に打ちのめされる悲しみが本音だけれどもほんの僅かな可能性からでも夢は叶うと期待しながら生きるためには笑って過ごすのが余程と益しだ。 コメント 新しい投稿 前の投稿
コメント