自由な作家活動でブログ三昧の全力感を示すために心から喜んで記事を作成する 結城永人 - 2017年12月31日 (日) 一年も終わりの大晦日、振り返ると本当に酷かった。クリスマス前後に一日二百人を越えたブログのアクセスが又下がっているし、来年も不幸ではないかと思い遣られる。死ぬしかないだけの毎日が続く。 結局、天職を全うするよりも方法がない Two horses running by Bhakti2 / Pixabay 僕にとっては作家活動だけど、とにかくブログを更新できる日々の自由を大切にして生きるべきではないか。分かっている、昔から。しかし十分ではない。二十代の小説三昧、三十代の詩三昧、作家活動は天職だと気付いてから三昧になり切れないブログを感じないわけではない。 作品としての思いが薄い、ブログの記事に。元々、ホームページの日記から始めているから気儘にやっていてきっちり仕上げなくて良いと捉えてしまいがちだ。努めて励みつつもまだ小説や詩と区別している部分が不味い。 ブログの記事も一つの作品でなくては不自由だし、天職の作家活動に見合わないはずだ。気儘にやるならばソーシャルメディアで構わないし、自己表現を的確に行うのは現在は少なくともブログでなければならないと考える。 どうも気が抜ける。ブログ三昧の四十代と心からいえる生活にすればきっと訪問者もさらに喜ぶのかも知れない。何でも同じで、一番、面白いのは全力感だ。手抜きのない人生を些細な日常でしっかり受け取らせたい。 笑えるよ、例えば「そこまでしなくても」(天使的な人)といわれると。呆れるほどに頑張ってこそ皆も幸せではないか。僕自身が心から喜んでないと無理なんだ。少しでも悲しんでいると自己表現で全力感は出せない。自由を繰り広げられるかどうかに注意しながらブログの記事を作成したい。 来年からはブログ三昧の生活が目標だ アクセスアップが欠かせないから非常に落ち込み易い。不幸が避けられないかぎり、もはや誰も来なくても良いと認めるべきだ。神と天使はいるし、死んでも構わない。いつでもどこでも絶望から始めるな。ブロガーとして訪問者へ全力感を示せなくなるばかりだ。 いい換えれば不幸を忘れるために頑張ろう。無名作家で終わるしかない不遇の人生のままでもやって来ない幸せを夢見る気持ちを爆発せると悲しみは弾け飛んで不幸も消え去ってしまう。晴れ上がった青空に挨拶を新しく送るような自己表現が何にも況して快適だ。 生きるのが辛いから嫌気が差す。しかしながら関係ない、本当は作家活動で人気を博すかどうかなんて。僕には生きる道が他になかった。ブログに訪問者が少ないのを恐れても仕様がない。どうせやるんだ。誰も来なくても続けているのは確かだし、プロへの望みも虚しく、三十年くらい経ったにせよ、天職だから止められはしない。 自分にとって作家活動の最終目標は作品だと肝に銘じて作家として売れるかどうかに少しも浮き足立たず、ブロガーとしてもアクセスにどっしり構えるように作家活動に悪影響を及ぼすまで苦慮するのを避けながら本当に心から自由にやって行くべきだと感じる。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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