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松岡宮の大田区というひとつの完結した世界がありに掴み取る自然の儚さの詩情

松岡宮は詩人で良いと思うけれどもポエトリーアーティスト(詩的な芸術家)を名乗っていたり、駅員が好きでいつも追いかけ続けているとか如何にもキャラクターが濃いらしくて注目してしまう。

桐蔭学園ー代ゼミー東大理2-保健学科ー修士卒業 (博士課程は受けずに、放浪しますと言い残して大学を去ったような去らないような・・・) いつも真面目にやってるのだけど、劣等生で・・・ついてゆくのが大変・・・

経歴が凄くて東京大学を卒業していた

IQ(知能指数)が非常に高いのではないか。日本一、そして世界でも指折り大学に数えられるのは間違いなさそうな気持ちがする。

情報によると東京大学でも理科二類の保健学科は理科三類の医学部などよりは入学するのは大変ではないみたいに聞かれもするけど、驚くのは驚くし、しかも松岡宮は修士卒業だから進学して大学院の半分(修士/博士前期過程)まで行っていて勉強家だと唸らされる。

二十代前半、コンビニでアルバイトをしていた頃、同僚の二人の東大生と出会って一人はちょっと遊んだりもしたくらい仲良くなれたけどーー夜勤明けに相手の家でスーパーファミコンファミリーテニスを愉快にやってから他のゲームを貸すか何かで自分の家に来る途中で、駅を降りると腹が減ったといわれるので、朝早くから開いている店が少ないとちょっと悩んだ、近場のリンガーハットへ連れて行くと長崎ちゃんぽんを平らげた後に美味しかったと又いわれるのが嬉しくこそ微笑ましかったーー何れも普通の印象を与えた。ただし話し込むと神経過敏な面に驚かされながら凝り性みたいな人柄を受け取った。何かに打ち込む能力が長けているから受験勉強にも功を奏して超難関の東京大学に入学できるのではないか。いい換えると精神の集中力に優れているわけだ。

松岡宮もそうなのか、駅員への執拗なまでの拘泥りとかやはりと合点するし、凝り性みたいな人柄を明らかに示している。別に東大生だけではないにせよ、知り合いの二人と似通っているのが面白い。

松岡宮/大田区というひとつの完結した世界があり(2017年音源) via Miya Matsuoka

詩では大田区というひとつの完結した世界がありYouTube)に甚く引き付けられた。

青春期に大田区へ良く行っていた

僕はアルバイトで通っていたんだ。最初は電車が多くて山手線の五反田駅から東急池上線に乗り継いで移動していて自動車の運転免許を取って車を持った二十歳の春(二十一歳の手前)からは環七通りを中原街道へ曲がって走っていた。広めの道路で、坂道がうねっているような感じが独特なんだ。

松岡宮の大田区というひとつの完結した世界がありの動画の車が何台も走り去る大通りは中原街道ではないか。片側は東急池上線と建物を隔てて平行している感じだけど、もう片側は低めに開けていて川が流れていたり、湖か何かの大きな水辺もあったはずだ。改めて調べてみると洗足池公園の池だったと記憶に甦る。白鳥の乗り物/スワンボートが浮かんでいるのを遠くからしょっちゅう見ていた。都会のど真ん中に大きな水辺が広がっている光景は衝撃的だったのと同時に恋人がいればデートで是非みたいに可愛らしくて心を和まされていた。

大田区というひとつの完結した世界があり
水は優しき 空の広き
美味しい空気が味わえて 伸びたい草は夏ざかり
神奈川を見るな!
品川を見るな!
世田谷を見るな!
太平洋を見るな!
ただ 大田区内だけを見ていなさい

松岡宮の大田区というひとつの完結した世界があり

僕にとっては洗足池公園のスワンボートがロマンスを象徴的に味わわせたけれどもイメージそのものは「伸びたい草は夏ざかり」の気分に繋がる。世代を越えている。子供から大人まで世の中のカップルというカップルの全ての思いが集約されたような詩情を与えられた。共感せざるを得ない、大田区というひとつの完結した世界がありを読んで松岡宮の詩人としての言葉遣いに。

他の場所を専ら受け付けないように自己主張が込められているのが出色かも知れない。または谷川俊太郎が詩人かどうかは怪しいみたいな気風からすると例えば些細な日常も手に付かない/心を擦り抜けるほどに自然の儚さが分かっているわけなので、正しく固執するかぎり、真剣に頑張っていて人間的に偉いと誉めたくもなる。

自然の儚さのための自己主張が作詩ならばポエトリーアーティストのコンセプトにぴったりだろう。

詩があるのは目の前ではない

だから松岡宮は詩人とは自分の口から名乗り難い気持ちがするのではないか。歌っても嘘がない世界は素晴らしい。ひょっとして詩人ではないとしても又別の仕方で許されるだろう。信義を保つ存在というか、忠誠を誓った何かへの本音が好戦的でないかぎり、少なくとも僕は現実に見下すつもりにはなれない。

たいくつの暇がないほど会合好きな同業者たち
知り合いの知り合いはもう知り合いな大田区
思惑の風船はぶつかりあって 仲よくなって 握手して

・・・どうして 仲よくなろうとするの?
自由な風船はもうひとりぼっちではいられない

「あなたはここで生き ここで認められ ここで一生を終えるのだ」
「路上駐輪を許さぬ目 みんなの目」

もう大田区を出られない
出るときは全てを棄てるとき
もう大田区を出られない

松岡宮の大田区というひとつの完結した世界があり

微妙ながら「ぶつかりあって」を平穏な戯れと捉えると松岡宮は親身に馬鹿にできないと感じる。自分が自分でしかないのはなぜか。思春期の自我の芽生えでもなければ他者は本当は手かがりにはならないんだ。されど内省が重要なためではない。誰の力も借りずに内面に真実を湧き出させるような生き方が問われているので、大田区というひとつの完結した世界がありから一文を挙げると「自由な風船はもうひとりぼっちではいられない」のインパクトは相当に大きそうだ。言葉が無制限な境地で、全てを見届けていると受け取る。

詩人の眼差しとしては卓越しているし、スケールが桁外れの感受性に基づいているに違いない。言葉の端々は痛いくらい厳しい(実生活のイロハを醸し出している)けれども本来の性格は大人しいと想像する。世界を包み込む優しさというか、慎み深さが松岡宮の作詩の根幹だし、本心と切り放し得ない素顔みたいだ。

大田区というひとつの完結した世界がありは現実の住処が大田区だと直ぐに察するくらい生活圏を礼賛している様子がありふれた表現に終わっているかも知れない。普通はやらないはずだけど、決めてやるならば慎み深さから理解すると地元への愛を訴えたいためだ。人それぞれの命の営みに結び付くと良いと思うし、大田区が一番の響きが喧しくて一般的に伝わらないとか聞くまでもない連想を常識として厄介に引き起こすなんて没個性が大事にされているわけではないだろう。

洗足池公園:スワンボートが浮かんだ広々とした池

生い立ちの立脚点とも呼べる

現実の住処を発端とした地元愛の抜き差しならない面は少しでも味わわれると疑うのは難しい。骨にまで染み渡るほどの言葉遣いがありふれた表現に僅かでも抵触しているかぎり、もはや魂を揺さぶる詩が大田区というひとつの完結した世界がありだと過言ではない。

本当に独り善がりにも見えるし、僕もブログでわざわざ取り上げる必要はないと全く考えないわけではない、今此処で笑い出してしまう。

松岡宮が気持ちを閉じるのは表現上は真実を軽くするのと同義だからユーモラスなんだ。

抜き差しならない面、骨にまで染み渡るほどの言葉、魂を揺さぶる詩はさしずめ古代エジプトの女王のクレオパトラの波瀾万丈な人生でもなければ平々凡々と過ごされるのが日本の現況だとは感じる。

たとえ見付けても大袈裟な喜びではあり得ないようだ。幸せならば些細な日常に含まれるくらい小さいのではないか。松岡宮が口にする「大田区」は妙案の塩梅で聞こえる。最終的に没個性へは行かないスタンスで、むしろ個性が滲み出すように密かに言語化されているとすると東大卒の秀でた頭脳も空恐ろしい真実を提示しているせいだ。

作詩の実力は抜群ではないか

自然の儚さを見逃し易いままに捉えているからリアリティーは却って増す。結局、大田区というひとつの完結した世界がありは独り善がりに見えてこそ面白いわけで、それ自体を真に受けてはまるで蜘蛛の巣に蝶が引っかかるように逆に勿体ないと呆れる。人生で見逃したくない物事を相応の気持ちを込めた一つの詩を通じて諭してくれるのが嬉しい。

すなわち諦めない夢の「大田区」が情感的に堪らなく、気に入るんだ。

緑豊かな自然の風土を都会のど真ん中で著しく持ち上げている場所だから儚さも周辺とは対照的に分かり易いわけだ。

経験上、中原街道の両側で差し迫って認められたし、咄嗟に言葉に詰まるのが正直な感想なので、松岡宮は本当に良く歌い出したと憧れるし、大田区というひとつの完結した世界がありで青春期から改めて思い起こさせられるのは個人的に有り難い。

詩情の詰まった空気が美味しいものの気付くと切なくて忽ち掻き消されながら涙も潤わしく広がっている。

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