投稿

ラベル(有り難み)が付いた投稿を表示しています

サイレンススズカの飛んでもない大逃げから骨折した最後の天皇賞(秋)の競馬

イメージ
生涯、忘れないというか、人生で本当に心に刻まれて止まない場面があるうちの一つに競馬のサイレンススズカの最後の天皇賞(秋)が挙げられる。
1998 天皇賞(秋) via jraofficial
幸いにも動画で出ていて1998年のレースだから、丁度、二十年振りに又観て涙が溢れる感じだった。というのは骨折して――詳しくは左前脚の手根骨粉砕骨折を起こした――競馬に復帰できないどころか予後不良(回復の見込みがない)と診断されて安楽死(馬は脚を骨折すると生き延びるのが極めて酷いために)を余儀なくされさえもした。1998年の天皇賞(秋)はサイレンススズカの本当に最後の勇姿に他ならなかった。
当時、僕は二十代後半で、毎日、小説を書いていて休み時間の気晴らしにゲームをやったりしてダービースタリオンに嵌まっていた。競馬のゲームでサラブレッドの牡馬と牝馬をかけ合わせて強力な仔馬を作ってレースに挑むというシュミレーションだった。実際の種馬や競走馬が出て来るし、嵌まるほどに実際の競馬も観てみたくなって来た。

目次
サイレンススズカの血統についてサンデーサイレンス産駒ミスタープロスペクター系の母ターントゥの4×5の一本のインブリード日本の最強馬を感じさせる伝説の毎日王冠馬と人が心を通わせてこそ競馬は有り難い

サイレンススズカの血統について
サンデーサイレンス産駒
サイレンススズカは日本で一時代を築いた大種牡馬のサンデーサイレンスを父に持つ三世代目の競走馬だった。
サンデーサイレンス産駒は様々なレースに勝ち捲ったけれども一般的に2000m前後の中距離のレースを得意として後半の瞬発力や競り合いの勝負根性に長けていたようだ。
サイレンススズカはそうした適性にぴったり当て嵌まる如何にもサンデーサイレンス産駒らしい走りを見せていたと思う。最後のレースになった天皇賞(秋)も東京競馬場の芝2000mだった。六連勝で来たけれども何れも1800~2200mのレースに出場していて中距離に向いていたんだ。
サンデーサイレンスの良さを素晴らしく受け継いだ非常に高速の産駒の一頭がサイレンススズカだった。
しかし最も特徴的なのはレース展開で、最初から最後まで先頭を走り抜ける逃げの脚質を持っていた。サイレンスサイレンス産駒では比較的に珍しくてスタミナがないと持ち堪えられない。驚くのは普通の逃げ馬ではなかったところで、サイレンススズカの場合はスピ…

タイの菩薩像の眼差しの心洗われる美しさにマインドフルネスの到達点を覚える

イメージ
A statue of Bodhisattva in Thailand by naidokdin [CC0], via Pixabay
ブログでマインドフルネスを取り上げて引用する仏像の写真を探していたらタイの仏像の一枚が印象深かった。宝冠を戴いているからきっと修業の身としての菩薩だろう。何よりも眼差しに心洗われる美しさを湛えるほどの表情を見せていたのが息を呑ませた。
日本の仏像の造形よりもほっそりしているようで、慈しみの代わりに清らかさを多く受け取る。仏教の捉え方は国や地域によって千差万別だと思うし、信じる人たちの気持ちを反映して仏像の造形も逐一と変わるはずけれどもタイの趣向は本当に素晴らしい。
かねて写真家のジェス・フォアミで「透き通った世界の清らかさ」を知っていたんだ。タイの国柄と結び付いていると想像された真実が今やマインドフルネスの依拠する仏教的な瞑想の在り方と重なり合って一際と鮮やかに認められる。念、または気付きへの研ぎ澄まされた内面が重宝されているのではないか。
タイの仏像ならば全て同じではないにせよ、気に入ったタイの菩薩像の眼差しの心洗われる美しさにかぎっては高貴としか瞬く間にいえない。
御仏の有り難みが本当に良く分かるし、涙ながらに拝みたいばかりの風貌なんだ。
マインドフルネスは感じるままに生きる存在を得るための瞑想だから真っ先に受け取るというか、上手く行ったと認める到達点は何よりも清らかさに含まれているようで、心が淀みなく安定した状態とは何かをタイの菩薩像の高貴さを通じて計らずも教わってしまう。
望むかぎり、手に入れるべき清らかな世界の判断基準として心洗われる美しさを湛える眼差しを覚えておく他はない、もはや。
タイは仏教が非常に盛んな国で、国民の大半の九割五分近くが仏教徒らしい
ただし日本の伝統的な仏教とは宗派が違うんだ。釈迦が紀元前450年頃の古代インドで悟りを開いて始まった仏陀(目覚めた人)としての教えが主にアジアの各地へ広まる大本の源流から袂を分けている。
仏教が現代まで伝来した二つの源流
上座部仏教(南伝仏教):スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなど大乗仏教(北伝仏教):チベット、ベトナム、日本など
最も明白な特徴として上座部仏教は修業が、大乗仏教では説法が重視されるらしい。前者は信者の全てが僧侶に近くて後者は僧侶とそれ以外の信者は遠い。日本だと大…

佐藤仁美に俳優として注目した非婚同盟が人生の暗黒時代に通じるドラマだった

テレビのバラエティー番組でも良く見かける俳優の佐藤仁美今夜くらべてみましたでかつて嵌まり込んでいた人生の暗黒時代について語ったんだ。
「30、31の歳の頃に仕事が無くて、何もやることがなくてぼーっとしていた」、「クロスワードとか、なんとか無双が流行っていて斬りまくっていた」(佐藤仁美、仕事がない“暗黒”時代にハマっていたこととは?
その他にも粘土で狸を作って友人に贈っていたりしたらしい。
俳優から外れて望まないまま、一人で部屋に篭って時間を潰すしかなかったのでは可哀想だったと感じた。
人生の暗黒時代を余儀なくされていたというとバラエティー番組でいつも見かける明るい様子とは正反対のキャラクターだから咄嗟に驚かされもした。
しかし以前から知っていた僕にとっては何となく思い起こされるような部分が出て来てさらに訝られたんだ。
もしかすると佐藤仁美を俳優として良いと初めて見出したドラマの非婚同盟に出演していた時期と結び付き得ると年号を調べて確かめてみたくなった。
佐藤仁美の誕生日が1979年の10月10日で、非婚同盟の放映日が2009年の1月5日から4月3日までだったので、照らし合わせると撮影されたのはきっと二十代終盤だから人生の暗黒時代といわれる状況に重なるかも知れないし、とても近くて通じるに違いないと分かって来た。
昼の三十分のドラマで、今はもうやってないみたいだけど、東海テレビ制作昼の帯ドラマとして放映されていて何十年も続いていた。
僕は観た記憶は殆どなかった。ところが非婚同盟だけは物凄く面白くて、毎日、楽しみにしながらチャンネルを合わせるくらい気に入ってしまった。本当に意外な経験だった。
佐藤仁美が主演で結婚しないという考えを持つシングルマザーだった。観ていて二十歳の娘に好きな人ができて結婚したいと打ち明けられて、遮二無二、対立する場面が今だに脳裏に焼き付いている。母親に結婚してはならないと拒まれた二十歳の娘は悔しがって自室のベッドへ飛び込んで突っ伏して泣いていたけど、まるで海豚のように見えた一瞬が詩的で青春期の恋を巧みに描き出しているドラマだと感心したんだ。若者に特有の親心を振り払い切れない生き様を的確に示しているのではないか。非婚同盟は人間の内面性をきっちり捉えた脚本ならば主役に抜擢された佐藤仁美は俳優として相当に優れているとも予感された。
演技を見ていると何とも思わないようにド…

不思議な親近感のクロザルに認める絶滅危惧種としての詩の手放せない有り難み

イメージ
Celebes crested macaque by T. R. Shankar Raman (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
自撮り写真の著作権問題で初めて知ったクロザルは動物としても非常に興味深い感じがする。インドネシアのスラウェシ島でしか見られないという固有種だから外国では、中々、知られ難い存在だったはずだ。
顔も毛も全身が真っ黒なのがユニークな猿だけれども巷のメディアから似た感じで良く覚えていたゴリラよりも親近感を受け取るのが不思議だった。どうも初めて知った気がしなくてまるで昔から知っていたかのような印象を与えられる。
調べるとクロザルはマカク属の猿で、国内で最も身近な存在だった日本猿に近い種類に含まれると分かって手を打ってしまった。
日本人にとっては非常に馴染み深い風貌を持っていたわけだ、見た目から。全身が真っ黒な猿なのはゴリラで良く覚えていたし、風貌と色味から不思議な親近感を受け取らされたに違いないと考える。
Macaca nigra by R.Rahasia (Own work) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons
森の中でいつも暮らしていて専ら果物や木の芽や昆虫などを食べながら生きているらしい。
クロザルは絶滅危惧種で数を減らしているけれども生息地がココ・バトゥアングス自然保護区の周辺と狭いだけではなくて地元のインドネシア人に食べられたりもするというのが驚く。
猿肉が求められるなんて日本では推測も及ばない事態で、俄かには信じられない気持ちも当たり前なくらいの珍話ではないか。
というとインドネシアの国と人々に興味と関心こそ沸き上がって仕様がないにせよ、クロザルにとってはいやはや数を増やして行くのは地元では非常に厳しいと頷かれる。
絶滅危惧種はセンザンコウではっきり取り上げたけれども人間に直接的に狙われて捕られてしまうのが最も避け難い原因だと思う。
不思議な親近感と共に世界から消え失せ兼ねない悲しみを禁じ得ないクロザルは詩的な存在をあからさまに示している動物だとも過言ではないだろう
Celebes crested macaque by T. R. Shankar Raman (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
現時…

自由が降って来るのも今此処の命を見詰めればこその人生の幸せに

イメージ
昨日は自律神経失調症に気付いて体内時計を整えようと午後九時に寝た。午前一時半に起きてしまってまた最悪だと思ったけれども引き続き午前四時半まで眠れたから睡眠時間は望み通りの七時間を越えて嬉しかった。ただしもう少し眠れそうなのに眠れないという気分が嫌だった。
振り返ると二十代からだけれども起きたくて起きたいという朝は一日もなかったのではないか。大体、プロの作家として生活費を稼げないという人生の不幸に心を押し潰されているせいだと思う。現世では起きていても詰まらないし、目覚めていても仕様がないという余りに深過ぎる絶望状態を無意識に抱え込んでしまっているためだろう。
しかしながら気持ち良く起きる朝こそ健康的だとすれば考え直すべきだし、今此処の命を見詰めながら生きる喜びを最大限に捉えるのが良いはずだ。
自由が降って来る。何一つ夢は叶わず、絶望しなければ間違っている生活の中でも幸せを得られる。根本的な地平の存在とすると詩の世界の真実だけれども本当はそうした生きる喜びの有り難みを無視している時空こそ罪なんだ。だから上手く起きられなくもなる、自分で自分を罰しながら。起きたいのに起きられないはずはないわけはないので、実際には眠っていたいに決まっている。人生で良いことは何もないせいにせよ、無意識の余りに深過ぎる絶望状態を信じるためならば改善するためにはもはや思考を改める必要がある。
生きる喜びの有り難みから安らかな心に芽生えて来る希望こそ掴んで明るい未来だけを信じるように自分自身を作り替えると生活のリズムも取り易くて自律神経失調症も寄せ付けないと期待される。

イースター島で気になるモアイの五つの鑑賞スポット

イメージ
イースター島(ラパ・ヌイ国立公園)のモアイについて好んで調べてみると先祖の霊を祀っていて島民の守り神だったと分かったけど、しかし一つの謎が解けても又別の謎が生まれて来るようで、モアイそのものの造形から芸術的な関心、または存在から文化的な興味を受け取りながらとても興味深い気持ちに駆られ続けてしまう。
モアイはイースター島のあちこちに点在していてそれぞれに趣きが異なっているので、気になるモアイの鑑賞スポットとして五つを選び出しながらどんな感じなのかを纏めておきたいと思う。
鑑賞スポット①アフ・トンガリキ
Easter Island, Ahu Tongariki by Arian Zwegers [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons
イースター島で最大の祭壇/アフで十五体のモアイが並んでいる。海を背にして著しく連なる巨大な佇まいが見るからに島民の守り神らしい様相を呈している。崇高そのものとも過言でないだろう。
胸を締め付けられる感じがする、計らずも。海鳥の声がどこからともなく聞こえて来るようで、果てしなく心に染みる詩情を湛えているモアイの魅力を象徴的に示している。
本当に行ってみたくならせる。モアイは不思議なロマンを与えるけれども顔自体が体というイメージの美しさに惚れる。気持ちが全てみたいな人々の生き方が反映してそうで、命が燃え上がる瞬間を未来永劫に捉えているのではないか。嬉しくて実物からかけがえのない幸せに肖りたいと引き付けられずにいない。
鑑賞スポット②アフ・アキビ
Los Moais de Akivi, Isla de Pascua by Claire Provost (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
七体のモアイが精妙に並んでいる。イースター島では珍しく海に向かって立っているらしい。高台から海を見下ろすような感じで、唯一ともいわれる。
大空と比べると流石に小さいようだ。七体ではモアイも祭壇では圧倒され過ぎないせいか、人間に近いという情緒が漂っている。余白が際立ってこの世とをあの世を結び付けながら魂が飛び交っていると想像してしまう。
正しく霊感が刺激される配置では目に見えない神殿の支柱そのもののモアイがアフ・アキビだろう。厳粛な祈りに誘われる。自分も先祖と同じようにいつかは死んで世界に別れを…

生活感と掛けてロボットと解けばその心はどちらも可笑しくて切ない詩だ

イメージ
Ryan McAmis, robot for Soho House magazine by Bernstein & Andriulli's Tumblr. via Tumblr
本当に良い思いを抱かせる。ロボットに生活感を受け取るなんてまさかとしか驚きようがない。笑いの絶えない日々が不意に幸せだったと振り返られるようで、心地良い風が柔らかく静かに吹き寄せると共に詩がどこからか舞い込んで来る、胸のうちへと。
金子みすゞ(詩人)の世界に近い。世間一般では「みすゞコスモス」と呼び習わされている。宇宙の捉え方に独自のスタンスが付き従って味わわれる言葉遣いが含まれている感じがする。
作品は童謡ばかりだけど、必ずしも子供向けとはかぎらなくて様々な認識が引き出され得る懐の深さが人々に与えるイメージの全てを包み込んでいるのではないか。
それはきれいな薔薇いろで、
芥子つぶよりかちいさくて、
こぼれて土に落ちたとき、
ぱっと花火がはじけるように、
おおきな花がひらくのよ。
もしも泪がこぼれるように、
こんな笑いがこぼれたら、
どんなに、どんなに、きれいでしょう。
金子みすゞのわらい
言葉の連なりが分かり辛いので、纏めると終盤の「こんな笑い」が冒頭の「それ」なので、締め括りの「きれい」が詩として世界に潤いを呼び寄せていると読み取られる。
金子みすゞの笑いは「泪がこぼれるように」得られるので、一つの憐れみの結果として捉えられるし、詩の言葉ならば心の拠り所を示しているのではないか。
考えると生活感が凄く大きくてどうして「こんな笑い」があるのかまではわらいからは見出だせないにせよ、その心が「薔薇いろ」とか「花」なんて的確に認められたかぎりは真実とすると経験に根差しているはずだ。
心の拠り所が憐れみの笑いという感性がロボットに近い。人間と比べるといつもどこかが抜け落ちているというか、触れ合えばやきもきさせられる存在だったりするわけだ。
なので金子みすゞも詩人として自らの知覚の及ばない彼方を目指していたのかも知れないし、想像こそ逞しいにせよ、現実には物足りなさを抱えながら作詩してももどかしく暮らしていたようだ。
日々、情けない人生を送るほどに生活感に満ちたロボットのイメージには救われずにもいないし、有り難みを著しく受け取った。

食後の美味い珈琲に問われる元気の活かし方

イメージ
昼食を腹一杯と済ませた。珍しい。寝て起きても抜けない疲れで朝から茫然と過ごしてばかりの毎日なので、昼食なんて全く気が向かない。しかし腹ペコで体力を落としたままではどうにもならないからいつも少しだけは何かを食べるようにしている。
食事量が多めなんて元気なのかも知れない。多めといっても世間からすれば普通だろう。いつものしっかり食べない自分からは多めに思われたわけだけど、しかし元気ならば心配するには越さない。食べても少しだけではそのうち倒れないともかぎらないと懸念される。
珈琲も美味い。何も食べすに飲んでいるよりも有り難みが増すのはなぜだろう。珈琲は胃酸を増して食べ物の消化に良いけれども何も食べないと無駄に出て必ずしも喜ばれはしなかった。胃を荒らすかも知れないし、どんなに好きでも空腹で珈琲をがぶ飲みするような生活は決して健康的とは呼べないだろう。常々、さほど芳しくなかったと気付かされる。
健康なしに元気なしで、元気が得られれば今度はどう活かすかが問われる。何事もやり過ぎて健康を壊さないように注意しながらブロガーならばブログの記事に結び付けて行きたいものだ。折角の元気を無駄にしては勿体ない気持ちがしている。総じて好調ともいい切れない状態が続いている昨今だけに元気は珍重されて然るべきだ。