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モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークを聴いて出会える神様への無邪気な心へ

いつ頃からかは良く覚えていない。たぶんしかし高校時代だったのかも知れないというのがモーツァルトの音楽を聴きながら神様と出会った。


当時、ベートーヴェンが大好きだったので、何といっても交響曲第五番《運命》のジャジャジャジャーンが印象強いばかりだった、モーツァルトへの記憶は殆どない。クラシック音楽というとベートーヴェンが代名詞みたいな状態で、他にはチャイコスキーマーラーくらいしか聴いた感じがしなかったはずだ。


興味や関心からいうと十代の少年期にクラシック音楽を欲したのは僕の場合はオーディオが大きかったと振り返られる。とにかく良い音とは何かを知りたかったのではないか、世の中で。愛読書も月刊HiViだったり、どんなシムテムで良い音が聞けるのかを知りたくて探し回っていた。


なのでクラシック音楽は色んな音が細かく入っていて自前のオーディオが良い音を出しているかどうかを確かめる意味合いが非常に強かったし、真っ先に捉えるべき第一条件とするとやはりベートーヴェンは音の強弱が激しくてダイナミックレンジが超人的な音楽を作り出していから引き付けられない理由もなかったと認める他はなくなる。


モーツァルトへは逆に対照的な印象を微かに持たされながら不思議がっていたようだ。今にして思い返してもベートーヴェンとは似ても似付かないところの静けさがユニークな作曲家だろう。どんなに大人数の楽団を擁する交響曲やオペラを作曲しても心の空白地点というか、何となく時間が止まったような思いを抱かされるんだ。


気に留めると音も聞こえない感じがするから正しく不思議がりもするわけだけれどもイメージが音楽を越えて生み出されているとしかいいようがない。または楽想が素晴らしくてクラシック音楽はメロディーが分かり難くて何をやっているのかと考えても詰まらなくていつも聴かない人にとってはベートーヴェンの運命のジャジャジャジャーンみたいな明白なフレーズこそ好ましいかぎりにせよ、もうちょっとだけ重なり合う同じような部分もモーツァルトの作曲には含まれていたせいだろう。


Mozart: Eine Kleine Nachtmusik: McGill Symphony Orchestra Montreal conducted by Alexis Hauser via MGSOconcerts

人々に最も有名なモーツァルトの音楽はアイネ・クライネ・ナハトムジークだ。セレナード第十三番とも呼ばれるけれども実際にはセレナードとして作曲されたかどうかは謎で、楽譜も途中で抜け落ちているといわれる。第二楽章が元々は違っていて全五楽章の作品だったんだ。なぜないのか。大した原因はなさそうだけれども映画のアマデウスのように誰かに妨害されて持って行かれたみたいな疑惑の物語が浮上したり、またはモーツァルトが意図的に削った可能性があるとすれば作曲について示唆を現実的に与えたりしている。アイネ・クライネ・ナハトムジークはモーツァルトの動機も殆ど知られてなくて本人の生前に演奏された記録は残されてないらしい。只単に売れなかったか、自分ための音楽だったか、どちらかだろうと推測される他はない。


しかし現代では人々に広まってモーツァルトといえばアイネ・クライネ・ナハトムジークとも過言ではないくらい結び付きが明るくてちょっと訝るどころか、聴くだけで良いんだとばかりに謎も何も吹き飛ばされてしまっているようだ。


モーツァルトと他のどんな曲よりも出会えるのがアイネ・クライネ・ナハトムジーク


題名の日本語は「小さな夜の曲」となる。聴いてみると曲調はセレナードに近くて愉快な雰囲気があるので、気付くと意外にビックリするんだ。夜を静かに過ごすような詩情を表現したのか。または夜会の意味では愉快な雰囲気でピッタリだけだれどもイメージは屋外なので、モーツァルトの「小さな夜の曲」という題名の付け方は作品の中身と不釣り合いな感じがしてしまう。


腑に落ちるのは細やかな喜びとしての夜会という解釈しかなさそうだ。それが、偶々、屋外のイメージで素晴らしく開かれた地平を受け取らせずにいない。僕だけかも知れないにせよ、楽想からはセレナードみたいな室内楽とは及びも付かなくて本当に気付くと目の前に広大な景色が現れて来るような心に迫るばかりの音楽だった。


昔から神様も感じたはずだった。少年期の記憶は薄いながら個人的にはっきり目覚めたのは自作詩のPicnic以降で、十年以上の月日が流れたにせよ、モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークのイメージは永遠の詩に被っていたと分かった。考えると普遍的な音楽を作り出しているのがモーツァルトの自己表現で、永遠のような世界/本物としか味わえない夢を何よりも考えるのが個性だったようなんだ。聴きながらいもはや素晴らしいとしか呼べないモーツァルトの音楽の中ではアイネ・クライネ・ナハトムジークが非常に分かり易いから最高の出来映えだろう。死ぬまでに知ることができて良かったと心底から感動を余儀なくされる数少ない芸術の一つだと思わされて止まない。


とにかく第一楽章の冒頭というか、ほんの入り口で打ちのめされる。チャ、チャチャ、チャチャチャチャチャといういきなりのチャで全てが決まっているのではないか。アイネ・クライネ・ナハトムジークは創作活動としてさながら展開だけしかないと驚く。いきなりのチャに全てが含まれていてモーツァルトがイメージを悉く引き出すように作曲しているのではないか。研ぎ澄まされた感性としか称えようもないけれどもチャとは何かを教えてくれるのが嬉しい。音楽の表現力は元より、何でもない気持ちの些細な日常の真実に触れている姿勢は人間的にも流石だし、気付きが才能という点では正しく宝庫と見做される世界を体現する存在だった。


人々が天才と感じるのも当然だろう。そうしたモーツァルトの真髄もアイネ・クライネ・ナハトムジークと切り放せないわけだ、確かに。チャだけで全てを引き出す音楽とおよそあり得ない。入り口で決まってしまう芸術とすると他にはランボー地獄の季節しか思い付かない。詩だけれども同じように作品の入り口に衝撃を受けて引用符の二重山括弧(《》)の片方で始まっている。もう片方で普通ならば閉じられるはずだけれども最後まで出て来なくてランボーが書き忘れたのでは可笑しい。しかしながら強ち当たらない。わざと外して詩が手元から社会へ飛び出して行くほどのイメージを醸し出すためだったと想像されずにもいない。


《かつては、私の記憶に狂いがなければ、私の生活は宴だった。ありとあらゆる人の心が開かれ、酒という酒が溢れ流れた宴だった。


アルチュール・ランボーの地獄の季節(宇佐美斉訳)

詩の内容も「宴」というとモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークの夜会の趣きを彷彿とさせるし、ランボーは地獄の季節に永遠の詩を挿入してもいるので、僕が自作詩のPicnicから永遠のような世界/本物としか味わえない夢による普遍的な音楽とはっきり目覚めたのと気持ちは近付いて来るんだ。


モーツァルトは詩が分かって自作曲に題名を付けていたとすると本当に凄いというか、音楽も受け取り方が又変わってしまうだろう。つまり物事を詩的に捉えながら作曲活動を行っていたと考えられるわけで、他の音楽家とは必ずしも同じような目的を持たなかったかぎりはどんな音楽を残したかという印象も世間並みとは違っていて構わないのは確かだ。


生涯を訪ねると普段はウンコとかなんて下品な冗談ばかり口走っていたと伝えられるからどこが詩人なんだと怪しいし、人々から一目を置かれずにいない偉大な作曲家で、天才と呼ばれるに相応しい音楽家の姿からも違和感が止め処なく溢れる事実が否定できず、咄嗟に言葉に詰まらされる。


モーツァルトの場合には芸術と生活が余りにかけ離れ過ぎていて聖と俗によって気持ちが極端なまでに分断されていたという見方が人間学として成り立ち易いだろう。音楽は信じ難いほどに美しいけれども普段は全く反対に醜いんだ。さもなければ下品な冗談も児戯に等しくて一人の人間の無邪気な心を示しているに過ぎないだろう。大人になってもモーツァルトは天真爛漫だったと捉えるのは決して間違いではないはずだし、神様と出会える音楽を実現するのでは本性からして邪な精神では無理だと考える。無邪気な心のゆえに普段から目に付く醜さがウンコならばきっと美しい音楽と公平にも面白がって口に出さずにいられなかった可能性は高いだろう。


すると気持ちは分断されているし、聖と俗に包まれた世界をどちらも見逃さずに的確に覚えていたのは研ぎ澄まされた感性の所以とも過言ではないけど、心は一つだったと認めるべきだ。


素顔が無邪気という生き方がモーツァルトの実像に迫り得る人間性の正体ではないか


アイネ・クライネ・ナハトムジークには結実していると改めていいたい、モーツァルトの無邪気な心こそ。


繰り返すとチャの一音が入り口の衝撃で、ほんの僅かな喜びを掴んで離さないところに著しく惹かれた。どうでも構わないと見逃さないのはなぜかはもはや研ぎ澄まされた感性どころか、神業とさえも認めて良い。天才ならば常人では捉え切れない余りに小さ過ぎる真実を見詰めていたせいかも知れないけど、とにかく無邪気な心でなければ取るに足りないと分からなくなるはずだから勿体ないんだ、人間性の正体から類も稀に理解してみれば。


モーツァルトの良さは音楽だけではなくて普段も引っ括めて何もかもが愛しいほどに腑に落ちて来る。


歴史ではベートーヴェンが本人と実際に会っていたといわれるし、最初から憧れの作曲家がモーツァルトだったみたいだ、無邪気な心も本当に間近で分かっていたのではないか。大して相手にされなかったともいわれるけど、しかし真意はどうだったかはベートーヴェンにしか生きられないはずだ。憧れを抱くかぎり、会えば恐縮して自分からはどうにもならない状態がありがちなので、モーツァルトが忙しくて直ぐに消えただけの経験だったのかも知れない。


ベートーヴェンの音楽にも引き付けられるのは変わらないけれども作曲活動への並々ならない情熱を僅かな触れ合いでも学んでしまったようだ。だから心酔するまでに運命もかつて聴かずにいられはしなかった。


無邪気な心というモーツァルトの人間性の正体からどれだけの喜びが音楽として得られるのかをベートーヴェンこそ教えてくれると思うし、人生の幸せに他ならないように誰よりも大事にしていたと親身に味わいながら耳を自然に傾けるならば力強くも優しかったと感涙するのも難しくない。


参考:アイネ・クライネ・ナハトムジーク

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