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人生の願い事を祈った神社参りの胸のうち

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神社へお参りというのも 柏葉紫陽花 の好影響か。身近でいつも通り過ぎてばかりの神社なのについに気持ちが入った。カメラを持ってふらふらしていたので、偶々、写真が撮れないかという感じだったにせよ、人生の流れには逆らえなさそうな結果にはなっている。柏手を実際に打ってみたい。だから神社に僕は来た。 逆算すれば神社で柏手を打つためにカメラを持って近辺をふらふらしていたわけだ。普段の通り道とは少し離れているから特別な理由がないと寄り付かなかった。散歩でも良かったけど、しかし創作活動への意欲からカメラを持つ僕ならば本当に自然だろう。 柏手は記念すべき瞬間とも呼べなくはない。直ぐに忘れて去ってはご利益も薄らぎ兼ねない。胸に止めることが大切だ。とはいえ、自己表現に繋げることは決して吝かな試みではないはずだ、カメラでも何でも。 いって良いのかどうか、願い事をブログで。テレビ番組…

柏葉紫陽花の三角の花に縁起も良く打つ柏手

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三角の花で、紫陽花みたいなので、調べてみて柏葉紫陽花ではないかと思った。葉の形が柏の葉に似ていてそう呼ばれるようになったらしい。身の回りで柏の木を見かけた印象は非常に少ないけれども柏の葉はこどもの日の柏餅で見慣れているんだ。大きめに緩やかに分かれているようや葉先なので、見分けも直ぐに付き易かった。 ところで柏葉紫陽花と聞いて何となく縁起が良いと思ったのは柏餅とさらに神社の 柏手 に繋がるせいだろう。柏手が柏の木と何の関係があるのかも分からない。調べてみたら何の関係もないらしかった。むしろ柏手が拍手という言葉の見誤りで生じているといわれていて柏手の由来もはっきりしないみたいだけど、逆に却って驚かされてしまった。 神社の柏手は古来より拍手だった。とすると喜んで手を叩いている普段の拍手こそ神へ向けてやってないのが不思議に思われてしまう。元々の拍手がいつの間にか柏…

思い出の松毬から恒久的に告げられる平和への詩人の手

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松毬を久々ながら目にした。咄嗟、見慣れていたのも家の周りに松の木が、沢山、あったせいだったと昔を気付かされてしまった。当たり前のことも本当はそうではなかったという、生活圏が新たに問い直されてみれば。 可愛らしいものだ、松毬は小さくて。かつては僕も手が小さくてか、もっと大きく思い出に残っていたわけで、何分とも意外だった。 しかし冷たく強張ったような感触が蘇って来たのは懐かしいかぎりで、変わらない世界も認められた。気持ちが震えるとはこのことだろう。通低している、人間性がいつかの日々に。 考えると嬉しい。過去が素晴らしければ未来も素晴らしいはずだ。松毬を拾い上げた今此処、夕闇迫る神社の薄暗い松林の片隅は時の流れの素晴らしい結び目だといいたい。僕は確かに感じた。 詩人の手も時空を越えて差し出されると良い。松毬が詩の言葉として平和を恒久に告げている。いつまでも味わっ…