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タモリの友達不要論は一人の時間を大切にしながら常識を越えて林修も同感する

かつて笑っていいとも!(テレビ)のテレホンショッキングのコーナーで次から次へとゲストに頼んで友達の輪を何人分も広げ続けたタモリが実はトレードマークのサングラスで人々から表情が隠されるように内心で正反対の友達不要論を唱えていたと分かった。

林修が本人から笑っていいとも!のリハーサルで「友達はいらない。諸悪の根源である」と聞かされていて二人で話し合える本番のじっくり話し太郎のコーナーで一つの名言として真相を確かめると「これは言った覚えがある」と教えて貰えたんだ。

タモリは小学校や幼稚園で良く歌われる童謡の「ともだち100人できるかな」(一年生になったら)の歌詞が受け付けられない気持ちがして「何が誇りなんだ! 友達の数が多いと人生が豊かになるなんてとんでもない勘違いだ」と自分なりの友達不要論を練り上げるに至ったらしい。

当の童謡の題名の「一年生になったら」からすれば歌詞全体が小学一年生に限定された内容で、子供たちが初めて入学した学校での人付き合いへの新たな可能性を喜ばしく捉えているだけだから「誇り」とか「人生が豊か」なんてタモリは考え過ぎかも知れないけど、ただし人間ならば誰でも友達がいなくてはならないような押し付けがましさが印象上でも気に入らないとすると僕も納得しないわけには行かない。

児童期、聴きながら、または歌いながら「ともだち100人できるかな」に友達がいない人間は駄目ならば酷いという感想を密かに抱いた記憶がある。童謡の主旨から外れるかどうかの作者の思いは何れにせよ、世の中のそうした人たちを差別しない生き方を望んだのは明らかだった。そして何年後かにはどうにも可哀想なかぎり、つまり孤独と呼ぶならば振り返ってフランツ・カフカが愛するような仕方で、皆を守って暮らすのが自分らしいと感じながら認めたりしたのも覚えている。

タモリは「結局、その“輪”以上のことができない気がする」と友達を持つことの弊害を真っ先に捉えたんだ

月の出た夕闇に紛れる男性の後ろ姿

所定のグループの感覚を一つの常識とすれば人間的に先へ進めなくなって越えられなくなってしまうのが悲しいだろう。または変わり映えのしないマンネリの日々が詰まらなくて耐え難いほどに退屈かも知れないけど、それこそ「誇り」でも「人生が豊か」でもないわけで、友達不要論への動機付けになる。

いってみれば一人の時間を大切にして皆と一緒に過ごさなければお決まりの生活でしかない常識を越えるはずの面白さを新たに自分なりに味わえるから気に入らずにいないんだろう。

さらに、「今は1人だと人間の価値が低く見られるようだ。学食で1人でごはんを食べていると『あいつは最低の人間だ』と見られるのが嫌でトイレでご飯を食べるらしい」と若者の間で1人でいることを“ぼっち”と呼ぶことや“便所めし”という風潮を嘆き、「1人がイイ! 1人で十分だ」と林先生と意気投合していた。

タモリの名言は本当か? 林修先生が『いいとも』で真相を追及。 via Techinsight

タモリに同感する林修も相当に一人が好きだったみたいで、だからこそ「友達はいらない。諸悪の根源である」について知りたかったらしい、自分のテレビ番組の林先生が驚く初耳学でも取り上げていたんだ。

7月29日に放送された『林先生が驚く初耳学』で、予備校講師の林先生が「“1年生になったら友達100人できるかな”は否定すべき」と“友人不要論”を熱弁し、話題だ。林先生は、菅野仁のベストセラー『友だち幻想』をベースに持論を展開。この歌は現代人の人間関係の悩みを象徴する歌であるとし、「現代人は友だちがたくさんいることがいいことだといつの間にか思い込むようになっているが、その出発点にあるのがこの歌なのでは…?」と疑問を呈した。

世の中への違和感として単独行動は不味いという風潮が日本にはあってそれが避け難いいじめの温床にもなっているようだ。あいつは自分たちとは違うから外敵と見做して排除せよという判断基準に友達かどうかが挙げられる。個人的に最も危険なのは友達ではないから殺して良いんだなどの観念だと口に出しただけでも戦慄く。皆も同じだろう。会社や学校で人付き合いに必要な友好関係が崩れると辛い気持ちを強いられずにいない。何とか変えられると嬉しい気持ちで生きられるし、皆と過ごし易くなる。一人の時間を大切にできれば自分以外も同じかも知れないと他人への想像力が湧くはずだ。彼、または彼女の存在自体をまるで自分のように愛しく尊重できなくはない。すなわち真の思い遣りを持って接するようになると友達に纏わる争いが減って世の中ももっと素晴らしいと実感できる。

林修は日本人ならば誰でも経験する一年生になったらが「現代人の人間関係の悩みを象徴する歌」と捉えていて非常に問題視しながら要するに「否定すべき」とまでいい切ってしまっている。

本質的に捉えると不味いのは歌の主旨が分からないせいで、作詞したまど・みちおは決して友達必要論を展開するつもりで一年生になったらを仕上げてないと考える。題名からすれば初めて学校に入る子供たちの期待に胸を膨らませる世界を表現したかったのは明らかだし、だからこそ実際に小学校や幼稚園に当たり前に取り入れられもするわけだろう。

最初は知らない人ばかりで警戒せずにいられない子供たちにせよ、友達が百人もできたら素晴らしいという皆が仲良く学び合って人間的に成長できる教育の理想郷を示すのが一年生になったらの歌の主旨なので、聴いて、または歌って各々が真実に分かりさえすれば他のどんな受け取り方にも惑わされなくなる。

友達不要論のために一年生になったらを完全に切り捨ててしまう林修の方法は荒療治というか、ある意味、過激な認識だろう(良い歌だから皆が止めてしまうならば寂しさを禁じ得ない) けれども肝心要は一人の時間を大切にできるかどうかだから決して悪くはない。

僕も皆と一緒でなくては生き辛い状況が鬱陶しいのは確かだ。考えると人々の集団生活で互いの和を乱さない気持ちも大事とはいえ、実際に個人性を脅かすほどに親しく付き合うべきなのだろうか。煩わしい人間関係から保身するべく、万一、仲良しを表面的に演じたりするような悲しみに囚われればそれこそ人間失格太宰治)の経験かも知れない。孤独でも何でも自分を見失うよりは益しだからかりに寂しさを選ぶとしても間違いではない人生といいたい。

翻って自分は誰も攻めなくても他人が単独行動を理解できないとどうにも変な目で見られて反対に攻められてしまい兼ねない社会だから厄介だ。常識を越えるように一人の時間を大切にするほどに耐えるしかない生活を虚しくも強いられるばかりの災難に嵌まり込むだろう。ただしタモリや林修が唱えている友達不要論が人々に広まれば単独行動への闇雲な敵対心について吟味される可能性も出て来る。全員が一緒でなくては不味いのは当たり前なのかどうか。そもそも自分を見失う危険性も否定できない付き合い方なので、本当は皆が互いに個人性を尊重し合える社会こそ理想的に望まれるはずだ。素晴らしく期待して良いと思うし、生き易くするためにブログに取り上げて少しでも多く知って貰わずにもいられない。

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