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ミスターラグビー/平尾誠二の日本のスポーツの未来へのメッセージ

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平尾誠二は日本のラグビー界を第一線で牽引して来た。高校時代に伏見工業高校から全国大会で優勝を果たすと大学時代には同志社大学から大学選手権の三連覇を果たす。そして社会人の神戸製鉄に入ると日本選手権の七連覇を果たしたり、二十代の全盛期は優勝三昧の現役生活を送っていたに等しい。日本代表にも十九歳から選出されて新しく開催された四年に一度のラグビーワールドカップの第一回から第三回まで予選を勝ち残って本大会へ進出している。第二回ではジンバブエ戦で日本の初勝利に貢献したらしい。1998年に三十四歳で選手を引退してからは神戸製鉄や日本代表の監督として2000年まで活躍して日本選手権で優勝したり、ワールドカップの本大会へ四回目の進出を遂げたりしていた。
Rugby World Cup 2019 Promo via 2019 All For Japan Team
一昨年、胆管癌によって五十三歳の若さで、急逝した…

人を叱るときの4つの心得/山中伸弥の悩みへの平尾誠二の励まし

山中伸弥(科学者)は平尾誠二(ラグビー選手)と友達だった。昔から憧れを抱いていて神戸製鉄のチームで華麗なプレイと屈強なリーダーシップが光ったために大学時代は自分でも近付こうと部活動でラグビーをやっていたけれども2010年に京都大学のiPS細胞研究所の所長に就任してから雑誌の週刊現代の対談で初めて出会ったのが切欠だった。
ノーベル賞の山中教授、夫婦会見ノーカット
後の2012年にはノーベル賞も授与されたほどの世の中で大注目だったiPS細胞の第一人者としていつも忙しくてメディアの様々な取材を断ってばかりいた時期、山中伸弥は夥しい依頼の中から平尾誠二の名前を偶さか見付けて居ても立ってもいられなくなったのか、憧れの存在を思い起こしながらもはや引き受けるしかないと決めたみたいだ。
実際にお会いしてみると、平尾さんは僕が思い描いていた通りの方でした。
平尾誠二は、僕のようにラグビーをやっていた人間だけでなく…

アインシュタインの蜜蜂と人間に関する言葉は最初はメーテルリンクの蜜蜂の生活から名前だけ変えて伝えられたようだ

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Bees in the hive box by JPiber [CC0], via Pixabay
やりすぎ都市伝説でゲストのいとうせいこうがアインシュタインの蜜蜂と人間に関する言葉を引用していてとても興味深かったものの違和感も否めなくて何だろうと首を傾げざるを得なかった。
アインシュタインは物理学者で、生物学者ではないので、蜜蜂と人間に関する言葉が本当ならば専門外の分野にまで十分に精通していると受け留めるし、世紀の大科学者として流石に博識だと唸るところがしかしあり得ないのではないか、認識の内容が信憑性に欠けているようで、どうも仮説的で、予言的な意味合いが強かったせいだったんだ。
もしも地球上から蜜蜂が姿を消し去れば人間は生きるのに残り四年しか持たないだろう。蜜蜂がなくなり。受粉がなくなり、植物がなくなり、動物がなくなり、人間がなくなる。
If the Bee Disappeared Off t…

在日外国人の子供たちの不安なアイデンティティーへの親近感と悩みへの慈しみ

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バリバラの“外国ルーツ”の子供たちを観て在日外国人の子供たちが抱える様々な悩みを知った。
両親の片方が外国人で自分はどちらの国民なのかというアイデンティティー(自己同一性)の不安を持っているのが内面性の下地になっているようだ。考えると僕も同じような状況だったから親近感が湧いた。父親が秋田県で、母親が栃木県で、自分はどちらの県人なのかとアイデンティティーが気がかりになる。人々の交通が繁栄した現代では色んな地域の色んな両親を持つのが普通だから在日外国人の子供たちのアイデンティティーの不安は誰にとっても決して縁遠くないわけだ。細かくいえば父親と母親の根源的な差異を想定するべきではないか。全員に当て嵌まる悩みとも過言ではない。
文学上、日々の悲しみから来ている。例えば宝くじで六億円が当たったらどうでも良いと思う。一人で生活するかぎり、自分以外にアイデンティティーはない。または地域に根差した存在に満足…

デカルトの「我思う、ゆえに我在り」は現実そのものを掴んだ哲学の第一原理だ

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哲学の命題で最も分かり難いというか、どうとでも受け取れるように人々が自由気儘に捉え易いのは「我思う、ゆえに我在り」(デカルト)の他には滅多にないだろう。只単に言葉としてもとても有名で、口に出した本人、デカルトの代名詞にも等しい。数学や物理学などもやっていたようだけれども「我思う、ゆえに我在り」の一言で哲学者のイメージが物凄く強いんだ。思考と存在を単刀直入に結び付けた表現は如何にも簡単らしい。ところが謎めきも凄まじくて何なのかと真剣に向き合うと全ての理解を弾き返すほどの印象を与えて止まない。
この土地での最初の省察を諸君に語らねばならぬかどうか私には分らない。それはあまりに抽象的なもの、かつあまりに一般的ならぬもので、それは世間の人たちにとっておそらく興味あるものでなかろうから。けれども私の捉えた基礎が十分に堅固であるかどうかを判断してもらえるためには、何らかの仕方でそれを私は語らねばなるま…

登美丘高校ダンス部のバブリーダンスと荻野目洋子のダンシング・ヒーローが開けた精神的な風穴に

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登美丘高校ダンス部のバブリーダンスを観て面白いと思った。高校のダンスの全国大会で何回も優勝しているらしくて巷でキレキレと話題になっていた。
【TDC】バブリーダンス 登美丘高校ダンス部 Tomioka Dance Club via アカネキカク
振り付けを次々と発表していて色んなダンスがあるけれとも個人的にバブリーダンスが最も気に入った。
タイトルのバブリーというのは日本の1980年代のバブル経済から来ていて――証券や土地の価格がどんどん高騰するのを軽やかに浮き上がって行く幾つもの泡(バブル)に見立てている/国内の生産力が伴わないと弾けて終わって反対に大きな負債を抱える場合が増えてしまうから政治的には危険信号なんだ/何十年が過ぎても日本は抜け出せずに大不況が止まらないままとも過言ではない――登美丘高校のバブリーダンスは国民の多くが金持ちだった好景気の気分をファッションに取り入れたりしながら表現…

ウォーターサーバーのアクアクララが設置された家でいつも飲んでいる水の感想

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家にウォーターサーバーが設置されて五年くらい経つ。僕が入れたわけではないので、気にも留めずにいた。貧乏に苛まれるほどに自分で飲みたい富士山の霊水などは買えなくなってもはや自宅のウォーターサーバーばかり使うようになっている。
どんな水なのかとチェックするとアクアクララだった。健康被害は特にないし、家に住んでいる誰も死んでなくて病気にもかかってないから一先ずは普通に良いと思う。

水は健康に重要だけど、しかし栄養素を取るのが主要な目的ではない。一番、大事なのは健康の維持に必要な水そのもの(H2O)をしっかり取って他の病原菌を始めとした有害成分を減らす。その上で初めてミネラルなどの栄養素が含まれていて健康に有利かどうかを問うべきだと考える。
ウォーターサーバーのアクアクララの水の成分を調べると地域毎の水道水を細かく濾過した純水に四種類のミネラル(カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム)を独自に…

世の中のブロガーの一割だけが一日千人以上のアクセスを得てアフィリエイトで存分に儲けているらしい

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ブロガーの大半はサイト広告を使ってもしっかり稼げない。世の中の七割のブログは一日のアクセスが五十人以下みたいに聞く。そして一割が千人以上なので、月収一万円は固くて調子が良ければ十万円くらいまで稼げるかも知れない。
当面、十人に一人のブロガーというと簡単そうに受け取るにせよ、アクセスならば正しく厳しくて一日千人以上を目指さなくては生活費を稼げるかどうかは怪しい、アフィリエイトでプロとして存分に儲けるスタートラインにも立てないまま、終わるしかない。
面白いというか、数字の捉え方が特徴的だ。十人に一人のブロガーが一日千人以上のアクセスを得ているとは何だろう。アフィリエイトは易しいのか、難しいのか、どっちなんだと笑う。
誰にでもできる物事の中身が崖っ淵みたいな感じで、翻って崖っ淵では誰にもできない物事なのに見かけは反対になっているのがアフィリエイトの世界と呼ぶ他はなくなる。
A view to Eike…

発リンクは使われるとSEO効果を高める

ブログの記事に関連性を持つサイト、またはページへリンクを貼っていると検索エンジンからアクセスが多くてサイト評価が高いような感じがしないでもなかった。
断定するの難しいイメージで、いつも全てが同じとはかぎらないし、翻って特に何もしない記事がもっと好調ではないわけでもないので、どう捉えるべきなのかと悩んでしまっていた。
しかし気になる情報が掴めたので、ブログに取り上げて知っておくと良いと思った。正しいかどうかは一概に捉えられないし、謎は残るにせよ、可能性は相当に大きくて腑に落ちる認識なのは確かだ。
関連性を持つ他のサイトへリンクせよ
自分のサイトのブログロールやリンクリストやリソースページでこれを行うことができる。
もちろん何れのアウトバウンドリンクも他のサイトへの「投票」なので、控え目に行う。もしも上手くやって人々がリンクをクリックすればこれは検索エンジンに特定のトピックの信頼される権威者だと伝える…

詩を降りる気持ちは皆から離れ去りながら初めて掴まれるように生きられていた

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世界を止めるわけでもなければ決して難しくはなかったはずなのに降りた詩は口に直ぐに出なかった。
慣れるし、あっという間にペラペラだから忘れっぽい天使(クレー)だったかも知れない、詩人として向き返して観想するかぎり。
Vergesslicher Engel by Paul Klee [Public domain], via Wikimedia Commons
どこから降りたのか。自分からだと人間は教える。ならば聞いたのは沈黙だった。しかし元々の詩は内面にはなかったはずだ。手に入れたのは自分の言葉からではない。言葉そのものが皆から来ていたわけなので、詩も同じだし、自分の言葉は最初から霊感ではない。
降りる気持ちの詩は霊感だ。だから人間も自分からだと見詰めるにせよ、霊感の詩を遡るかぎり、皆からしか妥当には認識されない。
人間は苦しむ。間違っていたのか。詩を降りる僕へ偽物のイメージを指摘していた。霊感が分か…

ハーバード白熱教室に正解はなくて良い

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かつてテレビで観て衝撃を受けたハーバード白熱教室は本当に珍しかった。類例のないテレビ番組として記憶に著しく刻まれてしまったという他はない。振り返るとよもや日本で制作されてなかったのも辛いかぎりだろう。
Justice: What's The Right Thing To Do? Episode 01 "THE MORAL SIDE OF MURDER"via Harvard University
アメリカのハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講義が放映されていた。講堂の熱気が凄くて学生たちに勉強へのやる気が漲っていた。授業が対話形式で進められていて学生たちがマイケル・サンデルの思いに触れながら吸い寄せられるままにどんどん巻き込まれて行って一人残らず、考えなくては行けないというか、身を乗り出しながら取り組まなくてはあり得ないみたいなイメージだった。
学校において盛…

カントの物自体が教える確実性

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カントの物自体は認識論的に不可能な対象だから思考の内実は事象でしかない。
すなわち現象学における超越論的な主観性の効果として理論上で要請される直観の確実性と同一視される。
Immanuel Kant by Gottlieb Doebler [Public domain], via Wikimedia Commons
カントは現象学者では全くなかったけれどもそうした方法に気付いていたからこそ物自体を敢えて証明するような必要を持ち併せなかったわけではないか、哲学に。
理性が成り立つのは不可知のゆえではないのは当たり前にせよ、人間に確実性が物自体として備わっているためだといい直せばグッと分かり易くなるんだ。
歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。
イマヌエル・カント via Wikipedia
カントは理性を本当に哲…

エピクロスの余りにも清貧な思想

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古代ギリシャの哲学者で、紀元前四世紀頃のヘレニズム期の初めに生きていたエピクロスが日毎の質素倹約を絵に描いたような余りにも清貧な思想を持っていて驚きながら共感を覚えてしまった。
アタラクシア(平穏な心)という身近な幸せを大事にする気持ちから世界を捉えていた。
エピクロスの哲学では感覚が重視されていてそれに見合った生活がアタラクシアとして考えられている。感覚は欲求によって疎外され得るし、哲学的に真実も分からなくなると三つに区別されている。
自然で必要な欲求自然でも不必要な欲求不自然で不必要な欲求
日々、アタラクシアへ通じる感覚、すなわち正しいとエピクロスが哲学者として判断したのは自然で必要な欲求だけだった。生きるために衣食住や人間関係は最小限で済ませると良いという発想が清貧な思想ながら余りにも容易いと感動させられもする。社会的には僅かな品物と微かな人付き合いで満足するべきだとエピクロスは教えている…

精神力を高めるために勉強するべきだ

どうも午後九時に眠って午前五時に起きると最高の気分だった。僕だけかも知れないけど、午前六時前に一日の作家活動を開始できるととても嬉しい。世の中で人々は寝静まっていてもうそろそろ動き出して俄かに部屋の外も騒がしさを増して来る。何かが生まれるというイメージが創作に重なるせいか、気合いがまるでスイッチを押したように入り易いみたいだ。
十分な睡眠時間を考慮すれば前日はおよそ午後十時前に就寝するべきだろう。
冬は早起きしても暗いから寝起きの予定を少し遅らせたいとも考えたけれども世の中の動きに合わせるならば得てしてそうしたわけには行かなかったんだ。人々の通勤通学は一年を通して変わらない時間帯に定められているのではないか。少し早く目覚めて静けさを味わうには寝起きを遅らせても仕様がないといわざるを得ない。
反省まではしない。最高の気分だから最高の作品が仕上がるならば又別にせよ、基本的にはあり得ないだろう。さも…

ソクラテスの死は如何にも哲学者らしい威厳を放っていた

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古代ギリシャでブラトンとアリストテレスと並んで三大哲学者の一人と考えられるソクラテスは西洋哲学の源流とも過言ではないほどの存在だった。彼の弟子がプラトンで、その又弟子がアリストテレスだったからソクラテスがもしもいなかったら、全員、消えてしまって西洋で哲学が歴史的にどう流れたかが相当に変わっただろうと震撼させられる。
人々の考え方に大きな影響を哲学は与えている。何等かの主義を持つかどうかは別としても社会に共通する枠組みは一般的にあるのではないか。古代ギリシャの三大哲学者は現代でも通用するような原形を示している。
ソクラテスの知識(エピステーメー)プラトンの理想(イデア)アリストテレスの論理(オルガノン)
当時は宗教と結び付いていて何が良いのかを探求しているから必ずしも哲学そのものではないはずだ。しかし抽象化すれば知性と観念と方法という哲学者の条件が出揃っているのは明らかだし、超越論的にいえば認識…

ベーコンの絵に浅田彰と井浦新との対談で完全に貴重なアート

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日曜美術館のベーコン特集/恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコンで浅田彰と井浦新が対談していたんだ。
ブログで何気なく取り上げた二人が世の中で勝手に結び付いて面白いと思う。それぞれに認識が増して見方も変わったし、さらに又新しい発見があるのではないかとブログに今度を二人を合わせて取り上げたくなってしまった。
2013年に放送されたテレビ番組だから今から四年前になるけれども日本で、当時、三十年振りに開催されていたベーコンの大型の展覧会で題名も正しくそのままのフランシス・ベーコン展を二人が訪れての企画だったらしい。
浅田彰はヘルメスの音楽にベーコンのエッセイが載っていて良く知っているから呼ばれたのかも知れない。調べては日本にベーコンを初めて紹介した作品だったともいわれている。
F・Bの描くプレザンス、それは過不足なく自らと合致して静止するプレザンスではなく、どこまでも過剰なるプレザンス、そのことによ…

浅田彰のドゥルーズ主義者としての水準

浅田彰は構造と力でドゥルーズとガタリを大々的に取り上げて他でも言及が多い。そしてさらに自分で自分をドゥルーズ主義者と呼んだりもしていたし、本当にそうなのではないかと思う。
しかし驚くのは余りに一般的過ぎるというか、ドゥルーズの捉え方がオーソドックスな印象を与えるために別にドゥルーズ主義者でなくても可能だし、普通に読むだけで誰でも受け取るような認識しかなさそうなところなんだ。
浅田彰の口から自称してドゥルーズ主義者と出て来るとビックリさせられる、この人は敢えていっているのではないか、例えば教科書で名前を知っているだけでもその考え方や生き方に心酔している結果みたいな響きが避けられなくて。
思想を根底的に考えれば最も正しいかも知れない。どんな人、または作品でも好き嫌いは抜きにして接すれば何かしらの影響は受けていて自分の考え方や生き方に作用するから全て引っ括めて心酔しているとも過言ではないだろう。少な…

スピノザの哲学的な倫理学者としての方法

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スピノザは人々に哲学者として長らく認められて来たけれども主著エチカは倫理学だし、生前から哲学者を取り立てて自認してはいなかったようだ。
まさか正しい選択だったと思う。なぜならスピノザの認識には取り除くことのできない欠陥というか、知覚上の不備が一つだけだけれども含まれていて哲学として厳密には成り立たないからだ。
主著エチカ、または前書きとも見做される知性改善論を読んでいて非常に感銘的で、他に例のない世界・自然・現実を生み出している真実そのもの(神の力能)を教えてくれるのにどうしても疑問を抱かざるを得ない部分がある。
Baruch de Spinoza by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
スピノザは良くいう、定義を理解しない人には何も分からないと。例えば神は全知全能で何でも実現できるにも拘わらず、数多くの悲惨な出来事を招いているのはなぜ…

既視感(デジャヴ)の本質的な認識

既視感(デジャヴ)とは何か。詩的に考えるというか、僕は永遠の詩人だから本質的な認識として表現しようとするとブログの天道虫の記事から分かるのは色と形の組み合わせがイメージを越えて感じ取られるせいだ。
通常、イメージを越えて人が生きることはなくて観念と物体は一対一の対応関係で精神に記憶されているわけなんだ。しかし既視感においては色と形の組み合わせという抽象性を介して経験が全く別のイメージに飛び火する。元々のイメージが抽象性から引き出されるために全く別のイメージを受け取りながら人は今此所と結び付けることができる。およそ全く別のイメージしかなくて精神が切り替わるとしたら人は旅立ったか、夢見たかだろう。精神は存在と意識の変化を確知する。既視感にかぎってはそれが今此所となって味わわれてしまう。
注意すると色と形が何かに似ているだけでは既視感は得られない。なぜなら似ているという概念が具体的だからだ。色と形…