在日外国人の子供たちの不安なアイデンティティーへの親近感と悩みへの慈しみ 結城永人 - 2017年12月29日 (金) バリバラの【“外国ルーツ”の子供たち】を観て在日外国人の子供たちが抱える様々な悩みを知った。 両親の片方が外国人で自分はどちらの国民なのかというアイデンティティー(自己同一性)の不安を持っているのが内面性の下地になっているようだ。考えると僕も同じような状況だったから親近感が湧いた。父親が秋田県で、母親が栃木県で、自分はどちらの県人なのかとアイデンティティーが気がかりになる。人々の交通が繁栄した現代では色んな地域の色んな両親を持つのが普通だから在日外国人の子供たちのアイデンティティーの不安は誰にとっても決して縁遠くないわけだ。細かくいえば父親と母親の根源的な差異を想定するべきではないか。 アイデンティティーの不安は誰にでも当て嵌まる悩みとも過言ではない Sonw hill with a tree by Mojpe / Pixabay 文学上、日々の悲しみから来ている。例えば宝くじで六億円が当たったらどうでも良いと思う。一人で生活するかぎり、自分以外にアイデンティティーはない。または地域に根差した存在に満足する。 今此処が全ての始まりだと世界の産声を聞くためには詩が必要にせよ、満足しながら納得できない(素晴らしい幸せを夢見ながら)みたいな状況だから気付かなくても実生活に支障はないだろう。 だから子供たちに特有の悩みなんだ。家の中で父親と母親のどちらの側に付くべきか。内面が引き裂かれるたびにアイデンティティーの喪失に苛まれてしまう。見捨てられたら生きられないためだ。 両親がラブラブで、四六時中、打つかり合わない家庭ならば何も起きないかも知れない。目を凝らしてそれぞれのラブとラブの経緯を確かめると胸が痛むから自分自身のために作詩して良いし、さもなければ一時の平和という夢の中で疑いながら「我思う、ゆえに我在り」(ルネ・デカルト)と認識するのも同じだろう。アイデンティティーを的確に掴むのは子供たちにとって全くの不可能ではない。家庭が円満ならば一人で生活するまでもないし、精神年齢は早く上がる。 日本の実態はどちらかというと打つかり合う家庭というのが主流ではないだろうか およそゲロゲロの両親が一般的みたいだ。蛙の鳴き声に聞こえるならば未だしも耐えられるにせよ、誰かの嘔吐だとすると内面が引き裂かれているから堪らない。如何にも不自然らしい。両親の敵対関係に投げ込まれながら子供たちはどうするべきかと頭を悩ませずにいなくなる。必死なのも本当で、両親のどちらかを加勢したり、それでなくとも公平に仲介せざるを得ないだけの日々に疲れ果てて行く。ラブラブを目指すけど、場合によって反対に子供たちこそ家の中で邪魔者と狙われてしまう。世の中で打つかり合うのが止められない親たちからは殺されもするわけで、大変な気持ちを強いられている。 アイデンティティーについてはどんな生い立ちでも同じだし、たとえ的確に掴んでも世界の謎めきは残されている、一人で生活するまでは人それぞれの宿命というか、個々の経験において頑張って貰うしかないだろう。誤解を避けるために敢えて繰り返すとアイデンティティーについては本当にそうなんだ。他人が手を貸しても仕様がないし、いい換えると自分探しの旅の答えに口を挟むような社会は差し出がましいのではないか。引っ込んでくれていて結構だろう。 地上には 大小の道がたくさん通じている。 しかし、みな 目ざすところは同じだ。 馬で行くことも、車で行くことも、 ふたりで行くことも、三人で行くこともできる。 だが、最後の一歩は 自分ひとりで歩かねばならない。 だから、どんなつらいことでも ひとりでするということにまさる 知恵もなければ、 能力もない。 へルマン・ヘッセの独り(高橋健二訳) 全世界が結び付く二十一世紀こそ「地上」の発想を重視したい。主体性が何よりも問われるし、アイデンティティーも本当は生きるヒントでしかない。誰だって良い、自分なんか笑いさえすれば。虚しいけれども生活は過酷なんだ。よもやマンモスに踏み潰された原始人が羨ましいくらい皆が死んでいる真実を感じてしまう。さもなければ「最後の一歩」も詩人の言葉ではないだろう。存在するのは自分一人とは悲しみそのものだから笑うのは至難の技だった。アイデンティティーの答えはライフスタイルの終わりではないし、新しく主体性が大切だと捉えたい。 目下、子供たちは大変な気持ちだけれども在日外国人だと言葉の壁もあるから可哀想だ。日本語に疎いから学校の授業に付いて行けないらしい。勉強が普通よりも増してしまう。取り分け途中から日本の学校に入ると日本語の学習の遅れを取り戻すために労力を著しく要するわけだ。 在日外国人の子供たちは大変な気持ちに輪をかけて厳しいから余計に慈しまれると良い 一見問題なく日本語を話せるように見える子どもも、実は読み書きが苦手など、悩みは多い。中学生の時点で読み書きが苦手となると、学校の勉強が全然わからないということもしばしば。友達の話題についていけず、友達がなかなかできない、といった悩みも。また、外国ルーツだけにその国の言葉をしゃべれると思われがちだが、実はしゃべれないことも少なくない。そのことについて「なんだ、しゃべれないんだ~」と何気なく言った言葉が、その子にとっては心のキズになることもある。 “外国ルーツ”の子供たち|バリバラ|NHK 日本は単一民族の国だから外国人というだけで奇異に見られがちなのも大きそうだ。少しずつでも着実に変えて行くべきだと考える。知らないと始まらないし、先ずは在日外国人の子供たちの憂える実況を覚えておきたい。 「今日出てくれた子どもたちはインタナーショナルスクールに行けばいいんちゃうか?」 という意見があるかもしれない。けど、そういう見方自体がどうなのか考えないといけない。いろんな子ども、ひとりひとりに応じることができる仕組みに変えていかなあかんわけ。「みんなの個性を伸ばす」と言いながら実は特定の個性しか伸ばしていない社会の現状がある。だから今回のテーマでは、学校の先生だけを責めているわけじゃない。先生も含めて「社会の中でどう子どもたちを育てていくかを考えましょう」ということ。これから日本の社会がこの子たちを寛容に受け止める社会になっていけるかどうか、そこの問題やから。 “外国ルーツ”の子供たち|バリバラ バリバラのレギュラーの玉木幸則は鋭い指摘を繰り出している。日夜、様々な悩みを抱える在日外国人の子供たちに寛容に受け止める社会」と口に出された。さっき僕が「余計に慈しむと良い」といったのと気持ちが似通っていて偉いと誉めたい。玉木幸則は身体障害者だから不自由な世界で死期を悟るためか、命の尊さも流石に良く分かっているのではないか。聞いて感心させられる言葉を得た。 例えばみんなちがって、みんないいと金子みすゞが歌ったけれども皆に気付いて欲しい詩は実際には彼女が自殺した理由だったみたいな見方なんだ。 一口に個性というと「みんなちがって」ばかり追いかけたがるから在日外国人の子供たちに「インターナショナルスクール」と遠ざけるようになってしまう。玉木幸則の「ひとりひとりに応じることのできる仕組み」が「みんないい」わけなので、金子みすゞも生きていて良かったはずだと改めて想像する。つまり「みんなちがって」ばかりの世の中では人間の存在は否応なしに恐らく破壊されるし、社会においても不吉な事件や何かを避けられないように「みんないい」わけの方向付けを伴った個性こそ本物で、確かに望ましい。 畢竟、命の尊さが良く分かってないと人それぞれの思いが掴めないかも知れないので――生い立ちが並外れて優れてない(一秒でも死んだ方が益しだと現世を悔やんだりする)と無意識には身に付かない――いつも注意しなくては行けない。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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