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初めて十二月二十五日をクリスマスと定めたローマ帝国のコンスタンティヌス大帝はキリスト教に寛容だった

クリスマスはキリスト教の降誕祭/誕生祝いなんだ。とはいえ、主のイエス・キリストがいつ生まれたかは良く分かってないみたいで、何よりも聖書に明確な日付の記載がなかった。

元来、キリスト教はイエス・キリストの死と復活を宗教的に重視していたから生誕日を気に留めず、どこにも史実として正確に取り上げなかったらしい。とはいえ、時代が二千年以上前と余りに古過ぎるせいか、重視されたはずのイエス・キリストの命日も良く分からないままらしい。

ユダヤ歴のニサンの月の十四日か十五日/過ぎ越しの日の前日か当日のどちらかで、新約聖書の四つの福音書から前者はヨハネによる福音書で、後者はマタイによる福音書マルコによる福音書ルカによる福音書で示されている。加えてイエス・キリストの年齢も三十三歳程度――三十歳頃に神の子として宣教を始めて三年くらい経ってユダヤ教から敵視されてさらにローマ帝国の反逆者として磔刑に処されて亡くなった(およそ三日後に復活して、四十日、生存したらしい)――と十分に判然としないために生誕日について一般的には逆算されもしないみたいだ。調べながら通説が見当たらなくて参った。

結局、イエス・キリストの誕生会そのものがクリスマスではない可能性も全くないわけではないにせよ、およそ三百六十五/六日分の一よりも低くないとしかいえない。

サン・ロレンツォ・マッジョーレ大聖堂のコンタンティヌス大帝の彫像が立てられた正面広場の景観Basilica Maggiore di san Lorenzo by Sergio D’Afflitto [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

クリスマスはどうして十二月二十五日なのか。四世紀の中頃にローマ帝国のコンスタンティヌス大帝によって初めて定められるようになった。キリスト教の教義を整理するために第一回ニカイア公会議(325年)が開かれたのが切欠だった。

以前は地方教会が個別に判断していた信仰の正邪を合同的に捉え直そうとした。治世上、コンスタンティヌス大帝は国内でキリスト教が分断するのを避けたかったようだ。紛争によって治安が悪化したり、国民が難渋したりするのは不味いと考えたのではないか。

コンスタンティヌス大帝は事前にキリスト教徒の礼拝の日(主の日)を国内で土着のミトラ教徒の太陽崇拝の日の十二月二十五日と結び付けて役人の休日/祝日に制定(321年)していた。冬至の翌日の世の中で日が伸び始めるという意味合いから不滅の太陽の生誕日だった。第一回ニカイア公会議ではイエス・キリストの生誕日も考え出されたので、コンスタンティヌス大帝が十二月二十五日に当て嵌めながら制度化するに至ったみたいだ。確実に議題として取り上げられて祝祭の必要性が採択されたかどうかまでは断定できなくて情報が錯綜している。クリスマスがイエス・キリストの生誕日として事前に制定されたキリスト教とミトラ教を合わせた祝日/冬至の翌日で不滅の太陽の生誕日の十二月二十五日に相応しいと後から定められなかったともかぎらない。

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。

ローマ帝国で端からキリスト教に重視される「義の太陽」とミトラ教が崇拝する太陽はイメージが一致していた。十二月二十五日には前者の礼拝の日と後者の太陽崇拝の日が重なってしまうので、互いに競い合うように祝われれていたともいわれる。コンスタンティヌス大帝はそれぞれに折り合いを付けながら祝日を先ずは作ったけど、さらにイエス・キリストの生誕日が考え出された第一回ニカイア公会議を切欠にクリスマスまで持って行った。十二月二十五日は不滅の太陽の生誕日だからどちらでも通用したし、イメージが何よりもぴったりだったわけだ。

クリスマスとは何か、十二月二十五日のイエス・キリストの生誕日を想定した祝祭について纏めると由来はイエス・キリストが「義の太陽」と捉えられていたせいで、発祥はキリスト教徒の礼拝の日だったためで、起源はコンスタンティヌス大帝が第一回ニカイア公会議によって(参加者の議決に基づくかどうかは不明にせよ)定めたからだった。

第一回ニカイア公会議はキリスト教の教義を多くの地方教会の代表者によってニカイア信条を中心に掲げながら合同的に捉え直した。コンスタンティヌス大帝はキリスト教をクリスマス以外にも最重要の復活祭を含めて色々とミトラ教と置き換えるように国家的に取り込んで行った。以降、ローマ帝国で止まらず、さらにヨーロッパ全体にキリスト教が広まり続ける発端になったといわれている。

コンタンティヌス大帝の胸像Constantine the Great by Marie-Lan Nguyen (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons

四世紀の中頃、ローマ帝国でコンスタンティヌス大帝がもしもキリスト教に寛容でなかったら実際にクリスマスの起源には含まれなかったはずで、元々は皇帝の権威を脅かすとキリスト教は弾圧されるのが常識だったんだ。

キリスト教徒が年々と増えて来たために政治的に取り込むしかないと新しく考え付いたようだ。

コンスタンティヌスが三世紀の軍人皇帝時代から東と西に分かれてしまっていたローマ帝国を再び統一して大帝という地位に就いたのも君主としてキリスト教を擁護した治世が大きかったと思う。

西ローマの正帝だった時分に東ローマの正帝だったリキニウスと連盟でミラノ勅令(313年)を発布してローマ帝国の全土にキリスト教を含めてあらゆる宗教を公認したけど、ところが暫くして互いに内戦を起こしてしまう。ミラノ勅令のコンスタンティヌスとの会談の途中で、リキニウスがマクシミヌス・ダイナに領土を攻め込まれて反撃に戻ったらしくて打ち負かしたものの支配権を増したので、東西の領土の相容れない状況こそ浮き彫りになったせいかも知れない。コンスタンティヌスも支配権を増していたらしくて完全に敵対しながらマルティアの戦い(317年)で一旦は和解したけれどもリキニウスのミラノ勅令の破棄(320年)と共にキリスト教徒を異教徒の立場から迫害すると内戦が又起きた。政治的と同時に宗教的な対立として火に油を注いだように以前よりもさらに激化したようだ。最終的にクリュソポリスの戦い(324年)でコンスタンティヌスがリキニウスを討ち滅ぼして東西のローマ帝国の唯一の皇帝/大帝に即位した。

コンスタンティヌス大帝はローマ帝国を東西で再び統一して首都をビュザンティオン(現在はトルコの首都のイスタンブールだ)にノウァローマ(新しいローマ)と名付けて改めて遷した。建築物にキリスト教の世界観を従来よりも積極的に取り入れながら構成されたらしい。人々からは本人の名前を冠してコンスタンティノープル(コンスタンティヌスの町)と呼ばれて当初のノウァローマの都市名は直ぐに消え去ってしまった。歓迎されたせいだろう、きっと素晴らしく。想像するとキリスト教徒にとって趣向に適っていたから日常生活で住み心地が良かったのは間違いない。

翌年、第一回ニカイア公会議が開かれてコンスタンティヌス大帝がローマ帝国にキリスト教をミトラ教の代わりに根付かせるべく実行した政策の一つにクリスマスが挙げられるわけだった。

参考:クリスマス クリスマス クリスマスの起源と伝統 もうすぐ、クリスマス(キリストの生誕の日)ですが、なぜ、12月25日なのでしょうか? 日本のクリスマスの始まりはいつ?起源と歴史。外国との違いとは?

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