川端康成がノーベル文学賞の授賞理由に挙げた「怠け」を読み解く 結城永人 - 2023年6月11日 (日) 小説家の川端康成は1968年にノーベル賞の文学賞を受賞した。文学賞は日本人で初めてで、その後も今まで大江健三郎しか出ていないから数少ない二人うちの一人になっている。ノーベル賞全体でも1949年の湯川秀樹(物理学者)と1965年の朝永振一郎(物理学者)に次ぐ三人目という最初の頃の快挙だった。 どんな文学賞の授賞も批判精神が問われる 昭和のノーベル賞 川端康成氏の受賞直後の肉声 日本初の文学賞 決定後に三島由紀夫に電話(1968年10月)【映像記録 news archive】 最近でもそうだけれども当時も大変な話題になって国中から注目されることになった。世界最高の文学賞といえるノーベル文学賞を取ることは正しくお祭り騒ぎを招くに等しい出来事なんだ。 以前、取り上げたクロード・シモンのようにノーベル文学賞を取ったからといって人々から作品が理解されるとはかぎらない。あるいは話題になって売れても一過性のブームで終わってしまったり、結局、ちゃんと読まれないのでは作家にとって必要かどうかは疑われるだろうし、金と名誉以外に何を求めるかは人それぞれだろう。 突き詰めるとジャン=ポール・サルトルみたいにノーベル文学賞に選ばれても権威付けや党派性は受け入れたくないと辞退してしまう文学者もいたわけで、必要ない以上に文学賞でも何でも褒賞行為そのものに社会的や政治的に不味い面もあるかも知れないことは良く知っておくべきだと思う。 僕はどんな文学賞でも貰った作家をそれだけで偉大とか有力なんて決して考えない。むしろ批判精神を持っているかどうかが試される場としてどうなのかと考えることが一番になる。 先日、川端康成のノーベル文学賞のお祝いの特別番組の川端康成を囲んで(NHK)を観て面白いと思った。当人と作家の伊藤整と三島由紀夫との座談会みたいな感じだけど、とにかくノーベル文学賞について語る川端康成の言葉遣いに批判精神が素晴らしく満ちていた。本当に凄くて噛み締めるほどに良い味わいを持つからブログに是非とも取り上げておきたい。 川端康成のノーベル文学賞の面白い捉え方 三島由紀夫――只、あれですね。この、ノーベル賞っていうものは非常に華やかなものですけどもこれだけ華やかな国家的な栄誉をね、お受けになる川端さんを拝見するとね。私は良く思い出しますのはね。昔、あの、もう昭和二十三四年頃でしたか、このお宅、お移りになった頃、伺いましてね。で、これから仕事しますっていって向こうへ書斎へお出でになるんです。その後ろ姿を拝見しますとね、私、いつも俊成だと思ってたんですよね。伊藤整――あぁ、ははは。三島由紀夫――それから、又ね、川端さんがね、俊成の、あの、火桶の、えー、体っていうんですか、あれをお始めになるんだと。そして火桶を囲まれてうんうんいわれるんだろうと思うとね、その、何ともいえない気持ちがしたことがあるんです。そうするとね、芸術の仕事というのはこういうね、非常に孤独な苦しい深夜の机の上の仕事、これとね、国家的なこういう栄光との間をね、繋ぐものですね、これは実に不思議な働きだと思うんですよ。伊藤整――そうですね。三島由紀夫――これがね、あの、誰のためでもない。川端さんがお書きになったのは、その、誰のためでもなければ本当に、その、芸術がそこで自然に発生してですね、苦しまれて書かれた。それがね、こういうものに繋がったというのが僕は芸術というものの有り難みでもあり、不思議でもあると思うんです。他の仕事は何かね、広がりの上で捕まえるわけですな。伊藤整――そうです、そうです。三島由紀夫――これはだからそうじゃないです。もう深夜の川端さんのお机から直接にこのノーベル賞に通じてる。その感銘が私は非常に深いんですね。殊に川端さんが色々と社会的に活動をされますけども、あの、普段、この、賑やかな活動をされながらも非常に仕事に苦しまれる方ですから、その、孤独なお時間とね、これとを繋ぐものってのは、私、一番、感銘が深い。伊藤整――そうですね。ま、さっきの話の、つまり、ま、ある意味でいえば。川端康成――つまりしかし苦しむっていうのは怠けた結果でね。三島由紀夫――はははは。そう仰っちゃえばお終いですが。はははは。川端康成――だけど、ま、怠けてるから今まで生きてたんでしょうね。伊藤整――はははは。三島由紀夫――はははは。しかし怠け方って難しいでしょう。川端康成――そうするとノーベル賞も怠けた結果だったという。伊藤整――はははは。三島由紀夫――はははは。力まないということは。伊藤整――そうですね。三島由紀夫――とっても凄く難しいことで、あの、剣道の極意でありますよ、それは。本当にどこにも力まない。あの、怠けるっていうことと力まないっていうことは殆ど、全然、別なことで、見たら似てるだけで、だとは思いますですね。伊藤整――あの、やっぱり、文章でも、川端さん、怠けていらして、所々で、おっかない人になるわけですね。三島由紀夫――えぇ。伊藤整――それで、もうやっぱり、その、そういうリラックスっていう言葉とは違うんだけれども無為の、無為の行間、何行かがあって、時々、そして、その、無為ということを前提にしてある結晶が出て来ると、いうのは、私、川端さんの文章の、ま、あぁ、成り立ち方の、こう、出来方だと思うんですけども。そういうところで、あの、怠けて来られたということはある意味じゃ充実する、うー、ための必要な行為であったと、いうことじゃないかと思いますが。 川端康成と伊藤整と三島由紀夫/川端康成を囲んで|NHK 川端康成がノーベル文学賞を取った理由に挙げた「怠け」が面白いと思った。話の流れで冗談めかしていっていて三島由紀夫も伊藤整も笑っていて僕も聞くや否や笑わずにいられなかった。しかし批判精神があるから偉いと感心する。 ノーベル文学賞は世界最高の文学賞だからそれこそ謙って恐縮し捲って、只々、選んでくれたスウェーデンアカデミーを有り難がるばかりでは個人的に物足りない。自分は何もしてないのに勝手にやられているという感じで、何も考えてないのではないかとよもや小馬鹿にするような印象を与えてしまっている。 感謝頻りで平伏す気持ちならば、余程、控えることもできたはずなのにやらず、却って悪く取られ兼ねないにも拘わらず、茶化すことも辞さないということは作為的というか、褒賞行為そのものに付いて回る支配的な物の見方や喜んで崇め立てる自分の盲目的な愚かさを分かった上で、はぐらかすために笑いに変えたとすると物凄く格好良いし、心から拍手を送りたくなる捉え方だと思う。 川端康成が挙げた「怠け」にはどんな意味があるのか 川端康成/川端康成を囲んで|NHK 普通に考えると謙遜している。笑いとしては今でいう自虐ネタだけど、つまり自分は何もできない小説家なのにノーベル文学賞を貰ったというわけだ。 そういった意味ではスウェーデンアカデミーも理解すればたとえ自分たちが笑われても腹を立てることができないだろう。何となく揶揄われた雰囲気だけが漂って気不味いくらいで、収まるしかなくなると思う。 人々には世界最高の文学賞だから何から何まで偉いものではないという批判精神が無言のままに伝わるかも知れない。 考えると手が付けられないくらい上手くはぐらかしているけれどもそこまで来ると逆に貰う方がおかしいとなってしまって不審感を抱かされてしまう。 川端康成の「怠けた結果」はノーベル文学賞の授賞に関していい過ぎている嫌いもある。 謙遜が全てだったらいうこと自体が自分の能力を評価してくれた相手に対して失礼に当たるからそれを「怠けた結果」と全否定することはおよそ常識の範囲を越えているだろう。 だからちょっと分かり辛いんだ。一見、川端康成は謙遜して「怠けた結果」といっているけど、直ぐに冗談として笑ってしまう。つまり過剰な表現なので、一体、どんな意味があるのかと訝しくなる。 話の流れから捉えると三島由紀夫の「苦しむ」という言葉をいい換えたものなんだ。 すると「怠け」という川端康成の言葉は普通の意味で、何もしないわけではなくて苦しむことはしている。小説の執筆という創作活動をやっていて上手く行かず、良い結果が得られてないことを表現しているんだ。 生きていれば何かがあるというだけのことなんだろう 川端康成/川端康成を囲んで|NHK 最初、冗談として笑ってしまう言葉だったのが特別な意味に気付くや否や泣けて来る。それこそ涙ぐましい努力を孕んだ「怠け」がある。悪い結果しか出ないかぎり、作品は生まれないに等しくてもはや自分自身の存在しかない。 川端康成は「怠けてるから今まで生きてたんでしょうね」というけど、つまりこれは苦しんで何も生まないから生きることしか残ってないということで、ノーベル文学賞に当て嵌めると「怠けた結果」という理由は正に生きているから貰ったというのと同じになる。 調べると睡眠薬を何年も常用して最期も精神を病んだかのように自殺した小説家で、三島由紀夫が三島事件で切腹した約一年半後という近さもあり、ノーベル文学賞をどちらが取るかでライバル視された経緯から複雑な思いがあったのではないかと謎めいて語られてもいるんだ。振り返ると、絶えず、生きることの難しさに触れながら書いていたと想像されるし、三島由紀夫もそばで見ていて「苦しむ」と確かに受け取ったんだろうけど、とにかく何等かの努力が報われるかどうかという以上に重要な意味があると考えさせられる。 川端康成のノーベル文学賞が生きているから貰ったと捉えると当たり前で、やはり何もしてないと又笑わずにいられない。しかし本意はいつ死ぬかも分からない状態で、やっていたとすると深くて重くて抜き差しならない言葉だと泣けるくらいの感動を覚える。 端的にいうと生きていれば何かがあるというだけのことだろうし、色んなことが起きる中の一つであってそれ以上でもそれ以下でもない出来事として捉えられる。 ノーベル文学賞の授賞は日常の一コマなんだとすると無闇に見上げることも矢鱈に擦り寄ることもなく、本当に批判精神をはっきり受け取るから素晴らしく格好良くて飛んでもなく凄い小説家だと驚く。 関連ページ川端康成のノーベル賞の賞金の使い途で分かる性格 コメント 新しい投稿 前の投稿
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