村治佳織のPlays Bachをバッハの作曲家としての表現力のリアリティーから聴く


村治佳織のアルバムで最もお勧めの一枚はPlays Bachだ。十八世紀のヨーロッパ、バロック時代の作曲家で、ヨハン・セバスティアン・バッハの作品を取り上げてクラシックギターで演奏している。


バッハは近代音楽の父とも呼ばれるけれども楽器の調律を始めとした二十一世紀の今現在でも頻繁に活用されずにいない人々の音楽の一般的な基礎を確立した作曲家だったらしい。本人は必ずしも狙ってなくて好きな音楽を気儘にやっていたようだから後世の作曲家たちが心酔してしまって追従せずにいられなかったせいだろう。概してバッハ自身はドイツから一歩も出ずに細々と暮らしていたし――音楽で有名だったのも専ら教会や宮廷の楽士/オルガニトとしてだから作曲家としては殆ど無名に近い存在だった――生前から現代に至るまでの変わらない脚光を浴び続けていたとはかぎらない。


取り分け注目されるバッハの調律法の平均律が作曲の転調を簡単に可能にしてくれた。主に鍵盤楽器で従来の純正律よりも音程は僅かに濁るけれども作曲の転調がどうも不可能だったのを打破して音楽に新時代を齎した。バッハは平均律クラヴィーア曲集で実現したとされるので、確かにクラヴィーアという鍵盤楽器(ピアノ以前)のために考え出していた。


バロック時代に次いで古典派時代のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲に積極的に取り入れて転調だらけの音楽で人気を博したりして音楽の表現力が増したわけだ、バッハの平均律の簡単に可能な転調によって。


何が良いかというと和音と音符の組み合わせの楽想が転調で構成的に変わるので、ドラマに例えると場面が幾つも切り替わるように作曲できる。モーツァルトならば世界とは何か、ベートーヴェンならば人間とは何かと音楽で知覚しているのではないかというくらい表現力にリアリティーが得られたようだ。哲学並みに真実を追い求めるとも過言ではない。方法上、言語と言葉の無限大の繋がりに似ているし、楽想の扱いについて多種多様性こそ感じるのは明らかだ。


総じてバッハの平均律から聴いて気持ち良いだけが音楽ではなくなったと捉えてみると芸術的にも影響力は大きいだろう。現今の歌謡曲でも気持ちを表現するために転調を入れれば幅広く仕上がるから納得するほどに面白くて止められなくなるかも知れない。というよりもだから何百年と久しく久しく続いていると思う。作曲で新しい閃きが生まれさえもする。つまり顕微鏡で微生物が初めて見えるのと同じで、表現力のリアリティーで現実が逆に分かるためだ。日頃の現実から分かるだけが知覚される全てではなかった。音楽からしか分からない現実に気付くと作曲は止められないくらい面白いはずだし、他の物事に取り組んでも仕様がないので、一体、何なんだと追い求めるかぎり、作曲家が没頭するのも無理はない。


村治佳織のPlays Bachはコンセプトが抜群なんだ。題名を和訳するとバッハを演奏するとなる。どんなバッハなのかは好きな音楽から新しい閃きまでの一部始終を孕んでいると認める。


大体、最初で合わないんだ、バッハの解釈というと。バッハは近代音楽の父とも呼ばれる偉大な作曲家だから敬うのは人それぞれにせよ、音楽の一般的な基礎を重視すると演奏しても好きな音楽が遠ざかるのではないか。


繰り返すとドイツ国内で細々と暮らしていた。演奏以外ではさほど人気者でもなかった。端的にいって音楽の一般的な基礎はバッハ自身の気持ちではなくて後世の作曲家たちがバッハの音楽に心酔した気持ちだったんだ。置き換えるとバッハの解釈は緩んでしまう。


僕が知りたいのは少なくとも偶像ではない。皆の思いをバッハは受け付けないし、脚光を浴びながら生きていたわけではない。だから一人で気楽にやっていた部分を知りたい。


一言では好きな音楽とは何か。村治佳織のPlays Bachにはバッハを弾くだけではなくてバッハを遊ぶというニュアンスも含まれているようだ。アルバムの取り分け限定版のジャケットを見て気付いた。楽器も持たずに手ぶらで散歩している。通常版では机に着いてギターも出て来るけれども横向きに置いているだけだから必ずしも演奏する体勢ではないし、寛いでいるんだ。アルバムのジャケットにバッハを弾くと共に遊ぶというニュアンスが込められているならば好きな音楽をコンセプトとして必要十分に捉えているためだと感じる。


聴いて確かに貴重だし、村治佳織のPlays Bachを絶賛する。バッハの好きな音楽は一人なので、個人の気持ちではない。所謂、自己表現の手段として音楽がまだ存分には把握されてない状況の作曲家だから楽譜には好きでも社会が多く反映するはずだ。バッハの作風は宗教音楽でしかないけど、とにかく巷の教会の考え方に縛られるように作曲されていたと考える。好きな音楽の気持ちも彼にとってはキリスト教の枠組みの中で捉えなくては不正確になってしまう。村治佳織はミッション系の女子聖学院中学校高等学校に通っていたし、キリスト教には馴染み深いせいか、内容的にも良い感じに仕上がっている。


調べると宗派もプロテスタントだからバッハと同じなんだ。聖書を何よりも重視するのが最大の特徴なので、かねて人々にカトリックが隆盛を極めたところから信仰の無駄を削ぎ落としてキリスト教の原典に回帰するような仕方で出て来たようだ。十六世紀のヨーロッパでマルティン・ルターのカトリック批判から広まった宗教改革の第一の担い手がプロテスタントだった。教会の腐敗という教皇位の世俗化や聖職者の堕落などに対して人々の不満が強大に爆発していた。


オルガンの席に着いたヨハン・セバスティアン・バッハの肖像

村治佳織のPlays Bachは落ち着いて聴けるのが何よりも有り難い。一人で好きな音楽をやっていたもののキリスト教のプロテスタントの信者としての質実剛健なバッハの素顔までもはっきり教えてくれるようなギターの音色だと受け留めている。細やかな味わいが個性的な奏法かも知れない。宗教音楽だから落ち着いて聴けるという趣きそのものは最重要なはずだし、または瞑想を誘うような揺るぎない音作りができる演奏者だから良いと思う。


芸術的にいって新しい閃きも大きい。バッハがどんな作曲家なのかをオーソドックスに捉えている。如何にも古いらしい。だからこそ面白い。個人以前の終わった世界というか、社会と一体化して暮らす他はなかったバッハの人生に思いを馳せるのが容易いので、感動する。現代から二度と手が届かないかも知れない真実に触れられる。


キリスト教が主体の君主制国家の人生というと没個性だけれどもバッハの場合には平均律などで音楽の新時代を切り開いたところが一定の様式美を越えるし、バロック時代の自己表現に止まらず、聴きながら全てが現代に通じさえもするわけなので、格別に興味深く感じるんだ。特色に満ち溢れていて同時代の他の作曲家とはおよそ比べようもないくらい魅力的なのは恒常性を持った音楽を生み出したせいで、何はなくとも表現力のリアリティーが素晴らしいために耳を傾けては否応なしに唸らされてしまう。考え出されたばかりで、モーツァルトやベートーヴェンなどの後世から振り返るとぎこちないけれども本格的なのは間違いないし、強いて自己表現に凝らず、ただ好きな音楽をやっているだけだという狙いそのものが単純明快で分かり易いのは却って利点かも知れない。


村治佳織のバッハの演奏には素朴さも良く出ている。普通に全てを再現しているギターではないか。一番、嬉しい、僕にとっては。メロディーもリズムもテンポも当たり障りがない。心地良いばかりの時間を過ごせるアルバムがPlays Bachなんだ。バッハの音楽とは何かを残された楽譜通りに忠実に捉え切っているようで、ともすると失われてしまう精髄が打ち出されているのが凄い。


歴史上、余りに新し過ぎて他の全てに瞬く間に覆い尽くされるのがバッハの音楽ならばいっそ奇を衒って再現しては演奏者も取り逃がすばかりの虚しさを強いられるだろう。


料理に例えると味付けを抑えて素材感をはっきり得られてこそ美味しい楽譜を完成した作曲家がバッハたと受け取る。


僕が村治佳織のアルバムの中でPlays Bachが最もお薦めと最も気に入っているのはバッハの解釈が抜群なのともう一つは好きな音楽から新しい閃きまでの表現力のリアリティーがギタリストという演奏者として合っていると想像するせいだ。


自由度が高くて人生の幸せを認める。神に感謝するべきならばバッハの作風の宗教音楽にピッタリだけれども村治佳織が真実に必要としているようだから素晴らしい。ギターは胸打たれて震撼させられるくらい美しいから唯一無二の祈りに代えて弾かれてそうだ。


他のどんな音楽を扱うよりも生き生きしている。村治佳織の本音がバッハの全てに託された聴き応えが飛びっきりのアルバムがPlays Bachだと考えてしまう。作曲家と演奏者の出会いの尊さも大きいに違いないと泣けて来る。


参考:村治佳織 - 主よ、人の望みの喜びよ(街 ver.)

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