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スノーボードのハーフパイプのダブルコーク1440/ヨーローフリップとはどんなトリックなのか

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スノーボードのハーフパイプのエアー(空中)から繰り出されるトリック(技)で、ダブルコーク1440(フォーティンフォーティー)は非常に難しいと聞く。
2018年の平昌オリンピックの男子の決勝ではコンボ(連続)で挑んだショーン・ホワイト平野歩夢が何れも成功して優勝と準優勝、すなわち金メダルと銀メダルを手にしたから世界で最高のトリックに数えられる。
ショーン・ホワイトのダブルコーク1440のコンボ(ショーン・ホワイト3回目の金!/二番目と三番目のエアー)平野歩夢のダブルコーク1440のコンボ(平野歩夢が2大会連続銀メダル!!/二番目と三番目のエアー)
コークはコークスクリュー(corkscrew)の略で、ワインのコルクの栓抜きなどの旋回させるという意味がある。
スノーボードのハーフパイプのトリックとしては縦に一回転すると同時に捻りながら横に一回転半する3D(立体)なんだ。

ラン(走行)のフロントサイドから行われる場合、利き脚、または主要な足取り/メインスタンスか、あるいはそれを逆向きに入れ換えた状態/スイッチスタンスの腹側のハーフパイプのリップ(縁)を跳ね上がる。
他面、背中側から試みるとバックサイドコークスクリューになる。
何れも縦回転が後方へ向かうのが特徴で、バックフリップ(後方宙返り)の形を取っている。
3Dトリックとして反対にフロントフリップ(前方宙返り)で捻りを加えるとマックツイストになってショーン・ホワイトのダブルマックツイスト1260(トゥエルヴシックスティー)が非常に名高くて他の選手には厳しいらしい。
ハーフパイプのトリックに付けられる数字は横回転の度数を表しているので、コークスクリューは横に一回転半の540°ならば詳しくはコークスクリュー540になる。
ダブルコークはコークスクリューのダブルだから縦回転を、二倍、行う。そのままだと横回転も二倍なので、ダブルコーク1080(テンエイティー)になるけど、1440の場合はさらに横回転が増えて四回なんだ。
コークスクリューから二倍の縦回転に合わせて捻りも二倍になっているとすると想像したただけでもダブルコークの1080から1440へは只単に多く回転する以上の3Dトリックだから難易度も相当に上がってそうだ。
I-Pod Lands first ever YOLO Flip - Winter X Games via X Games
スノーボ…

新産業革命と呼ばれるパリ協定に基づく脱炭素化のクリーンエネルギーへの国際的な取り組みの印象

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世界の地球温暖化対策は物凄い勢いで進んでいる。例えば世界有数の巨大な産油国だったサウジアラビアでさえも広大な砂漠にソーラーパネルを敷き詰めたりするように昨今では人々のエネルギー利用から二酸化炭素を削減する方向へシフトチェンジが根本的に行われていると分かった。
Saudi Arabia goes solar via ABC News (Australia)
従来、石炭や石油をエネルギー資源として活用しながら燃やした際に排出される二酸化炭素を減らして地球温暖化をどれだけ止められるかという仕方が主流だったはずだ。
身の周りでは町中にガソリン車が減って電気自動車が増えるから変わっているのを感じたけれども人々のエネルギー利用の大本がもはや刷新されようとしているわけだ。日々、電気が必要ならば供給する発電所に石炭や石油の火力よりも宇宙の太陽光や地上の風力を想定するのが当たり前になって来ている。
現時点で人々のエネルギー利用の大本は完全に移行してないし、世界の発電所の割合も太陽光や風力よりも火力、そして原子力も併せて他の方式に大きく依存している国が圧倒的に多いけれども将来性がなさそうな状況が本格化された地球温暖化対策を示していて凄いと驚く。
一般的に脱炭素化のクリーンエネルギーへの国際的な取り組みとして新産業革命と呼ばれるのも聞いた。
十八世紀後半から十九世紀前半にかけてイギリスで飛躍的に始まったとされる産業革命は蒸気機関の発明と工場制機械工業の拡大が印象深かった。
人類初の鉄道/蒸気機関車に象徴されるように強力な機械に必要なエネルギーとして石炭が重宝され出した。
以降、技術革新が推し進められて二十世紀に入るとガソリン車が世界中に普及したりしながらさらに扱い易い石油の利用も爆発的に加速して行った。
取って代わって新産業革命と呼ばれる所以はエネルギーとして太陽光や風力という二酸化炭素を排出しない発電所の電気を中心的に利用するためで、産出についてかつての石炭や石油の燃焼に由来するのとは全く相容れないところが脱炭素化のクリーンエネルギーを特徴的に示しているし、人類にとって画期的な手法なんだ。
因みに昔のイギリスの産業革命はそれ以前に自明の理だった工場制手工業(マニュファクチャー)に対して呼ばれている。エネルギーは人間が中心的だったし、機械といっても人力の道具こそ重宝されていた。または動物や自然の力にしても…

大隈重信は人生百二十五歳説を唱える大器晩成の早稲田大学の総長で日本の総理大臣だった

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本当に知らなかったというか、テレビで知恵泉の大隈重信 自分は変えられる 50代からの愛され術を観て驚いた。
Waseda University by Kakidai (Own work) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons
大隈重信は早稲田大学の創設者として有名だ。調べると精確には前身の東京専門学校の創設者なんだ。その後、日本の私立大学では最も早い段階で、大学令に基づいて早稲田大学に移行した。初代の総長に大隈重信が就任していたけど、歴史上、直接の早稲田大学の創設者というわけではなかったと覚えた。
早稲田大学の前身は、1882(明治15)年10月21日に創設された「東京専門学校」です。
創立者・大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村にあり、また校舎が同郡戸塚村にあったことから「早稲田学校」「戸塚学校」とも呼ばれていましたが、最終的には「東京専門学校」と名付けられました。
1892年頃には、専門学校の別名として「早稲田学校」と呼ばれるようになりました。専門学校から大学への昇格を機に、以後1902年9月2日付で「早稲田大学」と改称しました。
早稲田の歴史 via 早稲田大学
日本の私立大学では慶應義塾大学も早稲田大学と一緒に生まれたらしい。現行の一万円の肖像に採用されている福沢諭吉が創設した蘭学塾が最初で、途中で慶應義塾に改名してから大学令に則って慶應義塾大学に変更された。巷のスポーツで野球やラグビーなどの早慶戦と良く聞かれるのも早稲田大学と慶應義塾大学が大学令に基づく第二次世界大戦以前の旧制大学の黎明期に位置する日本の私立大学として二つだけが結び付けられているせいなんだろう。
以前から早稲田大学の創設者だから大隈重信は勉強好きなのに加えて教育熱心な人だとしか思ってなかった。
大隈重信 自分は変えられる 50代からの愛され術で日本の総理大臣にも就任していたと新しく分かって興味と関心が著しく増した
第八代と第十七代の二回で、早稲田大学の総長の教育熱心な人が総理大臣というのは素晴らしい感じがする。世の中の善悪をしっかり弁えているからきっと汚職しないだろう。民主主義で、一番、大事だと思う。議員が独断と偏見に囚われていてはたとえ当選しても議会に民意が反映しない。汚職しないまでも活躍するとはかぎらないにせよ、どんな場合でも人々のために信念を持つと同時に保って、…

織田信長が非業の死を遂げた理由は明智光秀の恨みを恐れた森蘭丸を宥め賺した人間の大きさにあり

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戦国時代に日本の天下統一の野望を真っ先に掲げて誰よりも近付いて行った織田信長本能寺の変で自らの志した道半ばに倒れた歴史は非業の死を遂げたと捉える他はないと思う。
明智光秀が謀反を働いたわけだけれども信長公記太田牛一)によれば大軍勢が押し寄せると本能寺の変で異変に気付いた織田信長が「是れは謀反か。如何なる者の企てぞ」(これは謀反か。どんな者の企てだ)と森蘭丸に訊ねて「明智が者と見え申し候」(明智の者と見え申します)と応じられると「是非に及ばず」(どうしようもない)で口を閉ざしたらしかった。
そのまま、亡くなったので――最後の最後、炎に包まれた本能寺で臨終間近には「女どもは苦しからず。急ぎ罷り出でよ」(女たちは構わない。急いで出て行きなさい)と逃がすためにいったかも知れない――織田信長の最後の言葉にもなっている。
聞くや否や違和感を受けた。物凄い弱気な発言ではないか。数え切れないほどの人たちを殺して来て戦国時代の申し子みたいな様相を呈しているはずの織田信長が「是非に及ばず」では戦う前から負けを認めたに等しいだろう。武力で圧倒的なまでに身を立てた稀代の名将としての自分らしさを完全に損っているような印象が拭い去れない。
普段から信頼を寄せる家臣に寝返られた気分的な落ち込みが普通ならば考えられるし、ちょっとした一言に過ぎなくて直ぐに猛烈な反撃に打って出たにせよ、別人の様相を呈しているのが何だろうと訝らせて止まない場面だった。
調べると本当かどうかは定かではないものの明智光秀の本能寺の変で織田信長へ働いた無謀という下克上そのものは森蘭丸によって恨みに基づいて生じると数年前から先読みされていた可能性があると分かって驚いた。
明智が恨みを持つことをも察し、密かに信長の前に出て、「光秀は飯を食いながら深く思慮する様子で箸を取り落とし、稍あって驚いてしまった。これほど思い入れていることに特別なわけはよもやありません。お恨みになることが然々だから大事を企てるだろう。刺し殺すべきだ」といったのを、信長は「否、佐和山をついに君に与えよう」といわれたそうだ。何とも森が、これより先に「父の討ち死にの跡ですから、坂本を下さい」と申したのを明智に与えられたので、讒言すると思い信じられず、果たして弑せられた。
湯浅常山常山紀談(訳出)
森蘭丸は織田信長に最も信頼されていた家臣で、抜きん出て有能だったらしい。人…

森蘭丸の青が似合う美男子らしい忠誠の織田信長へ命を捧げた潔さ

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本能寺の変を調べていたら、一際、目を引く武将がいて森蘭丸という名前から戦国時代に華々しく引き付けられる感じが凄かった。
Ranmaru Mori by Tsukioka Yoshitoshi [Public domain], via Wikimedia Commons
織田信長の家臣で、多勢に無勢と明智光秀の大きく攻め込んで来た武士たちの勢いに押され捲りつつも正しく死をも恐れずに先頭を切って奮戦した武将の一人が森蘭丸だった。
明智軍の安田国継に槍で刺されて殺されたらしい。安田国継は非常に有力な武将で、古川九兵衛と箕浦大蔵丞と共に明智三羽烏と呼ばれるくらい明智軍の主力だった。
本能寺の変で最大の狙い目だった織田信長も槍で突かれてもう駄目だと傷付きながら部屋の奥へ引き下がったのは安田国継の一撃だったといわれる。
森蘭丸の死と織田信長の痛手は何れも安田国継が自分でやったと自分でいっていたらしくてもしも見栄を張っているだけならば史実が歪められて困ってしまうけれども嘘吐きが有力な武将のはずはなくて精神こそ自分に厳しいくらい鍛え上げてなければ命懸けの真剣勝負の世界で生き残るわけもないから信用するのは他の人たちよりも比較的に易しいと考える。
物語として捉えると主君の織田信長を庇って先に命を落とした森蘭丸の忠誠に満ちた決死の姿が魂を揺さぶる
巷で事実は小説よりも奇なりと聞く。本当に興味深いのは森蘭丸には二人の弟も一緒に参戦していた。森坊丸森力丸と合わせて森三兄弟みたいな感じで、本能寺の変で織田軍として安田国継を含めた明智三羽烏と力強く対峙していたような印象を与える。
計らずも三対三の抽象的な知覚から宿命とか神なんて形而上学(観念界)に思い馳せる瞬間が訪れるのが類例がない。
哲学的な気分にさせるけど、しかし詩学的な気分にもさせる。というのは森三兄弟は何れも十八歳以下の少年だったせいなんだ。武将として戦闘能力は必ずしも低くなかったにせよ、本能寺の変で突然ながら歴戦の猛者に他ならない明智三羽烏に対峙しては端から勝ち目はなかったのではないか。想像すると本当に気持ちだけで打つかって行ったに違いない。織田信長のために死力を尽くして悔いはなかったとしても早過ぎる亡骸がとても可哀想で、短い生涯へは悲運を告げるように切ない風が流れるばかりだと涙に咽ぶ。
森蘭丸は先頭を切って大暴れした本能寺の変で安田国継に打ち倒され…

本能寺の変を企てた明智光秀の動機とは戦国時代の天下人での日本の治世のためだったのかも知れない

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明智光秀が滅没した室町幕府の最後の将軍の足利義昭が京都に入洛するという本能寺の変を企てた動機を示唆するほどの土橋重治宛の直筆の書状が発見された。
仰せのように今まで音信がありませんでしたが<初信であることの慣用表現>、上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です。
一、雑賀衆が当方に味方されることについては、ありがたく存じます。ますますそのように心得られて、相談するべきこと。
一、高野衆・根来衆・雑賀衆が相談され、和泉・河内(ともに大阪府)方面まで出陣されることはもっともなことです。恩賞については当家の家老とそちらが話し合い、後々まで互いに良好な関係が続くように、相談するべきこと。
一、近江(滋賀県)・美濃(岐阜県南部)までことごとく平定することを命じ、それがかないました。ご心配されることはありません。なお使者が口上で申すでしょう。
土橋重治宛光秀書状(藤田達夫訳注) via 毎日新聞
戦国時代、織田信長が日本の天下統一を目指している時期があって日本史全体から捉えても激動の世の中を象徴していて他に例を見ないほどの壮大な歴史ロマンとして、後世、人々の注目を著しく集めて止まない部分かも知れない。
本能寺の変は織田信長を死に追いやって日本の天下統一の野望を完全に打ち砕いた出来事だった。
Honnoji Yakiuchi no Zu by Nobukazu Yosai [Public domain], via Wikimedia Commons
天正十年(1582年)六月二日の未明、織田信長が宿泊していた本能寺へ家臣だった明智光秀が大群を率いて謀反を働いたとされる。主君だった織田信長は味方の守りが手薄だったために渾身で奮戦したもののもはや生き残れないと敵手に放たれた火が激しく燃え上がるばかりの本能寺の奥間で切腹によって覚悟の死を遂げざるを得なかったらしい。
Oda Udaijin Taira no Nobunaga in Flames at the Temple Honnōji by Tsukioka Yoshitoshi [Public domain], via LACMA
明智光秀は亡くなった織田信長に取って換わって天下人と呼ばれる最高権力者の…

藤井聡太四段の実力をNHK杯テレビ将棋トーナメントの森内俊之九段との対局で知った

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何年振りか、テレビで日曜日の午前中からNHK杯テレビ将棋トーナメントを観てみたくなった。十四歳二ヶ月で史上最年少のプロ棋士としてデビューして直ぐ様と最高記録の二十九連勝を成し遂げた藤井聡太四段が出て来たのが何といっても大きかった。
噂には聞いていたし、現在、最強と考えられる羽生善治二冠(元七冠の史上最多同時タイトル保持者)にも勝っていたので、どうにも手が付けられない強さだろうとは容易に想像できた。
しかし実際にどんな将棋を行うかは全く知らなかった。将棋を観るのは僕にとってNHK杯テレビ将棋トーナメントしかなかったので、第六十七回開催の二回戦だったけれども藤井聡太四段が出て来たのはチャンスだとテレビのチャンネルを合わせずにいられなかった。
もう一つ気になったのは対局相手が森内俊之九段だった。調べると近年は物凄く落ち込んで、半分、引退している(負けの多さが祟ってプロ棋士の順位戦という基本的なグループから外れてしまった)ともいわれるけど、とにかく一時期は羽生善治二冠と同世代で並び称されるくらい強かった。
プロ棋士のタイトルで竜王戦と二分される最高峰の名人戦で、五期連続、勝ち続けて本当に数少ない永世名人という称号も歴代十八番目に手に入れていた。すなわち十八世名人になった。近年では羽生善治二冠が歴代十九番目の永世名人/十九世名人になったらしいから森内俊之九段がちょっと早くてそれまで名人戦の決勝で対局してもタイトルを譲らなかったりしたわけだ。
将棋界では引退しないと永世名人の称号は名乗らないみたいで、現役中は実際に持っているタイトルか無冠ならば段位を肩書きにするのが習わしになっている。
森内俊之九段と呼ばれると現時点で無冠のプロ棋士だけど、しかし永世名人の資格保持者だから新人ながら何れは同じような立場に立つと有望株そのものの藤井聡太四段との対局はどうなるかが非常に興味が湧いて来たんだ。
第67回NHK杯二回戦第5局 via NHK囲碁と将棋
結果はそれぞれの調子が、そのまま、出たような感じで、落ち込んでどうしようもない森内俊之九段が伸び盛りで成長して止まない藤井聡太四段に百手もかからず、あっさり完敗してしまったようだった。
対局前の発言では森内俊之九段が「経験」と、藤井聡太四段が「全力」といっていたのが気になった。僕にとっては十八世名人などの歴史を大きく刻んで来た「経験」とキュボロの幼児教育な…

七星天道の汚れて苦労する命の営みには神の視点から平家物語の憐れみまで考えられた

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鈴蘭七星天道が付いていた。好運な感じがする、ラッキーセブンなので。しかも赤だ。情熱の炎の輝かしい気持ちで、人生の期待値も上がらずにいないだろう。姿形も丸くて小さくて可愛いから嬉しい。
去年も見付けたけど、写真には残せなかった。ちょこちょこ動き回るからα5100ではタッチパネルの追尾フォーカスで狙うしかない。背中にピントが合ってくれたから良かった。日陰なので、描き込みは緩くても仕様がない。Touit 2.8/50Mのマクロ撮影ならではの被写体が背景から浮かび上がるような仕上がりを得たからとても満足している。
雨が多くて鈴蘭が汚れていて七星天道もそうなので、独特のイメージを認める。いうと花も虫も苦労している。ヴァン・ゴッホの馬鈴薯を食べる人々と被るような労働の崇高さを人間にとっては計らずも受け取ってしまうし、そして命の営みの地道な余りのリアリティーに気付かされる。
なぜ神は生き物に試練を与えるのか
スピノザ哲学ならば無限の可能性として自然に理解されるだろう。鈴蘭も七星天道も全く汚れないわけには行かないし、苦労する場合があると否定できない。悲しみについて免れるためには努力するしかない。
考えると幸せへ向けては人間が最も有能かも知れないけど、しかし世界を変えるだけが喜びではあり得ない。汚れて苦労しながら神への祈り、または自然への理解を失うならば酷薄なのも事実だ。どんな幸せも本当は奇跡でしか果たせないかぎり、すなわち無限の可能性という被造物から汲み尽くせない神の視点で世界を捉えるならば有能も全て相対的な認識に数える他はない。喜びを掴んでも完全に正しいのでは一つの思い込みだろう。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。裟羅双樹の花の色、盛者の必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
祇園精舎:平家物語の巻第一 via 平家物語
日本では平家物語の栄枯盛衰に命の営みを習う。強ければ何もかも良いと上手く行きはしないはずだ。自然の大きさから人間とは何かを捉え直している。長続きしない喜びだけではなくて認識の核心は「必衰の理」だから世界の本質に触れるほどの言葉遣いになっていた。人生の物悲しさにおいては憐れみを基調とした日本的な情緒にも通じるんだ。
山の中で七星天道の良い写真が撮れたと驚いた。鈴蘭と共に汚れているから美しく表現…

日本人の知性と思考の方法論的な哲学

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お笑いの有吉弘行が哲学について本を出していると知った。毒舌訳 哲学者の言葉という題名で、数多の哲学者たちの言葉を題材にして自説を述べている。インターネットで偶々だったけれども紹介しているサイトを見かけたから気になって訪れてみたんだ。
哲学とは…変わり者の人が適当に言ったことをなんとか普通の人たちが解釈してあげて無理やり「わかるわかる」と納得してあげているもの
有吉弘行の毒舌訳 哲学者の言葉
心外というか、哲学は本質的に思考だから、表現上、間違っていると項垂れるしかない。しかし目を背けてはならないはずだ。お笑いとして許される気持ちを棚上げとすれば真面目に日本を過ごし易く変えるためには現時点で知性改善論のような思考が人々に求め叫ばれているのではないか。まさか興味深い世相が露呈し捲っている。有吉弘行で示し出されたというのは本当に物凄く面白いし、僕は思考が超大好きなんだ、お化けなんて呼ばせない。
笑いたい人は笑って、それが一つの狙いならば余談だけど、大きな息を吸うように。
ぷよぷよでもないにせよ、こんがらがった頭が哲学だと感じる日本人が多いとすれば有吉弘行の言葉遣いは取り立てて珍しくはない。だから哲学者を「変わり者の人」と捉えているわけだろう。思考そのものは外れてない――疑ってかかるだけでも脳味噌を置き去りにされ兼ねなくて危なさそうだ――から有吉弘行こそ哲学者と見えなくはないし、お笑いにしておくのも勿体ないくらい知性が巧みに働いているんだ。
泣きたい人は泣いて、それが一つの習いならば余談だけど、大きな空を仰ぐように。
スカウトはしない、有吉弘行を哲学者へ。白い布切れを一枚だけ羽織いながら古代ギリシャよりも現代アメリカのまるで自由の女神のように思慮深く立ち尽くしていた。どんなに可笑しくても僕はプロデュースするつもりはない。有吉弘行のイメージがお笑いから哲学者へと変貌を遂げる間際に心を素晴らしく擽られるのはなぜか。天使よ。腹を抱えるのは僕だけではないはずだ。きっと人々も感じているに違いない、思考から引き起こされる苦悩という頭がこんがらがってしまう気持ちは現世で未だ経験されない死ほどにも想像上の可能性でしかなかったと。
悲しい人は尊んで、それが一つの憧れならば本題だけど、美しい風を纏うように。
問おう。なぜ有吉弘行こそ哲学者なのか。知性が働いて思考を纏めたかぎりだけれども方法だけで人は誰も哲学者…

邪馬台国の卑弥呼は日本の国内に資料が全く残されてない

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古代日本の女王だったとされる邪馬台国の卑弥呼(やまたいこくのひみこ)だけれども詳しく調べてみたら国内に資料が全く残されてなくて古代中国の書物に記されただけの人物だった。
昔から存在は良く聞かされていたし、歴史上の出典が他国にしかなかったなんて物凄く驚かされた。
弥生時代の終わり(紀元前二世紀後半)に卑弥呼の邪馬台国が日本で一大勢力を誇っていた。それが後続の古墳時代のヤマト王権に繋がる切欠になってさらに飛鳥時代の君主制/推古天皇が齎されて日本も生まれた/名付けられたのではないかと考えられる。
以前の古代日本は倭(わ)と魏(ぎ)の古代中国から歴史書の三国志の「魏志倭人伝」などで呼ばれていた。因みに当時の中国大陸は魏の他に蜀(しょく)と呉(ご)の三つの地域に人々が大きく分かれていて三国志ならば題名の由来にもなっていたわけだ。
天皇そのものは神武天皇が最初で、弥生時代から認められていたようで、日本の祝日の建国記念の日(二月十一日)も神武天皇が即位した日が採用されている。ただし実在感が乏しくて神話上の人物かも知れない。
神武天皇は古事記(日本最古の歴史書)や日本書紀(日本初の正史)に記されていて初代天皇として認められているけれども天照大神(あまてらすおおみかみ)との触れ合いがある。日本神話の太陽神で、人々や天皇も崇めている。現在ではそうした所縁の神明神社が全国に広がっていて伊勢神宮が総本社として捉えられている。
様々な調査から神武天皇は弥生時代でも終わり頃の人物だったかも知れない。すると卑弥呼との関連性が出て来る。一説によると卑弥呼は日本から見た天照大神ともいわれている。卑弥呼を神話化した人物が天照大神だったならば国内に資料が全くないのも当然かつ自然だろう。何もかも天照大神として語られてしまい、中国からのみ卑弥呼として書物に記された。物凄く分かり易くて良いと思うけど、ただし卑弥呼が天照大神だったかどうかの信憑性が歴史学では喧々囂々の議論の只中にあって確実視されるわけには行かないんだ。
Yoshinogari-iseki minami-naikaku ounoie by Saigen Jiro (Own work) [CC0], via Wikimedia Commons
弥生時代を考えると農耕が非常に栄えていて食糧難が前代の狩猟が主体だった縄文時代よりも避け易くなって人口もさらに大きく賄え…

ピラミッドは正しく尽きない魅力の宝庫だ

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昔から引き付けられて仕様がない。形といい、色といい、そして何よりも大きさという。一度、見たら忘れるのも容易ではなかった、振り返ってみると威圧されたようで。
青空に突き刺さる先端のピラミッドは小さいけれども相似形を保ちながら底辺を広げてどっしり構えている。想像するほどに抽象的な美しさ、幾何学の謎めいた魅力に胸を打たれざるを得ない。
All Gizah Pyramids by Ricardo Liberato (Own work) [CC BY-SA 2.0], via Wikimedia Commons
なぜ存在するのか。ピラミッドの三角形を通じて哲学的な気分が味わわれるのも我と我が身を重ね合わせた探求心の賜物だろう。
個人的に興味深いのはやはり何といってもクフ王の大ピラミッドだ。大きさの魅力に溢れている。エジプトのギザの砂漠に高々と聳え立つ。しかしながら他にもさほど変わらない大きさのカフラー王のピラミッドと少し小さめのメンカウラー王のピラミッドがあるんだ。凄い。クフ王の大ピラミッドに続いて、それぞれ、順番に完成したらしくて併せてギザの三大ピラミッドと呼ばれている。
クフ王の大ピラミッドとメンカウラー王のピラミッドのそばには三つずつの王妃のための小さなピラミッドも並んでいる。
三人の王の系譜はクフ王から捉えるとカフラー王が子(次男)で、メンカウラー王が孫(次男の子)だった。
ギザの三大ピラミッドはエジプト古王国時代の第四王朝(紀元前二十七~二十五世紀頃)の文明を象徴的に今に伝えている。
人はなぜ作ったのか。幾つもの重たい石を器用にも四角に切り出しながらまるで天に手を伸ばすかのように積み上げられて行った。ひょっとしてかつて人はピラミッドと同じくらい大きかったのではないか。
困難な作業を目の当たりにしては心こそ反対に呟いてみたくもならされる。
きっと無理だ。だから力強い人がいた。ピラミッドは児戯に等しい。小さな積み木と変わらなければ簡単だろう。僕にも作れる。
ピラミッドに溜め息が溢れるのは多くの人が関わっていたと思うためだ。
しかも一つ一つの石に心が刻まれている。建造に関わっていた人の数だけ石が使われたとすれば何と素晴らしい世界の計算だろう。記念碑と呼ぶにも相応しい感じがしてならない。
何れにしても詩だった。ピラミッドは言葉だ、古代エジプトの文明を解き明かす歴史上の手がかりと共に血と汗と涙の結晶…

クレオパトラの生涯はカエサルやアントニウスとの付き合いで波乱万丈だった

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古代エジプトの女王だったクレオパトラ(七世)の墓が発見されるかも知れないといわれている。
テレビの地球ドラマチックの「クレオパトラの墓を見つけ出せ!」で観た。タップ・オシリス・マグナ神殿という従来は気にも留めてなかった場所に可能性が出て来た。エジプトは広過ぎて遺跡を発掘するのにも手付かずの場所が数多く残されているようだ。
Internal view towards South of the Osiris Temple in Taposiris Magna by Koantao (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
考古学者のキャサリン・マルティネスがクレオパトラを熱心に研究しながら新しい場所に可能性を感じて好んで発掘するようになった。するとクレオパトラに繋がるような肖像付きの貨幣などの痕跡が出土して来たので、関係性が深まるし、タップ・オシリス・マグナ神殿を探索すれば謎だった墓にも近付いているのではないかと期待されてしまうわけなんだ。
クレオパトラの古代エジプトの女王としてのカエサルやアントニウスとの波乱万丈な生涯について
クレオパトラは古代エジプトの女王に若いうちに選ばれて古代ローマの政治家のユリウス・カエサルと付き合ってローマへ招かれるけれども暫くして彼が政治的に暗殺されるとエジプトへ又戻って今度は古代ローマの政治家のマルクス・アントニウスと付き合って彼が対立する政治家のローマ軍に惨敗しながら自殺すると相手側の捕虜として寝返らないためについに三十九歳で自殺したらしい。
生涯が波乱万丈だけれども内実は分かり難い。古代エジプトの王政でクレオパトラの時代のプトレマイオス朝が関与している。女王になるけれども父親の王のプトレマイオス十二世が死没すると弟のプトレマイオス十三世と共同で国を治めなくてはならなかった(長女の夫に王位継承権があり、さもなければ姉弟婚によって姉が弟とそれを分け合うため)。
The Banquet of Cleopatra by Giovanni Battista Tiepolo [Public domain], via Wikimedia Commons
ところが骨肉の争いが絶えない状況があって当たり前のように巻き込まれながらクレオパトラは弟と政治的に打つかり合う。古代ローマが介入して来るけれどもこれも国の…

徳川家康の忸怩たる思いも良く分かるようで偉く辛い

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朝からブログに誰も来てない。午前中のアクセスが皆無ならば一日で十人も厳しいだろう。
二ヵ月前からアクセスが伸び出して一日に五人くらいだったのが十人、十五人と増えたので、今月はできれば二十人を望んでいた。
Google検索では上昇傾向の見られる些細な日常なので、本当に厳しい。偶々、エアポケットの時期で、又直ぐにアクセスも伸び返すと考えられるにせよ、誰も来ないという現状は正しく耐え切れない……。
何とかするためにヘッダーのデザインを昔に戻した。アクセスの少なかった頃に合わせるのは奇妙だけれども人々への受けが今は悪いわけだから良いのではないか。
昔はGoogle検索が不調で誰も来てなかった。今はそれが好調なのにアクセスが気持ち良く伸びてない。折角、誰かが来てもブログの受が悪くて常連になるどころか世の中に広めてさえも貰えないでいるはずではないか。ヘッダーのデザインを途中で変えたのは失敗のように思われる。アクセスを伸ばすための方法だったけど、近頃のブログの成長も現実にはGoogle検索が調子を上げたせいならばそれこそ何の効果もなかったという可能性は否定できない。
誰も来ないブログでは開設当初の一年ちょっと前に逆戻りだし、記事数も全力で五百件を越えて結果がこれでは余りに悔し過ぎるよ、ブロガーとして。努力そのものが水の泡に帰されて行く。一日でも避けられなくては明日への期待感が薄らいでしまう。
胸には徳川家康の顰像こそ偉く辛く思い起こされた
Mikatagaharasenekizou by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
日本の戦国時代に武田信玄との三方ヶ原での戦に敗れて命からがら逃げ帰った徳川家康の忸怩たる思いが描き出されたとされる掛け軸なんだ。このような失態は二度と繰り返してはならないと自戒を厳しく込めながら選ばれた家来によってか作成されたらしい。後に日本の天下統一を果たして戦国時代に終わりを告げさせた徳川家康の物凄い生き様の核心に触れられるようで、自分に甘くない姿が夢追い人と明らかに重ねられるし、情けないばかりの人生の局面で目にすると肩こそ温かく叩かれでもするような慈しみでさえもが味わわれてしまって著しく有り難いんだ。
僕も徳川家康の物凄い生き様に美しく学びながら誰も来ないブログにたとえ絶望しても息を吹き返せるかぎり、もはや不撓不…