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アーネスト・ヘミングウェイの父さんの日本語訳

十九から二十世紀のアメリカの作家、小説家で詩人のアーネスト・ヘミングウェイの小説の父さん(1923)の日本語訳を行った。一つの文学作品として人間の洞察力に富んだ優れた内容を持つだけではなく、表現も意義深いから外国語の英語の聞き取りと読み取りの教材としても最適だと感じる。

作品の出典

椅子に座って笑顔で寛ぐアーネスト・ヘミングウェイ
My Old Man by Ernest Hemingway/アーネスト・ヘミングウェイの父さん
原文:Project Gutenberg作品集
朗読:LibriVoxケヴィンズ

両方ともパブリックドメイン(著作権なし)だから無料で自由に使って構わない。

日本語の訳文

騎手を乗せて馬場を走る馬群

僕は父さんが生まれ付きの太った男、周りに見られるああしたいつもの少しコロッと太った男の一人だったものの最後の方を除いて確かにそんなふうなことはなかったと今やそう見ながら思う、そうしてそれは彼の責任ではなかった、彼は障害だけを騎乗していて十分な斤量をそのときに負うこともできた。数枚のジャージに重ねてラバーシャツとそれに重ねて大きなスウェットシャツを着ながら暑い日差しの昼前に一緒に走らせてくれた道を思い出す。彼はたぶんラッゾォの皮の一頭の試乗を、丁度、トリノから朝の四時に入って来ながら辻馬車で避けて厩舎へ出てからさらにありとあらゆるものの露と、丁度、昇り出す太陽と共に朝早く行っていた、僕がブーツを脱ぐのを手伝うと彼がスニーカーとこれらのセーターを全て通して僕たちは開始した。

「さぁさ、良し」、騎手の控え室の前で自分の爪先を上下に踏みながら彼はいった、「始動しよう」。

それから僕たちは前を素晴らしく走る彼と内野をたぶん一周するジョギングに出て行った、そうして門を曲がり出るとサンシーロから走り出る両側全てに木が並んだ道路の一つへ赴いた。道路に出たときに僕は彼の前を行って、結構、頑強に走りながら見回すと彼は真後ろで楽にジョギングしていて少しの間の後に再び見回すと汗をかき始めていた。汗をびっしょりかきながらもはや正しく僕の背中を見据えて付け回して行く彼がいたが、自分を見ている僕を見付けたとき、にやりと笑って「汗を十分にかきながら?」といった。父さんがにやりと笑ったら誰もにやりと笑わないわけには行かない。僕たちはランニングを山の方へ出ても続けた、そうして父さんが「おい、ジョー!」と喚くと僕は振り返った、すると腰に回していたタオルを首に巻き付けて木の下に座る彼がいた。

僕が戻って来て彼の隣に腰を下ろすと彼は自分のポケットから縄を引き出して縄跳びを顔から汗を流して日差しの中で、タッタッタタッタッタッタッと及ぶその縄による白い埃の中で、または日差しが暑くなるほどに道路一区画を行き来する激しい運動をやり出した。父さんの縄跳びを見ることも楽しかったよ。ビューンと速く鳴らされたり、緩く曲芸のように垂らされたりしたんだ。イタリア者が、時々、荷車を曳く大きな白い虚勢牛と歩いて通りかかると僕たちを見ていたのは見せたかったよ。彼らは確かにまるで父さんが熱狂するように見ていた。縄をビューンと鳴らされ出してはじーっと動きを止めて見る、それから虚勢牛に舌打ちしながら突き棒で駆り立てると再び進み出して行くまでだった。

暑い日差しの中で運動する彼を見ながら座ったとき、僕は確かに彼を好ましく感じた。確かに面白かったし、とても激しく運動を行ったし、顔に汗を水みたいに噴き出させていつでもビューンと鳴らして締め括った、そうして縄を木に吊るすとやって来て僕と腰を下ろしながらタオルとセーターを自分の首に巻き付けて木に凭れかかった。

「甚だしい落とし込みなのは確かだ、ジョー」、彼はいうと凭れかかりながら目を閉じて息を長く深く吐いた、「子供のときみたいじゃない」。それから彼が涼み出す前に起き上がると僕たちは厩舎へジョギングして戻った。そんなふうに増量は落とし込むことになった。彼は、始終、心配していた。大半の騎手たちは概ね望んだ全てを乗り除ける。騎手は騎乗する毎に約1キロを減らすが、父さんは幾らか乾いていて全てのああしたランニングなしに自分のキロを落とし込めなかった。

僕はサンシーロで一つ思い出す、レーゴリ、ブゾーニのために騎乗する小柄なイタリア者がパドックを渡って出て来て冷たいものを取りにバーへ行くと鞭で自分のブーツをピシッと打ったのが検量したばかりで、父さんも検量したばかりで、腕の下に鞍を抱えて出て来て赤い顔で疲れて自分の絹には大き過ぎるようながらそこに立ち止まって若いレーゴリが屋外のバーへ涼しく子供みたいに立ち上がるのを見ている後だったが、僕は「ねぇ、どうかしたの?」という、なぜならたぶんレーゴリが彼に打つかってしまったか何かと考えたからで、彼はレーゴリを、丁度、見ながら「おぅ、何だってんだ」というと控え室へ向かった。

さて、もしも僕たちがミラノに滞在してミラノとトリノで騎乗していたら今までそのあれらの二つとも易しい競馬場でしかなかったからにはたぶん大丈夫だっただろう。「ピアノラ、ジョー」。イタリア者たちが考えたことには甚だしい障害競走だった後の勝利の馬房で降りたときに父さんはいった。僕はかつて彼に聞いた、「このコースはそのままで乗れる。障害を乗るのを危険にするのは取りかかるペースなんだ、ジョー。どんなペースもここにはなかろうし、どんな本当に嫌な障害もなかろう。しかしいつもペースなんだ――困難にするのは障害ではなく」。

サンシーロは僕が今まで見た最上の競馬場だったもののお父はそれが犬の生活だといった。ミラフィオーレとサンシーロを往復しながら週の概ね毎日を一夜置きに調教で騎乗したけど。

僕も馬たちに熱狂した。それらが出て来て馬場を標柱へ追い上げるときはそんな何かがあった。騎手がしっかり抑え続けてたぶん少し弛めながら少し追い上げて走らせると幾らか踊るように張り詰めて見えるけど。それから馬たちが出走枠に収まってしまうと僕は何よりも気の毒になる。分けてもあの大きな緑の内野と遠くの山と大きな鞭を持つ太ったイタリア者のスターターと馬たちをぶら付かす騎手たちとさらにポンと上がる出走枠と鳴り響くあの鐘と群れて飛び出すとさらに一列になって行くサンシーロでは。皮群の飛び出し方なんだな。もしも双眼鏡を構えて観覧席に立てば見える全ては進み去る馬たちで、そうしてあの鐘が鳴り響くと千年の鈴みたいに思われる、そうして馬たちは曲がり角をさっと通りながら回って来る。僕にとってそのようなものは今までないのだった。

しかし父さんは控え室で、ある日、いった、自分の町着を通していたとき「こいつらは馬ではない、ジョー。そんな廃馬の群れはパリで皮か蹄のために殺されるんだ」。それは彼がコメルシオ賞にラントルナで競馬場の上がり100メートルを瓶からコルク栓を抜くみたいに突っ込んで勝った日だった。

僕たちが引き上げてイタリアを去ったのはコメルシオ賞の直ぐ後だった。父さんとホルブルックとハンカチで顔を拭き続ける麦藁帽子の太ったイタリア者がガレリアのテーブルでいい争っていた。全員がフランス語で、そのうちの二人が父さんの後で何かについて話していた。ついに彼がもはや何もいわず、只々、そこに座ってホルブルックを見ているとそのうちの二人からしつこく迫られていた、最初の者が話すとさらにもう一人で、太ったイタリア者はいつもホルブルックに口を挟んでいた。

「出て行って『スポーツマン』を買ってくれるかな、ジョー?」、父さんはいうと僕にホルブルックから目を逸らさずに二枚の〈ソルド〉を手渡した。

なので僕はガレリアを出て行くとスカラ座の前まで歩いて行って新聞を買って戻って来ながら口を挟みたくなかったから少し離れて立っていると父さんは珈琲を見下ろしてスプーンを弄びながら椅子に深く座っていてホルブルックと大柄なイタリア者は立っていて大柄なイタリア者が顔を拭きながら頭を振っていた。そして近付くと父さんは、丁度、まるでそのうちの二人がそこに立っていないように振る舞いながら「アイスが欲しい、ジョー?」といった。ホルブルックが父さんを見下ろしながら「最低野郎だな」とゆっくりと注意深くいうと彼と太ったイタリア者はテーブルを抜けて出て行った。

父さんはそこに座って幾らか僕に笑いかけたもののその顔は青白くて甚だ病んだようで、僕は怖くなったし、起きてしまったことが分かったから胸が病むのを感じつつもどうして父さんが最低野郎と呼ばれて誰かから立ち去られるのかは察しが付かなかった。父さんは『スポーツマン』を広げながらハンディキャップ競走を暫く調べるとさらに「この世の中は多くのことが受け取られる、ジョー」といった。すると三日後に僕たちは荷物入れや旅行鞄に入らないあらゆるものをターナーの厩舎の前で競り売りにしてからパリ行きトリノ発の列車でミラノを今際と去った。

僕たちはパリの父さんが僕にいうには長く汚い駅のガールドリヨンに朝早く入った。パリはミラノに続いて凄い都だった。ミラノでは誰もがどこかへ向かっており、路面電車がどこかへ悉く走り、混乱の類は一つもないように思われる、ところがパリは総じて雑然として人々はそれを取り除くことはしない。僕はそんなのが好きになったけど、何かしら一部分が、つまり世界最高の競馬場を有するんだよ。まるでそれは全うし続けるもので、およそ考え入れ得るに、毎日、バスが馬場へあらゆるものを抜ける直行便で競馬が行われるはずのどんな馬場へも出て行こうとするものでしかないように思われる。僕はメゾンから父さんと一週間に一回か二回くらい訪れるだけだから本当にパリが良く分かるようになることはなくて彼はいつもメゾンからの他の連中とオペラ座の側のカフェドラペで過ごして僕はそれが町の最も賑やかな部分の一つだったと思う。しかしパリみたいな都がガレリアを備えないのはおかしいんだよね?

さて、僕たちはメゾン=ラフィットで暮らすために出て行ったが、そこでは概ね誰もがシャンティイの連中を除いて下宿屋を営むマイヤーズ夫人と暮らす。メゾンはおよそ僕が今まで生涯に見て来た暮らすには最上の場所だ。町はさほど多くないが、湖と僕たちが、終日、鼻歌しながら良く出かけた上等な森があり、僕たち子供は数人で、父さんは僕にパチンコを打たせてくれた、すると僕たちはそれで多くのものを得たものの最良のものは鵲だった。年下のディック・アトキントンが兎を、ある日、それで仕留めると僕たちはそれを木の下に置いて全員でだらだら過ごしながらディックが煙草を何本か吹かすと不意に兎が跳び上がって茂みへと避けて僕たちは追いかけたものの見付けられなかった。やあ、メゾンは面白かった。マイヤーズ夫人から良く朝の弁当を貰って僕は、終日、消えた。フランス語を話すのは早々に覚えた。それは易しい言語だった。

僕たちがメゾンに着くが早いか父さんは自分の免許のためにミラノへ手紙を書いた、そしてそれが来るまで、可成、心配していた。彼は良くメゾンの連中とそこのカフェドパリでだらだら過ごした、メゾンで暮らした戦前のパリで騎乗したときに知り合った男が数多くいたし、騎手の競馬厩舎の周りの仕事というのが朝の九時までに片付けられるからだらだら過ごす時間が多くあった。彼らは皮の最初の一団を朝の五時三十分にギャロップへ連れ出すと二順目を八時に行う。それは早起きを全く以てと早寝も意味する。騎手は誰かのために騎乗する場合、若手ならば調教師に目を付けられているから大酒を飲みに歩き回ることはできないし、若手でなければいつも自分自身に目を付けているのだ。だから、大抵、騎手は仕事がない場合、カフェドパリで例の連中とだらだら過ごすし、彼らは全員でペルガモットとソーダみたいな飲み物を何か前にして二三時間くらいだらだら過ごすことができて話したり、物語を聞かせたり、ビリヤードをしたりして幾らかクラブかミラノのガレリアみたいなんだ。只、誰もがそこは、始終、通り過ぎているから本当にガレリアみたいではないし、テーブルの周りに誰もがいた。

さて、父さんは自分の免許をちゃんと得た。言葉なしに送り届けられると、数回、騎乗した。アミアン、内陸のそんな類のところで、ただし契約を一つも得たようではなかった。誰からも好かれていたし、僕が昼前にカフェに入って行ったときはいつでも誰かが彼と飲んでいるのを見付けた、なぜなら父さんは大半のこれらの1904年のサンルイの国際博覧会で騎乗を行って初めてお金を稼いだ騎手みたいに吝嗇ん坊ではないからだった。そんなことを彼はいうのだった、ジョージ・バーンズを揶揄ったとき。しかし誰もが父さんに乗用馬を与えることをはぐらかしているように思われた。

僕たちは競馬が行われるはずのどこにでもメゾンから電車で、毎日、出て行ったし、それは全ての中で最も面白かった。僕は馬たちがドーヴィルから戻って来るときの夏が嬉しかった。たとえ森でもはや鼻歌しなくなることを意味するとしても、そのとき、僕たちはアンギャンかトランブレかサンクルーで騎乗して調教師や騎手の観覧席から見るからだった。僕は確かに競馬についてその連中と出て行くことから覚えたし、そんな面白さは毎日に及んでいた。

僕はサンクルーで一つを思い出す。それは七頭立ての大きな二十万フランのレースと大本命ザーだった。僕は馬たちを見ようと父さんとパドックを回って行った、もはやあれほどの馬たちを見たことはなかったね。このザーは正しく走るようにしか見えない物凄く大きな黄色い馬だ。僕はあれほどの馬を見たことはなかった。パドックに頭を下げてぐるりと導かれながら通り過ぎたとき、全くの空っぽな胸でとても美しいと感じた。あれほどに素晴らしくすらりと走りに仕上げられた馬はいなかった。またはパドックをきちんと大人しく慎重な足取りで、自分がしなければならないことを完全に分かっているみたいな楽な動きで、びく付かずに脚から立ち上がらずに興奮剤を打たれたそうした売却競走の馬たちに見られるような狂気染みた目付きはせずに回って行った。観衆が多い余り、僕はそれを脚が通り過ぎる間際の少しの黄色を除いて見ることができなかった、すると父さんは観衆を抜け出して僕は追って木立ちの中の騎手の控え室まで戻るとその周りにも大観衆がいたものの山高を被る扉の人が父さんへ頷いて僕たちは入った、すると誰もがだらだら過ごしながら着替えてシャツを頭から被ったり、ブーツを履いたりして熱気と汗と塗布薬の匂いだらけで、外側では観衆が覗き込んでいた。

父さんは進んで行くと自分のパンツを通しているジョージ・ガードナーの隣に腰を下ろしながら「勝ち馬は何か、ジョージ?」といった、全く普通の声色で、なぜならジョージが教えるか教えないかだから探って回るのは全くの無駄だからだ。

「彼奴は勝たない」、身を乗り出してパンツの裾のボタンをかけながらジョージは大変に小さくいう。

「勝つのは」、父さんは身を乗り出ながら近くでいうので、誰にも聞こえない。

「キルカビン」、ジョージはいう、「または彼奴ならば馬券を、数枚、取ってくれ」。

父さんが何かをいつもの声でジョージにいうとジョージは「もう俺が教えたのには賭けるなよ」という、揶揄うみたくしながら、すると僕たちは避けて覗き込む観衆を抜けて100フランの賭け金表示器まで出た。さてやジョージがザーの騎手だから僕は大きなことが起きると分かった。途中で彼は最終賭け率の黄色い予想紙の一つを得た、するとザーは10中5を払うことになるだけで、セフィジドートが次に3対1、そしてリストの五番目で、このキルカビンが8対1になる。父さんは単勝の5000をキルカビンに賭けると複賞の1000を追加した、そして僕たちは特別観覧席の後ろを回って行くと階段を上って行ってレースを見る場所に着いた。

僕たちはきつく押し込められながら最初に灰色の山高帽とロングコートで鞭を手にした人が出て来るとさらに一頭又一頭と馬たちが騎手を乗せて頭勒を両側で掴みながら歩いて行く厩務員と共にその年寄りに続いた。あの大きな黄色い馬、ザーは最初に現れた。最初に見てから脚の長さや仕上げられた全体や動き方に気付くまではさほど大きくは見えなかったな。まあ、僕はあれほどの馬とは気付かなかった。ジョージ・ガードナーが騎乗していてゆっくりと去って行った、サーカスの団長みたいに歩いて行く灰色の山高帽の年寄りの後ろを。ザーの後ろは滑らかに日差しの中を黄色く去って行くけれどもトミー・アーチボルドが騎乗する落ち着いた見目良い青毛で、その青毛に続いて一連のさらに五頭の馬たちが総じて特別観覧席と検量を過ぎて列を成してゆっくりと去って行くのだった。父さんは青毛がキルカビンだといって僕が良く見るとそれは全く以て見目素晴らしい馬だったもののザーみたいではなかった。

ザーが通り過ぎたときに誰もが声援したし、確かに唯一の見目上等な馬だった。馬列は反対側へ芝生を過ぎて回って行くとさらにコースの近い端まで戻った、するとサーカスの団長が厩務員たちの手を一頭又一頭と緩ませたので、馬たちが観覧席のそばを標柱までの道中にギャロップしながら誰でも良く見られた。銅鑼が始まったときは早くも標柱には全くいなくて内野を越えて群れの全てが遠く離れた多くの小さな玩具の馬みたいに最初は揺らぎ出して見えたよ。僕が双眼鏡を通して見ているとザーはペースを作る鹿毛の一頭の後ろを良く走っていた。馬たちはさっと散けて広がり、どんどん走りながら過ぎて来た、するとザーは下がっていた、僕たちを過ぎたとき、そして当のキルカビン号は前方で、滑らかに行くのだった。やあ、過ぎて行くときは凄い、そうして遠く離れてどんどん小さくなって行くのを見なくてはならないんだ、そうして曲がり角で一団となる全頭、そうして直線へと向いて回って来るとどんどん酷く罵っては呪いたいような気がするね。ついに馬たちは最後の曲がり角を越えて最後の直線へと前方に抜け出した当のキルカビン号と共に入って来た。誰もがおかしがるようで、多少とも病んだふうに「ザー」といっているとそれらは直線をどんどん近付いて走って来た、そうして僕の双眼鏡の中にはその集団から右に馬の頭の黄色い稲妻みたいに出て来るものがあり、もはや誰もが「ザー」とまるで発狂したように喚き始めた。ザーは僕が今までどんなものを人生で見たよりも速くやって来て突棒で甚だしくも追い出す騎手とのどんな青毛の馬のようにでも速く行っているキルカビンに並び出した、するとそれらは一瞬で正しく大接戦となったもののザーがそうした見事な跳躍とそんな突き出す頭で二倍くらい速く行くと思われた――ところが決勝標を過ぎたのは接戦の間で、数字が賭博機に上がったとき、一着のものは2で、それはキルカビンが勝ったことを意味した。

僕はすっかり震えながらおかしいと胸に感じた、そうして僕たちはすっかりキルカビンがどれだけ払うかを知らせる掲示板の前に立とうと階段を下りて行く人々によって押し込められた。真意にレースを見ながら僕は父さんがキルカビンに幾ら賭けたかを忘れてしまっていた。ザーにこん畜生めと勝って欲しかった。しかし今やすっかり終わったからには僕たちが勝ち馬を得たと知るのは上等だった。

「上等なレースじゃなかったか、ねぇ?」、僕は彼にいった。

彼は幾らかおかしがる僕をその山高を頭の後ろに載せて見た、「ジョージ・ガードナーは全く以て上等な騎手だ」、彼はいった、「あのザー号を勝たせなかったのは確かに見事な騎乗だった」。

もちろん僕はそれがおかしいと、始終、分かっていた。しかしそれを直にそんなふうにいい出す父さんには確かにすっかり興醒めさせられたし、本物の興奮は今しも再び取り戻せないのだった、たとえ掲示板に数字がはっきりと知らされて甚だしく払い戻しが鳴らされて僕たちがキルカビンが10の67.50を払うと気付いたときでさえも。人々の周りは「憐れなザー。憐れなザー!」と聞かれるのみだった。もはや僕は考えた、自分が騎手になってあの最低野郎の代わりに騎乗したかったと。するとそれは面白かった、ジョージ・ガードナーを最低野郎と考えるけど、なぜなら自分がいつも彼が好きでいたからで、その上、自分たちに勝ち馬を教えてくれた、ただしそれは彼がちゃんとすることだと思う。

父さんは仰山なお金をそのレースの後に持った、そしてパリへと頻繁に通うようになった。トランブレでレースがあればメゾンへ戻る途中で町に降ろして貰って彼と僕は外のカフェドラペの前に座りながら通り過ぎる人々を見た。そこに座るのは面白かった。通り過ぎる人々の流れがあって偏く種類の男らがやって来ては物を売りたがったし、僕は父さんとそこに座るのが大好きだった。それが僕たちの最も面白く過ごしたときだった。男らは膨らみを握れば跳ねる面白い兎を売りに立ち寄ったり、僕たちへやって来ると父さんは彼らを揶揄った。フランス語を英語とそっくりに話すことができたし、いつも騎手の話になるものだから偏くそうした類の男らには分かるのだった、そうして僕たちはいつも同じテーブルに着きながら彼らは僕たちとそこで会うことに慣れるようになった。結婚新聞を売る男らや握ったときに雄鶏が出て来るゴムの卵を売る少女ら、または誰彼に見せるパリの葉書を持って通り過ぎる一人の老いた虫のように見える男がいた、そしてもちろん誰も一枚たりとも買わないとさらに彼が戻ってその包みの下側を見せるとそれらは猥雑な葉書ばかりで、多くの人々が良く調べて買った。

やあ、僕は良く通り過ぎた面白い人々を思い出す。夕飯の頃に食べに連れて行ってくれる誰かを探す少女らが父さんに喋りかけた、すると彼は冗談をフランス語で何か彼女らにいった、すると彼女らは僕の頭を撫でながら続けた。かつて僕たちの隣に自分の娘子を連れて座るアメリカの婦人がいて彼女らは両方ともアイスを食べていて僕はその少女を見て止まなくて凄く見目良くて彼女に微笑むと彼女は僕に微笑んだものの僕がその母親と彼女を、毎日、探したからそれは全く起こったことで、さらに彼女に喋りかけようと策を講じてもしも母親から自分が彼女をオートゥイユかトランブレに連れ出させて貰えたら知り合いになれるのではないかと思ったものの彼女らのどちらとも再び会うことはなかった。とにかくそれはどうにも全く良くないことだったと思う、なぜなら振り返るからだ、僕は自分が考え出した彼女に喋りかける最善策の「失礼ですが、きっと今日のアンジャンでの勝ち馬を教えますよ」といったことを思い出す、つまり、結局、たぶん彼女は僕を本当に勝ち馬を教えようとしているのではなく、予想屋だと考えてしまったんだろう。

僕たちはカフェドラペで過ごした、父さんと僕、そして父さんがウイスキーを飲むから僕たちはウェイターから非常に贔屓にされた、つまりそれは5フランが費やされたし、受け皿が数え上げられたときの良いチップを意味した。父さんは僕が今まで見て来た以上に飲んでいたが、今や全く騎乗しないでおり、その上、ウイスキーが自分の体重を落とし込むといった。ところが僕は父さんがそれをやはり全く以て増やしていると気付いた。彼は自分の馴染みの連中からメゾンで離れ去って僕と大通りでだらだら過ごすのが好きみたいだった。しかしお金を馬場へ、毎日、落とすことになった。最終レースの後は幾らか物悲しく感じただろう、一日を負けてしまったら、僕たちがテーブルに来て自分が最初のウイスキーを取りながら上機嫌になるまで。

彼は『パリ=スポール』を読んでいると僕を見越しながら「お前の少女はどこか、ジョー?」といって僕を隣のテーブルのあの日の少女について話したせいで揶揄った。すると僕は赤くなったものの彼女について揶揄われるのは好きだった。それは良い感じがした。「目を剥いて離すな、ジョー」、彼はいった、「彼女は戻って来るさ」。

彼は何かのことやちょっと笑うと思われることについて質問を僕に行った。そうして何かのことについて話し始めた。エジプトや僕の母親が死ぬ前に氷上のサンモリッツで騎乗して来たことについて、または戦争の間のいつものレースがどんな賞金も賭けも観衆も血統を維持するための何もなしにフランスの南で開かれたときについて。甚だしくも騎乗する騎手たちによるいつものレース。やあ、僕は父さんが話すのを時々刻々と聞いた、分けても彼が些かでも飲んだとき。ケンタッキーでの少年時代とアライグマ捕りに出かけたこととあらゆるものが浮浪生活へ移る前の州々での懐かしい日々について語られた。さらに彼は「ジョー、俺たちが相当な賞金を得たらお前はそこの合衆国へ戻って学校に通うんだ」といった。

「あらゆるものがそこで浮浪生活のときに戻って行ってそこの学校に通ってどうするのか?」、僕は彼に訊いた。

「そりゃ違う」、彼はいうとウェイターを越させて山積みの受け皿を払った、そして僕たちはタクシーでガールサンラザールへ行くと列車に乗ってメゾンへ出て行った。

オートゥイユでのある日、障害競走馬の販売から父さんは有力馬を30000フランで買い付けた。それを得るにはちょっと入札しなくてはならなかったものの厩舎が馬をついに放出すると父さんは自分の許可と色を一週間で持った。やあ、父さんが馬主になったときは誇らしく感じた。彼は厩舎の空きをチャールズ・ドレイクに取り付けるとパリへ入って行くことを省略しながらランニングと発汗減量を再び始めると自分と僕こそが当の厩舎連中の全体になった。僕たちの馬の名前はギルフォードで、アイルランド育ちの素晴らしく素敵な障害馬だった。父さんはそれを自分自身で調教して騎乗しながら良い投資になると判断した。僕はあらゆるものが誇らしかったし、僕はギルフォードがザーと同じくらい良い馬だと考えた。良い堅実な障害馬の鹿毛で、たとえ平地を頼まれても十分なスピードがあって見目も素晴らしい馬だった。

やあ、それは好ましかった。父さんと出走した初回、終わってハードル障害の2500メートルの三着で、父さんが降り、すっかり汗をかきながら着順の馬房では嬉しく、そして検量に入って行ったとき、僕はまるで今まで初めて入賞したように彼を誇らしく感じた。長らく乗らないでいたら今まで乗って来たと自信を本当に持てないものだよ。何もかもが今や違った、ミラノでは大きなレースでさえも父さんにどんな違いも生むようなことはなかったからで、勝っても興奮しないか何でもなかったにせよ、今やそうなったからには僕はレースの前の夜に殆ど眠れなかったし、たとえ見せなくても父さんも興奮していると分かった。自分自身のための騎乗は違いを凄く生む。

ギルフォードと父さんが出走した二回目はマラー賞、4500メートル障害競走のオートゥイユでの雨の日曜日だった。彼が出て行くが早いか僕は避けて見ようと父さんに買って貰っていた新しい双眼鏡を携えて観覧席を上がった。彼らはコースの遠い端でやり直しながら出走枠で少し手間取っていた。ギョロ目のブリンカーを着けた何かが騒ぎ捲りながら後ろ足で立ち回って一旦は出走枠を離れたものの僕たちの白い十字の黒い勝負服に黒い帽子の父さんがギルフォードに跨がりながらそれを手で撫でているのが見えた。それから彼らは一跳びに発つと木々の後ろに視界から外れて銅鑼が必死に鳴らされるとパリミュチュエル式勝馬投票の窓口ががらがらと閉じられていた。まあ、僕は興奮して彼らを見るのが心配になるくらいだったものの木々の後ろから出て来ようところに双眼鏡を定めた、そうして出て彼らは親しんだ黒い勝負服で三番手を行きながら来ると全く障害を鳥みたいにすんなりと越えて進んだ。それから再び視界から外れるとさらに出てどんどん走って来ながら丘を下ると、全頭、素晴らしく素敵に易しく行って柵を群がって滑らかに越えると僕たちから全一体で離れ去るのだった。まるで背中を渡って歩けるように見えながら全頭がとても前屈みになってはとても滑らかに行った、それから大きな二重の生け垣を越えて膨らむと何かが倒れ込んだ。誰なのかは見えなかったものの忽ち馬が起きて勝手にギャロップすると走路は全頭が未だ一団となりながら長い左回りで最後の直線へ曲がっていた。馬たちは石壁を跳ぶと観覧席の直ぐ前の大きな水濠障害へ向かう直線を押し込められて来た。僕は来るのを見ながら父さんが通り過ぎるに連れて大声を発した、すると彼は約一馬身のリードを取りながら遠ざかって猿みたいに軽快に乗りながら馬たちは水濠障害へ疾駆していた。水濠障害の大きな垣根を集団で越え去るとさらに衝突があって二頭の馬がそこから脇に引き出されて進み続けるや他の三頭が山積みになった。父さんがどこにも見えなかった。一頭の馬が付いた膝で自ら起きると騎手が頭勒を掴んで登って賞金位置に遅れて打ち叩きながら行き続けた。もう一頭の馬が起きると独りでに離れた、頭をぐいっと上げて手綱をかけながらギャロップしたけれども騎手は柵に向かう馬場の片側へと蹌踉めいていた。それからギルフォードが父さんから片側に横転して起き上がると剥がれた蹄をぶら下げた三本脚で走り続け出して父さんは顔を上向きに血に塗れた側頭部でそこの芝の平地に横たえられていた。僕は観覧席を走り下りると人混みに打つかりながら手摺に着いて警官に掴まれると抱えられた、すると二人の大柄な担架の運搬人が父さんに遅れて出て行くことになってコースの反対側を回って三頭の馬が数珠繋がりだったけれども木々から出て来て障害を越えるのが見えた。

運び込まれてから父さんは死んで医者がその耳に詰めたもので彼の鼓動を聞いている間に馬場でギルフォードが殺されたことを意味する銃声が聞こえた。担架が病室へと運ばれてから僕は父さんの隣に横たわった、もはや担架の上で縋り付くと泣いて泣いて彼はとても青白く逝ってとても凄く動かなく見えて僕は父さんが死ぬならばたぶんギルフォードが撃ち殺される必要はないと感じずにはいられなかった。その蹄は良くなったかも知れない。僕には分からない。父さんが本当に大好きだった。

それから二人の男が入って来てそのうちの一人が僕の背中を撫でるとさらに進んで行って父さんを見るとさらに簡易ベッドからシーツを引き剥がして彼に覆い被せた;またはもう一人が彼をメゾンへ連れ出すべく救急車を遣ってくれるように自分らのフランス語で電話していた。もはや僕は泣かずにはいられず、泣きながら息を詰まらせたけど、幾らか、するとジョージ・ガードナーが入って来て床の僕の隣に腰を下ろすとその腕を僕に回しながら「さぁさ、ジョー、もうな。立って出て行って救急車を待とう」といった。

ジョージと僕は門まで出て行って僕が泣き喚くのを止めようとするとジョージが僕の顔を自分のハンカチで拭い去って人集りが門から出て行く間に僕たちは道の少し後ろに立っていると人集りが門を抜けるのを待っている間に二人の男が近くに立ち止まってそのうちの一人が勝馬投票券の束を数えながら「なあ、バトラーは全く以て得たものだ」といった。

もう一人の男が「だとしてもどうでも良いこった、詐欺師が。物をやって自分の思い通りにしたんだ」といった。

「したんだよ」といったもう一人の男で、馬券の束を二つに引き裂いた。

するとジョージ・ガードナーは僕を見て聞いたかどうかを確かめて僕は全く以てそうで、彼は「あんな浮浪者のいうことは聞くな、ジョー。父さんは唯一の上等な男だった」といった。

しかし僕には分からない。始まってから男には何も残ってないように思われる。

参考:「僕の父」 アーネスト・ヘミングウェイ

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