エラ・フィッツジェラルド|ジャズシンガー 結城永人 - 2019年11月29日 (金) エラ・フィッツジェラルド/Ella Fitzgerald。1917年4月25日生まれ。アメリカのヴォージニア州ニューポートニュースの出身。ジャズ、ブルース、R&Bを歌う。 エラ・フィッツジェラルドの歌手人生 Ella Fitzgerald by Carl Van Vechten / Public domain 幼少期に内縁の両親が別れて母親に引き取られる。1920年代の始めに母親と新しい継父と共にニューヨーク州ウエストチェスターへ移り住む。十歳までは野球とかスポーツを良くやっていたけれども家族全員がメソジスト教徒で、アフリカンメソジスト監督教会へ礼拝や聖書学や日曜日を行っているときに音楽を初めて覚えた。 それからジャズのルイ・アームストロングやビング・クロスビーやボズウェルシスターズを聴いていて取り分けボズウェルシスターズのメンバーのコニーボズウェルが気に入っていた。 母親がレコードを買って来て音楽を聴かせてくれたけれどもエラ・フィッツジェラルドが十五歳のときに交通事故の怪我が元で他界する。 翌年の四月まで継父が世話した後はハーレムへ引っ越して叔母と暮らした。 酷く落ち込んで学校ヘも行かず、どうしようもない悪党と知り合って売春宿の見張りや違法賭博の業者で働いたりしながら警察沙汰を起こすようになり、有色孤児院へ送られ、来る人が増えて込み合うとニューヨーク女子自立支援施設へ移された。 暫くして出ても絶望のドン底で、ハーレムの道端で愛する歌を歌いながら日銭を稼いで食い繋いでいたらしい。 十七歳のときに歌手デビューのチャンスが巡って来てアポロシアターのアマチュアナイト(コンテスト)に出て優勝を掴んだ。1934年11月21日、気に入りのジャズシンガーのコニー・ボズウェルのような仕方で、ジミー・グライアー&ココナットグローヴオーケストラのヴォーカルにピンキー・トムリンを起用したThe Object of My Affection(ボズウェルシスターズにもカヴァーがある)とホーギー・カーマイケルのJudyを歌った。本当はダンスで挑戦するはずだったけれども対戦相手のエドワーズシスターズのダンスを観たら(The Edwards Sistes, 1949)怖じ気付いて歌に変えてしまったのが却って功を奏したわけだったんだ。 コンテストが続き、翌年の一月にアマチュアナイトと同じ会場のハーレムオペラハウスで、タイニー・ブラッドショウのバンドとの一週間の公演を勝ち取ったけど、後日、そこで出会ったミュージシャンのチック・ウェッブとの音楽的な繋がりこそがエラ・フィッツジェラルドがジャズシンガーとして全国区の人気を博する発端になっている。 イエール大学で試験公演を行い、聴衆やチック・ウェッブと仲間たちから称賛を得たエラ・フィッツジェラルドは晴れてチック・ウェッブのバンドのヴォーカルとして迎え入れられた。 ハーレムのサヴォイボールルームで、演奏して盛況を示すと共にレコードを出すやヒット曲も現れた。就中、1938年に出した童歌を扱ったA-Tisket, A-Tasketはラジオで流れると多くの人々から親しまれ、売り上げも百万枚を超える大ヒットを記録したんだ。 ところが残念なのはバンドリーダーのチック・ウェッブが幼少期からの持病の脊椎カリエスに耐え切れなくなって翌年の夏に三十四歳の若さで、この世を去る。 エラ・フィッツジェラルドは彼の音楽への遺志を継ぐように残されたメンバーと共にエラ・フィッツジェラルド&ハーフェイマスオーケストラのヴォーカルとして以前と変わらない歌手活動を続けた。 1941にソロへ転向する。インクスポッツやルイ・ジョーダンやデルタリズムボーイズと組んでヒット曲を出した。そして1946年から新しくマネージャーとなるプロデューサーのノーマン・グランツとJazz at the Philharmonicのコンサートやレコードなどで協働し始める。 丁度、ジャズの主流のスタイルがスウィングからビバップへと変わる時期で、エラ・フィッツジェラルドの歌唱にスキャットが新たに取り入れられたり、ジャズシンガーとしてさらに進化を遂げて行くことになる。 1947年にディジー・ガレスピー・ビッグバンドとのツアーで、スキャットを使ったビバップスタイルで歌う――曲目はFlying Home(ベニー・グッドマンの楽曲のカヴァー)やHow High the Moon(ジャズスタンダード)やOh, Lady Be Good!(ミュージカルのLady, Be Goodの主題歌)などがある――とコンサートで盛況を示したし、レコードも良く売れた 。 そして1955年からノーマン・グランツがエラ・フィッツジェラルドの魅惑的な歌声ために興したとされるヴァーヴレコードに所属してさらに飛躍が図られる。 最盛期といって良いかも知れないけれども当代のビバップに歌い疲れて新境地を切り拓く試みとして同国人のアメリカの作曲家を個々に取り上げたアルバムのソングブックというシリーズを出してやはり成功を収めるんだ。 Ella Fitzgerald Sings the Cole Porter Songbook(1956)Ella Fitzgerald Sings the Rodgers & Hart Songbook (1956)Ella Fitzgerald Sings the Duke Ellington Songbook (1957)Ella Fitzgerald Sings the Irving Berlin Songbook(1958)Ella Fitzgerald Sings the George and Ira Gershwin Songbook(1959)Ella Fitzgerald Sings the Harold Arlen Songbook(1961)Ella Fitzgerald Sings the Jerome Kern Songbook (1963)Ella Fitzgerald Sings the Johnny Mercer Songbook(1964) どれもエラ・フィッツジェラルドの自分らしさを象徴するような素晴らしい仕上がりで魅せると同時に歌が好きな人――含まれる歌のジャンルは決してジャズばかりではなく――にとっては後世まで必聴に他ならない秀でたアルバムが残されたのを有り難く感じる。 エラ・フィッツジェラルドの主要楽曲 ELLA FITZGERALD IN STOCKHOLM, 1966|The Vault Chick Webb - Topic(YouTube)Chick Webb And His Orchestra | Discogs(Discogs)Ella Fitzgerald and Her Famous Orchestra - Topic(YouTube)Ella Fitzgerald And Her Famous Orchestra | Discogs(Discogs) チック・ウェッブ&ヒズオーケストラとエラ・フィッツジェラルド&ハーフェイマスオーケストラの代表曲は(If You Can't Sing It) You'll Have to Swing It (Mr. Paganini)(1936)やRock It For Me(1938)やA-Tisket, A-Tasket(1938)やUndecided(ジョン・カービー&ヒズオニックスクラブボーイズの楽曲のカヴァー/1939)やSugar Blues(レオナ・ウィリアムズ&ハーディキシーバンドの楽曲のカヴァー/1940)などがある。 Ella Fitzgerald(YouTube)Ella Fitzgerald | Discography(Discogs) ソロの代表曲はI'm Making Believe(インクスポッツとの共演/1944)やStone Cold Dead in the Market (He Had It Coming)(ルイ・ジョーダンとのデュエット/1946)やMy Happiness(ポップスタンダード/1948)やMack The Knife(楽劇のThe Threepenny Opera:三文オペラの劇中歌/1960)やGet Ready(スモーキー・ロビンソンの楽曲のカヴァー/1969)などがある。 アメリカ歌唱集の最も重要な女性歌唱者、いつまでも影響力を持つスキャットとジャズを繋げた天下一品のヴォーカリスト。 原文 The greatest female interpreter of the American songbook, a unique vocalist combining scat and jazz, with enduring influence. エラ・フィッツジェラルド|ALLMusic(訳出) エラ・フィッツジェラルは人々から「歌の女第一人者」と称えられるように得意のジャズにかぎらず、どんな曲を選んでも惚れ惚れするほどに非の打ち所のない表現力と分けても子供時代の自暴自棄なまでに苦労せざるを得なかった経験から溢れる人間味の綯い交ぜられた歌声が正しく個性的で、最大の魅力だと認める。 GRAMMY Award Results for Ella Fitzgerald 1959年の第一回グラミー賞でアルバムのElla Fitzgerald Sings The Irving Berlin Song Bookが最優秀女性ヴォーカルパフォーマンス賞、アルバムのElla Fitzgerald Sings The Duke Ellington Song Bookが最優秀ジャズ個人パフォーマンス賞、1977年の第十九回グラミー賞でアルバムのFitzgerald And Pass...Again(ジョー・パスとのデュオ)が最優秀ジャズヴォーカルパフォーマンス賞、1982年の第二十四回グラミー賞でアルバムのDigital III At Montreux(カウント・ベイシーとジョー・パスとのコンピレーション)が最優秀ジャズ女性ヴォーカルパフォーマンス賞を受賞するなど、二十回のノミネートと十三回の受賞を数える。 ジェームズタウンのShe Got Soulの二十二人の正真正銘の黒人女性ソウルシンガー コメント 新しい投稿 前の投稿
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