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ミスターラグビー/平尾誠二の日本のスポーツの未来へのメッセージ

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平尾誠二は日本のラグビー界を第一線で牽引して来た。高校時代に伏見工業高校から全国大会で優勝を果たすと大学時代には同志社大学から大学選手権の三連覇を果たす。そして社会人の神戸製鉄に入ると日本選手権の七連覇を果たしたり、二十代の全盛期は優勝三昧の現役生活を送っていたに等しい。日本代表にも十九歳から選出されて新しく開催された四年に一度のラグビーワールドカップの第一回から第三回まで予選を勝ち残って本大会へ進出している。第二回ではジンバブエ戦で日本の初勝利に貢献したらしい。1998年に三十四歳で選手を引退してからは神戸製鉄や日本代表の監督として2000年まで活躍して日本選手権で優勝したり、ワールドカップの本大会へ四回目の進出を遂げたりしていた。
Rugby World Cup 2019 Promo via 2019 All For Japan Team
一昨年、胆管癌によって五十三歳の若さで、急逝したけど、来年、日本で開催される第九回のラグビーワールドカップのアジアで初めての招致にも意欲的に携わった(ラグビーワールドカップ2019組織委員会の理事・事務総長特別補佐)らしくて観るのを心待ちにしていたのではないかと非常に悔やまれる感じがしてならない。
平尾誠二はラグビーだけではなくて人間性も凄いと友人の山中伸弥との関係から分かって来た。するとスポーツの捉え方がとても魅力的だったので、ブログで改めて取り上げてみたくなった。英語でSportsの本来の意味は気晴らしだけど、ちゃんと分かっていて自分自身に盛り込んでいる人だったように感じる。生涯、選手としても監督としても気晴らしというスポーツの本来の意味を少しも取り溢さず、誠心誠意、楽しくやっていたのではないか。人柄は弾ける笑顔が非常に印象的なんだけれども根っからの明るい性格だとすればラグビーに自分らしさを爆発させて生きていたと驚かされる。
端的にいって美しい存在を体現しているイメージが相当に気に入ってしまう
知ると未来が輝かしい。生きるとは何かの指南役みたいで、どんな人にも幸せな世界を想像させるのではないか。取り分けスポーツ好きの子供たちへの影響力が大きそうで、それこそ今此処が楽しいという正しい日本語を通じて真実を新しく掴むべき切欠を与えると考える。漠然とやって気付かないよりは間違いなく益しだろう。
「スポーツの原点というのは、たとえば子どものこ…

人を叱るときの4つの心得/山中伸弥の悩みへの平尾誠二の励まし

山中伸弥(科学者)は平尾誠二(ラグビー選手)と友達だった。昔から憧れを抱いていて神戸製鉄のチームで華麗なプレイと屈強なリーダーシップが光ったために大学時代は自分でも近付こうと部活動でラグビーをやっていたけれども2010年に京都大学のiPS細胞研究所の所長に就任してから雑誌の週刊現代の対談で初めて出会ったのが切欠だった。
ノーベル賞の山中教授、夫婦会見ノーカット
後の2012年にはノーベル賞も授与されたほどの世の中で大注目だったiPS細胞の第一人者としていつも忙しくてメディアの様々な取材を断ってばかりいた時期、山中伸弥は夥しい依頼の中から平尾誠二の名前を偶さか見付けて居ても立ってもいられなくなったのか、憧れの存在を思い起こしながらもはや引き受けるしかないと決めたみたいだ。
実際にお会いしてみると、平尾さんは僕が思い描いていた通りの方でした。
平尾誠二は、僕のようにラグビーをやっていた人間だけでなく、男女を問わず同年代の人たちにとってヒーロー的な存在です。テレビでも、伏見工業高校ラグビー部を題材にしたドラマ『スクール・ウォーズ』が大人気で、平尾さんをモデルにしたキャプテンの「平山誠」は、女子生徒がファンクラブを作るほど格好いいエースとして描かれていました。
「その通りの人が、そのまま出てきたな」と、僕は思いました。
テレビなどで憧れていた人でも、実際に会ったら想像していたイメージと違ってガッカリした、という話はよくあります。僕もそう思われているかもしれません。でも、平尾さんは想像していたイメージそのまま、いや、それ以上に素敵な方でした。
彫りが深くて男前なだけでなく、とても心の優しい人なのです。話の端々に、いろいろな人に対する思いやりが滲みます。それが慇懃無礼な感じではまったくなく、むしろ口では結構辛辣なことも言うのですが、それでも優しさが自然に伝わってくるようでした。
対談後、編集者もまじえて京都で食事をしました。いちばん憧れていた人にお会いできた嬉しさから、いつもよりたくさんお酒を呑んでしまいました。
そこから、僕たちの付き合いが始まったのです。
山中伸弥教授が明かす、故・平尾誠二との「最後の一年」 via 現代ビジネス
親交を深める間、あるとき、山中伸弥は平尾誠二に悩みを漏らしたんだ。京都大学のiPS細胞研究所の所長をやっていて上司として部下の研究者たちが失敗するのをどうすれば良いの…

アインシュタインの蜜蜂と人間に関する言葉は最初はメーテルリンクの蜜蜂の生活から名前だけ変えて伝えられたようだ

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Bees in the hive box by JPiber [CC0], via Pixabay
やりすぎ都市伝説でゲストのいとうせいこうアインシュタイン蜜蜂人間に関する言葉を引用していてとても興味深かったものの違和感も否めなくて何だろうと首を傾げざるを得なかった。
アインシュタインは物理学者で、生物学者ではないので、蜜蜂と人間に関する言葉が本当ならば専門外の分野にまで十分に精通していると受け留めるし、世紀の大科学者として流石に博識だと唸るところがしかしあり得ないのではないか、認識の内容が信憑性に欠けているようで、どうも仮説的で、予言的な意味合いが強かったせいだったんだ。
もしも地球上から蜜蜂が姿を消し去れば人間は生きるのに残り四年しか持たないだろう。蜜蜂がなくなり。受粉がなくなり、植物がなくなり、動物がなくなり、人間がなくなる。
If the Bee Disappeared Off the Face of the Earth, Man Would Only Have Four Years Left To Live via Quote Investigator(訳出)
引用の言葉はいとうせいこうがやりすぎ都市伝説で取り上げたのと同じで、調べるとアインシュタインの認識として世界的にも広まっていたらしい。
知って「残り四年」の根拠が何よりも如何わしかった。生物学者が本格的に研究して膨大なデータを収集しながら調査を長らく行わないと分からないはずではないか。アインシュタインが物理学者としてそこまでやるとは想像し難いし、たとえ世紀の大科学者でも時間が足りなくて無理だろう。頑張っても一人で手に入れるのは不可能な認識とすると怪しいかぎりだ。
よもや本当ならば引用の言葉は他の誰かの言葉が取り入れられたと考えるのが普通だった。
アインシュタインの認識として広まったのは彼自身の言葉遣いが不正確なためだったから情けないとさえも感じるし、世紀の大科学者の名折れか、または可哀想にも口にしたのは事実ながら本人ではない出典が省かれて皆に伝えられた場合の他には納得できない状況になっている。
A group of bees by PollyDot [CC0], via Pixabay
実際はどうか。アインシュタインが蜜蜂と人間に関する言葉を口にした記録は全く残されてないみたいだ。雑誌の記者が何となく伝えていた…

在日外国人の子供たちの不安なアイデンティティーへの親近感と悩みへの慈しみ

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バリバラの“外国ルーツ”の子供たちを観て在日外国人の子供たちが抱える様々な悩みを知った。
両親の片方が外国人で自分はどちらの国民なのかというアイデンティティー(自己同一性)の不安を持っているのが内面性の下地になっているようだ。考えると僕も同じような状況だったから親近感が湧いた。父親が秋田県で、母親が栃木県で、自分はどちらの県人なのかとアイデンティティーが気がかりになる。人々の交通が繁栄した現代では色んな地域の色んな両親を持つのが普通だから在日外国人の子供たちのアイデンティティーの不安は誰にとっても決して縁遠くないわけだ。細かくいえば父親と母親の根源的な差異を想定するべきではないか。全員に当て嵌まる悩みとも過言ではない。
文学上、日々の悲しみから来ている。例えば宝くじで六億円が当たったらどうでも良いと思う。一人で生活するかぎり、自分以外にアイデンティティーはない。または地域に根差した存在に満足する。
Sonw hill with a tree by Mojpe [CC0], via Pixabay
今此処が全ての始まりだと世界の産声を聞くためには詩が必要にせよ、満足しながら納得できない(素晴らしい幸せを夢見ながら)みたいな状況だから気付かなくても実生活に支障はないだろう。
だから子供たちに特有の悩みなんだ。家の中で父親と母親のどちらの側に付くべきか。内面が引き裂かれるたびにアイデンティティーの喪失に苛まれてしまう。見捨てられたら生きられないためだ。
両親がラブラブで、四六時中、打つかり合わない家庭ならば何も起きないかも知れない。目を凝らしてそれぞれのラブとラブの経緯を確かめると胸が痛むから自分自身のために作詩して良いし、さもなければ一時の平和という夢の中で疑いながら「我思う、ゆえに我在り」(ルネ・デカルト)と認識するのも同じだろう。アイデンティティーを的確に掴むのは子供たちにとって全くの不可能ではない。家庭が円満ならば一人で生活するまでもないし、精神年齢は早く上がる。
日本の実態はどちらかというと打つかり合うのが主流ではないか。いってゲロゲロの両親が一般的みたいだ。蛙の鳴き声に聞こえるならば未だしも耐えられるにせよ、誰かの嘔吐だとすると内面が引き裂かれているから堪らない。如何にも不自然らしい。両親の敵対関係に投げ込まれながら子供たちはどうするべきかと頭を悩ませずにいなくなる。必死…

デカルトの「我思う、ゆえに我在り」は現実そのものを掴んだ哲学の第一原理だ

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哲学の命題で最も分かり難いというか、どうとでも受け取れるように人々が自由気儘に捉え易いのは「我思う、ゆえに我在り」(デカルト)の他には滅多にないだろう。只単に言葉としてもとても有名で、口に出した本人、デカルトの代名詞にも等しい。数学や物理学などもやっていたようだけれども「我思う、ゆえに我在り」の一言で哲学者のイメージが物凄く強いんだ。思考と存在を単刀直入に結び付けた表現は如何にも簡単らしい。ところが謎めきも凄まじくて何なのかと真剣に向き合うと全ての理解を弾き返すほどの印象を与えて止まない。
この土地での最初の省察を諸君に語らねばならぬかどうか私には分らない。それはあまりに抽象的なもの、かつあまりに一般的ならぬもので、それは世間の人たちにとっておそらく興味あるものでなかろうから。けれども私の捉えた基礎が十分に堅固であるかどうかを判断してもらえるためには、何らかの仕方でそれを私は語らねばなるまい。日常の道徳についていえば、きわめて不確実なものとわかっている意見にも、人はあたかもそれがまったく疑うべからざるものであるかのように、それに従うことが時としては必要であることを私は久しい以前から認め、そのことは既に述べてもおいた。けれども今この場合としては私はひたすら真理の追求に没頭したいと願うのであるから、まったく反対の態度を取らねばならぬであろう。いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちに残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。また幾何学の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理に陥る人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬を犯さないともかぎらぬと思い、それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして棄てた。最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと…

登美丘高校ダンス部のバブリーダンスと荻野目洋子のダンシング・ヒーローが開けた精神的な風穴に

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登美丘高校ダンス部のバブリーダンスを観て面白いと思った。高校のダンスの全国大会で何回も優勝しているらしくて巷でキレキレと話題になっていた。
【TDC】バブリーダンス 登美丘高校ダンス部 Tomioka Dance Club via アカネキカク
振り付けを次々と発表していて色んなダンスがあるけれとも個人的にバブリーダンスが最も気に入った。
タイトルのバブリーというのは日本の1980年代のバブル経済から来ていて――証券や土地の価格がどんどん高騰するのを軽やかに浮き上がって行く幾つもの泡(バブル)に見立てている/国内の生産力が伴わないと弾けて終わって反対に大きな負債を抱える場合が増えてしまうから政治的には危険信号なんだ/何十年が過ぎても日本は抜け出せずに大不況が止まらないままとも過言ではない――登美丘高校のバブリーダンスは国民の多くが金持ちだった好景気の気分をファッションに取り入れたりしながら表現している。
お笑いの平野ノラがそうしたギャグを時代錯誤ネタとしてやっていたのがヒントになったみたいだ。ダンスの曲中にサンプリングされてもいる。今では聞かない「しもしも」とか「ドロン」なんて死語が出て来る。平野ノラのバブリー語は「おったまげ~」が代名詞にもなるくらい特徴的で、取り分け大きくフューチャーされている。
メインの曲がまさかのダンシング・ヒーロー荻野目洋子)だったのが真っ先に引き付けられてしまった
少年期、買って家で良く聴いていた。アルバムのNON-STOPPERだけれどもダンシング・ヒーローと六本木純情派が印象に残っている。何れも荻野目洋子の代表曲といって良いと思うし、振り返っても他は全く記憶に残らないくらいぴったりだったようだ。
バブリーダンスと聞くと女性が派手なボディコンのスーツで羽毛のふわふわの扇子を持って何人かがお立ち台に登ったりしながら大勢で盛り上がっているディスコのジュリアナ東京のイメージが強い。
DJのジョン・ロビンソンの「ジュリアナ〜東京〜!!」という雄叫びが耳に付いて離れない。
僕は行ったことはなくて実際にどんな世界なのかは経験してないもののテレビや雑誌などで知って良く覚えている。
登美丘高校のバブリーダンスでもジュリアナ東京のイメージが大きいけど、しかし荻野目洋子がダンシング・ヒーローで人気歌手だったのはそれよりもずっと前だったんだ。歌謡曲で世の中に普通に広まってい…

ウォーターサーバーのアクアクララが設置された家でいつも飲んでいる水の感想

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家にウォーターサーバーが設置されて五年くらい経つ。僕が入れたわけではないので、気にも留めずにいた。貧乏に苛まれるほどに自分で飲みたい富士山の霊水などは買えなくなってもはや自宅のウォーターサーバーばかり使うようになっている。
どんな水なのかとチェックするとアクアクララだった。健康被害は特にないし、家に住んでいる誰も死んでなくて病気にもかかってないから一先ずは普通に良いと思う。

水は健康に重要だけど、しかし栄養素を取るのが主要な目的ではない。一番、大事なのは健康の維持に必要な水そのもの(H2O)をしっかり取って他の病原菌を始めとした有害成分を減らす。その上で初めてミネラルなどの栄養素が含まれていて健康に有利かどうかを問うべきだと考える。
ウォーターサーバーのアクアクララの水の成分を調べると地域毎の水道水を細かく濾過した純水に四種類のミネラル(カルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウム)を独自に配合したデザインウォーターが開発されて届けられていると分かった。
純水は水そのものに近くて水そのものは超純水と呼ばれる。何れも健康に注意すると好んで飲むべきではなさそうだ。スーパーでクリアウォーター(純水)を飲料水として見かけるし、平気で売っているけれども必ずしも勧められない理由としては体内のミネラルを逆に取り込んで体外に排出する可能性が挙げられる。いきなり健康被害は出て来ないにしてもミネラルが不足している人にとってはちょっと厳しいかも知れない。
アクアクララのデザインウォーターは純水で病原菌などの健康被害の可能性を安全に抑え込みながら健康に役立つミネラルを適度に付け加えるという考え方が理に適っていると感心する。
そして日本人好みの軟水に仕上げているらしい。含まれるミネラルが比較的に少ないわけだけれども水の不純物を含まないと他の成分を取り込む性質を考えれば軟水はその傾向が強い。料理に使うと食材の様々な成分を取り込み易いから日本食の繊細な味わいには昔から軟水こそ欠かせなかったとも聞く。陸地が狭くてしかも大方が火山の噴火からできたせいで、流れる川にミネラルがさほど溶け込まなかった。かねて日本人は生活用水として軟水に慣れていて日常的に親しみを抱いていたんだろう。水道の浄水設備が一般化された現在でも好きな気持ちは変わらないように想像される。
ホームページには「世界基準の品質」と載っていてアクアクラ…

世の中のブロガーの一割だけが一日千人以上のアクセスを得てアフィリエイトで存分に儲けているらしい

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ブロガーの大半はサイト広告を使ってもしっかり稼げない。世の中の七割のブログは一日のアクセスが五十人以下みたいに聞く。そして一割が千人以上なので、月収一万円は固くて調子が良ければ十万円くらいまで稼げるかも知れない。
当面、十人に一人のブロガーというと簡単そうに受け取るにせよ、アクセスならば正しく厳しくて一日千人以上を目指さなくては生活費を稼げるかどうかは怪しい、アフィリエイトでプロとして存分に儲けるスタートラインにも立てないまま、終わるしかない。
面白いというか、数字の捉え方が特徴的だ。十人に一人のブロガーが一日千人以上のアクセスを得ているとは何だろう。アフィリエイトは易しいのか、難しいのか、どっちなんだと笑う。
誰にでもできる物事の中身が崖っ淵みたいな感じで、翻って崖っ淵では誰にもできない物事なのに見かけは反対になっているのがアフィリエイトの世界と呼ぶ他はなくなる。
A view to Eikesdalen at Aurstaupet in Nesset, Møre og Romsdal, Norway by Ximonic (Simo Räsänen) (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
なぜかは良くいわれるところだけれどもアフィリエイトはブログでもホームページでも直ぐに止める人が圧倒的に多いせいだろう
サイトに一日千人以上の訪問者が必要では更新するだけでも血反吐の思いを強いられずにいないし、そこまでやってもお小遣いを越えるのがやっとのサイト広告の収益だから世の中を見渡せば他の仕事をやりたくなるのが普通ではないか。
だからブロガーの割合で捉えるとアフィリエイトは簡単そうに受け取られるのも当然なんだ。
計算上、実際には分母のブロガー数が夥しく入れ替わっていて現時点の総ブロガーだけではなくてもう既に止めた人も含めるとアフィリエイトで成功する確率はもっと下がるのは間違いない。
日本ではブログをやる人が海外と比べて比較的に多いようで、以前、Amebaブログが大きく流行って良いイメージが定着しているせいかも知れないけど――社外学的に一般人が芸能人と一緒にやれるのが江戸時代以来の大衆文化の日本的な在り方と密接に繋がって好まれ易いと分析される――すると国民の三割が生涯に一度くらいはブロガーになっているらしい。
アフィリエイトで成功する…

発リンクは使われるとSEO効果を高める

ブログの記事に関連性を持つサイト、またはページへリンクを貼っていると検索エンジンからアクセスが多くてサイト評価が高いような感じがしないでもなかった。
断定するの難しいイメージで、いつも全てが同じとはかぎらないし、翻って特に何もしない記事がもっと好調ではないわけでもないので、どう捉えるべきなのかと悩んでしまっていた。
しかし気になる情報が掴めたので、ブログに取り上げて知っておくと良いと思った。正しいかどうかは一概に捉えられないし、謎は残るにせよ、可能性は相当に大きくて腑に落ちる認識なのは確かだ。
関連性を持つ他のサイトへリンクせよ
自分のサイトのブログロールやリンクリストやリソースページでこれを行うことができる。
もちろん何れのアウトバウンドリンクも他のサイトへの「投票」なので、控え目に行う。もしも上手くやって人々がリンクをクリックすればこれは検索エンジンに特定のトピックの信頼される権威者だと伝える。
サイトに重要なSEOの十二の秘訣 via Goins, Writer(訳出)
目を引いたのは何といっても「人々がクリックすれば」の一文に他ならない。サイトに関連性を伴った発リンクがあると「信頼される権威者」からサイト評価を上げる、すなわちSEO(検索エンジン最適化)効果を持つという認識なんだ。
全ての発リンクが検索エンジンからのアクセスアップに必ずしも良いわけではなかった部分で心を擽られるし、見付けるや否や愉快に感じた。
サイトで発リンクはページランクを流すのが本当に警戒しなくてはならなくて自分のサイトのサイト評価を下げる大きな要因になる。だからなるべくやらない方が良いと思う。しかしコンテンツの品質を高めたり、アンカーテキスト(リンク名)のキーワードが重視されたり、内部リンクの場合にはクローラーの平均巡回数も上げるから全くやらないのも不味い。
Google検索では年々とページランクのSEO効果は下がっているためにサイト評価へは発リンクの有効性こそ反対に増しているのも間違いないなさそうなんだ。
サイトに重要なSEOの十二の秘訣では「投票」がページランクを意図していて外部サイト、またはページから見ると「アウトバウンドリンク」(被リンク)だけれども「控え目に行う」と注意を促している。さもないと自分のサイトが検索結果で不利になってしまう。どこかへリンクを貼れば貼るだけ自分のサイトのページランクが同…

詩を降りる気持ちは皆から離れ去りながら初めて掴まれるように生きられていた

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世界を止めるわけでもなければ決して難しくはなかったはずなのに降りた詩は口に直ぐに出なかった。
慣れるし、あっという間にペラペラだから忘れっぽい天使クレー)だったかも知れない、詩人として向き返して観想するかぎり。
Vergesslicher Engel by Paul Klee [Public domain], via Wikimedia Commons
どこから降りたのか。自分からだと人間は教える。ならば聞いたのは沈黙だった。しかし元々の詩は内面にはなかったはずだ。手に入れたのは自分の言葉からではない。言葉そのものが皆から来ていたわけなので、詩も同じだし、自分の言葉は最初から霊感ではない。
降りる気持ちの詩は霊感だ。だから人間も自分からだと見詰めるにせよ、霊感の詩を遡るかぎり、皆からしか妥当には認識されない。
人間は苦しむ。間違っていたのか。詩を降りる僕へ偽物のイメージを指摘していた。霊感が分からなかったために早合点したならばもう二度と気持ちだけを他人の言葉から汲み取るのは止めるべきだ。貴方は狼狽えるばかりかも知れない。
僕は反対に見詰めた。途中からは正しかった。思考の皆から降りるまでの間に詩は霊感に置き換えられた。つまり霊感に置き換えられなかった詩の雰囲気は気持ちではなかったとはいい切れない。部分的には非の打ち所のない認識だったし、十二分に妥当だった。
なぜか吠える犬が人間性の暗闇の崖に姿を現すと世界が凍り付いた束の間に和らぎが少しずつ返されて行った。水田から蛙の合唱も鳴り響けば夏の夜中のだろうか。風流な趣きに触れながら人間は言葉を呑み込むしかなかったようだ。
僕にとって詩を降りる気持ちとは皆から来ている言葉を自分らしさに相応しく作り直す作業といって良いだろう。自分の言葉を持つために真実の世界を離れ去り、夢見られた風流な趣きでさえも身を捩って消え失せるように後にしてしまうせいなんだ。
思う、貴方は死んだかと。または自殺行為に等しくて眉間に皺を寄せながら安否を念じるばかりだ。
人々は三輪車に乗り出した幼児を転んでも可笑しくないと仲睦まじくも付き添っている。
自分の言葉を持つための作業が危ないのは確かだ。しかしながら一人でなければそれを上りながら作詩できないし、詩人も思考の最初から最後まで皆と、丸っきり、同じでは無責任でしかないだろう。
だから皆から離れて詩を降りる気持ちは一つの孤独な作…

ハーバード白熱教室に正解はなくて良い

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かつてテレビで観て衝撃を受けたハーバード白熱教室は本当に珍しかった。類例のないテレビ番組として記憶に著しく刻まれてしまったという他はない。振り返るとよもや日本で制作されてなかったのも辛いかぎりだろう。
Justice: What's The Right Thing To Do? Episode 01 "THE MORAL SIDE OF MURDER"via Harvard University
アメリカのハーバード大学のマイケル・サンデル教授の講義が放映されていた。講堂の熱気が凄くて学生たちに勉強へのやる気が漲っていた。授業が対話形式で進められていて学生たちがマイケル・サンデルの思いに触れながら吸い寄せられるままにどんどん巻き込まれて行って一人残らず、考えなくては行けないというか、身を乗り出しながら取り組まなくてはあり得ないみたいなイメージだった。
学校において盛り上がる授業がよもや骨董品ならば「良い仕事ですね」(中島誠之助)と誉め千切られるくらい教育の鑑に見えた。
僕は少ししか気に留めなかったけれども教育論を踏まえると日本の「ゆとり教育」に引っかかっていた。現在は「脱ゆとり教育」とはいえ、上手く行くためにはハーバード白熱教室の熱気が最低線だったのではないか。本当に物凄く難しいので、子供たちに知的な好奇心を与えるにはそれでもまだまだ自主性を勉学に勤しむと朧気にも引き出させるには至らなさそうに考えると国が偏に取り下げるのは如何にも尤もらしい。
畢竟、浅田彰が憂国的に呟くほどに巡り巡って世の中から後ろ指を指される日本人が大半なのかどうかは又別の社会性にせよ――ドゥルーズの「ミクロの政治学」とは何か――たぶん僕がブログで明白に取り上げたから国民の様相は変わって来てしまうというのも実況かも知れない、同じように重ねてみるかぎり。
むろん僕と浅田彰では知名度は天地の開きも吹き出すくらいかけ離れ捲ってはいるものの面白いのは「私はダイナマイトだ」(ニーチェ)なので、本当に良いものとか真実なんて知識は皆が力強く欲しがるから世の中に広まるかどうかは作者の知名度では必ずしも計れない。
考え方はスピノザから来るよ、きっと。知識、または経済ならば商品なんだ、一つの喜びに胸打たれて引き付けられるのはなぜかとニーチェもドゥルーズも浅田彰も本当に良く分かっているから僕も危ないとい…

カントの物自体が教える確実性

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カントの物自体は認識論的に不可能な対象だから思考の内実は事象でしかない。
すなわち現象学における超越論的な主観性の効果として理論上で要請される直観の確実性と同一視される。
Immanuel Kant by Gottlieb Doebler [Public domain], via Wikimedia Commons
カントは現象学者では全くなかったけれどもそうした方法に気付いていたからこそ物自体を敢えて証明するような必要を持ち併せなかったわけではないか、哲学に。
理性が成り立つのは不可知のゆえではないのは当たり前にせよ、人間に確実性が物自体として備わっているためだといい直せばグッと分かり易くなるんだ。
歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。
イマヌエル・カント via Wikipedia
カントは理性を本当に哲学的に純粋に捉えていたし、認識力を丸ごと抽象化していた。だから一つの方法として理解すると親身に気がかりなのは存在だけになってしまう。
すると諸々の概念の機能を知るように哲学そのものと出会えたかどうかが経験にかかって来るから思考を自己本意的に終わらせたに等しい。
精神に確実性は教えなので
カントは理性の成り立ちを物自体によって整合的に掴み得たはずの認識論に即しながら振れても仕様がない人生を完膚なく示唆していた。

エピクロスの余りにも清貧な思想

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古代ギリシャの哲学者で、紀元前四世紀頃のヘレニズム期の初めに生きていたエピクロスが日毎の質素倹約を絵に描いたような余りにも清貧な思想を持っていて驚きながら共感を覚えてしまった。
アタラクシア(平穏な心)という身近な幸せを大事にする気持ちから世界を捉えていた。
エピクロスの哲学では感覚が重視されていてそれに見合った生活がアタラクシアとして考えられている。感覚は欲求によって疎外され得るし、哲学的に真実も分からなくなると三つに区別されている。
自然で必要な欲求自然でも不必要な欲求不自然で不必要な欲求
日々、アタラクシアへ通じる感覚、すなわち正しいとエピクロスが哲学者として判断したのは自然で必要な欲求だけだった。生きるために衣食住や人間関係は最小限で済ませると良いという発想が清貧な思想ながら余りにも容易いと感動させられもする。社会的には僅かな品物と微かな人付き合いで満足するべきだとエピクロスは教えているに等しいのではないか。まるで子供のように可愛いし、普段から必要以上に多くを求めず、いってみれば等身大の美学に貫かれた方法を体現する存在だったと考えると心から称えたくならせる。
Epicurus by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
しかし人間的には必ずしも楽ではないというか、大変なのは他の二つの生き方を避けられない場合なんだ。大邸宅や御馳走などの贅沢は自然でも不必要な欲求だし、地位や名声や権力などの見栄は不自然で不必要な欲求だから生活に取り入れてはならないと考えられている。
怪しいのは自分と他人への思いを切り捨てている。贅沢は前者で、見栄は後者だ。人生の動機付けが精神的に失われる。つまり夢は小さいほどに目先の物事に囚われて将来的に失敗する可能性が増えるためだ。恐ろしい。エピクロスの教えはだから現実には危ない。
知ってか、知らずか、生前から人々には考え方が相当に叩かれていたらしいんだ。
同時代にストア派の哲学が主に対立していたとされる。エピクロスと同じようにアタラクシアを生活のモットーに掲げていたけれども徳を重視していた。人生の目的は徳にあって幸せは精進した結果でしかないからそうした報酬を第一に主張するのは許し難いばかりの愚かしさそのものみたいな仕方で、エピクロスは散々と非難され捲っていた。人伝てによればそのせいで著作の殆ども残され…

精神力を高めるために勉強するべきだ

どうも午後九時に眠って午前五時に起きると最高の気分だった。僕だけかも知れないけど、午前六時前に一日の作家活動を開始できるととても嬉しい。世の中で人々は寝静まっていてもうそろそろ動き出して俄かに部屋の外も騒がしさを増して来る。何かが生まれるというイメージが創作に重なるせいか、気合いがまるでスイッチを押したように入り易いみたいだ。
十分な睡眠時間を考慮すれば前日はおよそ午後十時前に就寝するべきだろう。
冬は早起きしても暗いから寝起きの予定を少し遅らせたいとも考えたけれども世の中の動きに合わせるならば得てしてそうしたわけには行かなかったんだ。人々の通勤通学は一年を通して変わらない時間帯に定められているのではないか。少し早く目覚めて静けさを味わうには寝起きを遅らせても仕様がないといわざるを得ない。
反省まではしない。最高の気分だから最高の作品が仕上がるならば又別にせよ、基本的にはあり得ないだろう。さもなければ病人には名作は生み出せなかった。梶井基次郎の小説が素晴らしいかぎり、終生、肺病に冒されたままの自己表現だった、少なくとも個人的には最高の気分を余り重視し過ぎてはならないと思っている。
因みに肺病というとカフカ(小説家)やショパン(作曲家)も同じだった、作家活動の後期には。死因に当て嵌まるのは梶井基次郎の場合と等しい。
気分が優れなくても名作が生み出されるのはなぜか
やはり精神力だと率直に感じる。運動選手に身体力が求められるのと同じように精神力が作家活動には何よりも前以て想定されるべき要件だろう。
芸術的には感性かも知れないし、学問的には認識かも知れない。何れにしても一つの精神力に支えられながら創作活動は主に行われているわけだ。
すると勉強しかない、作家活動にとって肝心なのは。運動選手がいつも練習を欠かさないような仕方で実際に励んでいるかどうかが厳しく問われずにはいない。
精神力は放っておくと衰える。身に付けた知識でも使わないと減るから思考が途絶える。
実際、ブロクで>スピノザの方法>ドゥルーズの良さと気に入りの哲学を取り上げるのは必ずしも容易ではなかった。入れ込んだのは二十代だったし、それからは思考するのも自作ばかりだったので、著作を殆ど読んでなかったから月日を長らく経ながら固有の様々な概念を思い出すのに苦労したのは事実だった。
脳の働きとして必要のない情報は遠くに仕舞い込ん…

ソクラテスの死は如何にも哲学者らしい威厳を放っていた

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古代ギリシャでブラトンアリストテレスと並んで三大哲学者の一人と考えられるソクラテスは西洋哲学の源流とも過言ではないほどの存在だった。彼の弟子がプラトンで、その又弟子がアリストテレスだったからソクラテスがもしもいなかったら、全員、消えてしまって西洋で哲学が歴史的にどう流れたかが相当に変わっただろうと震撼させられる。
人々の考え方に大きな影響を哲学は与えている。何等かの主義を持つかどうかは別としても社会に共通する枠組みは一般的にあるのではないか。古代ギリシャの三大哲学者は現代でも通用するような原形を示している。
ソクラテスの知識(エピステーメー)プラトンの理想(イデア)アリストテレスの論理(オルガノン)
当時は宗教と結び付いていて何が良いのかを探求しているから必ずしも哲学そのものではないはずだ。しかし抽象化すれば知性と観念と方法という哲学者の条件が出揃っているのは明らかだし、超越論的にいえば認識と概念と判断によって今直ぐに誰でも哲学に取りかかれるような能力が身に付いたに等しいと思う。
注意するとプラトンの理想は多義的なので、それを例えば概念と捉えるとアリストテレスの論理が理性になってソクラテスの知識も対象と捉え返されながらカントの超越論的な認識の方法が全てみたいな思想系の哲学にぴったり当て嵌まってしまう。
もしもプラトンが哲学者ならば彼の理想は観念でしかないはずだったんだ、本質的にいって。観念にどうにも手が届かないから理想と呼ばれていたに過ぎないのではないか。古代ギリシャでは精神が人間にとってまだ十分に知られてなかった(物事を身体、または情動から無意識に知覚していた)せいだと理解されるべきだと僕は考えている。
プラトンの理想については理性とも捉えられるし、するともはや哲学は生き方と結び付いてしまう。ソクラテスの知識もアリストテレスの論理も正しくなければならないと味わわれ得るし、哲学者だけが偉いみたいな状態にもなり兼ねない。彼、または彼女の独断論から社会に差別と偏見が増やされるとしたら本当に恐ろしい。
僕は哲学が好きだし、良いと思うけれども独断論を引き起こす危険性が全くないわけではないから精確に把握しなくてはならない。根本的には思想と切り放せるかどうかにかかっている。思想系の哲学から理想を口にしたら政治と変わらないし、理論としては《教祖の見えない宗教》か、または否定神学の構造で終わ…

ベーコンの絵に浅田彰と井浦新との対談で完全に貴重なアート

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日曜美術館のベーコン特集/恐ろしいのに美しい フランシス・ベーコン浅田彰井浦新が対談していたんだ。
ブログで何気なく取り上げた二人が世の中で勝手に結び付いて面白いと思う。それぞれに認識が増して見方も変わったし、さらに又新しい発見があるのではないかとブログに今度を二人を合わせて取り上げたくなってしまった。
2013年に放送されたテレビ番組だから今から四年前になるけれども日本で、当時、三十年振りに開催されていたベーコンの大型の展覧会で題名も正しくそのままのフランシス・ベーコン展を二人が訪れての企画だったらしい。
浅田彰はヘルメスの音楽にベーコンのエッセイが載っていて良く知っているから呼ばれたのかも知れない。調べては日本にベーコンを初めて紹介した作品だったともいわれている。
F・Bの描くプレザンス、それは過不足なく自らと合致して静止するプレザンスではなく、どこまでも過剰なるプレザンス、そのことによって途方もなく膨れ上がり、とてつもない力を孕んで振動しながら時間の中へと流れ出してしまうようなプレザンスなのだ。
浅田彰のF・Bの肖像のための未完のエスキス/ヘルメスの音楽
プレザンスはフランス語で現前だ。哲学の現象学で多用される概念だけれども主観性の相関物としての客体への意識といって良い。だから精神を病むと消滅するし、現前が経験されているかどうかが病院での臨床上の判断基準とも原理的には過言ではない。主観性の限界はサルトル嘔吐(小説)によって示されている。現実の裏側を知覚して初めて現前が超越されるわけだ。例えば他人の腹黒さに触れると普段から気持ち悪いけれどもそれを知覚する対象そのものへ抽象的に向けると世界全体が耐え難いかぎりで精神を病むしかないだろうと分かる。サルトルが無事だったのはただし哲学のお陰だったかも知れない。実存主義の哲学者として元気に暮らしていた。ところが認識が本当に正しいかどうかは又別だったのが面白いというか、サルトルを見れば実存主義が精神衛生に有効なのは間違いないけど、現象学的な方法としての哲学の良さではないかと探り出すといつも持つだけではなくて積極的に保つためにはサルトルと実存主義を真剣に問題視したドゥルーズをやはり知らなくては駄目だし、ドゥルーズ主義者の浅田彰は優秀だから非常に参考になるんだ。
Video: Francis Bacon, Study of Self-…

浅田彰のドゥルーズ主義者としての水準

浅田彰構造と力ドゥルーズガタリを大々的に取り上げて他でも言及が多い。そしてさらに自分で自分をドゥルーズ主義者と呼んだりもしていたし、本当にそうなのではないかと思う。
しかし驚くのは余りに一般的過ぎるというか、ドゥルーズの捉え方がオーソドックスな印象を与えるために別にドゥルーズ主義者でなくても可能だし、普通に読むだけで誰でも受け取るような認識しかなさそうなところなんだ。
浅田彰の口から自称してドゥルーズ主義者と出て来るとビックリさせられる、この人は敢えていっているのではないか、例えば教科書で名前を知っているだけでもその考え方や生き方に心酔している結果みたいな響きが避けられなくて。
思想を根底的に考えれば最も正しいかも知れない。どんな人、または作品でも好き嫌いは抜きにして接すれば何かしらの影響は受けていて自分の考え方や生き方に作用するから全て引っ括めて心酔しているとも過言ではないだろう。少なくとも精神的には無意識に原因として吸収されているのではないか。本人が気付くと気付かないとに関わらず、日々の経験の一から十までの観念は人間性を織り上げているに違いないとすると浅田彰の言葉遣いは詩そのものだし、個人の好き嫌いを越えるまで内面性が直視されているかぎりは本当に広大な宇宙としか呼べないくらい凄い。
僕はドゥルーズは出会いが面白いとブログで取り上げたけれども世界観としては無意識を含めて認識されたところが新しかったと思うし、精神的に「欲望」が重要ならば意識された存在(自我)だけが対象ではない、またはそれなしに捉えると哲学としても意味合いがずれるかも知れない。ドゥルーズの出会いが素晴らしいとすれば偶然も入り込む余地があるわけで、広大無辺に何が起こるかも予測不可能な人生を口に出したに等しいから面白いとなるわけだ。
世の中を見渡しているとドゥルーズの誤解され易い部分は無意識の出会いの特色で、浅田彰はきっちり捉えていて非常に頭が良いと感心するけど、僕はブログの記事で説明抜きに出会いが面白いといった通り、どっちでも構わないと思う。特色のない出会い、意識から只単に我欲という経験も受け入れるのがドゥルーズの本性ではないか。それこそ哲学者として懐が誰よりも広くて素晴らしいと称えたくなる。人間的に好き嫌いどころか、思想的に正しいか、誤っているかさえも越えていた。無意識を認めるならば方法上は当然な帰結だ…

スピノザの哲学的な倫理学者としての方法

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スピノザは人々に哲学者として長らく認められて来たけれども主著エチカは倫理学だし、生前から哲学者を取り立てて自認してはいなかったようだ。
まさか正しい選択だったと思う。なぜならスピノザの認識には取り除くことのできない欠陥というか、知覚上の不備が一つだけだけれども含まれていて哲学として厳密には成り立たないからだ。
主著エチカ、または前書きとも見做される知性改善論を読んでいて非常に感銘的で、他に例のない世界・自然・現実を生み出している真実そのもの(神の力能)を教えてくれるのにどうしても疑問を抱かざるを得ない部分がある。
Baruch de Spinoza by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
スピノザは良くいう、定義を理解しない人には何も分からないと。例えば神は全知全能で何でも実現できるにも拘わらず、数多くの悲惨な出来事を招いているのはなぜかみたいな問いかけに対してそれも可能だった(何でもできればこその避け難さ)と応じるけれども本当に知りたいのは悲惨な出来事を直ぐ様と凌駕する喜びが与えられない理由だろう。神は全知全能ではなくて人間にとって不可能を可能にするような力を持ってないのではないか。するとスピノザが「絶対に無限の実有」(永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成る実体)と神を定義した言葉、または知性的に受け取られた認識としての概念/哲学そのものも信用できなくなる。
この時点で初めてスピノザは口を閉ざす。神を絶対に無限の実有として定義から理解するかぎり、今此処が全てであって人生に自分が巻き込まれた世界・自然・現実を凌駕するほどの力は他にはない。知覚は根底的には永遠とまで加速されるけれども神については不変というか、今此処において真実そのものと信用される。悲惨な出来事も逃れられないゆえに正しいし、神の全知全能には相反しないどころか、瞬く間に完全に考えられさえもする。
余談ながらデカルトとの大きな相違点が今此処の捉え方に示されている。スピノザはデカルトの問題点を解き解しながら自らの見方を鍛え上げた哲学者と呼べるけど、すなわち「我思うゆえに我在り」というデカルトの方法には完全な神と不完全な人間という前提条件が想定されていたのを能力の増減によってどちらも完全だと捉え直した。
スピノザはデカルトの方法からコギト(思考主体)の完…

既視感(デジャヴ)の本質的な認識

既視感(デジャヴ)とは何か。詩的に考えるというか、僕は永遠の詩人だから本質的な認識として表現しようとするとブログの天道虫の記事から分かるのは色と形の組み合わせがイメージを越えて感じ取られるせいだ。
通常、イメージを越えて人が生きることはなくて観念と物体は一対一の対応関係で精神に記憶されているわけなんだ。しかし既視感においては色と形の組み合わせという抽象性を介して経験が全く別のイメージに飛び火する。元々のイメージが抽象性から引き出されるために全く別のイメージを受け取りながら人は今此所と結び付けることができる。およそ全く別のイメージしかなくて精神が切り替わるとしたら人は旅立ったか、夢見たかだろう。精神は存在と意識の変化を確知する。既視感にかぎってはそれが今此所となって味わわれてしまう。
注意すると色と形が何かに似ているだけでは既視感は得られない。なぜなら似ているという概念が具体的だからだ。色と形の組み合わせをそっくりそのままに抜き取ることができるとイメージがいつかどこかの某かも知れないと全く別のイメージを呼び寄せる。
日常生活でなぜ既視感は起きるか。一般的に抽象性というのは概念や図表で示されることが多い。ただし厳密には抽象性そのものではあり得ない。概念には概念の具体性があり、図表の図表の具体性があるためで、人は一つのイメージとして心理的に定着する。裏返せば観念と事物の一対一の対応関係が緩んだ結果として既視感は起こって来る。
緩んだ結果の原因として認識されるのは何か。本質的にいうと既視感は「事物の想念性の形相」から生じている。つまり抽象性の定義から来るわけで、抽象性の定義としての「事物の想念性の形相」は神の観念(絶対性)と永遠にくっ付いているんだ。自然の法則もそれなしには実現されない。生き物が動くのも抽象性に基づいていて抽象性が無限に空間を作り出すためでしかない。絶対者の名(神)のもとに事物の可能性を永遠に広げ続けることができるといっても良い。
人は普段は分からない。物事には道筋が一つしかないと思い込んでいる。思い込まないと精神は不安定になるので、道筋における事物の想念性が保たれるようになっている。身体ならば脳の統覚が乱れてはならないし、そのように神経が作用している。事物の想念性は因果律で、原因と結果の認識、詩的にいえば道筋の気分だ、道筋の気分で語れば揺らぐと抽象性が分かり得る…