人間の道徳の理性と社会的に通用する常識に纏わる真実の思考 結城永人 - 2019年2月9日 (土) 道徳とは何か。本質的にいえば人間が生きるために合理的に求める規範だろう。方法上、合理的という認識の実質/道徳心の前提条件は人それぞれで、思想や信条によって変わってしまう特徴がある。 Blue butterflies in a dim forest by Stergo / Pixabay 僕はスピノザ主義者としてスピノザの哲学的な倫理学者としての方法を最重要視して理性を何よりも大事にして生きようとする。 定理二十四 真に有徳的に働くとは、我々においては、理性の導きに従って行動し、生活し、自己の有を推持する(この三つは同じことを意味する)こと、しかもそれを自己の利益を求める原理に基づいてすること、にほかならない。 バルーフ・スピノザのエチカ(畠中尚志訳) 世の中で理性が感じ取らせる生きる喜びが道徳といって良い。スピノザ主義でなくても共通の認識は珍しくないかも知れない。しかし共通ではないとすると理性ではない生きる喜び(概して表象だけれども欲望や本能などの様々な状態が当て嵌まる)を持つか、または病的だけれども生きる喜びを否定して悲しみながら生きる(内心は絶望的だからもはや死んだに等しい)かのどちらかの認識も合理的にあり得る。 普通に考えると理性以外の道徳はどちらも非常識だし、道徳は理性ではなくては成り立たないのが一般的なんだ。さもないと全員で殺し合って人類は終わりみたいな論法から抜け出せない。人間にとって理性の外側で好き勝手に存在する感覚は自分と自分以外の対立――誰も一人では生きられず、全ての生活は有限にしか営まれないから気付けば他者とも確実に打つかる世界――だからそれぞれの張る我(エゴ)から捉えると道徳は社会的に通用しなくなるためだ。 翻って社会的に通用するかぎりの道徳は人々の通念としての常識に他ならないのが普通だし、思考上も正しいだろうけど、ところが反社会的で非常識な道徳も完全に無理と否定できない。ある意味で可笑しいし、これ自体はナンセンスに受け取られる。何が正しくて肯定されるのか。理性ではない性質を持つかぎりの道徳を理解する場合においては反社会的で非常識でなければ反対に不合理で成り立たなくなるせいとしかいえない。総じて思考だけが合理的で、生きるための規範としての道徳を保持している状態だ。 道徳の真実は人間の理性か理性以外のどちらかを表現して思考が合理性を持つかどうかで実質的に判断される 大抵は社会的に通用する常識だけれども場合によって反社会的で非常識な道徳もあるから注意しなくてはならない。後者は自分一人で満足すれば良いだけだから他人へ知る必要はないにせよ、前者が独り善がりに陥らないためには内面から捨て去るのは誤りなんだ。認識の仕方が自分一人で満足すれば良いだけと同じになると道徳の中身はやはり反社会的で非常識といわざるを得ない。厳密に区別するために両方とも覚えるのが望ましい。 世直しに重宝するのは社会的に通用する常識という理性の道徳だ。もう一つの反社会的で非常識な道徳は本人にしか通用しないから良くも悪くも皆への影響力はないし、世直しには活用されもしない。 定理三七 徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。 バルーフ・スピノザのエチカ(畠中尚志訳) 倫理的に区別すると理性の道徳は自分一人の生きる喜びではなくて他人へも教える必要があるために社会的で常識的な真実を持ち、理性以外の道徳は正反対の真実を持つわけだ。厄介なのは理性の道徳が他人から実際に受け入れられない場合に反社会的で非常識な道徳の様相を呈する。混乱するしかないけれども理性以外の道徳という正反対の真実を納得するべきではない。 かりに他人に否定されてしまう生きる喜びを自分一人で味わわざるを得ない現実があるとすれば外観上は独り善がりと同じだけれども内観上は必ずしも一致していないはずだ。 悲しみを余儀なくされるかぎり、本人にとってもはや理性の道徳はまだ叶えられない夢の中にあるような状態に過ぎないにせよ、社会的で常識的な真実を持つことに何も変わりはないと考えられる。すなわち独り善がりの理性以外の道徳とは切り放されて理性の道徳は面目を保たれるわけだ。万一、誰にも相手にされなくても実情は同じだから悲しみながらさらに未来へ失望する必要もない。 念のために断っておくと理性の道徳は他人から実際に受け入れられなくては矛盾して成り立たない概念ではない。もしも本人が誤解しているならば上手く行かない全ては独り善がりに終わるしかない理性以外の道徳と反省されるのは明らかだろう。他面、世直しに重宝するまでの理性の道徳そのもの/本物の正しい生き方は人間にとって有用だからこそ同類の自分にも他人にも等しく役立つと包括的に判断される。 全員にこれが悉く理解されて聞き入れられるかどうかは又別の個人の精神状態なども関与しているから一筋縄では括れない課題を孕んでいるのではないか。 理想的にいえば全人類かも知れないけど、とにかく頼もしいくらい大勢に共有されない事実から自分が持つのは理性の道徳ではないと断定してしまうのは無理がある。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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