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浅田姉妹/舞と真央の女性としての衝撃的な魅力への大変身が非常にセクシーでしかも優しい詩を象徴的に感じ取らせる

凄いとしかいいようがない写真が発表された。GQ JAPANという男性向けのファッションとライフスタイルの雑誌の表紙のグラビアで浅田舞浅田真央の元フィギュアスケーターの姉妹が起用された。二人は初めての共演だったらしい。官能的な衣装に美しく身を包んだフィギュアスケートを完全に忘れさせる世界観が本当に新しい。特に浅田真央が朗らかな印象が強くてかつて想像だにしなかったと驚く。芸能界で見かけて素敵に可愛かった浅田舞と共に女性としての衝撃的な魅力へ大変身を遂げてしまわれた。
GQ JAPANさん(@gqjapan)がシェアした投稿 - 2018年 4月月20日午前4時00分PDT
非常にセクシーなのはやはり目元だろう。女性はアイラインで別人になり易いと思う。かつてセクシーな人が素顔で現れたらどこの誰かも分からなかった経験がある。アルバイトで事務所に知らない人が入って行こうとするからどちらさんですかと訝って「違いますよ」と声をかけながら強いて引き止めもしなかったのが振り返ると不思議な気持ちを覚える。何となく分かっていたのか、否、余りに堂々と差し障りなく事務所へ向かうからアルバイトのまだ覚えない関係者が初めて出会うように不意に訪れたのかも知れないと感じて構わなかったようだった。暫くしてセクシーな人が現れたので、いつもの風貌から思い起こしてさっきは素顔だったと気付いたんだ。
切欠は何よりもアイラインで、たった一筋の化粧だけで印象がガラリと変わっていたのがハッと息を呑ませた。
本人には訊かなかったけれどもたぶん出勤前に時間がなくて化粧は後から事務所で良いと素顔でやって来たと推測する。タイムカードを押さなくてはならないので、もはや化粧を省いても出勤時間を遅らせたくなかったのではないか。自分の見た目よりも給料を重視するところがセクシーな人と呼びたい気持ちの所以に繋がっている。
普段、何でも話すような気儘な人柄なので、奇しくも素顔でいきなり職場に現れた理由を聞かされるかと暫く待ったもののずっと無言だったのは恥じらいのせいではないかと床しく感じられた。
女性にとって可成の二者択一かも知れない。見た目と給料のどちらかを取らなくてはならない場合、恐らく男性とは違う。死んでも見た目を選ぶか、少なくとも給料のためにあっさり切り捨てるのを心苦しく感じる人の割合が非常に高そうだ。さもなければ世の中で美容の化粧品や…

フィギュアスケートの浅田真央の人生の最終的な夢は自給自足の生活だった

昨年の四月十日、浅田真央はフィギュアスケートの競技者としての現役生活にピリオドを打った。十五歳で初出場のフィギュアスケートのグランプリシリーズ2005のファイナルで優勝して以来、日本代表のトップで活躍し続けて来た。
浅田真央、涙の引退会見 今後はスケートに「恩返しできる活動を」
鮮烈なデビューから年が変わって数ヵ月後のトリノオリンピックは出場すれぱ金メダルが確実視されたものの年齢制限で、除外されてしまったんだ。まだ若いから次でも大丈夫かと思っていたらバンクーバーオリンピックで銀メダル、ソチオリンピックでは大失敗でまさかの六位に終わった。最強のライバルのキム・ヨナアデリナ・ソトニコワが新しく現れたり、対峙しては厳しくも阻まれてばかりのオリンピックの金メダルだった。
今年の平昌オリンピックに浅田真央は出場するつもりだったけど、しかし二十代後半ではフィギュアスケートの競技者として引退しなくてはならない状況も迫っていたようだ。
突然ですが、私、浅田真央は、フィギュアスケート選手として終える決断を致しました。
今まで、長くスケートが出来たのも、たくさんの事を乗り越えてこれたのも、多くの方からの支えや応援があったからだと思います。
ソチオリンピックシーズンの世界選手権は最高の演技と結果で終える事ができました。その時に選手生活を終えていたら、今も選手として復帰することを望んでいたかもしれません。実際に選手としてやってみなければ分からない事もたくさんありました。
復帰してからは、自分が望む演技や結果を出す事が出来ず、悩む事が多くなりました。
そして、去年の全日本選手権を終えた後、それまでの自分を支えてきた目標が消え、選手として続ける自分の気力もなくなりました。このような決断になりましたが、私のフィギュアスケート人生に悔いはありません。
これは、自分にとって大きな決断でしたが、人生の中の1つの通過点だと思っています。この先も新たな夢や目標を見つけて、笑顔を忘れずに、前進していきたいと思っています。皆様、今までたくさんの応援、本当にありがとうございました。
ご報告致します。 via 真央ブログ
調べると「去年の全日本選手権」(2006年)が十二位で、平昌オリンピックの出場資格を取るための世界選手権などの出場資格が取れなくて殆ど無理になってしまったために「それまで自分を支えてきた目標が消え、選手として続け…

松岡宮の大田区というひとつの完結した世界がありに掴み取る自然の儚さの詩情

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松岡宮は詩人で良いと思うけれどもポエトリーアーティスト(詩的な芸術家)を名乗っていたり、駅員が好きでいつも追いかけ続けているとか如何にもキャラクターが濃いらしくて注目してしまう。
桐蔭学園ー代ゼミー東大理2-保健学科ー修士卒業 (博士課程は受けずに、放浪しますと言い残して大学を去ったような去らないような・・・) いつも真面目にやってるのだけど、劣等生で・・・ついてゆくのが大変・・・
松岡宮 活動歴・受賞歴等 via 駅員観察日記
経歴が凄くて東京大学を卒業していた
IQ(知能指数)が非常に高いのではないか。日本一、そして世界でも指折り大学に数えられるのは間違いなさそうな気持ちがする。
情報によると東京大学でも理科二類の保健学科は理科三類の医学部などよりは入学するのは大変ではないみたいに聞かれもするけど、驚くのは驚くし、しかも松岡宮は修士卒業だから進学して大学院の半分(修士/博士前期過程)まで行っていて勉強家だと唸らされる。
二十代前半、コンビニでアルバイトをしていた頃、同僚の二人の東大生と出会って一人はちょっと遊んだりもしたくらい仲良くなれたけどーー夜勤明けに相手の家でスーパーファミコンファミリーテニスを愉快にやってから他のゲームを貸すか何かで自分の家に来る途中で、駅を降りると腹が減ったといわれるので、朝早くから開いている店が少ないとちょっと悩んだ、近場のリンガーハットへ連れて行くと長崎ちゃんぽんを平らげた後に美味しかったと又いわれるのが嬉しくこそ微笑ましかったーー何れも普通の印象を与えた。ただし話し込むと神経過敏な面に驚かされながら凝り性みたいな人柄を受け取った。何かに打ち込む能力が長けているから受験勉強にも功を奏して超難関の東京大学に入学できるのではないか。いい換えると精神の集中力に優れているわけだ。
松岡宮もそうなのか、駅員への執拗なまでの拘泥りとかやはりと合点するし、凝り性みたいな人柄を明らかに示している。別に東大生だけではないにせよ、知り合いの二人と似通っているのが面白い。
松岡宮/大田区というひとつの完結した世界があり(2017年音源) via Miya Matsuoka
詩では大田区というひとつの完結した世界がありYouTube)に甚く引き付けられた。
青春期に大田区へ良く行っていた
僕はアルバイトで通っていたんだ。最初は電車が多くて山手線の五反田駅から東急池上線に乗…

梶井基次郎の芥川龍之介が嫌いな気持ちへ間違いを夢見た三好達治の詩的な感性

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もしかすると梶井基次郎芥川龍之介が嫌いなんだと思っていた。二人とも日本の小説家で、大正末期から昭和初期までの同時代を生きていた。僕は両方とも好きな作家だけれども互いに作品の傾向が余りにかけ離れ過ぎている。梶井基次郎は生命力が強くて芥川龍之介は精神性が高い。なので後者は前者を全く気に留めないとしても前者は後者を情けないみたいに捉えずにいないのではないか。いじめといえばいじめだけれども自分よりも詰まらない奴として見下してしまう梶井基次郎を想像するほどに芥川龍之介が無闇に可哀想だから本当ならば何とかしなくては行けないと感じた。
作家として一つの命題にもなるんだ。たとえ優秀な小説家でも他人を馬鹿にする愚かさを免れないような生活が現実だとすれば魔が差したに過ぎないにせよ、相当に根深い。僕にとっては皆が真似しないように自作を通して仕向けるというか、総じて言葉遣いから世界の相容れない友好的な事情へ十分に理解を得るためには人間そのものの認識を適切に作り替える必要に迫られてしまった。
二十代中盤の頃、専ら考え込みながら、結構、大変な作業かも知れないと身震いを覚えたりしていたし、今でも変わらず、悩ましく思い起こされるんだ。
芥川龍之介が梶井基次郎について云々する資料は皆無で、本当に全く気に留めなかったかも知れない。世の中の知名度も今とは違ったらしい。日本で梶井基次郎は生前は無名作家だった。同時代の有名作家の何人かと親交を結んでいたようだけれども本人の作品は人気がなかった。文学のさほど目立たない同人誌への投稿で生涯の殆どを終えた。亡くなる間際にやっと世の中に小説家として受け入れられ始めていたといわれる。気に留めるも何も梶井基次郎の情報がなくては芥川龍之介が一言も触れなかったのは余程と不思議でもなかったわけだ。
こんな風にして真近に河鹿を眺めていると、ときどき不思議な気持になることがある。芥川龍之介は人間が河童の世界へ行く小説を書いたが、河鹿の世界というものは案外手近にあるものだ。私は一度私の眼の下にいた一匹の河鹿から忽然としてそんな世界へはいってしまった。その河鹿は瀬の石と石との間に出来た小さい流れの前へ立って、あの奇怪な顔つきでじっと水の流れるのを見ていたのであるが、その姿が南画の河童とも漁師ともつかぬ点景人物そっくりになって来た、と思う間に彼の前の小さい流れがサーッと広びろとした江に変じ…

鼻詰まりでも姪がグループホームの箱作りで生きる喜びを見出だした二十五歳で

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姪が外泊に来て六回目で相当に元気だった。前々回から十分に元気になったし、普通に近付いていたけれども前回の増した元気を経てさらに違和感が減っている。もはや本当に普通だろう。心配ではなくて安心しながら満足している。
ただし最初から不可解なのは嚔と鼻水が止まらない。僕が寒暖差アレルギーにかかると、一日中、続いてしまうよりは益しながら数時間に一回くらい出ている。市販の菓子を良く食べるから糖分と添加物の影響で不調が避けられないのかも知れない。そして何よりもαリノレン酸(DHA/EPA)が足りなくてリノール酸との必須脂肪酸のバランスも崩れてそうだ。アレルギーを抑えるし、体温を上げる効果もあるので、魚を良く食べたり、必須脂肪酸のバランスには注意して欲しい。世の中に出回っている大抵の油はリノール酸だからαリノレン酸を取るのは難しい。僕はサプリメントを使っている。脳と目にも役立つから疲れも多めに減らせるはずだ。現代の情報化社会で何よりも酷使されずにいない脳と目を労るαリノレン酸は栄養素の救世主とも過言ではない。
Tropical sea by Sara [CC0], via Pexels
南国の海で暮らす人たちはいつも魚ばかり食べているから日々のストレスを余計に受けなくて済んでいるのではないかと羨ましくも理想的な調子の良さを感じるんだ。
姪の鼻詰まりが可哀想だ。栄養なんか、全然、考えてない。倒れなければ大丈夫だと思っているのではないか。嚏や鼻水で死にはしない。しかし不調なんだ。全力で生きられない。少しでも物事が捗らないのが悲しいと気付けばきっと変わる。人間は自分自身の存在理由を掴むまでは人生を超越できないし、成し遂げる毎日を本来の姿よりも低く見積もってしまう。僕には無理だったけれども若いうちから絶好調で過ごせるのが望ましい。鼻詰まり一つ起こして苦しくないと笑うのは容易くても世界はさほど速やかに回ってないよ。
聞いて面白いのは姪はもう既に変わり始めているようだ。二十五歳の軽度の知的障害者だけれどもグループホームへの見学で箱作りの作業に没頭したらしい。休憩時間も惜しみながら手が止まらなかった。周りの人たちはやり過ぎだと慌てたみたいだ。本当に珍しい。振り返るとゲームしか没頭しない姪だった。ゲーム以外で何かに没頭するとは初耳だった。何年も養護施設や精神科に入っていて取り分け昨年来の治療抵抗性統合失調…

地獄で救われないから見守る神を遠ざけながら今直ぐに死んでも幸せだと考える

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疲れ切って堪らない。気力も体力も限界だ。ブログのアクセスがスムーズに伸びないのが辛い。三ヶ月も足踏みだ。いつまで一日百人なのか。早くしないと死んでしまう。
本当に詰まらない現実だ。休むしかないと思う。働いても働いても金儲けに結び付かない、ブロガーとして全く――。
Mountaineering of dusk by Sanshiro [CC0], via Pixabay
なぜ神は救わないのか。分けても永遠の詩人の僕を無視するのでは誰も喜んでないんだ。地獄しか生み出さない。詩だけしか認めたくないのか。僕が喜べばおよそ皆が笑うだろう。死神と悪魔、そして何よりも親玉の閻魔を仕向けて人生の妨害ばかりする。苦しむ永遠の詩人を受け取って何が面白いのか。
良い加減に離して欲しい。つまり神は僕を独り占めするために世の中の誰も手を貸さないように取り計らっているわけだ。昇天させるつもりでもなく、現世で救われないままに生かし続けている。
ならば分かった。進むべき道も地獄にしか広がってない。いつでもどこでも死にかけながら生きて行くべきなんだろう。神だけが見守っている永遠の詩人が実情では作詩するのと変わらない。
言葉を自由に発する。世界の本質的な認識の喜び、天使と自然に触れ合う心の幸せ、ついに祈りを捧げて受け取る神からの途方もない愛以外を求めても仕様がないんだろう。
見渡すかぎり、死神と悪魔、そして何よりも親玉の閻魔を仕向けられた極めて不愉快な日常生活を強いられるかぎり、本当に詰まらないと嘆いていてもそれこそ誰がやって来るのか。
死ぬのが落ちだ。結局、誰も近寄らない。永遠の詩人が僕だけなのは如何にも尤もらしい。救われるなんてどうもやはり想像だにしない真実だ。
好き好んで誰が知りたいか。言葉もないよ、極限的に。気絶して流れ着く命たちは果てしもない時間に磨り減らされて現世で見聞きされたどんな原形も止めてなどいない。だからこそ僕も安穏と生きられるわけかも知れなかったにせよ――今此処の不幸の味わいを否甚だしく高められずに済んだかのようだ――普通は望まないのが賢いとさえも考えられる。
無理だから僕も真実に拘泥るのを大概にしよう。永遠の詩人の神だけが見守っている立場から理解されないと感じても人々にとって余程と妥当な認識ではないか。死神と悪魔、そして何よりも親玉の閻魔を仕向けられている。気持ち悪くて耐えられるわけがないのを打…

もう本当に時津風部屋力士暴行死事件の時太山と福岡猫虐待事件のこげんたも殺されて当然だとは考えられない

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十年前なので、今の若い人たちは知らないのではないか、時津風部屋力士暴行死事件を。大相撲の新弟子として時津風部屋に入門した時太山がたった数ヶ月後に業界用語で可愛がりと称する稽古を口実に親方と兄弟子から集団暴行(リンチ)を受けて死んだ。享年十七で本当に無惨な最期を遂げるばかりの印象を残した。
犯人は全て逮捕されて首謀者の時津風親方がやらせたから最も重い刑事責任を問われたけれども裁判所で下された判決は傷害致死の罪で六年の懲役でしかなかった。本人は何一つ反省していなかったはずだし、被害者の時太山への誹謗中傷を行いながら大相撲で親方の命令に背いた弟子としてもはや殺されて当然だとも考えていたようだった。だから軽過ぎる判決ではないかと僕は裁判所に呆れる他なかったというか、日本相撲協会を解雇されたとかテレビや雑誌で世の中に極悪人として大きく取り上げられたなんて状況が踏まえられた審理に基づくにせよ、刑罰への虚しさを禁じ得なかった。
以来、僕は大相撲を観ないと決めた。それまでもさほど注目してなかったけれども自分自身に誓って人殺しを禄に悔い改めもせず、命の尊さを少しも知らない時津風部屋の親方と兄弟子を生み出した世界には関わりたくなかった。日本では戦国時代の武家社会に匹敵する時代錯誤も甚だしいわけで、容認しては永遠の詩人として現代に思う存分と生きられなくなるのではないか。考えるほどに背を向けてしまう以外に本心に相応しい誠実さはなかったんだ。
時太山というとこげんたを思い出す。これもやはり今の若い人たちは知らなさそうで、時津風部屋力士暴行死事件よりも古いから尚更と仕様がない。ちょっとだけだけれどもとにかく福岡猫虐待事件で死んだ子猫だった。犯人は野良猫だから殺されて当然だと考えていたようなところが時津風親方と心理的に近かったし、命の尊さを少しも知らない人間によって引き起こされた事件としてイメージが重なり合って来たんだ。こげんたは本当に無残な最期を遂げるばかりの印象を残していたわけで、あるとき、不意に世の中に広まった写真などから全身が傷だらけでボロ雑巾のように亡くなった時太山を知るや否や憐れみこそ親身に繋がらずにいなかった、空にでも。
遠い雲の連なり via 天使のモノクローム
それぞれの事件には時代も影響していたかも知れない。残酷な衝動が野蛮な性状によって歯止めを失いながら社会に露呈されたんだ。さもな…

ダダイズムの精神状態は慈愛の念から自分自身の判断材料として活用すると良い

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姪が入院している精神科から家に来て五回目の外泊を行った。口調が早くなったというか、昔と変わらない喋りを新しく感じて治療抵抗性統合失調症は本当に完全に回復したようだった。明るい気持ちが自然に表現できていたので、病人の忌まわしい不吉さが十二分に払拭されているのを喜ばしく認めた。
一つだけ声の出し方が変わったままなのがちょっと訝しいんだ
弱々しくて生きていて済みませんみたいな印象を与える。世の中で偶に見かけるし、そういう性格に成長してしまったせいならば別に構わないけれども姪には合ってないような感じがしないでもない。
すなわち「恥の多い生涯を送って来ました」(人間失格)だと作者の大宰治が自殺したように危ない。
世の中で本当の自分を演じるのは精神的に不味い。皆が気に入らない役割を担ったりしながら日常生活で普通にやっている言動は反対で、偽物の自分を演じているわけだ。例えば又吉直樹の火花が売れるように多くの人たちがそれこそ人間の悩みで、なぜなのかと取り上げるのは文学的と考えるかも知れない。生きていて上手く行かない何かによって本当の自分が押し殺されて行くように悲しい。ところが大宰治は日常生活が内面的に入れ替わった状態を人間失格で取り上げていたんだ。いうと《何も演じられないのを演じるばかりの辛い気持ち》を余儀なくされている。ダダイズム/退廃主義の影響が大きいと感じるし、物事の価値観そのものを逆さまに捉えてしまっていたようだ。
私はもう歌なぞ歌はない
誰が歌なぞ歌ふものか
みんな歌なぞ聴いてはゐない
聴いてるやうなふりだけはする
みんなたゞ冷たい心を持つてゐて
歌なぞどうだつたつてかまはないのだ
それなのに聴いてるやうなふりはする
そして盛んに拍手を送る
拍手を送るからもう一つ歌はうとすると
もう沢山といつた顔
私はもう歌なぞ歌はない
こんな御都合な世の中に歌なぞ歌はない
中原中也詩人は辛い
日本でタダイズムの作家というと詩人の中原中也が最も分かり易いだろう。自作詩の詩人は辛いが象徴的で、詩人なのに歌うことが辛くなってしまった。すなわち本当の自分が世間一般の偽物の自分と等価に扱われているからだ。心の拠り所がないので、人生で廃墟にしか存在が得られないみたいな雰囲気のダダイズムを完璧に表現している。
Ruins by Chris M Morris [CC BY 2.0], via Flickr
中原中也もノイロー…

天使的な人に振られるなんて最悪の嫌な夢を見させられてもう殆ど眠れなかった

前日にセカンドライフの快眠法(あしたも晴れ!人生レシピ)を観て年を取ると人は良く眠れなくなり、六十五歳以上では嫌な夢を見て飛び起きるように殆ど眠れない夜を過ごすのも珍しくないと知ったせいか。
まだ老け込んでないにも拘わらず、中高年と同じになって五時間半しか眠れずに真夜中も真夜中の四時起きを強いられてしまった。
直ぐに又眠れるかと、十数分、目を閉じていたけれども無理だと部屋の明かりを付けて珈琲を飲んで早過ぎる一日を始めると決めた。
睡眠恐怖症と睡眠障害は避けるに越さない
眠れないのに長々と眠ろうとするのは良くないらしい。すなわち不眠恐怖症に陥ってさらに酷く眠れなくなるせいだ。睡眠には心理的な要因が大きい。
僕は眠れなければ翌日に眠くて良く眠れると期待して早く起きても納得する場合が多い。
皆も同じかも知れないけど、しかしスケジュールで翌日以降の眠りが期待外れに阻害されると危さそうだ。
睡眠障害に陥り兼ねない。年齢を問わず、あり得る。セカンドライフの快眠法で取り上げた事例では四十代の男性が仕事への重圧で眠れない日々が続いて大変な不調から退職まで余儀なくされていた。完全に病気だし、睡眠障害は警戒しなくては行けないと考える。
別嬪さんの賀耒千香子が被った天使的な人
テレビに賀耒千香子がメインで出ていて中高年向けの番組なので、この人はもうそんな年だったのかと久々でちょっと驚いたけど――ドラマのスチュワーデス物語で良く観ていたのは思春期だったはずだ――父親が崖から落ちて死んで行くような嫌な夢を見て眠れなかったと体験談を明かしていた。
そのせいも大きかったのか。振り返ると賀耒千香子は女性として何となく思い起こさせる空気を持っていた天使的な人が夢に出て来て僕が一方的に振られただけみたいな結末に耐え切れなかった。部屋の外も須く暗いうちに起きるしかなくなりもするわけだ。
考えると賀耒千香子はたぶん肌が天使的な人と似ている。そして別嬪さんのイメージが被ってしまう。バラエティー番組に出ているとハキハキ喋り過ぎて分かり難いかも知れなかった。もうちょっと静かならば賀耒千香子は別嬪さんのイメージで、心地良い空気から見ず知らずの人と接するかぎりの天使的な人思い起こさせるのも不思議ではなかったようだ。
僕は驚いた。あるとき、天使的な人が普段よりも小さな声で喋ると気付いて見ず知らずの人が相手だから淑やかに変わったとすると羨ま…

不思議な親近感のクロザルに認める絶滅危惧種としての詩の手放せない有り難み

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Celebes crested macaque by T. R. Shankar Raman (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
自撮り写真の著作権問題で初めて知ったクロザルは動物としても非常に興味深い感じがする。インドネシアのスラウェシ島でしか見られないという固有種だから外国では、中々、知られ難い存在だったはずだ。
顔も毛も全身が真っ黒なのがユニークな猿だけれども巷のメディアから似た感じで良く覚えていたゴリラよりも親近感を受け取るのが不思議だった。どうも初めて知った気がしなくてまるで昔から知っていたかのような印象を与えられる。
調べるとクロザルはマカク属の猿で、国内で最も身近な存在だった日本猿に近い種類に含まれると分かって手を打ってしまった。
日本人にとっては非常に馴染み深い風貌を持っていたわけだ、見た目から。全身が真っ黒な猿なのはゴリラで良く覚えていたし、風貌と色味から不思議な親近感を受け取らされたに違いないと考える。
Macaca nigra by R.Rahasia (Own work) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons
森の中でいつも暮らしていて専ら果物や木の芽や昆虫などを食べながら生きているらしい。
クロザルは絶滅危惧種で数を減らしているけれども生息地がココ・バトゥアングス自然保護区の周辺と狭いだけではなくて地元のインドネシア人に食べられたりもするというのが驚く。
猿肉が求められるなんて日本では推測も及ばない事態で、俄かには信じられない気持ちも当たり前なくらいの珍話ではないか。
というとインドネシアの国と人々に興味と関心こそ沸き上がって仕様がないにせよ、クロザルにとってはいやはや数を増やして行くのは地元では非常に厳しいと頷かれる。
絶滅危惧種はセンザンコウではっきり取り上げたけれども人間に直接的に狙われて捕られてしまうのが最も避け難い原因だと思う。
不思議な親近感と共に世界から消え失せ兼ねない悲しみを禁じ得ないクロザルは詩的な存在をあからさまに示している動物だとも過言ではないだろう
Celebes crested macaque by T. R. Shankar Raman (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
現時…

谷川俊太郎の33の質問と非常に興味深い自己確認の詩としての回答

谷川俊太郎(詩人)の対談集に谷川俊太郎の33の質問という本があって何人かの友人へ同じ質問を寄せながら作成されていた。どんな内容なのかと知ると自分一人で回答しても面白そうだと実際にやってみたくなってしまうんだ。
谷川俊太郎の33の質問のリスト
金、銀、鉄、アルミニウムのうち、もっとも好きなものはどれですか?自信を持って扱える道具をひとつあげて下さい。女の顔と乳房のどちらにより強くエロチシズムを感じますか?(女の方であれば、男の顔と身体。)アイウエオといろはの、どちらが好きですか?いま一番自分に問うてみたい問は、どんな問いですか?酔いざめの水以上に美味な酒を飲んだことがありますか?前世があるとしたら、自分は何だったと思いますか?草原、砂漠、岬、広場、洞窟、川岸、海辺、森、氷河、沼、村はずれ、島、何処が一番落ち着きそうですか?白という言葉からの連想をいくつか話して下さいませんか?好きな匂いを一つ二つあげて下さい。もしできたら「やさしさ」を定義してみて下さい。一日が二十五時間だったら、余った一時間を何に使いますか?現在の仕事以外に、以下の仕事のうち、どれがもっとも自分に向いていると思いますか? 指揮者、バーテンダー、表具師、テニスコーチ、殺し屋、乞食。どんな状況の下で、もっとも強い恐怖を味わうと思いますか?何故結婚したのですか?きらいな諺をひとつあげて下さい。あなたにとって理想的な朝の様子を描写してみて下さい。一脚の椅子があります。どんな椅子を想像しますか?(形、材質、色、置かれた場所など)目的地を決めずに旅にでるとしたら、東西南北、どちらの方向に向かいそうですか?子どもの頃から今までずっと身近に持っているものがあったらあげて下さい。素足で歩くとしたら、以下のどの上がもっとも快いと思いますか? 大理石、牧草地、毛皮、木の床、ぬかるみ、畳、砂浜。あなたが一番犯しやすそうな罪は?もし人を殺すとしたら、どんな手段を選びますか?ヌーディストについてどう思いますか?理想の献立の一例を挙げて下さい。大地震です。まず何を持ち出しますか?宇宙人から〈アダマペ プサルネ ヨリカ〉と問いかけられました。何と答えますか?人間は宇宙空間へ出て行くべきだと思いますか?あなたの人生における最初の記憶について述べて下さい。何のために、あるいはだれのためになら死ねますか?最も深い感謝の念を、どういう形で表現…

ルイス・キャロルの最後のアリス・リデルの肖像写真の不思議なカメラの向け方に思うイギリス文学と詩的な感性

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The Last Sitting by Lewis Carroll [Public domain], via The Metropolitan Museum
写真家としてのルイス・キャロルを発見して乞食娘のアリス・リデルが非常に素晴らしくて飛び抜けて良いと感じたけれどもそれに次いで記憶に残るのが椅子に腰掛けたアリス・リデルの肖像写真で、ルイス・キャロルがアリス・リデルを撮影した中では最後の一枚といわれている。
右上から微妙に見下ろしたカメラの向け方が小説の不思議の国のアリスを彷彿とさせるくらい如何にも不思議だと感じさせられてしまう。
ルイス・キャロルは数学者で普段は理知的だったのとは対照的にそうした日常生活の安定性を真っ逆さまに揺るがすほどの遊び心を持っていたとナンセンスな小説の愉快な書き方から分かる。
イギリス文学だとローレンス・スターントリストラム・シャンディが全ての小説の始まりではないかと分かり易い物語と切り放して考えられるほどに支離滅裂でナンセンスだった。そして支離滅裂でナンセンスな小説というとジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイクが言葉遣いまで引っ括めて完全に打っ壊れたように徹底的にやっていてもはや普通に読めないところまで行っているのが世界的にも有名かも知れない。個人的にはサミュエル・ベケットを最も高く評価するけれども訳の分からない小説ばかり書いていたものの最初の特に誰にも相手にされなかった並には勝る女たちの夢がハチャメチャそのものの作風と同時に無名で貧乏なのにやっていたから小説家として《意味不明な自己表現》に人生を賭けていたと畏敬せずにいられなくなる仕上がりなんだ。哲学的にも命懸けで読み得るし――アントナン・アルトーの思考の不可能性に社会上の接線を持っているのではないか――本質的に重要な作家の一人に他ならないと僕には数えられもする。しかしイメージだけならば小人の国で理解不能に陥ってしまう主人公を描いたジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記が物語としても非常に分かり易くて日本でも子供から大人まで不朽の名作として良く親しまれていたり、イギリス文学ではナンセンス小説はおよそ珍しくなくてルイス・キャロルの不思議の国のアリスも驚くに値しないとも過言ではなかったかも知れない。
日常生活から捉えると遊び心が満載なので、写真の最後の一枚の十八歳のアリス・リデルの肖像は…

心の真っ直ぐな人でなければ流産した女性の悲しみを純粋な気持ちのみで知らなかったようだ

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もう変わってしまったけれどもGoogle+の基本情報にかつて「自慢できること」という項目があった。載せるために考え付いたのが「詩が心の真っ直ぐな人から誉められたこと」だった。昔の詩のホームページでの経験で、十年以上前に自作詩へのメールを貰ったのが心に響いたんだ。
直ぐに分からなかった。というか、初めてで驚いたし、ちょっとしたメールから相手の詳しい事情は受け取れなかったというとしっかり分からなくても決して珍しくなかっただろう。
どんな自作詩が誉められたか。ホームページに載せてないけれどもこいのうただった。恋愛での純粋な気持ちが人々に分かり易く仕上げられたから普段よりも引き付けるのではないかと密かに喜んでいた。
たった一言、好きだよと
伝えに向かう。
この想いは終わらないよ
なくさないよ
生きているよ。
走り抜けた
並木道。
穏やかな日差しがこぼれていた、
バス停に立つ君の姿がとても眩しくて
口も重く開かなくなりそうだけど、
勇気を出して告白しよう
またとない
チャンスを信じて。
結城永人のこいのうた
初出とは言葉遣いを幾らか変えて詩の音感が上がった。以前は目に浮かぶ情景から純粋な気持ちがもっと万人向けの仕上がりだったはずなんだ。現在は歌心から詩が好きな人にしか分からないようにに調整してあるので、僕自身も皆を引き付けるかも知れないと密かに喜びもしなくなった。人々には分からなくて良いし、純粋な気持ちなのに誉められなくても仕様がないと納得している。
十年以上前、ある人が初出の分かり易かったこいのうたを気に入ってメールで誉めてくれたわけだけれどもどんな人かまでは知り得なかった。しかし他の人のホームページの掲示板に同名で書き込みが見付かったんだ。本人のホームページのURLも載っていたので、幸いながらどんな人に自作詩が尊ばれたか、こいのうたがなぜ引き付けたかの理由を覚えて将来の詩人生活のために作詩の長所として役立てたいと感じながら見に行った。
当時の思いならば声をかけて詩のホームページの常連になって欲しいというのが最重要だったけれどももう一つは間違いなく将来の詩人生活のためだったし、知らない人にメールでいきなり自作詩を誉められるというのは本当に初めてで驚いたから喜びに勇んでどうなるかと掲示板に残されたホームページへのリンクを押した。
すると最初は何のホームページか、一瞬、分からなくて戸惑ったけれども…

白琉球の切なさの詩的で命の尊さに他ならない思い遣りの心に救われる雨上がり

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白琉球の花が咲いていた。雨が多くて満開だったけれどもあっさり萎れかけているようだ。琉球躑躅ともいわれる躑躅の一種で、他の種類でも似ていて雨で直ぐに変色する花が多い。しかし白だと本当に目立つし、雨上がりの白琉球には切なさを受け取らずにいない。花柄も大きいから、殊の外、衝撃的で、晴れやかな様子こそ却って強く目に浮かんでしまう。

花言葉は「愛の喜び」らしい。切なさから受け取ると人生を考えさせられる。愛の喜びが直ぐに終わるのか。または悲しみを含めて愛する気持ちが喜びならば深い意味を持っているに違いない。イメージとして前者は清純だし、後者は慈しみだろう。白琉球は切なさを帯びた花だから花言葉の「愛の喜び」も複雑な感じがする。清純な慈しみとすると人生では思い遣りの心が欠かせなさそうだ。素晴らしいし、見習うしかないと頷く。
ならば白琉球は素敵な詩人を彷彿とさせる花なんだ。

安らぎを感じるのも本当だ、見ていると。もはや思い遣りの心に出会っているかぎりで、想像すると涙が溢れる。白琉球の汚れなさに胸打たれるのは僕にとっては憧れの彼方だ。
少しでも近付きたい。願うほどに自分らしさと切り放せないし、心からの思い遣りは重要だと考える。生き甲斐とも過言ではない。不幸ばかり背負っているのになぜ死なないのかは思い遣りの心のためだ。救われない僕こそ誰かを救うべきではないか。いっそ自殺するわけにも行かない。思い遣りの心だけが人生を現世に繋ぎ止めているんだ。

白琉球の切なさは本当に詩的だし、思い遣りの心から素敵な詩人を夢見てはまさか命の尊さを味わわせる。頑張って頑張って駄目な人生を強いられても何もかも終わりではないとはっきり受け取るし、悲しみの果てで励まされる感じがするのは真実の「愛の喜び」のせいだろう。清純な慈しみを意に介して立ち上がるしかない。
救われるかぎり、覚え込んだ命の尊さから思い遣りの心を手放さずに生きて行くと良い。
参考:リュウキュウツツジ [琉球躑躅]

鈴蘭の集落で童心に返りながらヒラタアオコガネも見付けた詩人への思い

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公園の山の鈴蘭が、大分、咲いて来た。可愛いと思う。まるで天使が宿っているようだ。純真無垢な白い花、そして緑の健やかで大きな葉、人間にとって心に羽根が生えた様子を形象的に彷彿とさせるせいか。ならば鈴蘭は天使の家だろう。数多く咲いている集落ももはや幻想の国に他ならない。鈴蘭を見ていて微笑ましいのは天使たちの住む素晴らしい世界を感じ取って心を擽られているわけだ。詩的だし、気に入るのも当然だ、個人的にいって。

童心に返る。動物が好きで、取り分け可愛いと良かった。昆虫は小さいからいうまでもなく、気に入っていた。

鈴蘭にも見付け出しのは非常に面白かった。調べるとヒラタアオコガネらしい。体長1センチ程で、条の付いた背中が緑色や褐色の光沢を放つ。特徴的なのは全身を縁取るような毛並みだ。光の加減で見えない場合もあるけれどもふさふさしている。黄金虫の仲間でも他の似たようなスジコガネには珍しいので、見分けが付けられる。
ヒラタアオコガネは春から夏にかけて植物の葉を食べながら生きている。
鈴蘭の集落では公園の山で発見した去年から欠けた葉は殆ど確認されなかった。偶に葉先がないだけだ。ヒラタアオコガネは姫女苑紫陽花の葉が大好物らしいけど、鈴蘭の葉はさほどでもないのではないか。分けても鈴蘭にはコンバラトキシンなどの猛毒が含まれているといわれる。人間は取り扱いに厳しく注意するべきで、虫も基本的には付かない花らしい。ヒラタアオコガネは好んで食べないにも関わら、やって来て鈴蘭の集落に紛れ込んでしまったんだ。

鈴蘭のヒラタアオコガネはあてどない人生の風変わりな旅情を思い起こさせた。数奇な流れで、どこからことなく、辿り着いてしまったような感じがする。詩的な光景を目にしたというとありふれたイメージにせよ、鈴蘭が天使の家で、その集落も幻想の国だと受け取られる素晴らしい世界の中では、殊の外、感慨深い。

僕は詩人として生きるためには童心を身に付けようと考えた。なぜなら命の尊さを知っていたからだ。可愛い動物、小さな昆虫に惹き付けられる気持ちは本当に詩的だった。捨て去っては自分らしくないし、どうしようもないと危ぶまれた。本性から改めて命の尊さを身に付けてこそ詩人として生きられるに違いなかった。童心に返るというのはだからとても大事な経験だろう。良い思い出に懐かしく憧れるだけではなくて人生観を自分らしく再構成するためにも必要なん…

肘から手の小指側が痺れる肘部管症候群では腕を曲げて肘に強い圧迫を加えてはならない

去年の夏頃、風呂に入っていて左手の小指側が痺れるのが嫌だと感じた。神経が不味いとしたら脳が病んでいる可能性がありそうだ。作家・詩人として終わりだし、天職として思考を本格的に続けるのは無理ではないかと大いに懸念されてしまった。
将来への不安から恐ろしくて調べるのも億劫で、放っておくしかなかったけれども痺れの症状は日増しに悪化する一方だったから耐え切れずに調べ出したら肘部管症候群らしいと分かった。
取り敢えず、ほっとした。脳が病んでいるせいではないのではないか。とはいえ、放っておくにも全くかぎらない病気だったんだ。
肘部管症候群は肘を打つけて手が一時的に痺れるのと原理は同じだけれども肘の尺骨神経が腫れ上がっているために痺れがいつまでも収まらない。酷いと指は変形するし、治すには手術が必要で、後遺症を免れない場合もあるみたいだから本当に侮れない。痺れの症状が軽いうちに見付けて直ぐに治してしまうにかぎる。
日常生活で僕はスマホ/タブレットで創作活動に勤しんでいるけれども左肘を下に付くのが不味かったようだ。いつも疲れてぐだぐだなので、頭を支えられなくてどうしても左肘を立てて左手に乗せてしまいたがる。毎日、長時間、左肘に強い圧迫が加わって肘部管症候群を発症したのではないか。止めなくては仕様がないと悟った。
左肘を下に付かないようにしていると数ヵ月で治った。気付いたのは去年の夏頃だったけど、とにかく左肘を真っ直ぐに保つかぎりは左手の小指側の痺れが少しずつでも収まって来たから助かったよ。
日頃から姿勢も矯正すれば健康的だから頬杖を突き捲るような作家活動は控えるべきだし、酷い疲れのせいならば元気を維持するのが他の病気も予防できるから特効薬そのものだろう。
世の中には職業病で避けられない人もいるらしい。肘を強く圧迫しないようにしなくてはならないけれども建築や工場やスポーツで肘を酷使するような仕事だとかかり易い。変形肘関節症から来るといわれる。手の痺れが増すほどに握力が下がって日常生活にも支障が現れるので、肘部管症候群は見付けたらやはり直ぐに治すしかないだろう。
僕もペットボトルの蓋を開けられないかも知れないと焦ったし、延いてはスマホ/タブレットの文字入力が無理なくらい悪化し兼ねないと肝を冷やしたけど、治ったので、再発させないために疲れがどんなに酷くても腕を曲げて肘に強い圧迫を加えないように注意するばか…

真っ朱な山躑躅を写真に収められただけでも胸一杯の思いがするのは情熱の光のせいだ

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山躑躅が晩春の山を朱く染め上げていて衝撃的だった。驚くのは自分自身で、昔は気にも留めなかった。
山といえば衝撃的なのは真夏だけれども虫だったし、甲虫鍬形虫を取る以外に好奇心はなかったはずだ。植物も出会いたい虫がやって来易いの木こそ素晴らしいみたいな感じで、他には見向きもしなかった。
年のせいではない、変わったのは。詩だ。というか、かつて作詩の公園を運営しながら詩人を明らかに自認してから命を公平に捉えなくてはならないと考え出したんだ。
元々、なぜ動物よりも植物には引き付けられないのかを訝っていたけど、引き付けられるべきだし、ちゃんと自分らしく生きるならば好きに向き合うのが正しかったわけだ。
石を喜ぶのも同じ気持ちだ、命として根源的には。動物や植物を有機物とすれば無機物も生きているのが宇宙の真髄ではないか。まさか引き付けられない理由もなかったらしい。

山躑躅が一斉に咲いていると山が燃え盛るみたいに生きている万物の命の輝きを感じる。象徴的に味わわせるのは山のせいだ。気付くまで知らなかった全てがそこにあるような歴史の詩に他ならない。世界にとって山は真実そのものだから咲き出した山躑躅は情熱なんだ。求めずにまさか手に入らない。山は知らなければ気付かなかった全てを偉大に包み込んでいる。すると命の輝きは情熱の光だし、真実そのものを手に入れてこそ生きている万物も満足するわけだ。些細な日常ならば造作ないにせよ、本当に尊い。
花言葉を調べると「燃える思い」や「努力」や「訓練」と本当に相応しいかぎりだろう。他にも「曖昧」や「どっち付かず」と、丸っきり、正反対のイメージがあって驚くけれども人間ならば自分に厳しくて他人に甘いみたいな感じから二つに分かれているのかも知れない。
山躑躅は日本では全国的に見られるらしい。春の野山を素晴らしく彩る花だ。俳句でも春の季語になっている。四月から六月にかけて開花するんだ。実が生るのは八月から十月にかけての間みたいだから秋に多い。
植物としては葉っぱが特徴的で、春葉と夏葉を備えている。前者は秋に、後者は一部が越冬して春に次のものへ完全に生え替わるために、一年中、葉っぱは落ち切らずにどちらかが残っているらしい。なので半落葉樹/半常緑樹という性質を持っている。

僕は胸一杯の思いがするよ、真っ朱な山躑躅を写真に収められただけでも。
かつて山へ分け入って甲虫や鍬形虫を見付けたのと気…

詩を降りる気持ちは皆から離れ去りながら初めて掴まれるように生きられていた

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世界を止めるわけでもなければ決して難しくはなかったはずなのに降りた詩は口に直ぐに出なかった。
慣れるし、あっという間にペラペラだから忘れっぽい天使クレー)だったかも知れない、詩人として向き返して観想するかぎり。
Vergesslicher Engel by Paul Klee [Public domain], via Wikimedia Commons
どこから降りたのか。自分からだと人間は教える。ならば聞いたのは沈黙だった。しかし元々の詩は内面にはなかったはずだ。手に入れたのは自分の言葉からではない。言葉そのものが皆から来ていたわけなので、詩も同じだし、自分の言葉は最初から霊感ではない。
降りる気持ちの詩は霊感だ。だから人間も自分からだと見詰めるにせよ、霊感の詩を遡るかぎり、皆からしか妥当には認識されない。
人間は苦しむ。間違っていたのか。詩を降りる僕へ偽物のイメージを指摘していた。霊感が分からなかったために早合点したならばもう二度と気持ちだけを他人の言葉から汲み取るのは止めるべきだ。貴方は狼狽えるばかりかも知れない。
僕は反対に見詰めた。途中からは正しかった。思考の皆から降りるまでの間に詩は霊感に置き換えられた。つまり霊感に置き換えられなかった詩の雰囲気は気持ちではなかったとはいい切れない。部分的には非の打ち所のない認識だったし、十二分に妥当だった。
なぜか吠える犬が人間性の暗闇の崖に姿を現すと世界が凍り付いた束の間に和らぎが少しずつ返されて行った。水田から蛙の合唱も鳴り響けば夏の夜中のだろうか。風流な趣きに触れながら人間は言葉を呑み込むしかなかったようだ。
僕にとって詩を降りる気持ちとは皆から来ている言葉を自分らしさに相応しく作り直す作業といって良いだろう。自分の言葉を持つために真実の世界を離れ去り、夢見られた風流な趣きでさえも身を捩って消え失せるように後にしてしまうせいなんだ。
思う、貴方は死んだかと。または自殺行為に等しくて眉間に皺を寄せながら安否を念じるばかりだ。
人々は三輪車に乗り出した幼児を転んでも可笑しくないと仲睦まじくも付き添っている。
自分の言葉を持つための作業が危ないのは確かだ。しかしながら一人でなければそれを上りながら作詩できないし、詩人も思考の最初から最後まで皆と、丸っきり、同じでは無責任でしかないだろう。
だから皆から離れて詩を降りる気持ちは一つの孤独な作…

思想の意義としての心地良いばかりの世界

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人間は世界とは何かの思想を持つと素晴らしい気持ちを味わう。しかし信念が胸に広がったせいだとすると本当に重要なのは自分自身の思想を生活に組み込めるかどうかにかかっていたらしい。
鳥が大空へ羽搏くためには翼が必要だけど、翼だけでは得てして無理なので、どう羽搏くかを知らないままの鳥では気持ちは素晴らしいにせよ、大空からは見下ろされるかぎりの自然でしかなかった。
日本人の知性と思考の方法論的な哲学人々に大衆への理解は本当に可能か平和の原理/抽象力を有する人間性/論法そのもの人間の精神/心理のための感受性の理論
挙げると些細な日常の四つの記事が著しく目立った。思想を持つだけではなくて信念において生活に組み込むように有用な認識としての効果を高めもするためには方法、見方、原理、理論が欠かせなかったとはっきり分かって来た。
心地良さが増している、人生に。だから気持ちも現実に素晴らしいわけではなかったか。一言で知恵ならば思想の意義は他でもなく、どう生きるかの認識力にかかっていたに違いないだろう。喜ばしい魂の世界と捉え直しても良い。
注意すると頑張り方が問われたせいではないんだ。夢を叶えたくて予め案じて講じながら幾つもの思考へ励んでは来たものの直接的に必ずしも知恵ではなかった。どれも生活の知恵だけれども思想の意義へは触れてなかったわけなので、向き返すと恐ろしいほどの真実だから容易には手が付けられなかったようだ。
飛び込んでも底無し沼に匹敵する対象がある。気になると性急に取り組んでも思考は解き解せないまま、対象へはズブズブ沈み込んで行くばかりで、快適な暮らしへはもはや手を伸ばすだけが精一杯なほどの窒息を強いられてしまいそうだから不味いと直ぐに思い止まっていた。偶さか感じるのも深入せずに助かったみたいな印象ではないか。底無し沼の対象からは逃げ出した勇気というか、よもや思考こそ名折れならば生き残っては微かに憂鬱なかぎりの誇らしさだったはずだ。
躑躅の咲き乱れ via 天使のモノクローム
皆にも現時点での心地良さを受け取って欲しい。本当に強力な精神かも知れない、人間にとって。ただし思想の意義を掴むのは大変だからイメージを示して教えても翼を与えるだけで済んでしまい兼ねないし、どう羽搏くのかという方法、見方、原理、理論を自力で引き出さないときっと有用な認識として身に付かないので、知恵ならば実現してからあの人はあ…

自殺したいままに生きている状態

散々、幸せへ向けて考えて来てまだ逃れられないどころか、死こそ近付いてさえもいるのでは生活そのものがうんざりするばかりの気持ちだと嘆かざるを得ない。
何もかも裏目に出ているのか。どうして生活費が稼げないんだ、作家として。人気取りで金儲けを果たそうなんて世の中では一握りの好運でしかない。止めるべきか、父親の教えに背くように考えているせいならばそれだけでも撤回するしかなさそうだ。自殺したいほどの不幸は本当に何なのかを知らなくては夢も半ばに潰えるかぎりみたいな予感がする。
Googleでのサイト評価は少しずつ上がっているはずだし、アクセスアップも間違いなく果たされていると思うので、サイト広告で収益化が必要十分に実現されるところまで待てるかどうかなんだ。
時間がかかってどうしようないし、検索エンジンでのアクセスアップにはサイト年齢が重要だから一朝一夕では得られない喜びでしかない。
今此処で余りに望み過ぎては駄目だ。野村克也の三年計画を仰いでみればプロ野球というチームの皆で力を合わせても天地を引っ繰り返すほどの結果を直ぐ様と出すには行かなかったわけで、忍耐力こそ試されるといわざるを得ないのではないか。本当に辛いだけだ。
父親の教えも頑張り抜くためには受け入れなくても仕様がない。肝心なのはやはり僕自身が勘違いないしないように志を掴んでおくべきだ。何一つ背くためではないし、泣かせたくて情けなさを見せ付けるつもりではないんだ。日々、自分らしく生計を立てられるかどうかが目的だから取り違えてはさらにさらにどうしようないと思う。
本当にだから切羽詰まり捲って地獄へも笑いかける隙間がないような気持ちこそ不幸そのものなのではないか
自殺したいだけだ。世の中を見渡して誰も死んでないせいで、つまり優しく考えながら自分ばかり人生を降りる状態が訪れてしまうとすると恥ずかしいせいだろう。示せない、もはや神明にしか。
詩人を止めたランボーとそっくりの精神ならばそれを死と捉えたブルトンも人間的にか、又別の詩人として流石だったと称えるべきだ。

夜の大部屋ではみんな腹ぺこだ――
まったくのところ……
発散してくるもの 爆発するものがある
「おれはグリュイエール・チーズだぞ」
ルフェーブルいわく「ケレールだぞ」
物の精いわく「おれはブリ・チーズだぞ」
兵士たちはパンを切りつつこう言う
「これが世の常さ」
物の精――「おれはロッ…