フェルメールの少女の穏やかな眼差し 結城永人 - 2023年1月27日 (金) 生島浩の5:55を見て本当に良い絵だと感心しながらフェルメールを学んだ画家だと聞くと5:55の青みがかった灰色と全体的に暗めの色調からフェルメールの少女が似ていると思い浮かんで来た。 フェルメールの少女に受け取る疑問 Study of a Young Woman by Johannes Vermeer / Public domain 衣装が青みがかった灰色で、大分、明るくて白に近いけれども真っ黒の背景と対照的に印象に凄く刻まれるのが生島浩の5:55の素敵としかいいようがない色味と似ている。 意味深というか、生島浩はフェルメールの少女についてマニアにとってフェルメールといえばこの作品(ホキ美術館 ギャラリートーク 生島浩さん)と捉えていたようで、共通点か何かを感じながら5:55を描かなかったともかぎらない。 フェルメールの少女は1979年からアメリカのメトロポリタン美術館に所蔵されていて生島浩は1988年から同館で絵の模写を行っていたらしいので、当然、実物も見ていたわけだった。 僕はブログで、以前、フェルメールの最も有名な作品の一つの真珠の耳飾りの少女をやはり色味の近さで伊藤若冲の櫟に鸚哥図から思い浮かんで、取り上げたことがあったけれどもそれとフェルメールの少女は40から50センチ四方の大きさや真っ黒の背景に一人の女性の半身像という構図やどちらも架空の人物を興味深く表現した十七世紀のオランダで流行ったトローニーというスタイルで描かれたと思われるところが共通しているんだ。 しかし全く異なるのが描かれた女性が美人かどうかで、真珠の耳飾りの少女が世界的な人気を誇るのに対して少女は注目されることすらも殆どないくらい差が付いている。 フェルメールは絵の魅力として余りにかけ離れた二つを描いたというのが疑問を受け取らずにいないんだ。 僕は最初に有名な真珠の耳飾りの少女を知って強烈に引き付けられた後から少女を知って、一体、何なんだと天を仰ぐばかりだったけれども生島浩の5:55に気付いた類似を切欠に初めてちゃんと考えておきたくなった。 額が広過ぎて目も離れ過ぎた顔が真面目に描かれた衝撃 フェルメールが意図的に不細工を求める画家ならは逆に真珠の耳飾りの少女こそ疑問を受け取ったはずで、いつもの感じとは少女は一つも合ってない。むろんその他に同じような造形的に違和感をはっきり与える絵は思い当たらない。端的にいって広過ぎる額と離れ過ぎた目が典型的な美人の顔立ちからは程遠いのではないか。如何にも綺麗にバランスを崩して描いたとすると画家としての作為的なものも感じないわけには行かないんだ。 誰かに頼まれたかして実在の人物を描いたならばそれまでの話だろうけれども自分からトローニーの架空の人物を望んだならば敢えて不細工、魅力が少なくて見た目に惹かれないものとは何かを考えるために実際に描いて確かめたかったのかも知れない。 僕は凄いと思う。生島浩は通好みのフェルメール作品として少女を捉えたけれども美醜を研究するために必要だったとするとそれこそ売れないのが当たり前のヴァン・ゴッホの天才としか呼べない命懸けの新境地に入るとも過言ではない。日本では醜いものを喜んで描いた岡本太郎が「芸術とほ爆発だ」といったけれどもそんなふうに常識を越えることができたら大変な感動を今此処で分からないくらい凄まじく与えてくれるに違いない。 確かに想像できるのは穏やかな眼差しだ View of Houses in Delft, Known as ‘The Little Street’ by Johannes Vermeer / Public domain フェルメールは少女も含めておよそ荒々しい描き方をしないのが普通なので、芸術家としての可能性はあるにせよ、ヴァン・ゴッホや岡本太郎のようにまだ見ない世界へ人々から遠ざかって行くほどの意気込みはなさそうだ。 例えば小路は何でもない日常そのもので、今この瞬間以外に求めるものは何もないし、命という命は現在の一点に集約されるとでもいいたいみたいだ。 同時代の同国の倫理学者のスピノザが生きる喜ひを「力」として捉えたように「光」として捉えて絵を描くのが自分にとっても他人にとっても幸せだと考えていたのではないか。そのくらいフェルメールの「光」の表現には個性的で、特徴的で、人生と切り離せない目標みたいなものを感じる。新しくても古くても良いものは良いという普遍性こそ念頭に置いて絵を描いているのではないか。重要なのは美とは何かの風潮を変えるよりも真実の美を見付け出すことだろう。どちらも同じようなことだけれども画家の幸せについては伝えるよりも探すことがもっと好きだったのてはないか。 すると少女も美醜の研究だとしても魅力がない世界や詰まらない人として提示されるのではないし、皆に嫌われる不細工だからこそ正しく良いみたいな芸術家の未来志向とは必ずしも考えられない。 光と共に消し去られて行く悲しみを思い知らされる絵 僕が称えたいのはやはりフェルメールの光で、生きる喜びとして捉えたとき、もはや命の生き写しとして素晴らしく輝いているわけなので、それを他のとんな絵よりも有り難く感じさせるのが少女なんだ。 整った顔立ちで、美形そのものの人物では当たり前過ぎて見落とされ易い光の良さ――まるで見えることは光のお陰だと何かを見ながら感謝できないような現実――を整わない顔立ちで、奇形そのものの人物こそ如実に教えてくれる。 そうなるとどちらが美しいも醜いもないし、同じ光の仲間なので、不細工の悲しみなども輝くほどに消し去られて行くわけなんだ。 フェルメールが芸術家としての狙いを少女に込めたとしたら見た目が全てではないと人の気持ちを変える光の効果だったのではないだろうか。 不細工を嫌うのは人間的に酷いけれども問題なく受け入れながら心から好かないのも性格的に冷たい。 フェルメールの少女は世の中の恐ろしい攻撃性と呼ぶべき野蛮と偽善を齎し得る酷さと冷たさを両方とも抜け出した世界の真実を良く示しているのが最大の魅力で、絵の芸術的な良さに他ならないと考える。 なぜできるかは絵に対する熱心さがあったせいかも知れないけど、しかしそれもやはり悪い人では無理だ。醜いものを何でも直ちに避けないというのは良い人ではなくては厳しいだろう。 むろん心から近寄るのは頭ではないし、たとえ感情に振り回されない理性の持ち主だったとしても本当の意味で醜いものを避けないというのは表面的な見方ではなく、気持ちも入ってなくては行けない。 自分にとって耐え難いものに動じないどころか受け入れさえもするのは穏やかさから来ていると確かにも想像するんだ。 フェルメールのそうした眼差しがモデルの女性に映し出されている印象を与えるのは最も感動を覚える。 もう一度、返される穏やかさが辿り着くのは描いたフェルメールだけではない。少女は見ながら誰もが心を揺さぶられて胸を打たれて魂の高鳴りを経験することができる絵なんだ。人は見た目以上に惹かれるものだと信じられないくらい幸せな光を発している。 コメント 新しい投稿 前の投稿
コメント