キャベツ太郎から砂糖ととうもろこしを取り入れた一日 結城永人 - 2017年7月18日 (火) キャベツ太郎(華道)は最も好きな菓子の一つで、市販の商品では添加物が少ない安全性と値段の安さからスナック菓子では購入の正に最有力候補になっている。 昔ながらの駄菓子みたいなイメージだから余計なものが、一杯、入ってそうな感じがするのに実際には、全然、違うから驚かされる。原材料を調べると他の新しい商品こそ味付けに拘泥り過ぎるばかりだから余程と危ないというのが現状だった。 菓子は砂糖が多いからそれだけでも不健康だけれどもさらに不要な添加物も多く入っているのでは全く食べたくも買いたくもなくなるわけだ。 注意しておくと砂糖は体内でAGE(終末糖化産物)を増やすから早死にを引き起こし得る。必要な栄養素なのに弊害もあるのがよもや健康は難しいと実感させる要素の一つだ。糖分の中でもブドウ糖は脳の唯一のエネルギーで、人間にとって頭の回転を早めるから非常に重要だけれども頼り過ぎては行けない。 砂糖については主成分がショ糖だけれども果糖とブドウ糖の二つの糖分がくっ付いている状態だから体内でエネルギーとして利用するべく分解するために肝臓への負担が増して来るのをAGEと共に十分に用心しながら食生活に取り入れるのが望ましい。 キャベツ太郎は添加物が幾らかは少ないだけに比較的に安心して買えるし、食べられるというスナック菓子だろう 味付けが濃くて一回で一袋は辛い感じがする。ソース味だから砂糖と合わさって尚更とこってり受け取られるのかも知れない。 いつも食事量が少なくて栄養状態がギリギリの僕には偶に食べるのもキャベツ太郎は悪くなさそうなので、好きだし、買っている。 珍しくというか、たぶん生まれて初めてだけれども物凄く引き付けられてしまった。 キャベツ太郎が食べたくて食べたくてどうしようもない気持ちがしてかつてないほどにどうにも食べずにいられないような思いを抱えてしまうのはなぜだろうと首を傾げた。 二三日、耐えていれば収まるかも知れないと何もしないでいた。ところが一向に収まる気配もないまま、耐えていても駄目だとスーパーで久し振りに手を伸ばして買おうと決断するに至ったんだ。 安くても生活費は辛いから大変で、日々の主要な食費に余分に付け加える菓子となると躊躇いを免れないから踏ん切りが問われるし、必要だ、選び取るには絶えず。 念願が叶ったとも過言ではない些細な日常ながらキャベツ太郎をついに漸く食べてみると無性に求める気持ちも急速におさまるのを感じてまさか助かったみたいな様相を呈していた。 落ち着いた気持ちからキャベツ太郎がどうにも食べずにいられなくなったのは毎日に糖分が足りなかったせいではないかと考えた。 今夏は一ヵ月以上の寒暖差アレルギーとそして長年の睡眠負債から恐らく発症した自律神経失調症で体力がどん底まで落ち捲っているわけなので、食生活もおよそ従来通りのギリギリの栄養状態のままではしっかり回復するのには物足りなかったかも知れない。 キャベツ太郎から糖分を補給するべきだと全身の約三十七兆個と推定される細胞を上げて訴えられていたような印象を与える。 主原料がとうもろこしなので、ビタミンとミネラルが特徴的に含まれていると思うし、挙げるとビタミンB群とビタミンEとカルシウムとマグネシウムと鉄は自律神経失調症の食事療法にも役立つはずなので、食物繊維による整腸作用やポリフェノールによる抗酸化作用からも健康的だし、キャベツ太郎がどうしても食べたくなるのは理に適っていたといって良い。 パッケージの裏側には「上質なとうもろこしを使用し」と載っていて一つのセールスポイントだったりもするんだ とうもろこしは世界の三大穀物として米と小麦(パン)に並んで人々に愛されているけど、大体、アフリカの貧しい国の主食みたいなんだ。すると食糧難でも何とか凌げるだけの栄養素や健康成分を多めに持っているためと考えられるので、とうもろこしは健康と長生きに向けて素晴らしい食品に他ならないと称えたくなってしまう。 日本でも夏にとうもろこしが出回って良く食べられるのは真上から照り付ける日差しの厳しい暑さに対して体力増進に繋がるせいだ。 個人的には普段から必要なのに食べる機会が少ないとうもろこしが主原料というのがキャベツ太郎は殊更に良いと引き付けられる大きな理由なのは間違いない。 菓子だから砂糖の影響が最重要視されるし、加えてスナック菓子では油の取り過ぎから血管を痛めるようなコレステロールへの害悪も懸念されずにいないけど、しかしながら偶さかの買い求めとか食べるのも久し振りの一日なんて仕方で取り入れるのは本当に面白い。 体力がどん底まで落ちているから砂糖ととうもろこしのためにキャベツ太郎を欲しがったにせよ、食品の組み合わせの健康への効果そのものは計り知れない世界だと感じる。 ひょっとするとキャベツ太郎ならではの秘策が込められているようにも捉えられるし、考えてもちょっとやそっとの悲しみから完全に退ける理由はないわけで、元気なのが可笑しいかぎり、心から美味しいのは本当かどうかを確かめようと後から又伸びる手も正しいはずだ。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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