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1月, 2017の投稿を表示しています

Evernoteで同期に失敗してノートが消えたらプレミアム会員の更新履歴でしか取り戻せなかった

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朝から良い感じでブログの記事を書き進めて五千文字近くで完成した。中々の力作が仕上がったと満足しながら後は関連したリンクを貼るのにサイトを探していて、全部、見付かってもう公開しかけていた。
Evernoteのタブレットで見付けたリンクをノートに載せながら文章が可笑しいと思った。物凄く短くて半分くらいしかなくなっていて気付いた頃にはスマホとの同期に失敗して消え去ってしまっていた。

元々はタブレットで半分くらい書いた。それをスマホで開いて半分くらい書き足して完成した。次いでタブレットで見付けたリンクを載せるところで先に同期してなかったせいかも知れない、ノートが消えて失敗したというのは。
スマホからの新しいデータを受け取る前にタブレットで古いままの状態を少しだけ変えて更新してしまったようだ、はっきり覚えてないけど、とにかく。
複数のデバイスで同期がずれると重複ノートでいつも二つに分かれるのに違ったんだ。
一瞬の隙を突かれたのではないか、推測するには。
スマホとタブレットで一つのノートを別々に更新していて同期で打つかったらたぶん重複ノートで二つに分かれるはずなので、これはこれで間違えても安心して良いと思う。
悲しいのは別のデバイスの新しいデータを受け取りながら古いデータを開いて保存した場合なんだろう。新しいデータが今のデバイスで更新したよりも古いと判断されて直ぐ様と書き換えられたとしか考えられない。さもないとEvernoteは恐ろしくて使えなくなる。
僕が急ぎ過ぎたせいだ。というか、気付かないで、スマホからさっさと新しいデータは受け取ったつもりで、同期しているところでタブレットの古いままのノートを開いて書き換えたのが不味かった。同期しないで、ただ書き換えるだけならば後から同期してスマホとの重複ノートになるに過ぎないはずだった。
非常に困ったし、一日、丸潰れだ。二千文字以上もあれば記憶から引き出して書き直せないので、試したけれども数行で失われた部分は殆ど思い浮かばないし、ぽつぽつでは繋げても文章として違和感が酷いので、改めて途中からでも新しく書きながら速やかに流れるように纏めて行くしかない。
Evernote プレミアムなら、ノートの履歴を確認して、過去のノートを復元することが可能です。
Evernote ノートを編集前の状態に戻す方法(プレミアム機能) via Evernote日本語版ブログ
調…

ショパンの雨だれは生きる屍への真実の祈りだ

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ブログの記事を一生懸命に仕上げてサイト広告で生活費を稼ごうと望みながら一円にもならない毎日では呆れて心の中に雨垂れが聞こえて来るよ。
侘しく寂れた思いの極みか。好きだったけれどもイメージとして実生活で受け取るのは耐え難いものがある。触れるのは命だけだ。
顔付きも青ざめるばかりの貧乏で、喘がれない貧困では全くない。いつまで生きていられるのかと手の施せない重病人のように気分は落ち込み過ぎる。健康だからまだ益しな状態ではないんだ。
頑張っても頑張っても駄目だった。四十年以上も咲かない花を抱えながら枯れた果てた意欲に存在そのものが染み込んでしまっているとは……。
だからもう本当に生きる屍に等しい。来ない明日と潰れた未来、そして何よりも消え去られて行く将来性の数々に息も絶え絶えではどうやって夢と希望を甦らせられることか。想像も及ばない心こそは僻地だろう。
Cyprien Katsaris - Chopin: Prelude Op. 28, No. 15 in D flat major, "Raindrop" via Cyprien Katsaris
ショパン雨だれだけだ、知りたいのは聴きたいのも。鯨が逆さまの潮吹きで海面に持ち上がって来るような現実はないか、偏に超常的な喜びだけが生きる屍には相応しい。どんな出口も見えない人生の真っ暗闇の恐ろしさを心から優しく癒してくれそうな祈りを親身に感じてしまう。
少しずつ少しずつ本当にあり得ない仕方でゆっくりと生活が幸せに囲まれて行く、いつかどこかで経験されたはずだった産声を味わいながら自分らしさが麗しく息を吹き返すように。
Frédéric Chopin by Ary Scheffer [Public domain], via Wikimedia Commons
ショパンはスペインのマヨルカ島で雨だれを作曲した。かねてより構想されていた24の前奏曲の十五曲目として完成したけれども発表されたのは二十九歳頃だったらしい。若々しい作品で、瑞々しい感性が特徴的ながら三十九歳で亡くなった短い生涯からすると作曲家として晩年に至る直前の最盛期だったわけで、イメージを決定付ける世界観が表現されているとも過言ではない。
世間的には「ピアノの詩人」と呼ばれるようなショパンの実像が24の前奏曲には良く出ていて考えると感性の瑞々しさが非常に大きかったに違い…

温泉に浸かる猿は人間にとって自然との和合を果たす

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見ているだけでこちらも温まって来るようで、日本の冬の風物詩といって良いかも知れない温泉に浸かる猿だけれども案外だったのは地獄谷野猿公苑(長野県)など、一部の人工施設でしかやってないといわれる。
Japanese Macaque by Yblieb (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
猿が自らの知恵を働かせながら野生で温泉に浸かっているわけではないとすると光景の中身としては例えば日光さる軍団(栃木県)のパフォーマンスに近いだろう。
ただし微妙に違うのは温泉に浸かる猿の場合は人間が必ずしも仕向けたわけではなかったらしい。
温泉地で人間の周りに子猿が遊んでいて、偶々、近くに温泉があったので、好奇心からか入り出した。以来、すると猿の群れにそうした行動が広まって気付いた頃には一つの温泉を目当てに何匹も集って新しく入るように変わってしまったんだ。盛況を極めるほどに猿の温泉というイメージが出来上がったし、取り分け冬に目立った行動だったので、寒さに打ち勝つために保温を求めて猿は温泉に好んでやって来て浸かるように認められている。
Snow monkeys soak in hot springs of Japan via The Guardian
考えると面白い。人間と猿に半分ずつの思いが成り立っている光景が得られた。猿だけでは温泉に浸かるつもりはなかった。しかし人間も又狙って仕向けてはいなかった。元々の子猿が好奇心から温泉を見出だしたとすると完全にアートなので、物凄く感動するんだ。
誰も予期しなかった出来事に素晴らしく触れては美しいと味わう気持ちは止めようがないだろう。
温泉に浸かる猿に風情が溢れているのはアートのせいなんだ。如何にも自然の光景だと思わせるし、どこでも変わらなさそうな印象を与えている。猿にとっては自力で見付けた温泉に等しいので、最初の餌は本当に近寄るための切欠でしかなかった、浸かるも何も全ての行動にやはり無理がないと人間とは別に心から静かに驚かされてしまう。
厳しい冬の寒さに打ち勝つためとはいえ、温泉から上がって直ぐに野晒しでは大変ではないか。
しかし猿は人間のように多くは汗をかかなくて体温は下がり難いと考えられるようだ。
すると猿が温泉に浸かる必要もないのではないかと改めて疑問が生じる。
動物では冬に体毛が増えて保温性を増すよ…

カフカの小説へは孤独を愛する気持ちに親近感を覚えた変身から引き込まれた

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高校時代、本当に心から好きで愛して止まない作家・小説家がカフカだった。
本が読みたいと思って本屋の文庫本のコーナーを見て回っていて置かれている本の種類も数多いし、何が良いのかという文学の知識も殆ど持たないままで、迷いに迷って選びようもなく、幾日も本屋へ出向いて同じように繰り返していた本探しかも知れなかった。
振り返っても本当にいつも驚かされざるを得ない、カフカとの出会いとなると。
偶々、これが良いのではないかと本屋の文庫本のコーナーで何一つ分からない状態ながら表紙や紹介文から感じて新潮文庫の作者の顔写真が付いた表紙のデザインが印象的だったけれども買って読んで完全に引き込まれてしまったわけなんだ。
カフカの短編小説で、選んだのは代表作の一つと見做される変身だった。喜びは非常に大きくて記憶にも著しく残されたとはいえ、味わいは唯一無二で他のどんな小説にもない趣きだった。十代後半の当時から中年期の今現在でも全く変わらないので、カフカならではの経験に違いないと思う。
Franz Kafka by anonymous [Public domain], via Wikimedia Commons
小説の印象として変身は親近感が圧倒的だった。心にそっと忍び寄る世界があって考えると不可解だけれども、思わず、知らず、引き込まれて後からはもはや抜け出せなくなってしまうような感じがする。
僕だけかも知れないし、他の誰か、どんな人が読んでも同じではなさそうだけど、とにかくカフカの変身を読んで主人公のグレゴールは自分にぴったりだし、グレゴールを表現したカフカ自身も極めて身近な存在として認められた。
カフカが見付けた孤独とは何か
変身のザムザ(名字)という主人公の名前の付け方が漫画的というか、語調が作者のカフカと同じで洒落たような感じになっている。三音節で最初と最後を揃えて真ん中だけ違う。ザムザ、カフカ、例えばボノボ(猿)とかサルサ(音楽)なんて世の中には幾つも転がっているんだ。
カフカは作品と作者を掛け合わせてザムザと笑わせるつもりなのかと思う。内心はざわざわさせられるし、それだけだった、気に入らないところは。笑いが欲しくて本が読みたいわけではなかったので、余計なことをするなと微かな違和感だけれども承服し難い怒りが全くなかったとはいえない。
知ると他では特に見られない。なのでカフカは変身にかぎって巫山戯た真似とも…

黄色で運気上昇を認めた福徳の霊能力

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美輪明宏の占いのTwitterで、リツイートすると幸運が訪れるといわれていてテレビのオーラの泉に出演していた時分は良く観ていたし、如何にも超人的なパワーを持ってそうだから本当だったらというか、人生が幾らかでも上向きになれば有り難いし、良いし、もう何もいうことはないみたいな感じで、手を伸ばしたくなった。
Twitterだけではなくて共有すれば結果は同じだろうからさらに幸運が訪れる機会が増えれば効果的ではないかと麗人だよりのTwitterを載せられる他のソーシャルメディアで、Google+Tumblrはてなブックマークでもやってみながら締めにというか、夢見るアクセスアップの大本命として上向きな人生そのものだけれども天職の作家活動の中心とも考え出したブログの些細な日常でもやっておかなくてはならない気持ちは間違いないし、外すわけには行かないと強く感じた。
お給料とはガマン料なのです。楽な仕事など、この世にはありません。 pic.twitter.com/HovUHo1saP— 美輪明宏 (@akihiro_miwa__) 2017年1月22日
美輪明宏がそばに付いているように思えば取り上げる対象は何でも構わなくてそれ自体も麗人だよりのTwitterにかぎらず、超人的なパワーという霊感の恩恵に与って幸運が訪れるかも知れないはずだ。
只本当に個人的に画面一杯の黄色が溢れ返った写真が見る者の気持ちを晴れやかにして運気上昇を普段の生活から如実に受け取らせてくれるようにすんなり認めてしまうんだ。
心理学の自己暗示(できると思えばこそ物事に意欲も増して来るだろう)や病理学のプラシーボ(治ると思った病気が本当に治り易くなる場合がある)といわれるような状態とも重なるわけだし、美輪明宏で人生が上手く行くかどうかは別としても気持ちが明るくなれば夢は叶うと望んで良いのではないか。
黄色は風水占いで運気上昇の色とされるけれども取り分け貧乏だと家の中を黄色だらけにすると金持ちになるかも知れなくてそれと全く同じだろう。
美輪明宏は占いのTwitter以前からもう既に超大金持ちだったはずなので、真っ黄色の写真は霊感ならば後付けてやっているとも見做されるにせよ、ただし莫大な貯金を維持するのも手に入れるのと同じくらい大変なはずだから(何となれば周りから人生を狂わされ兼ねない空気だし)彼自身がご利益を証明しているとも考…

人々が読みながら聞きながら躓かない文章でどれだけ言葉を実質から的確に並べて行けるか

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ブログで美輪明宏を取り上げて内容もさることながら題名がいつにないくらい気持ち良く決まった。
まるで作詩しているかのような錯覚さえも味わった。やはりブログでは上手く行かないというか、作品としてエッセイ風の日記だけれども流石に詩と全く同じような仕方ではなかったと痛感された。
美輪明宏のヨイトマケの唄へのエンヤコラだけれども作中にエンヤコラの掛け声が出て来てとても気に入っていてブログの記事の題名でテーマの美輪明宏のヨイトマケの唄に捧げる形で付け加えられたという。
記事の全体がエンヤコラの一言に集約された感じが詩に匹敵するのではないか、今までもやっていたかも知れないけど、とにかく面白いと自覚されてしまった。
キーワードとしてGoogle検索からのアクセスアップにも繋がるはずだし、さらに詩的だったら本当に狙い通りのブログの言葉遣いになっているから気付いたかぎりは積極的に取り入れる必要があると考えてしまう。
ただし題名が詩の言葉遣いでしっくり来るというのは記事そのものが相当に充実してないと作品として名折れになりそうなので、一言一句に集中力を注ぎながら丹精を込めて仕上げるという自己表現が求められて来るだろう。
案外、できてなかったかも知れない、ブログで。詩的にやるといってもただぷらぷらさせているだけで、イメージで遊んでいるに過ぎない言葉遣いだったのではないか。面白いのは確かだけれども耳を世界の時空の繋ぎ目に攲てるや否や天使がもうちょっと本格的な味わいを求めているようだし、文章だけではなくて作詩するくらい言葉への思いを引き上げながらブログの記事を纏めても良いと思う。
スタイルとしても難しいので、避けたかった部分も自分自身に全くないわけではなかった。
言葉を重視するならばむしろ文章がそれに見合うだけの強度を持たなくてはならないし、バランスが崩れるので、するとやはり論文調になって人気が出ないか、または詩の実作〈本質的な認識としての永遠〉と同じで超難解で誰も寄り付かないパターンになりがちだから困らざるを得ないと手も伸びないわけだ。
本当に猿でも分かる日本語、俗にいえばだけれども人々が読みながら聞きながら躓かない文章でどれだけ言葉を実質から的確に並べて行けるかが問われるだろう。
やれればきっともっと面白くなるブログ、些細な日常だと期待されるし、美輪明宏を取り上げながら認め出したのは非常に有り難かった。
ブログ…

美輪明宏のヨイトマケの唄へのエンヤコラ

美輪明宏ヨイトマケの唄は昔からどこかで聴いたことがあって民謡か何かで日本の伝承歌の一つなのかと胸に来た思い出がある。考えれば不可解だったけれどもいつも誰の作品なのかが分からないままで、作者未詳の伝承歌というイメージが三十年くらいたぶん固まってしまっていた。
はっきり分かったのが2012年の紅白歌合戦で美輪明宏が歌ったのを観たためだった。
素晴らしいパフォーマンスで全国的にも相当に話題になっていた、気付くと。歌が演劇的で、美輪明宏も宝塚歌劇団の男役みたいな黒づくめの衣装で、いつもと、全然、違うし、パフォーマンスが素晴らしいだけにインパクトが物凄く大きかった。
感動しながらただししっくり受け取るのは難しかったのも事実だ。ヨイトマケの唄の作者も美輪明宏で、発表当時は丸山明宏だったらしい、はっきり分かったものの作者未詳の伝承歌というイメージを払拭するのに時間がかかったと個人的には思う。
ヨイトマケの唄と美輪明宏は作品と作者の関係なんだと紅白歌合戦での熱唱から五年くらいで漸く腑に落ちて来たようだ。
それぞれのイメージも相当にずれているし、近年の美輪明宏の豪華絢爛な生活振りからすれば余りにもかけ離れて対極的なヨイトマケの唄の庶民生活そのものではなかったか。
制作状況を知らされても作品と作者に心の中で結び付き難いものがあったと振り返られる。
改めて泣けて来るほどに感動せざるを得ない。ヨイトマケの唄は1965年に発表されて美輪明宏にとっては三十歳の作品だった。もう既に歌手として大成していて日本全国でコンサートを開いていたらしいけれども庶民生活そのものを歌にしようと手がけた気持ちはファンのせいだったんだ。自分のコンサートに金持ちばかり来ているわけではなかったと衝撃を受けてそうしたファンのためにこそヨイトマケの唄へ取りかかるに至った。
炭鉱の地に歌いに行ったときに、貧しい人たちがわざわざ聴きに来てくれているのに、私は贅沢な格好でギラギラしていて申し訳ないと思ったんです。それで、なんとかこの人たちを励まし、慰める歌をと思ったんです。
美輪明宏/なぜ歌い、戦い続けるのか 美輪明宏インタビュー via CINRA.NET
少なからず、生活感はずれていたかも知れないけど、しっかり目を向けられた美輪明宏は尊敬するべき芸術家だと認めたくなる。世界を本当に手広く表現できたし、人間的に優れていたのは間違いないだろう。…

音楽の個々の音符が生きていて楽想が織り成されている世界を素晴らしく感じた

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自作曲の自然倍音列(Original 26)が完成した。デモ版を公開したのが去年の十一月の初めだったから完成に三ヵ月近くかかった計算になる。
大半がマスタリングの作業に費やされた。FL Studio Mobileバージョンアップで新たに追加されたエフェクトの取り分けコンプレッサーリミッターの使い方が慣れないせいだ。発見も多くて楽曲に取り入れながら大丈夫かどうかを詳しく調べながら判断せざるを得なくて時間も余分にかかってしまうわけだ。
どちらも強くかけるとパート毎の音量のばら付きを揃え易くなるけど、しかし音が変わってしまう。イコライザーも必要だし、音質を調節しなくてはならない。
パート毎に別々に度合いを変えると全体のバランスが崩れるから纏めて二重にかけて音楽として馴染ませなくてはならなくてさらに作業が増えてしまう。
今回はコンプレッサーを初めて強めにかけて音質が従来よりも物凄く変わって戸惑うけれどもシンセサイザーの音量をきっちり揃えてドラムとベースは勢いをしっかり出した。エレクトロには向いていると思った。
知らなかったけれどもドラムで皆が良く鳴らしている感じはこれだと気付いたのは大きかった。コンプレッサーを強めにかけるとアタックが抜けて快適に聞こえるんだ。響きの余韻に優れるようだけれども実際にはリリースを伸ばしているせいではないのではいか。アタックが目立ってコンプレッサーで減衰した残りがなだらかに流れるので、響きの余韻として味わわれるのは確かだと考えられる。リリースよりもコンプレッサーで平板化された部分の音が大事だし、アタックで勢い付くほどに対照的に分かり易く、聞く耳に伝わって来るんだ。
コンプレッサーはドラムやベースのリズムへは強めにかけると合っているというのが府に落ちた、自作曲でやってみて正しく。
シンセサイザーは音程での音量差が激しくて本当に辛いからなるべく均等になるようにコンプレッサーをかけた。
楽音の元々のダイナミックレンジが広過ぎるせいで、メロディアスに作曲したければコンプレッサーは必須ではないか。後からコンプレッサーで幾らでも調節できるような設計とするとFL Studio Mobileは自由度の高い本当に優れた音楽アプリと称えられるにせよ、コンプレッサーなしでシンセサイザーを広い音程で使うのだけは難しくなってしまう。
自然倍音列で最も苦しんだのは出だしのシンセサイザー…

井浦新の芸術へ憧れを抱いた言葉遣いは若々しくも素敵だ

テレビの日曜美術館の司会が変わっていて調べたら四年前だったらしくて本当にびっくりした。去年くらいではないかと思っていた。数年来、殆ど観てなかったから記憶は曖昧だし、情報は間違いなさそうで、唖然とさせられながらも頷く他はなかった。
少しずつ又観ながら男性の司会が従来よりも良く喋るのではないかと気に留まった。ゲストが来て良く喋るので、日曜美術館の司会というと聞き役のイメージが固まっていたところで、完全に覆されてしまった。
言葉にすれば「何だ、この人は」と感じたけれども口数が多くても口調が穏やかなので、不思議な印象を与える。日曜美術館のかつての司会者のイメージになかったし、喋り自体も自分の思いを言葉にしっかり乗せようとしているようだからユニークで、好ましくも生真面目な人なのではないかと考えもした。
井浦 新さん(@el_arata_nest)がシェアした投稿 - 4月 6, 2016 at 7:55午前 PDT
井浦新という、知ってみれば。部屋でコンタクトレンズを着けてないからテレビでは遠くて顔も名前も分からなくてインターネットで見付けて本当かどうかも怪しかった。ただし「井浦さん」と偶に呼ばれていた記憶があったから納得した。間違いないはずだろう。
写真では顔にも見覚えがあったからちょっと驚いた。元々はファッションモデルだったらしくてファッション雑誌で見ていたかも知れなかった。さらに俳優としてテレビや映画にも数多く出演したとなると目に留まる機会は生活の様々な場面で幾らでもあったわけだ。
立て続けに驚くけど、ファッションモデルや俳優で日曜美術館の様々なテーマで個別のゲスト並みに良く喋る、毎回、司会で参加して聞き役よりも明らかに幅広くしっかり付いて行けるというのも疑問ではないか。
しかし経歴がやはり物語っていてアートディレクターとして創作活動の総合的な立場で活躍してもいた。写真家として個展を開いたりもしているみたいだけど、普段の生活からして芸術そのものに必ずしも疎いわけではなかったんだ。
気持ちとしては興味津々で、むしろ思いっ切り、頑張っているんだと改めて実感されて来る。
存在から来る言葉遣いが面白い井浦新にせよ
日曜美術館の司会としては従来のゲスト並みに良く喋る井浦新で、作品や作者への感想を自分の言葉で丁寧に伝えるように努力しているところが好感度が高いと思うわけだけれども芸術の受け取り方その…

人々の毛綿鴨の羽毛のリサイクルには泣けて来る

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King Eider by Olaf Oliviero Riemer [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
毛綿鴨の羽毛は人々の防寒に珍重される。地球の北極寄りのとても寒い地方にしか生息しないけれどもそれだけ羽毛も防寒に優れていて保温性が著しく高い。
英語でアイダーダックと呼ばれて羽毛もアイダーダウンとして人々に愛されながら防寒に昔から使われて来た。ダウンでも品質は流石に最高級らしい。アイダーダウンを多用した布団ならば数百万円にも及ぶといわれている。
しかし凄く驚いたのは毛綿鴨の羽毛の人々の採取の仕方で、資源のリサイクルとは何かを考えさせられてしまった。ふわもこの可愛いらしさに、心毎、引き付けられながらではまさかだった。毛綿鴨と人々との関係には瞠目するべき世界があって甚く尊ばれもしてしまった。
羽毛のリサイクルというそれぞれの共存共栄
ノルウェーのヴェーガ諸島がアイダーダウンの伝統的な産地(世界遺産)として知られていて人々の採取が珍重しながら非常に長く続けられて来て――九世紀頃からといわれる――今現在も殆ど変わらない。
毛綿鴨が巣を作る。特徴的なのは卵を温めるために親鳥が自らの羽毛を抜いて周りを固めるんだ。とても寒くても卵が孵り易くなっているわけだけれども雛が孵ると親鳥と共に巣を出て行く。卵を温かく囲んでいた羽毛だけが残されているのを人々が自らの生活のために貰っている。
巣として毛綿鴨に不要になった羽毛が人々の防寒にリサイクルされていると凄く驚いたし、毛綿鴨と人々との《種族の閾》を越えた繋がりにはもはや心から感動を覚えざるを得なかった。
Eider nestingboxes by Thomas Bjørkan (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
人々は毛綿鴨の羽毛を貰うために小屋を建てる。巣作りに適していて何よりも天敵に襲われ難くなるし、毛綿鴨にとっては非常に助かる。小屋を見張りながら人々は暫くして必要な羽毛が手に入るわけなので、それぞれに共存共栄が成り立っている。何年もの間、ノルウェーのヴェーガ諸島では繰り返されて毛綿鴨の小屋が文化的にも相当に大きい。
詩的にいうと自然との対話が象徴的だろう。泣けて来るほどの素晴らしさを味わう。人々と毛綿鴨が羽毛のリサイクルを介して共存共栄を果たした…

明るい気持ちのシンパシーで誰も遠ざけるな

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昔のホームページ、作詩の公園はとても盛り上っていたので、アクセスは最高で一日三百人近くまで得られた、止めてから何とか越えたいと願いながらどうにも手が届かないでいる。
運営スタイルが今とは、全然、違っていて掲示板を主体にして僕と訪問者がコミュニケーションを取りながら周りの他の人たちも巻き込んで行くというアクセスアップの王道を只管に進み続けていた。
しかし越えられないままの一発屋で終わりたくないと強く感じる。
自分のコンテンツをGoogle検索に引っかけてアクセスアップを新しく図るけれども考えると気持ちが非常に大事で、昔のホームページと些かも変えてはならないようなんだ。
夢見て本当に頑張っていた。色んな人に来て貰いたいと信じ込んで全てに純粋に取り組んでいたからこそ訪問者が寄り付き易くて常連も増えたのではないか。
僕が管理人として少しでも上手く行かないとか駄目だなんて先行きへ疑いを抱いていたらやって来た皆も興味や関心の熱気が冷めてしまって白けながら詰まらないと思われ兼ねなかったはずだ。
だから、もう一度、気持ちから根本的に出直すべきだ。作詩の公園は初めてのホームページで右も左も分からないように皆にがむしゃらに声をかけて何人か来てくれて喜んでいる間に掲示板の投稿詩の企画に参加してくれた感謝に代えて個別に感想を付けると良いとアイデアが浮かんで実行に移してから爆発的にヒットした。アクセスが急上昇しながらサイト運営は望み通りの軌道に完全に乗ったのは間違いなかった。

ビギナーズラックと呼んでも良いかも知れない。失敗するとは、毛頭、思わなかった。声をかけた人に無視されたり、もっともっと盛り上がって欲しかったりすると悲しかったのは確かだけれどもそこで何もかも悔やむよりも先行きこそ見据えていた、真っ先に。さもなけばとてもどころか、本当に大して盛り上がりさえもしなかったはずだと考えられる。
作詩の公園が成功したから自分にはサイト運営の才能があってサイト広告で生活費を稼ぐことも無理ではないと夢見る。
一日三百人ならば日給数百円くらいにはなる、アドセンスのサイト広告で悪くても。
無料サーバーの制限でGoogle検索に引っかかるようなサイト作成は殆どできなかったので、もしも検索エンジンから人がちゃんと来ていれば一日千人は越えていたかも知れない。日給千円も軽く得られるはずのアクセスだったと見積もられてしまう。
振り返…

分詞構文は主語がないから英語として混乱しがちだ

英語の分詞構文が分かるようになって来た。普通の文章が部分的に省略されていて何だろうと思っていて接続用法としてしかも現在分詞のタイプしか判然と呑み込めなかった。
過去分詞や形容詞で始まったりする文章もあるので、すると意味不明だと混乱して接続用法として理解するだけで精一杯だった。
纏めると複数の文章で主語が同じだとどれかは省略して現在分詞で始めて構わない。
過去分詞や形容詞のタイプはそれぞれに受動態や動詞としての先に付くはずの「Being」の現在分詞も省略されているせいなので、分詞構文という語法の意味は全て同じだった。
分詞構文の三つのタイプ
現在分詞に省略される
As he ran to his dream, he grabbed his happiness.
Running to his dream, he grabbed his happiness.
(夢に走ったので、彼は幸せを掴んだ)
過去分詞に省略される
If she is moved by the cinema, she will drop tears.
Moved by the cinema, she will drop tears.
(映画に感動すれば、彼女は涙を溢すだろう)
形容詞に省略される
It is sunny wonderfully, it seems an angel is clear.
Sunny wonderfully, it seems an angel is clear.
(素晴らしく晴れ、天使が透き通るようだ)
英文の読みに応用すると分詞構文がいきなり出て来ても後から主語が分かるならば恐れるに足りない。
主語が複数の文章で一致しない場合、独立分詞構文というスタイルもあるけど、分詞構文の前に別の主語が付いていて「all things considered」(全てを考え合わせると)などか、または慣用句で「generally speaking」(一般的にいえば)などの世間的に纏まった表現に絞られるようなので、どちらも比較的に読み易いのではないか。
分詞構文は文章のどこにでも置かれるけど、文頭で主語がないというのが物凄く分かり難い。しかし後から出て来ると意味を知っておくと大丈夫だと思う。
嫌がって他の全てがどんなに簡単でも読めなくなるように不幸に巻き込まれるとしたら分詞構文ほどに英語で注意するべき語法、または文章を意味付ける規…

スマホのタッチパネルの反応が悪いんだ

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スマホを買い換えて一年を過ぎてタッチパネルの反応が悪いと感じ出した。
冬で乾燥して指先の電気が減っているせいもあるかも知れない。スマホのタッチパネルは微弱な電流に反応していて人が手袋を着けていると操作できなくなるのもそのためだ。指先に息を吹きかけたりして幾らか湿らすと電気が流れ易くなって逆に良いとも聞かれる。
やってみても難しいくらいスマホの調子が下がっていてタッチパネルでもタブレットは大丈夫だから冬のせいとはかぎらないと思う。
調べてみると手持ちのXperia Z3にはタッチパネルの不具合が多く指摘されていたり、使い続けて故障したならばもはや修理する以外にスムーズな動作を回復する方法はなくなくなってしまうんだ。
またはスマホは入っているアプリが複数で干渉していると調子が下がるし、ストレージの容量が少ないのも動作に支障が出るみたいなので、注意しなくはならないと思う。
タッチパネルの不具合は幾つも原因が考えられるけれどもどうなのかというところで、さらに気付いたのは自分のせいも可能性として捨て切れなかった。
先日、ブログの画像が傾いて見えるのは自分のせいだと気付いたばかりだけど、するとスマホのタッチパネルの反応が悪いのも僕が指先を誤ってなければ大丈夫かも知れないとなる。
ノート via Evernote
キーボードはフリック入力を設定していてボタン毎に指先を上下左右に振りながら使っている。知らない間に感覚が雑になってフリック入力の許容範囲を越えれば駄目だろう。試しにゆっくり打ち込むと少しは益しに受け留められた。
完全に元通りにならなければ他の原因がやはり大きいだろうけれども自分のせいだと明らかに認めるのは指先が思ったよりも右寄りに付いてしまう。目線が傾いたのと同じで、指先もボタンに真っ直ぐに合わないみたいだから左寄りに矯正しないと駄目だと思う。
キーボード以外でもホームボタンが相当に辛くて駄目ならば専用のアプリが必要なくらい落ち込んでいる。
巷でタッチパネルの不具合はタッチ切れと呼ばれていて他人事では無い!『タッチ切れ』が発生しているか確認する方法によると絵のアプリで簡単に分かるらしい。
画面に線が全て引けるかどうかでやってみると恐ろしいことに真ん中が不味いという結果だった。
振り返ると、一回、踏み潰しかけたスマホだったので、そのときから大丈夫だったものの半年くらい経ってしかも乾燥する冬に懸念…

スマートブログへのデザイン三ヵ条

些細な日常のウェブバージョンで考え通りのデザインがついに掴めた。というのは画像を元のサイズでカラム一杯まで合わせることができるようになったためなんだ。
やればできるというか、BloggerはデフォルトのCSSで勝手にデザインが付けられるからそれを踏まえながら変更しないと駄目だったし、一般的な方法だけではサイト作成も追い付かなかったと思う。
さらに文字サイズも調節してブログ全体がスマートになったと驚いた、咄嗟に。ウェブバージョンは画面一杯ではないし、しかも二列だからほっそり受け留められるせいではないか。纏まりが加わってスマートブログという印象を与え出した。
気に入ったので、どうすれば実際に可能だったのか、纏まりによってブログをスマートに生み出し得る具体策を明らかにしておきたいと思う。
見出しがちゃんと目立つコンテンツが整理されている端々の位置が揃っている
最初に本文の文字サイズを大きめに変えていだけれども違和感が幾らかあった。記事名の文字サイズに近付いてしまってどちらがどちらとも判然としないせいだった。
画像が小さめなので、むしろ文章を強調するスタイルを求めていたせいだ。
しかし最大でカラム一杯まで広がった画像に対しては文章を強調するよりもバランスを取りたくなった。
本文の文字サイズを小さめにすると記事名との差が広がって違和感も相当に減ったと感じた。記事名がしっかり目立つように変わったわけだ。
本文の文字サイズを大きめにしたままで、記事名の文字サイズをさらに上げても本文とのバランスは取れるけれども画像が大きくなったから文章のデザインも大きめだとイメージが打つかるので、文章は強調せずに避けるように反対に小さくした。
するとスマートブログに生まれ変わった。記事名は見出しの一つだけれどもしっかり目立たないと構成が速やかに掴めなくなるから意味合いが薄れるし、新しく違和感を減らせたのは本当に良かった。
スマートブログを考えると他のデザインも関係していて予め組み込まれていた。
ブログ全体がすっきりしているのはコンテンツの行間が取られているせいだ。別々のものがくっ付いているとすっきりしないと思う。
Bloggerのデフォルトのシンプルテンプレートだと記事ページで日付と記事名の間隔が狭過ぎて離したけど、その後はサイト広告をヘッダーに入れてウェブバージョンでヘッダー画像にくっ付いたので、CSSで引き離さなけれ…

人のぼやきに秘められた謎の力とは何か

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日本のプロ野球の監督で名将として名高い野村克也はぼやきが特徴的だった。試合でチームが上手く勝てない、結果が思うように残せないとなると直ぐにぼやく。チームが弱くて選手も良い成績が出せないほどにぼやきながら監督をやっていて次第に全ての状況が変わって行くんだ。
初めて気付いたのは今から二十数年前の僕にとっては青春期も真っ只中の出来事だったけれどもヤクルトスワローズの監督に就任した野村克也が優勝してさらに何年も好成績を収めて行った。
当時、ヤクルトスワローズは物凄く弱かった。日本一はもちろん、リーグでも優勝するなんて全く考えられなかった。たぶん西武ライオンズが別のリーグで物凄く強かったせいではないか。統一戦の日本シリーズで負けたリーグに属しているチームで殆ど勝てないのがヤクルトスワローズだった。なので本当に目も当てられない状態だったと振り返られる。

野村克也がヤクルトスワローズの監督に就任する自体がまさかの衝撃と仰天されてしまった。
というのはテレビのプロ野球の解説で非常に活躍していたせいだ。僕は同時代では知らないけれども選手としても野村克也は優秀だった。記録と記憶に残るような名選手の一人だった。引退してテレビのプロ野球の監督をやっていて理論的な話し振りがユニークで、野球そのものが良く分かっている人なのではないかというイメージが湧いて仕様がなかった。
有名なのは野村スコープの発明だろう。投手が打者との対戦でどんな配球を試みるか。実際の配球を画面に球種と位置で順番に記して行くけれども次は何が来るかというのを野村克也が予測しながら攻略を分析して人々に分かり易く伝えていたわけだった。
だから考えると本当にヤクルトスワローズの監督に野村克也が就任するなんてあり得なかった。優勝できないのになぜやるのか。真っ先に疑われても不思議ではないくらいヤクルトスワローズは弱かった、現実に。無駄な努力としか感じられなかった、はっきりいって。
野球そのものが良く分かっている野村克也だからこそ勝ち目のないヤクルトスワローズだけは避けて通るべきだろうみたいに人生の選択としては違和感も甚だしかった。
普通に見れば夢があって素晴らしい。信じられないのは野村克也が理論家だったせいだ。プロ野球でも何でも駄目なものは駄目なままで終わりではないかと思う。理論家にとって重要なのは世界の真偽でしかないだろう。裏返せばそれ以外に囚われ…

日常の些細な出来事に触れる幸せの味わいは小さいというイメージが欠かせない

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誰にでも分かる些細な日常というと他でもなく、小さな幸せの味わいではないか。
永遠の詩人として本質的な認識に基づく命の尊さを伝え届けくてはならないと考えるけれどもアクセスアップのためには誰にでも分かる些細な日常のイメージも大事にするべきだろう。
小さな幸せの味わいをどこまで膨らませられるか。
考えると面白い。驚き捲りの人みたいになるしかなさそうな僕で、何かに触れては凄いとか素晴らしいなんて命が幾つあっても足りないほどの形相で日々を過ごしている。飛び上がり過ぎず、傍目にも親しみ易く映るならば些細な日常のブログとしての人気も増して来ないともかぎらない。
ある意味、それが薄いから常連も付き難いのではないか。
誰かが来て些細な日常に違和感を持たれては不味い。思ったのと違うとなると気持ちが離れてしまい兼ねない。小さな幸せの味わいがちゃんとあれば逆に引き付けられるわけで、見過ごせないどころか、注目してさえも決して損にはならない。実際に面白ければ本当に得だろう。やっている僕こそ気持ちは止められなくなる。
文体も変わる。音楽でいえばアンダンテ(ほどよくゆっくり)のテンポで、言葉を紡ぎ出して行く。親しみ易さに一役を買ってくれればもう何もいうことはないだろう。
アクセスアップに期待したい、小さな幸せの味わいを増やしながら。些細な日常の自分らしさは必ずしも永遠の詩人の何ちゃらが全てではない。または誰にでも分かるようなイメージから想像して貰っても良いはずなので、ブログで切り捨てる必要がないのは確かだと思う。
人々に手薄ならばもっとしっかり固めないと勿体ない。

低温火傷は少し腫れただけで軽ければ水で冷やしたりしながら一二週間で治るらしい

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朝、右手の小指に違和感を受けた。痺れるような状態だったので、寝ている間に変な形で圧迫したみたいだから嫌だと本当に思った、血流が途絶えるなんて不健康だし、できるかざり、避けるには越さない。手を押し潰さないような寝相を普段から考えておかなくてはならいと反省された。
しかしながら、全然、収まらなかった、右手の小指の違和感が。
日中、気付いてから何時間が過ぎても痺れるような状態のままだったので、まさか皮下組織が壊死したはずは流石にないとすれば何だろうと訝られてしまった。
詳しく確かめると少し腫れてヒリヒリしていた。まるで霜焼けだった。布団に入っていて手足が寒過ぎるというのも不可解で、冬になってもう耐えられなくて布団は二枚のままながら電気毛布を敷いて大丈夫と暖かく眠れるように設えていた。それでなくとも霜焼けになるほどの冬の布団では寒くて最初から眠れもしないのではないか。眠っていて霜焼けにかかるというのは基本的にあり得ないはずだった。

右手の小指の違和感の原因が分からなかったけれども霜焼けで直観されたのか、症状も少し腫れてヒリヒリするのは軽めの火傷に等しかったからもしかすると電気毛布で低温火傷にかかったと俄には掴み切れずに霞んでいた真実味がまるで霧が晴れるように一気に増して来てしまった。
富士山も見える心で、詩的ながらブログでかつて霊水をバナジウムが入っていると富士山について取り上げた記事が思い出されたり、本当に驚くほどに嬉しかった。
調べてみるとやはり電気毛布で寝ている間に低温火傷にかかる可能性は十分にあって布団に使うならば寝ている間は電源をなるべく切っておくと良いらしかった。
火傷の症状は通常のものでも何段階にも分かれていて最も重症では死を免れないにせよ、少し腫れてヒリヒリするのは最も軽傷で、水で冷やしたりしながら病院で治療する必要もないかも知れないと分かった。
それでも違和感が打ち消されるまでには一二週間はかかってしまうようだから低温火傷は軽傷でも本当に侮れない。
作家活動に支障を来して幾らかでも作品への集中力が削がれたので、治らないと困ると考えくてはならないほどに懸念された右手の小指の違和感だったにせよ、他でも結局は同じだろう。
生活の全てにおいて手そのものが如何に重要な役割を担っているかを低温火傷と共に改めて思い知らされる。

ヴィヨンの死刑と共に歌われた不幸な詩へ

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生活苦に苛まれるほどに親近感が湧いて来る詩がヴィヨンの首吊り人のバラードだった。
十五世紀の詩人で、ならず者みたいな生き方だったらしい。窃盗や暴力/殺人などによって幾度も投獄された。それこそ悪の詩人を地で行くという形で、三十歳を過ぎた頃に止まらない犯罪からついに絞首刑を宣告されてしまった。
ヴィヨンは現世に別れを告げるような思いで自らの死を控えながら首吊り人のバラードを歌ったとされる。墓碑銘ともまさか題されている。モチーフはいうまでもなく、自分らしさそのものだ、果てしなく、悲しい気持ちだったにせよ。
François Villon from the Grand Testament de Maistre [Public Domain], via Wikimedia Commons
結果的には減刑されて絞首刑は執行されずに地域:パリの十年間の追放処分だけで済んだみたいだけど、ただし後の消息は歴史的に途絶えていて三十二歳で亡くなったことしか確かには分からない。
考えると尻切れ蜻蛉の生涯が可哀想でならない。死刑を免れて改心したのか、悪の詩人を最期まで貫いたのか、どっちなんだと人間的に宙ぶらりんに受け留められる気持ちは正しく不幸だろう。
ヴィヨンも事情を知った人々だけでなくてそのような内面生活を余儀なくされたかも知れなかった――。
日々、犯罪に手を染めるどころか気持ちが奥深く破壊されさえもするというやばいかぎりの人間性を誰よりも味わわせる詩人、そして詩なので、注目せずにはいられないし、勉強として人生では反面教師だけれどもなるべく真似しないためにもしっかり覚えておきたくなる。
同胞者よ、我らの後も生きて、
身動きしない我らを思い描くな、
なぜなら、もし憐れみを持つならば、
神はお慈悲をかけてくれるはずだから。
汝らは首吊り人の我らを五体、六体と目にする:
たっぷり養われて来た、肉のようで、
鳥に食われては腐り果ての、
我ら、骨は、灰と埃になるのだ、
誰も傷付いた人間を笑いはしない。
只単に神は我ら全てを許し給うと祈れ!
汝らへ叫ぶとき、同胞よ、恨んでは
ならない、ともかく正義によって
死へ裁かれた。しかし、汝らは
その全ての人々が座った良識を持たないと知る;
過ぎ去られたことだと、聖母マリアの、
羅紗を欲した御子へ取り成せ、
その彼の恩寵は我らを枯渇させない、
我らは地獄の落雷を持ち堪える。

願をかけるのは気持ちから人生を成功へと導くためで

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カツレツを食べてアクセスアップに勝つ
ブログを開設して一ヵ月に達しようとしている。Google検索からアクセスアップを狙って上手く行くかどうかの最初の目安になりそうだ。一日一人、来るか、来ないかの横這いが続いているので、打破したい、目の前の情けなさを。ほんの僅かでも良いからブログが成長している、Google検索でのサイト評価は上がっているという証を受け取りたいものだ。
景気付けにカツレツを食べる。やることはやっているし、できるかぎりの手は尽くしているんだ。残るは必勝祈願しかない。カツレツのカツにアクセスアップに勝つの願を懸けて気持ちを盛り上げて行くべきではないか。
今後の活動状況にも影響しそうだし、万一、Google検索からのアクセスアップに期待するだけの結果が得られないとしても気持ちの落ち込みを最小限に食い止めるためにはやっておくには越さないと思われる。
人生は駄目続きで終わるとはかぎらない
駄目で駄目でどうしようもなくて本当に終わりだと死ぬしかないところで初めて願いが叶ったりもする。
野球で最終回の逆転ホームランパチンコで最後の玉一個でフィーバー会社で倒産寸前からヒット商品試験で制限時間間近に閃いた回答
何れも火事場の馬鹿力と呼べるかも知れないし、世の中の事例では枚挙に暇がないくらいではないか、嬉しくて記憶にも残り易いにせよ、奇跡的な復活を遂げる可能性は常にあって上手く行かない人生が直ちに終わりだと考えるのも虚しさが禁じ得ない。
失敗者に大事なのはそれこそ急場をどう凌ぐか。いつかきっと夢は叶うと信じて頑張っている最中、夢の途中の真っ只中で、諦めが人生を浚う荒波のようにまるで気持ちに湧いて来てしまうと本当に不味いし、努力は潰えて何かもが水の泡に等しいわけだ。
願を懸ける、あるいは験を担ぐと実際に良かったことを繰り返してみるのも気持ちは同じだと思うけど、それ自体に成功への効力は直接的にはないとしても等閑にしてはならなくてむしろ夢を諦めずにきっぱり続けて行くためには非常に役立つ。

モーツァルトの生涯は純粋なまでに音楽以外の何物でもなかった

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人間は年を取ると聴覚が衰えて高音が分からなくなる。蚊の羽音に準えてモスキート音といわれて巷で面白いと思ったのは高校生が携帯電話の着信音に使って授業中に鳴っても先生に気付かれないように考えていたらしい。
彼、または彼女は大して勉強するつもりもなく学校へ行っていてしかも茶化しに夢中と止められないわけでもなさそうだから人生はどうなるのか、将来への意味の薄さに触れてまるで嚔の飛び出しかけた心が可笑しい。学級崩壊まで行けば面白くないと思うし、きっともっと由々しかったはずなので、個人的には助かりもしたようだ。
モスキート音が辛い、音楽制作で。大丈夫かと中年の耳で励んでいると少年が聴いて高音域に違和感を与え兼ねない。想像力で補うしかないと考える。音階は一定の間隔で上下しながら果てしなく連なり続けていると仮定すれば算出できなくはないし、さほど遠いところまでは実際にも使わないので、作曲では何とかなりそうだ。
W. A. Mozart by Josef Lange [Public domain], via Wikimedia Commons
僕は良いけど、するとモーツァルトが目に浮かばずにいない。モーツァルトは三十五歳で亡くなったけれども人間として、丁度、モスキート音が分からなくなる頃だった。突き詰めて考えると致命的な障害なので、音楽家として納得できる作品、自己表現に適した作曲活動ができないに等しい事態に見舞われてはもはや生きていても仕様がないみたいな形で、生涯の幕が下ろされたのではないかと察せられてしまう。
生きるためには健康だけではなくて気力も問われるし、モーツァルトにとってモスキート音が分からない、すなわち高音域が聞き取れないとした悲しみは非常に耐え難いものがあって内面的な衰えに生活が蝕まれて死期を早めたかも知れない。反対にいえば音楽に徹して人生を賭けながら全身全霊で打ち込んでいた結果に他ならないと驚かされる。
モーツァルトの死因そのものは謎に包まれている
生活に困窮して病気も抱えながら倒れ去ったというのが大方の見方にはなっている。歴史的な資料が殆ど残されてないせいだけれどもどんな状況だったかと実相を紐解くのは難しいだろう。
Mozart - Violin Sonata No. 21 in E minor, K. 304 LIVE via Ardorè Duo
西欧でプロの作曲家として初めて自作…

サイト作成の引用のための三つのhtmlタグ/blockquoteとqとciteについて

ホームページやブログで何かの作品を他から引用する場合にhtmlで専用のマークアップを行うとデザインが付け易いし、訪問者と検索エンジンに分かり易く表現できるので、喜びながらアクセスアップにも繋がるのではないかといつも使うようにしているんだ。
引用のためのhtmlタグは三つあってblockquoteqciteという。
blockquoteとqが作品を対象として使い方は段落を取るか取らないかで分けられて内容的には長いか短いに等しい。本文で独立して作品を長めに引用したい場合にblockquoteが適している。個々の段落に埋め込むように短めに引用したい場合にはqが適しているとなる。
citeは作品名に使うのがhtml5の基本になっている。バージョンがhtml4だと作品名と作者名にも使っていたらしい。仕様変更で細かく区別されてhtml5で作者名の引用タグは特に定められてない。
blockquoteタグについて
マークアップ
<blockquote></blockquote>
デザイン
引用文。
引用文。
引用文。

blockquoteタグを使うとブラウザで一般的には数文字分のインデントが挿入される。
付加的な機能
htmlの属性としてciteを追加すると出典のURLを検索エンジンに示すことができる。要素の引用のためのciteと表記が同じだけれども機能は違うから紛らわしいし、注意しなくてはならない。
<blockquote cite="出典のURL">引用文</blockquote>
html5ではblockquoteタグの内側にfooterタグで作品名や作者名を囲っておくと引用文と関連付けて出典として検索エンジンに示すこともできる。
<blockquote>引用文<footer>出典</footer></blockquote>
footerタグは必ずしも引用文の下に置かなければならないわけではなくて引用文の上でも構わない。
qタグについて
マークアップ
<q></q>
デザイン
調べると引用文と見付かった。

qタグを使うとブラウザで一般的には二重引用符が付けられるけれどもサイトのhtml要素にlang="ja"と日本語が指定されていると鉤括弧に変わる。
付加…

ブログを開設しても三ヵ月くらいは伸び難いのがアクセスらしい

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TumblrからBloggerにメインのブログ、些細な日常を移転してもうそろそろ一ヵ月に差しかかっている。アクセスはというと一日二三人がやっとの状態で、成長する気配が全く見えないし、まさか頭髪の悩みと被るほどに手立ては余りにも遠い。相変わらず、閑古鳥も鳴き続けているわけだ。
個人的に恐ろしいのは前サイトと同じになるのではないか。アクセスが一日五人をコンスタントに越えるのに一年以上が費やされたブログだった。色々、考えながら掴んだ新しい方法を全て取り入れながら再出発しているので、もっと早くアクセスは伸びて欲しいし、さもないと心が折れてしまい兼ねないだろう。
失敗を繰り返してばかりの挫折続きの人生は厳しい、いうまでもなく。本当に勘弁して貰いたい、神に祈るべき言葉は他には何もないと思う。
検索アナリティクス via Search Console
アクセスアップの本命はGoogle検索で、ブログの記事が検索エンジンに殆ど引っかからない状態が堪らないわけだけど――タイトルにキーワードを入れながら文字数も多めに記事を更新すればチャンスは広がるはではないか――とにかく調べてみると一般的にはサイト評価が上がるのに三ヵ月くらい必要らしくて静かにも黙って待つしかないと考えざるを得ない。
最も大きいのはクローラーの平均順回数で、最低限、七十回以上は確保しないと不味いかも知れなくてサイトにクローラーを頻繁に呼び込むために他の所有サイトやランキング/検索エンジンへの登録から被リンクを増やさくては行けないのは分かっている。
案外なのはブログを開設して直ぐだと時間がかかってSearch Consoleのクロールの統計情報もそうだけれども三ヵ月の区切りでサイト評価に組み込まれるかも知れななかった。Googleによって。
三ヵ月が過ぎるまではデータの残りの期間が空白のままだからクローラーの平均順回数としても実際よりは低く見積もられてしまうわけだ。
サイトの被リンクは自作自演で増やし捲るとペナルティーを食らう恐れも出て来るからクロールの統計情報の初期の穴埋めを狙って今直ぐにと極端に考えるべきではないし、堪え忍びながらブログの楽しさからせめて気持ち良く続けて行くしかないのではないか、三ヵ月くらいはGoogle検索から得られるはずのアクセスアップが待ち望まれるかぎりになってしまっても致し方がないと思う。
ブログに人が来ない…

観葉植物の写真を透過光で撮る

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雪も降って冷え込みも、可成、厳しい一月中旬、しかしながら今日は晴れて室内への光の流れがいつになく良かった。
日差しの角度が好ましくて写真日和とも過言ではない感じがしてしまった。
窓辺の観葉植物の葉っぱに光が透過されて幻想的な世界が浮かび上がって来たんだ。
カメラもα5100Touit 2.8/50Mで室内ではシャッタースピードが上がらなくていつも苦しんでばかりなのに楽勝だった。上手く行けば1/1000sも越えるくらいだから十二分の明るさだろう。
珍しく絞った、レンズを幾らか。カメラの面白さを久々に味わった。屋外で撮影してないし、近頃は室内で開放絞りばかり使わざるを得なかったので、明るさを減らさないためにレンズは全く絞れないという不自由さから解き放たれて嬉しい気持ちがした、本当に。
ピント内が少しぼやけているようだけど、しかし良いのかも知れない。屋外の太陽の下でビシッと取れた写真のようにはたぶん透過光だからならなさそうだ。
葉っぱの雰囲気、冬の晴れ間に見出だされた光と影の織り成す幻想的な世界こそ表現できたのが何よりの素晴らしさだ。

最も印象に残るプロレスラーだった超獸のブルーザー・ブロディ

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強そうに見えて意外と弱いというか、ブルーザー・ブロディが大の気に入りのプロレスラーだったけれども最も印象に残るのは応援せずにはいられなかったためだと思うし、試合が場外乱闘の末のリングアウト負けなどがいつも多くてちゃんと決着しないのが歯痒かった。
Bruiser Brody vs. Terry Gordy: Sept. 9, 1983 via WWE
調べて初めて知って驚いたのは好き嫌いの激しい人柄だったらしい。それが死因にも繋がってしまったみたいだ。刃物で刺殺されたけれども犯人もプロレスラーで、喧嘩が元だった。嫌いな人間には決して心を許さないどころか、食ってかかりさえもしていたブルーザー・ブロディとするとイメージ通りの超獸(キングコング)だったのではないか。
最も印象に残るのと同じようにこれも何か強そうに見えて意外と弱いというか、一刺しの刃物であっさり亡くなってしまうよりは超獸として跳ね返して欲しかった感じが非常に大きい。
いつも期待外れだから詰まらないはずなのに好きでいられたのが不思議だったと思い返される。大の気に入りとまでしかも圧倒的に引き付けられた理由とは何だったのか。考えれば結果抜きに試合は白黒がはっきり付かなくリングアウト負けなどでうやむやの消化不良が多くても超獸への憧れが優ったせいだろう、きっと。
観ていてちゃんと戦ってくれないし、気持ちは振り回されてばかりなのもイメージ通りかも知れなかったけれども本当にうんざりして遠ざかるわけにも行かないところは魅力として捉える他はないと思う。
ブルーザー・ブロディの入場曲がレッド・ツェッペリン移民の歌で――主にカバーのインストゥルメンタルが使われていたらしい――雰囲気にマッチしていて凄く良かった。というか、むしろ違和感を覚えるほどにプロレスラーのキャラクター作りが卓越していたようだ。レッド・ツェッペリンの移民の歌はブロディ・ブロディのために発表されたわけではないはずだ。
ところがプロレスの会場でチェーンを頭の上に振り回しながら意気揚々とリングへ向かって来る途中で聴いていると凄く良い曲だと気付かされる。ブルーザー・ブロディはレッド・ツェッペリンの移民の歌を完全に自分のものにしてしまっていたのではないか。
プロレスラーの入場曲のコレクションアルバムを買って聴いたこともあるけど、大体は音楽だけでは寂しいながらブルーザー・ブロディだけこ…

木村政彦の柔道を山下泰裕とエリオ・グレイシーと力道山に追う

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かつて日本に物凄く強い格闘家がいて柔道の木村政彦といわれる。全盛期は1940年代でオリンピックにはまだ柔道も正式に競技として組み込まれてなかった頃なので、日本の他の何人もの金メダリストたちと比べて実力はどうかとちょっと怪しまれずにいないけど、しかし国内の全日本選手権とその前身の全日本選士権や代わりの昭和天覧試合では負け知らずの十三連覇を果たしていた。選手としては十五年間に一度も負けなかったともいわれるので、本当に物凄く強いと想像される。
Masahiko Kimura from わが柔道 [Public domain], via Wikimedia Commons
日本の柔道の全日本選手選はオリンピックの金メダリストを何人も輩出しているし、優勝しなければ参加資格を得ることも儘ならないわけで、そういった人たちと比べても木村政彦が決して見劣りはしないのは明らかだろう。
山下泰弘に最強と聞かれた木村政彦
個人的にはロサンゼルスオリンピックで優勝した山下泰裕が最強ではないかと感じていた、日本の柔道というと。全日本選手権を九連覇していて国内で圧倒体な成績を残しながらオリンピックでも同じだった。その間、本当に幾つかの引き分けを挟みながらも二百三連勝を収めたとされるし、人間的には国民栄誉賞まで贈られているけれども日本の柔道界で山下泰裕の右の出る物はいなさそうだった。
木村政彦は全日本選手権の連勝記録が少し上回っていたり、現役時代に長期間不敗なのも全く遜色ないので、超最強の可能性が出て来る。
調べてみると山下泰裕の口からそれこそ木村政彦が日本の柔道界で最強だと聞かれてしまうんだ。
僕からすれば最強の山下泰裕にも勝ち目がないと思わせるほどの木村政彦はやはり超最強と呼ぶに相応しい人物ではないかと興味や関心が著しく芽生えずにもいなくなった。
様々な逸話が残されていてどれこもこれも興味深く受け留められるけど、試合へはいつも「負けたら腹を切る」と死ぬ覚悟で臨んでいたり、練習量も半端なくて「三倍努力」と誰も寄せ付けないくらい励んでいたりするのが取り分け印象的だと驚かされる。
エリオ・グレイシーに快勝した木村政彦
エリオ・グレイシーとも対戦していた、木村政彦はブラジルで。近年、総合格闘技として持て囃されるグレイシー柔術の創始者なんだ。子供が弟子として受け継ぎながら何人も活躍して三男のヒクソン・グレイシーは日本で「…

人生を賭けたチャレンジブログに明日は訪れるか

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ブロガーで良いというか、もう本当にブログに人生を賭けて作家活動をやるしかないと鮮烈に思われて来た。
二十代から小説で十年くらいやってプロにはなれず、三十代から十数年くらい詩をやり出したもののやはりプロにはなれずに今現在のブロガーに至るまでには四十代中盤からだけれども本は出版できないままながらサイト広告でプロへのスタートラインに立つことが何とかできたわけだ。
作家としてプロへの夢を叶えるとすると三度目の正直だったと気付いた、目覚ましく。
かつて小説家よりも詩人を求めたように詩人よりもブロガーを求めて生まれ変わるように作家活動の主力をブログの些細な日常として人生も考えるべきではないか。
ブロガーの域に達したと詩や他の創作がメインで、ブログがサブという位置付けを取り払って少なくとも同じくらい一生懸命に頑張りたくなったと示したのが一昨年の暮れの約一年前だったけれどもまだ足りないし、アクセスは遅々と芳しくないからサイト広告で生活費も稼げないわけなので、プロも名折れの悲しみが酷い、努力の上積みが必要なのは間違いなくてもやはさらにもっと強くブログをプッシュして行かなければ何も改善されないまま、日々、注目される期待値こそ下がっても仕様がなさそうなんだ。
本当にブログ一つに全精力を傾けるように他の全ての作家活動にも況して取り組みたい。
いい換えればチャレンジブログで進むべき道が少しでも開かれるように祈る。
明日は訪れないともかぎらないと実感される生活でなければ夢は叶わないだろう、恐らく。
明日が訪れるvia Forevermore
ブログで駄目ならば悔いはないと後から納得したい気持ちのためにもチャレンジが必要不可欠の人生ではないか。他にできる何かもあったとなると悔いは残るばかりだし、または自己表現の熱意も普段から衰えがちで、人々へも誤解を招き易くなってしまうはずだ、些細な日常が。作家活動に余力があれば何もかも掻き集めるようにエッセイ風の日記だけれども個々の記事に惜しみなく注いで行きたいと考える。
凄いとか頑張っているなんて称えられば人気者になれるとはかぎらないところがブロガーの難しさかも知れないし、訪問者によってはアクセスアップを真剣に考えたりすると鬱陶しいと二度と来ない可能性もある。
どんな気持ちでブログを捉えているかで世間的には好感度も上下し易いようだ。
個性が問われるけど、僕としては死に物狂いが人々…

人間の生き方の内面的に立ち直るような一つの自然な流れ

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Joshua Bell performs Bach's Chaconne, the final movement from Violin Partita 2 in D minor via TheNexusInstitute
ジョシュア・ベルバッハは生命感が宿っていて譜面の読み込みが深そうだけれどもそこはかとない魅力を湛えていて総じて静かに穏やかに引き付けられるのが特徴的だ。
バッハは無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータが素晴らしいと思う。ソナタとパルティータの三曲ずつの全六曲で構成されていて全体を通して聴いてみると取り分けパルティータ第二番の第五楽章/シャコンヌの部分が世間的にも人気曲ながら極めて興味深く受け留められた
後から気付いたけれども自作詩の詩人の歌~水の精と生の涙~のイメージがバッハのパルティータ第二番の第五楽章/シャコンヌにぴったりではないかと感じたので、殊更と注目せざるを得なくなってしまった、個人的には。
悲しみへの祈りによって心が癒される世界観というか、人間の生き方の内面的に立ち直るような一つの自然な流れを僕が言葉でやったようにバッハは音符でやっているに違いなさそうなので、初めて無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを知ったのはヘンリク・シェリング(ヴァイオリニスト)の揺るぎなく端正な演奏だったけれども本当に引き付けられながら愛するべき作品に他ならないと認めるにも至った。
バッハはそれこそ宗教音楽なので、自己表現で祈りと癒しが密接に結び付いているのは当たり前かも知れないにせよ、特筆するべきなのはやはり真面目さだろう。真面目さが常人離れしたくらい突き抜けていた。だからこそ宗教音楽の良さ、喜ぶべき祈りと癒しの結び付きもとことん究明するように作曲せざるを得なかったはずではないか。
ジョシュア・ベルは譜面の読み込みの確かさに裏付けされたような形で自信を持ってバッハの楽音を奏でているから生命感を与えると思うし、音楽がまるで生き物のようにリアルに喜ばしく伝えられては祈りと癒しも人生の安らぎとしてそこはかとなく魅力的に味わわれるはずなので、聴いていて好感度が高いという演奏だ。

Evernoteアプリでノート一つだけが同期できない場合

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スマホ/タブレットでEvernoteアプリを使っていて偶にノート一つだけが同期できずに取り残されたままになってしまう。
いつもいつの間にか直っているけれども何日もノートの右上に未同期のマークが付いたままの不安で、どうしようもない場合というのもないわけではなかった。

デバイスの設定のアプリの「アプリ」からEvernoteの「キャッシュ」を削除したら直ぐに動き出してくれた。
Evernoteアプリのキャッシュはスマホ/タブレットでほんの少ししか使われてないみたいだけれども動作に支障を来すのでは侮れないと感じた。

梶井基次郎の人を誉めさせる力は檸檬に逆らえない

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日本の小説家では梶井基次郎が一等に好きで、今回の題名通り、真っ先に誉めさせられている、やはりと笑ってしまいもするわけだけれども本当に避けられないし、逆らえないのはなぜかと気になる存在そのものだった。
僕は一人で梶井基次郎の小説を読んでいて全集といっても昔から病気持ちで享年三十一という短命で亡くなったし、しかも寡作の文学生活だったゆえに文庫本でも厚めの一冊分くらいしかないから必ずしも大変ではなかったにせよ、何もかも読み尽くすように知っておかなければ仕様がないと感じさせられていた。
二十代中盤で、自分も小説家として毎日をパソコンと向かい合って必死に過ごしていたかぎり、他の小説も良く読んでいたし、本は良く買っていたものだった。
凄いのは別に梶井基次郎だけではないけど、とにかく驚いたのは梶井基次郎を誉める人が自分以外に見付かると悔しい気持ちが湧いて来た。
かつてなかったと思うし、珍しいというか、心密かに抱えていた喜びを誰かに持ち去られて薄められたみたいなイメージはあるかも知れないにせよ、梶井基次郎についてはちょっとした悲しみでも涙に変わるほどのリアリティーを受け取って心密かなままに考えていたかったと振り返ってしまったんだ。
Motojiro Kajii by Unknown [Public domain], via Wikimedia Commons
新潮文庫の檸檬(梶井基次郎)の解説に小林秀雄が梶井基次郎を非常に高く評価していたと載っていたのが大きかった、とても。
いうと小林秀雄は日本を代表するような文芸評論家で、国内的には評論というジャンルそのものを初めて確立した、実質に優れた作品を他でもなく発表しながら世の中に広めたのではないかとも見做される作家だった。
僕自身も小林秀雄は好きだったし、例えばモーツァルトやランボーやゴッホという気に入った芸術家を評論で取り上げながら内容的にも納得できて共感したくなるような形で受け留めていたので、面白いと高く評価していたのは間違いなかったけれども梶井基次郎もそうだったと同じように告げられては以前の一人で愛読していたイメージが風に解き解されながらどこかへ消え去るように遠ざけられて行った。
本当、悔しいの一言に尽きるし、思わず、返して欲しいと文学的な洒落(叫ぶようにあり得ないと思えば)まで飛び出すほどの小林秀雄の梶井基次郎の誉め方には脱帽せざるを得なかった…

些細な日常の素晴らしさは生きる喜びに他ならない

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些細な日常の基本バナー
些細な日常の四色バナー
ブログにTwitterカードを導入してインデックスページや記事に画像がない場合に固定で別の画像を付けるためにバナーを新しく作り直した。
今回のバナーを載せたGoogleフォトからの画像URLをTwitterカードのソースコードに当て嵌めておけば大丈夫なんだ。
以前のものはサイズが小さ過ぎて画質が悪いから止めざるを得なかった。
色使いが淡くてブログのイメージに合わない感じもするのに採用してしまうのが不思議なバナーだと首を傾げる。
端的には些細な日常の素晴らしさを詩的に表しているとしかいいようがない。
地球を動かしているのは誰か。僕一人では無理だし、世界をどんなに正しく認識しても動かすとなると地球へは力不足なので、何もかも些細な日常だと考える。
ブログのアクセスが遅々と伸びないとかなんて災いも絶えないにせよ、生きる喜びのかぎりは素晴らしいと称えて良いのではないか。
悲しみが全ての人生では決してないし、生活においても存在そのものを自覚するほどに神が近付いて来る気持ちがするわけなので、自然に愛されながら生涯を全うするように心がけたい。
些細な日常の過去のバナー
些細な日常の二番目のバナー
些細な日常の最初のバナー

Twitterカードのサイトへの一般的な導入について

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Twitterにブログの記事を共有しても何も取り込まれなくて普通のツイートと全く同じになってしまうので、他のサイトではできているにも拘わらず、一体、なぜなのかと調べてみるとTwitterカードが設置してないとコンテンツがツイートに反映しないためだった。
やってみるとツイートにサイトのURLを入力するだけでタイトルや説明文や画像が直ぐに取り込まれてリッチに反映するから物凄く便利だと感心した。

サイトに専用のmetaタグを記載して検証ツールでOKが出るとTwitterカードが実際に使えるようになる。専用のmetaタグが適切か、またはrobots.txtでTwitterのクローラーが除外されてなければサイトのコンテンツがURLを入力するだけでツイートに反映して来る。
Getting Started GuideによるとTwitterのmetaタグが幾つかあって常に欠かせないのは「twitter:card」だけみたいで、Twitterカードのデザインを指定するんだ。
Twitterユーザー名を入れる「twitter:site」と「twitter:creator」は記載しなくてもTwitterカードの表示に不具合はない。前者はサイトとTwitterのアカウントを結び付けるため、後者は大きな画像のカードタイプに限ってコンテンツの作成者を示すために使われる。
ツイートに取り込まれるサイトのコンテンツそのものはTwitterのmetaタグだけではなくてOGP設定から記載しておいても構わない。
OGP設定はサイトがソーシャルメディアに取り込まれ易くなるための汎用的なマークアップだ。
TwitterカードはサイトへOGP設定で導入するためにはheadタグにprefix要素で「og:http://ogp.me/ns#」が予め必要らしい。
<head prefix="og:http://ogp.me/ns#">
次いでmetaタグのproperty要素とcontent要素でサイトの「title」や「description」などの項目を表示したいTwitterカードのデザインに合わせて記載しておけばTwitterのクローラーがコンテンツを拾ってくれるようになる。
TwitterカードのOGP設定の基本的なソースコード
<meta name="twitter:card…

成人式のスーツとagnes b.の思い出

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実際に参加してみると成人式では、皆誰しもちゃんとした服装だったので、びっくりした。気に入ったスーツや着物を着て来ていたのではないか。
当たり前かも知れないけど、ところが前以て「着せられて行くんでしょ?」(妖精的な人)と聞かされていて何だろうと不思議な気持ちにさせられてしまっていたせいだ。
僕は自分で好きなファッションブランドだったagnes b.(アニエス・ベー)のスーツを買い込んで――スーツとシャツとネクタイとベルトで十万円以上もかかって非常に高価だった――準備万端に整えていたし、成人式の服装は自分で着て行くつもりだった。
妖精的な人の言葉には深いものがあって聞きながらリアクションにも躓かされたようだった。女性で着物だから本人が自分では着れなかった記憶とか世の中の仕来たりに合わせる生活がそう呼ばれていたなんて感じだけれどももう一つ気になったのは二十歳までの思いが集約されているのではないか。
今から振り返ると非常に詩的だったし、重視されるべき成人式のイメージを明らかに示してくれていた。二十歳まで自分一人で生きて来たわけではないので、周りから差し伸べられた全ての手に対する感謝の思いこそまるで服装のように着せられていたんだと心から味わわれて止まなかったし、聞き捨てならないフレーズとして人生に残されている。
因みに妖精的な人は自作詩のブンビミで歌われた「気さくな女性」のモデルだった。ファッションについて少し取り上げたけれどもagnes b.も着ていた。一目で分かるような前にボタンが幾つも目立って縦に並んでいるデザインの定番のガーディガンだったから直ぐに気付いた。黒だったけれどもそんなふうに服装の好みが似ていたので、生活スタイルに取り分け共感を抱かざるを得なかったんだ。

僕は男性向けのagnes b.で、agnes b. homme(アニエ・ベー・オム)で成人式のスーツを買い揃えたいと店に出かけた、勇んで。
洋服をスーツ一式で選ぶというのは初めてで、本当に良く分からないまま、何が良いかと店の中でふらふらしていたかも知れない。
すると店員に声をかけられた。成人式のためにスーツが欲しいと事情を口にすると呆気ないほどに素早く持って着てくれたから捗るばかりの買い物だった。
記憶では自分で選んだ感じが殆どしない。店員がスーツ一式の組み合わせからどれが良いかと幾つか見せるわけだけど、最初のままで納得し…

ランボーと永遠への詩学的な考察

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僕が永遠の詩を歌うのは根本的には天使的な人との出会いに基づいている。青春期の運命の恋がなければ永遠の詩は経験されなかった。考えると元々は天使的な人の思いで、それを僕は反省しながら引き受ける形で自分自身に取り込んだに過ぎない。永遠の詩は心の繋がりを知り得た喜びだった。幸せそのものを指し示している。
なぜ気付いたのかはスピノザ哲学の影響が非常に大きかった。彼の永遠の概念は心の繋がりと良く似ている、振り返ると。ただし神と人間との愛を何よりも含意しているので、哲学と詩の相違だけではなくて内実的にも心の繋がりとは差異がある。むしろ溶け合いと捉えられるべきだろう、心として精確には。
スピノザの永遠の概念は心の繋がりと良く似ているために永遠の詩に間接的に関与したのは間違いなかったけれどももう一つ注目するべき永遠の認識があってランボー永遠という永遠の詩はそれこそ僕と同じように詩人として永遠が表現されているのかどうかが気になってしまうわけだった。
Arthur Rimbaud by Étienne Carjat [Public domain], via Wikimedia Commons
結論からいうとランボーは僕と同じではない、永遠の詩において。何よりも特徴的なのは気持ち、またはメンタル/内面性がランボーの永遠には強く反映していて僕が事物の本質から永遠性を感じ取って表現しているのとは作詩そのものが完全に一致しない。
ランボーは詩人としては局限された存在だったかも知れない。僕は全ての詩を永遠に歌うしかないし、それは何よりも自分自身というか、生活そのものが命を永遠に抱えている(腕を知る)ためだ。対してランボーの永遠からは事物の本質が見当たらなくて気持ち、またはメンタル/内面性が何よりも重視されているので、他の場合では彼自身が永遠を感じてない可能性が否定できない。ランボーは永遠以外では時間の詩を歌っていたのではないかと思わせてしまう。
永遠の詩はスピノザの概念からしても疑われては成り立たない。時間としては始まりも終わりもなくて一つの本質的な状態を表現しているからランボーの永遠という言葉遣いは局限されていて人間ならば誰でも同じように又別の時間、詩人ならば又別の作品においては無関係な仕方で生きているようなんだ。
また見つかった
何が? 永遠
太陽と溶けあった
海のことさ
ぼくの不滅の魂よ
おまえの誓いを…