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心拍数と寿命の関係:動物が呼吸の酸化ストレスで老化してしまう身体的な特徴

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Ears of golden wheat by Marisa_Sias [CC0], via Pixabay
大分前、もう十年か、はたまた二十年以上が経過したようだけれども心拍数と寿命の関係を覚えていた。改めて調べると本川達雄ゾウの時間 ネズミの時間が世の中で目立って取り沙汰される最初の切欠だったらしい。1992年に出版された本で、体格の大きな象と小さな鼠は心拍数と寿命が互いに相反する事実が著されていた。平常時、前者は心拍数が少なくて寿命が長いし、後者は心拍数が高くて寿命が短い。
象の心拍数と寿命一分で約三十回と七十歳程鼠の心拍数と寿命一分で約六五十回と二年半程
非常に興味深いのは寿命に対する通算の心拍数が十五億回付近(多ければ二十億回くらい)で重なって来る。
他の多くの動物でも同様の傾向を持っていて体格が大きいほどに平常時の心拍数が少なくて寿命が長い。
本川達雄のゾウの時間 ネズミの時間では動物の平常時の心拍数:心周期(一回の拍動の長さ/人間ならば大抵は一秒前後)が自然界の時間として捉えられたのが白眉だった。どんな動物も略十五億回の鼓動を打って死んで行くので、詩的にいえば心臓のリズムに差はない、長生きする象も早死にする鼠も生きる感覚そのものは変わるところがない。
そうした自然界の時間によればそれぞれに寿命は違っても死ぬまでの通算の心拍数が似通っている動物たちは同じくらい、すなわち平等に暮らしていると驚かされるわけなんだ。
いい換えれば天寿とは何かへの一つの科学的な認識/生物学的な知見が心周期に表現されているようだった。
動物は生きる感覚だけが本当に違うし、寿命よりも独自的で、例えば象は大きいゆえにゆったりして鼠は小さいゆえにせかせかしているのが生来のキャラクターと考えられなくはない。
実は、こういった時間を計り、体重との関係を考えてみると、どれも体重が重くなるにつれ、だいたいその4分の1(0.25)乗に比例して時間が長くなるということが分かっています。
4分の1乗というのは分かりにくい数字かもしれませんが、関数電卓でルートを2回押せば答えが出ます。まぁ、大ざっぱに言えば、動物の時間は体長に比例すると考えてもいいですね。
つまり、体のサイズの大きい動物ほど、心周期も呼吸も筋肉の動きなんかもゆっくりになっていくということなんです。
本川達雄/ゾウの時間・ネズミの時間 本川達雄 氏 via…

松岡宮の大田区というひとつの完結した世界がありに掴み取る自然の儚さの詩情

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松岡宮は詩人で良いと思うけれどもポエトリーアーティスト(詩的な芸術家)を名乗っていたり、駅員が好きでいつも追いかけ続けているとか如何にもキャラクターが濃いらしくて注目してしまう。
桐蔭学園ー代ゼミー東大理2-保健学科ー修士卒業 (博士課程は受けずに、放浪しますと言い残して大学を去ったような去らないような・・・) いつも真面目にやってるのだけど、劣等生で・・・ついてゆくのが大変・・・
松岡宮 活動歴・受賞歴等 via 駅員観察日記
経歴が凄くて東京大学を卒業していた
IQ(知能指数)が非常に高いのではないか。日本一、そして世界でも指折り大学に数えられるのは間違いなさそうな気持ちがする。
情報によると東京大学でも理科二類の保健学科は理科三類の医学部などよりは入学するのは大変ではないみたいに聞かれもするけど、驚くのは驚くし、しかも松岡宮は修士卒業だから進学して大学院の半分(修士/博士前期過程)まで行っていて勉強家だと唸らされる。
二十代前半、コンビニでアルバイトをしていた頃、同僚の二人の東大生と出会って一人はちょっと遊んだりもしたくらい仲良くなれたけどーー夜勤明けに相手の家でスーパーファミコンファミリーテニスを愉快にやってから他のゲームを貸すか何かで自分の家に来る途中で、駅を降りると腹が減ったといわれるので、朝早くから開いている店が少ないとちょっと悩んだ、近場のリンガーハットへ連れて行くと長崎ちゃんぽんを平らげた後に美味しかったと又いわれるのが嬉しくこそ微笑ましかったーー何れも普通の印象を与えた。ただし話し込むと神経過敏な面に驚かされながら凝り性みたいな人柄を受け取った。何かに打ち込む能力が長けているから受験勉強にも功を奏して超難関の東京大学に入学できるのではないか。いい換えると精神の集中力に優れているわけだ。
松岡宮もそうなのか、駅員への執拗なまでの拘泥りとかやはりと合点するし、凝り性みたいな人柄を明らかに示している。別に東大生だけではないにせよ、知り合いの二人と似通っているのが面白い。
松岡宮/大田区というひとつの完結した世界があり(2017年音源) via Miya Matsuoka
詩では大田区というひとつの完結した世界がありYouTube)に甚く引き付けられた。
青春期に大田区へ良く行っていた
僕はアルバイトで通っていたんだ。最初は電車が多くて山手線の五反田駅から東急池上線に乗…

アインシュタインはスピノザ主義者だから反核の物理学者として誠実そのものだ

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人類が核兵器を作り出すのに成功したのは物理学の特殊相対性理論に基づくらしい。すなわち「E=mc2」(エネルギー=質量×光速×光速)の公式に沿ってしか誰も考え付かなかった可能性が高い。
Albert Einstein by Oren Jack Turner, Princeton, N.J. [Public domain], via Wikimedia Commons
物理学の特殊相対性理論は一般相対性理論と共にアインシュタインの偉大な業績の一つに数えられる。現代人の生活を支える様々な機械の多くはアインシュタインの発見した自然界の認識に由来するようにも聞かれるし、高度な数式などは僕にはちんぷんかんぷんにせよ、とても凄い人だと賛嘆せざるを得ない。
しかしアインシュタインは核兵器について心を痛めていた。自分が物理学が好きで一生懸命に勉強してついに掴み取って皆に教えた特殊相対性理論が夥しい人殺しに使われるとは寝耳に水の悲しみというか、当初から全く望んではいなかったためなんだ。
第二次世界大戦でアメリカがルーズベルト大統領マンハッタン計画で世界中の有力な科学者に声をかけて何人も集めながら原子爆弾の開発を果敢に始めたけれどもアインシュタインは最初の切欠に不本意ながら関与していたとされる。
ドイツのヒトラー総統がヨーロッパでユダヤ人を迫害して実際に殺し捲っていたので、ユダヤ人の科学者たちが何とかしようと敵対するアメリカに原子爆弾を早く実現して叩き潰すように薦めたんだ。事前に物質の核連鎖反応が強大な爆発力を持つから大変な武器になると教えるためにアインシュタインにそうした手紙への署名を頼んでいたとされる。アイデアが特殊相対性理論から引き出されるとかノーベル賞を取っていて地位や名声が高かったなんて事情からルーズベルト大統領を十分に説得できるとユダヤ人の科学者たちが考えたせいかも知れない。
アインシュタインにとっては詳しく知られないままにアメリカのマンハッタン計画の立ち上げに加担する格好になってしまっていた。
改めて原子爆弾の開発を一緒に進めて欲しいと声をかけられたものの参加しなかったといわれているので、本当にやらかしたと不本意な人生に悔やんでいたのではないかと想像される。
アインシュタインもユダヤ人だからドイツのユダヤ人の大量殺戮に対抗しなくてはならないと感じたかも知れないし、止めたい気持ちは流石に…

松尾芭蕉はおくのほそ道で憧れの松島へ訪れても言葉を失うほどの絶景のために俳句を残さなかった

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虚覚えというか、今夏、松島の記事を仕上げて松尾芭蕉の松島の句があれば読んでみたいと探した。
おくのほそ道の旅で松島に訪れた感じがするのに俳句を詠んだかどうかが記憶に全く残ってなかったり、どこかで本人の作として聞いた「松島やああ松島や松島」が事実かも定かではなかったり、訳が分けらなくて本当に困ってしまう。
分かったのは調べた結果だけれども松尾芭蕉はおくのほそ道で松島の句は詠んでなくて紀行文しか載せてなかったのと「松島やああ松島や松島」も田原坊(狂歌師)の「松嶋やさてまつしまや松嶋や」が人伝てに変化して作者も誤って広められたのとが正しかった。
Matsushima By Ivan Mlinaric [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons
松尾芭蕉にはおくのほそ道以外に松島の句が全くないわけでもなくて蕉翁全伝附録という本に「島々や千々に砕きて夏の海」(しまじまやちぢにくだきてなつのうみ)が旅の後で残されていたらしいんだ。
味わいが薄くて印象も弱いから松尾芭蕉が詠んだとしても特別に優れた言葉遣いとは認めない。日本三景という有数の絶景、松島への渾身の一句には相当に物足りないだろう。俳聖の駄作と退けざるを得なければ最初から知らない方が良かったと逆に後悔させられる。
ただし考えると違うのではないか、晩年のモーツァルトの音楽のように普通とは。当たり前には計り知れないはずの澄明な世界を余人の追随を許さないほどに精妙に捉えている自己表現に他ならなさそうなんだ。極めて細やかな心遣いによって紡ぎ出された言葉からのみ出来上がってないわけではないと受け取ると「島々や千々に砕きて夏の海」は本当に想像を絶する素晴らしさを持っていると認めるのに無理はない。詩的にいうと宇宙が泣いてしまうに等しい。人間が到達する感動の限界まで痛感させる芸術性を教えてこそ止まないから松尾芭蕉ならではの松島にも相応し過ぎる余りの仕上がりの俳句だったし、驚くべき言葉遣いだったわけだ。
松尾芭蕉の松島への思いを理解するために
Basho Matsuo by Kyoriku Morikawa [Public domain], via Wikimedia Commons
おくのほそ道の二十四章目に「松島」が出て来る。全体が五十章だから、丁度、中頃に松島への思いが綴られていた。
抑事ふりにたれど松島は扶桑第一の好風にして…

イースター島で気になるモアイの五つの鑑賞スポット

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イースター島(ラパ・ヌイ国立公園)のモアイについて好んで調べてみると先祖の霊を祀っていて島民の守り神だったと分かったけど、しかし一つの謎が解けても又別の謎が生まれて来るようで、モアイそのものの造形から芸術的な関心、または存在から文化的な興味を受け取りながらとても興味深い気持ちに駆られ続けてしまう。
モアイはイースター島のあちこちに点在していてそれぞれに趣きが異なっているので、気になるモアイの鑑賞スポットとして五つを選び出しながらどんな感じなのかを纏めておきたいと思う。
鑑賞スポット①アフ・トンガリキ
Easter Island, Ahu Tongariki by Arian Zwegers [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons
イースター島で最大の祭壇/アフで十五体のモアイが並んでいる。海を背にして著しく連なる巨大な佇まいが見るからに島民の守り神らしい様相を呈している。崇高そのものとも過言でないだろう。
胸を締め付けられる感じがする、計らずも。海鳥の声がどこからともなく聞こえて来るようで、果てしなく心に染みる詩情を湛えているモアイの魅力を象徴的に示している。
本当に行ってみたくならせる。モアイは不思議なロマンを与えるけれども顔自体が体というイメージの美しさに惚れる。気持ちが全てみたいな人々の生き方が反映してそうで、命が燃え上がる瞬間を未来永劫に捉えているのではないか。嬉しくて実物からかけがえのない幸せに肖りたいと引き付けられずにいない。
鑑賞スポット②アフ・アキビ
Los Moais de Akivi, Isla de Pascua by Claire Provost (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
七体のモアイが精妙に並んでいる。イースター島では珍しく海に向かって立っているらしい。高台から海を見下ろすような感じで、唯一ともいわれる。
大空と比べると流石に小さいようだ。七体ではモアイも祭壇では圧倒され過ぎないせいか、人間に近いという情緒が漂っている。余白が際立ってこの世とをあの世を結び付けながら魂が飛び交っていると想像してしまう。
正しく霊感が刺激される配置では目に見えない神殿の支柱そのもののモアイがアフ・アキビだろう。厳粛な祈りに誘われる。自分も先祖と同じようにいつかは死んで世界に別れを…

セピア色の写真が懐かしいのは古びて汚れた感じが自然なほどに

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今年は気に入った鈴蘭の写真が色々と撮れた。小さな蕾から咲き出してさらに虫も来てついに見納めるまで嬉しかったと思い出しながら又一枚を仕上げた。
Photoshop ExpressのエフェクトでセピアⅢを使ってみた。格好良いイメージだ、鈴蘭は可愛いけれども。印象がガラリと変わって薄暗い雰囲気の中で懐かしさが切なくも込み上げるのが詩情だと思う。もう二度と手の届かない記憶の世界、言葉が心に染みて来るのは確かだ。愛と優しさがなければ成り立たないと分かるから改めて自分に取り入れたくなる。セピアⅢというPhotoshop Expressのエフェクトの一つの良さだろう。詩情と共に出会いから幸せを掴むかぎりの人生の素晴らしさに匹敵するような写真が得られる。

Photoshop ExpressのエフェクトにはセピアⅡもある。気に入ってセピアを探すとセピアⅠがなくてなぜと訝る。記憶の世界と捉えると白黒がたぶんセピアⅠに相当するのかも知れない。セピアがセピアⅡからしか出て来なくても可笑しくはない。色合いはオーソドックスで、茶色がかっているのが普通に考えると間違いないくセピアⅠだと感じるし、認めてはセピアそのものだろう。
セピア色は烏賊墨に由来する
西洋で古代ギリシャの時代から筆記用具に烏賊墨が使われていた。食料として烏賊を捕まえていて墨を吐くと気付いたせいか、インクに適していると考えられたみたいだ。最初はパピルスの紙に葦の筆で文章を作成することが多かったらしくてそこに烏賊墨のインクも必要だったわけだ。インク自体は他にも煤の黒や赤土の赤が使われていたかも知れないけれども次いで古代ローマの時代でも烏賊墨は黒として多用されていたらしい。
中世になると筆に烏賊墨を付けて紙に文章を作成していた。ただし悪臭を放ったり、劣化して色褪せたりするから必ずしも便利なインクではなかったんだ。少しずつ使われなくなってしまった。黒としては煤が良かったのかも知れないし、硫酸鉄などから新しいものも出て来ていたようだ。
ところが烏賊墨のインクは終わらなかった。完全に廃れるよりも品質改善を受けて二つの難点を克服しなが再登場を果たしていた。
近代以降、西洋では全土に渡って筆記用具の必需品と大きく広まったらしい。色も変わってしまってもはや黒ではなかった。品質改善から便利で、しかも初めて茶色として使われ出したといわれる。


セピア色のサンプル…

七星天道の汚れて苦労する命の営みには神の視点から平家物語の憐れみまで考えられた

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鈴蘭七星天道が付いていた。好運な感じがする、ラッキーセブンなので。しかも赤だ。情熱の炎の輝かしい気持ちで、人生の期待値も上がらずにいないだろう。姿形も丸くて小さくて可愛いから嬉しい。
去年も見付けたけど、写真には残せなかった。ちょこちょこ動き回るからα5100ではタッチパネルの追尾フォーカスで狙うしかない。背中にピントが合ってくれたから良かった。日陰なので、描き込みは緩くても仕様がない。Touit 2.8/50Mのマクロ撮影ならではの被写体が背景から浮かび上がるような仕上がりを得たからとても満足している。
雨が多くて鈴蘭が汚れていて七星天道もそうなので、独特のイメージを認める。いうと花も虫も苦労している。ヴァン・ゴッホの馬鈴薯を食べる人々と被るような労働の崇高さを人間にとっては計らずも受け取ってしまうし、そして命の営みの地道な余りのリアリティーに気付かされる。
なぜ神は生き物に試練を与えるのか
スピノザ哲学ならば無限の可能性として自然に理解されるだろう。鈴蘭も七星天道も全く汚れないわけには行かないし、苦労する場合があると否定できない。悲しみについて免れるためには努力するしかない。
考えると幸せへ向けては人間が最も有能かも知れないけど、しかし世界を変えるだけが喜びではあり得ない。汚れて苦労しながら神への祈り、または自然への理解を失うならば酷薄なのも事実だ。どんな幸せも本当は奇跡でしか果たせないかぎり、すなわち無限の可能性という被造物から汲み尽くせない神の視点で世界を捉えるならば有能も全て相対的な認識に数える他はない。喜びを掴んでも完全に正しいのでは一つの思い込みだろう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。裟羅双樹の花の色、盛者の必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
祇園精舎:平家物語の巻第一 via 平家物語
日本では平家物語の栄枯盛衰に命の営みを習う。強ければ何もかも良いと上手く行きはしないはずだ。自然の大きさから人間とは何かを捉え直している。長続きしない喜びだけではなくて認識の核心は「必衰の理」だから世界の本質に触れるほどの言葉遣いになっていた。人生の物悲しさにおいては憐れみを基調とした日本的な情緒にも通じるんだ。
山の中で七星天道の良い写真が撮れたと驚いた。鈴蘭と共に汚れているから美しく表現…

写真の被写体に合った構図による臨場感

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クリオネの記事を仕上げるのに写真を引用しようとWikimedia Commonsをチェックしていたら数も少ないし、気に入ったのがなかった。
あちこち探し回っていてOpenCageというサイトが動物の写真をクリエイティブ・コモンズの商用可で提供していてクリオネの写真で幾つか気に入ったのが見付かったので、使わせて貰って非常に助かったんだ。
Chamaeleo calyptratus by Daiju Azuma [CC BY-SA 4.0], via Google+
管理人はDaiju AzumaというけれどもGoogle+もやっていた。写真はサイトと同じようにクリエイティブ・コモンズの商用可で使って構わないみたいだ。見ると画質がGoogle+ではさらに上がっているようだから嬉しかった。
写りが本当に良いと思う。被写体が分かり易くてしかも背景に甚だ溶け込んでいるから自然さが際立っている。臨場感が素晴らしい。
柔らかみが特徴的だ。カメラのレンズの円やかさが巧みに引き出されているとすると構図こそ合っているせいだろう。エボシカメレオンもあるがままの姿をしっかり捉えているんだ。当たり前にせよ、カメラは実際には難しいと思う。写真の構図はやはり少しずれただけでも仕上がりの印象を大きく変えてしまい兼ねない。きっとセンスが問われるんだ。
Daiju Azumaは被写体の気持ちを伝えているから見ていて安心できるような纏まりに秀でた写真を撮っていると好感を抱かせた。

温泉に浸かる猿は人間にとって自然との和合を果たす

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見ているだけでこちらも温まって来るようで、日本の冬の風物詩といって良いかも知れない温泉に浸かる猿だけれども案外だったのは地獄谷野猿公苑(長野県)など、一部の人工施設でしかやってないといわれる。
Japanese Macaque by Yblieb (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
猿が自らの知恵を働かせながら野生で温泉に浸かっているわけではないとすると光景の中身としては例えば日光さる軍団(栃木県)のパフォーマンスに近いだろう。
ただし微妙に違うのは温泉に浸かる猿の場合は人間が必ずしも仕向けたわけではなかったらしい。
温泉地で人間の周りに子猿が遊んでいて、偶々、近くに温泉があったので、好奇心からか入り出した。以来、すると猿の群れにそうした行動が広まって気付いた頃には一つの温泉を目当てに何匹も集って新しく入るように変わってしまったんだ。盛況を極めるほどに猿の温泉というイメージが出来上がったし、取り分け冬に目立った行動だったので、寒さに打ち勝つために保温を求めて猿は温泉に好んでやって来て浸かるように認められている。
Snow monkeys soak in hot springs of Japan via The Guardian
考えると面白い。人間と猿に半分ずつの思いが成り立っている光景が得られた。猿だけでは温泉に浸かるつもりはなかった。しかし人間も又狙って仕向けてはいなかった。元々の子猿が好奇心から温泉を見出だしたとすると完全にアートなので、物凄く感動するんだ。
誰も予期しなかった出来事に素晴らしく触れては美しいと味わう気持ちは止めようがないだろう。
温泉に浸かる猿に風情が溢れているのはアートのせいなんだ。如何にも自然の光景だと思わせるし、どこでも変わらなさそうな印象を与えている。猿にとっては自力で見付けた温泉に等しいので、最初の餌は本当に近寄るための切欠でしかなかった、浸かるも何も全ての行動にやはり無理がないと人間とは別に心から静かに驚かされてしまう。
厳しい冬の寒さに打ち勝つためとはいえ、温泉から上がって直ぐに野晒しでは大変ではないか。
しかし猿は人間のように多くは汗をかかなくて体温は下がり難いと考えられるようだ。
すると猿が温泉に浸かる必要もないのではないかと改めて疑問が生じる。
動物では冬に体毛が増えて保温性を増すよ…

人々の毛綿鴨の羽毛のリサイクルには泣けて来る

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King Eider by Olaf Oliviero Riemer [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
毛綿鴨の羽毛は人々の防寒に珍重される。地球の北極寄りのとても寒い地方にしか生息しないけれどもそれだけ羽毛も防寒に優れていて保温性が著しく高い。
英語でアイダーダックと呼ばれて羽毛もアイダーダウンとして人々に愛されながら防寒に昔から使われて来た。ダウンでも品質は流石に最高級らしい。アイダーダウンを多用した布団ならば数百万円にも及ぶといわれている。
しかし凄く驚いたのは毛綿鴨の羽毛の人々の採取の仕方で、資源のリサイクルとは何かを考えさせられてしまった。ふわもこの可愛いらしさに、心毎、引き付けられながらではまさかだった。毛綿鴨と人々との関係には瞠目するべき世界があって甚く尊ばれもしてしまった。
羽毛のリサイクルというそれぞれの共存共栄
ノルウェーのヴェーガ諸島がアイダーダウンの伝統的な産地(世界遺産)として知られていて人々の採取が珍重しながら非常に長く続けられて来て――九世紀頃からといわれる――今現在も殆ど変わらない。
毛綿鴨が巣を作る。特徴的なのは卵を温めるために親鳥が自らの羽毛を抜いて周りを固めるんだ。とても寒くても卵が孵り易くなっているわけだけれども雛が孵ると親鳥と共に巣を出て行く。卵を温かく囲んでいた羽毛だけが残されているのを人々が自らの生活のために貰っている。
巣として毛綿鴨に不要になった羽毛が人々の防寒にリサイクルされていると凄く驚いたし、毛綿鴨と人々との《種族の閾》を越えた繋がりにはもはや心から感動を覚えざるを得なかった。
Eider nestingboxes by Thomas Bjørkan (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
人々は毛綿鴨の羽毛を貰うために小屋を建てる。巣作りに適していて何よりも天敵に襲われ難くなるし、毛綿鴨にとっては非常に助かる。小屋を見張りながら人々は暫くして必要な羽毛が手に入るわけなので、それぞれに共存共栄が成り立っている。何年もの間、ノルウェーのヴェーガ諸島では繰り返されて毛綿鴨の小屋が文化的にも相当に大きい。
詩的にいうと自然との対話が象徴的だろう。泣けて来るほどの素晴らしさを味わう。人々と毛綿鴨が羽毛のリサイクルを介して共存共栄を果たした…

人間の生き方の内面的に立ち直るような一つの自然な流れ

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Joshua Bell performs Bach's Chaconne, the final movement from Violin Partita 2 in D minor via TheNexusInstitute
ジョシュア・ベルバッハは生命感が宿っていて譜面の読み込みが深そうだけれどもそこはかとない魅力を湛えていて総じて静かに穏やかに引き付けられるのが特徴的だ。
バッハは無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータが素晴らしいと思う。ソナタとパルティータの三曲ずつの全六曲で構成されていて全体を通して聴いてみると取り分けパルティータ第二番の第五楽章/シャコンヌの部分が世間的にも人気曲ながら極めて興味深く受け留められた
後から気付いたけれども自作詩の詩人の歌~水の精と生の涙~のイメージがバッハのパルティータ第二番の第五楽章/シャコンヌにぴったりではないかと感じたので、殊更と注目せざるを得なくなってしまった、個人的には。
悲しみへの祈りによって心が癒される世界観というか、人間の生き方の内面的に立ち直るような一つの自然な流れを僕が言葉でやったようにバッハは音符でやっているに違いなさそうなので、初めて無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを知ったのはヘンリク・シェリング(ヴァイオリニスト)の揺るぎなく端正な演奏だったけれども本当に引き付けられながら愛するべき作品に他ならないと認めるにも至った。
バッハはそれこそ宗教音楽なので、自己表現で祈りと癒しが密接に結び付いているのは当たり前かも知れないにせよ、特筆するべきなのはやはり真面目さだろう。真面目さが常人離れしたくらい突き抜けていた。だからこそ宗教音楽の良さ、喜ぶべき祈りと癒しの結び付きもとことん究明するように作曲せざるを得なかったはずではないか。
ジョシュア・ベルは譜面の読み込みの確かさに裏付けされたような形で自信を持ってバッハの楽音を奏でているから生命感を与えると思うし、音楽がまるで生き物のようにリアルに喜ばしく伝えられては祈りと癒しも人生の安らぎとしてそこはかとなく魅力的に味わわれるはずなので、聴いていて好感度が高いという演奏だ。

人生は健康ならば大事なのは気力だ

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ブログのアクセスが少ないと馬鹿らしくて一生懸命に頑張って記事を仕上げる気力を失う。どこかで聞いたことのある感じがしてまるで職場での人間関係への不平不満みたいだ。
同僚の誰かに妨害されて思うままに働けないわけだけれども僕は一人でやっているから職場での人間関係に例えられるなんて不思議だろう。訪問者は同僚ではない。なぜ虚しいのか。死に物狂いでブログの記事に取り組んで何の成果も上げられないせいだと思う。残されるのは疲ればかりでは生活を持もち堪えられ難い。
Google検索でのサイト評価が遅々と上がらない。Bloggerで新しくブログを開設したばかりだけれども大丈夫かどうかが本当に気がかりだし、心配だし、不安だ。早くても三ヵ月くらい待って動向を判断するべきといわれる。
他ではブログを開設して数週間で数万のページビューを得ているブロガーもいるらしくてGoogle検索からでもそうみたいなので、自分は間違っているのではないか、検索エンジンに引っかからないアクセスアップに繋がらない記事ばかりをブログに載せて無駄骨を折っているに過ぎないと考えてしまわざるを得ない。
まさかだけれども問われているようだ、アクセスアップにも自分らしさが。
人それぞれのアクセスアップならばブログの成長もてんでんばらばらが自然としか呼べない。早熟ならば直ぐに満足できるし、晩成ならばそうしたわけには行かなくて悲しいけれども結果は最終的には同じだけ得られると考えると少しでも早く目的を果たせるように努めれば良い。
気力も保てるのではないか。自然が一番なんだ。アクセスアップにかぎらず、きっと苦労の絶えない人生には自信が欠けているに違いないと思う。物事が捗らなくて遠退くばかりの夢に挫折感が嵩んでしまうならば削られる他のない気力だろう。
新しく進もう、我が道を自然に。誰も来ないに等しくて無駄骨ばかりのブログにせよ、健康で体力があれば本当に続けられるかどうかは気力こそ全てに違いない。自分らしくも頑張るんだ、そして。
ブログが楽しいのは記事を書き残すためだし、訪問者が多いか少ないかではあり得ない。自信を損うな。Google検索も徹底的に研究してアクセスアップの目的は果たせると踏んでこそ見定めた夢ではないか。へこたれてはならない、掴まないうちに。
つまり喜びへの可能性をみすみす捨て去るような真似だけはしたくなかったわけで、何一つやり残さないため…

澄んだ眼差しの世界で自然に出会い得る天使は詩的だ

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日本アニメーションフランダースの犬のアニメの第一話を動画で無料公開していて素晴らしい。
フランダースの犬 第1話「少年ネロ」 via 日本アニメーション・シアター
オープニングの主題歌のところが凄く好きだ。分けても池に張った氷の上をネロとアロアがくるくる回りながらパトラッシュが割って入ったせいだけれども滑っているのを観ると胸が熱くなるんだ。
そして涙も溢れざるを得ない。人と人との絆は心から清らかには引き裂かれないのではないか。滑り込むほどにパトラッシュが詩になってしまっていたせいで、ネロのアロアの通じ合う言葉(胸のうち)を表現していたと味わわれる、正しく喜ばしく。
十数年来、徹して作詩しながら詩人として幾つもの詩集を仕上げて来たし、詩、または詩歌への造詣は今現在でも絶えず、深まり行くばかりにもせよ、アニメのフランダースの犬のオープニングのパトラッシュの詩のイメージは実に見事だと感嘆させられる。
人々に何かを伝えるためには子供向けでやると最も分かり易いという好例ではないか。
ただし大事なのは清らかな心だ。清らかな心からパトラッシュの詩のイメージも生み出される。ネロとアロアの澄んだ眼差しこそ世界を呼んでいたし、詩としてやって来るパトラッシュのそばには天使を感じるのがやはり自然だろう。
アニメのフランダースの犬は二人と一匹の世界を通じて天使と出会えるところが最高だったと認めるしかない、改めて日本アニメーションの動画と共に。
かつてテレビ番組で放映された当初の最終回は三十パーセントを越える視聴率だったらしい。
四十年以上前だから人々の趣味嗜好は変わったにせよ、清らかな心から見出だされる天使は気に入るし、現実に手放すわけには行かないと思う。
ネロとアロアの心の繋がりは初々しくてチューリップがぴったりではないか。
永遠に歌いたい。今だからでも昔ならばでもなく、天使が寄り付かずにいない清らかな心は非常に重要なので、生活に取り入れては自分自身も向上できるし、人々にも伝えられるときっと良いはずだ。

神の知性と必要な努力で実現できる幸福を

朝、起きて気持ち良かった。姪が死ぬかも知れないから一日の尊さが如実に感じられた。当たり前過ぎる、可笑しいくらい。些細な日常としか呼べない。分かり切っているんだ、僕には。驚くにはもちろん及ばない。
考えると最後の不幸ではないか。詩的にいって不幸は自分の選んだ道なんだ。逃げ出すことはいつでも簡単にできる。漫画だけれどももしも宝くじのBIGでキャリーオーバーの六億円が当たらないことが不幸だとしたら当たったと空想するか、外れて人生を学ぶかのどちらかで逃げ出せるよ。直に受け取って心の肥やしになるような不幸こそ最後にしたいと僕は認めている。
どうすれば幸福になれるだろう。本質的には神の知性に従わなくては行けない。すなわち自然の法則に逆らっては人生は手懐けられないのではないか。嫌なことばかりが大波と押し寄せて来るようだ。自分の災いに満ちた人生を振り返るかぎり、サイトのアクセスが伸びないという事実は象徴的な悲しみだ、もはや死以外に親しまれるすべはなかった。自殺こそが僕の進むべき道ではないか。本当にうんざりだろう、数え上げるまでもなく、何度目の気持ちだったかなんて、九歳以来――。
例えば万有引力の元で木から落ちない林檎を欲しがっても仕様がないわけで、そうした林檎を幸福として実現しようとするならばアイデアが理に適った形で要求されて来る。反重力的な世界とか浮力を備えた林檎なんて発明しなくては幸福を求め通りに掴み取れるかどうか、手に入れた林檎を丸齧りに美味しさを湛えられるかどうかは正しく訝しい。
夢を叶えるためには物事の成り立ちを捉えることが一番の近道かも知れない。無駄な努力をなるべく控えて必要な努力に的を絞って人生を情熱的に注ぎ込んで行くべきなんだ。
生まれて初めて気付いているけど、振り返ると遅過ぎて又死にたくなるくらい引き付けられるので、経験された災いの多さに何もかも駄目に決まっていると絶望視させられてしまう、しかし新たに期待しながら頑張りたい。

海老天重に受け取る日本の文化

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海老天重。咄嗟に体現止めを使いたくなる、呼ぶのに敢えて。畏まった迫力に息こそ呑まされずにいない。
日本の雅やかさを凄く感じる。五重の塔みたいな金の鯱らしい厳めしいほどに心引かれる美の楽園という雰囲気が漂っているのではないか。潔さが日本の文化を象徴する概念ならばそこから立ち上って来る世界が雅やかなんだ。
刹那に触れる思いが海老天重には受け取られる。後には引けず、先には追えない。今此処の命の眼差しが潔さに通じる精神だから畏まった迫力も伝えるんだろう、空気の波動を伴って。
自然への敬いと捉えても良くて日本の良さにやはり相応しい。他にかけがえのない存在の魅力を覚えさせる文化を持っている。振り返れば数知れないほどの物事に気付かれる日本、または潔さに示された格好良さが認められるようだ。
分けても海老天重は断トツに優れているというか、日本人にとっての美の楽園を本当に感じるし、食べても非常に美味しいけれども芸術としても素晴らしいばかりだ。