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α5100とTouit 2.8/50Mの初夏の晴れた公園の花々の撮り歩きの五つの作例

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ゴールデンウィークの前半、四月三十日に良く晴れて暖かったので、地元の公園に愛用のカメラのSonyのα5100レンズのZeissのTouit 2.8/50Mを携えて花々の写真の撮り歩きに出かけた。
目当ては何といっても山の裏道でひっそり咲いているのを見付けて大喜びした鈴蘭だ。
好きな花だけど、しかし白一色で小さいからピントが合わなくて動かなくても写真撮影には手強いとも知った。最初は失敗ばかりだったし、スマホやコンパクトのカメラでは被写体の輪郭を十分に取れなくて――光の少ない木陰の鈴蘭にかぎればもはややるだけ無駄の散々な境地を強いられるばかりだ――たとえ一眼レフのカメラでも露出やシャッタースピードや絞り値などをしっかり覚えて細かく調整しないと厳しかった。鈴蘭との出会いは写真家として相当に練習になった。
二年目の去年は山の裏道の鈴蘭の集落へ何度も足を運んで試行錯誤を繰り返しながら葉っぱ満開散り際などの納得できる作例を多く残せたと思う。
今年も頑張るつもりだったけれども日頃の生活難に加えて寒暖差アレルギーの体調不良で無理かも知れなかった。
しかし何とか起き上がって天気も良好だから三年目の鈴蘭の写真撮影に挑み得たのは幸いだった。
満開なのは一週間も続かないようだし、雨が降ると直ぐに汚れて散りかけそうだから一日だけ出かけても真っ白に咲いた鈴蘭は撮れないのではないかと心配されたもののタイミングも良くて被写体には事欠かず、写真撮影は狙い通りに進められた。
α5100とTouit 2.8/50Mの作例①花柄が以前よりも総じて小さい鈴蘭だった

公園の山の集落では虫に食われた葉っぱも多くて育ちが悪いようなのを悲しんだ。雑草も目立つので、遠めから撮るのは気が進まない。レンズのTouit 2.8/50Mがマクロだから近寄ってこそ本領を発揮するけれども花が段々と幾重にも気持ち良く垂れ下がって並んでいる感じが出せないのが参った。花弁の縁の反り返りも歪みがちだ。
落ちた花は全くなかったし、蕾が幾らかあったので、もう少し後が満開だったかも知れない。
直ぐに雨が降ったから今年の地元の公園の鈴蘭が晴れ間に最も輝いた瞬間を表現できたと納得してはいる。
振り返ると四月が例年よりも暖かくて雨が少なかったのが鈴蘭の育ちに影響したのか、何れにせよ、花も葉っぱも小さ過ぎる印象を与えるのは自然の姿として捉える他はないし、何より…

ルイス・キャロルの最後のアリス・リデルの肖像写真の不思議なカメラの向け方に思うイギリス文学と詩的な感性

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The Last Sitting by Lewis Carroll [Public domain], via The Metropolitan Museum
写真家としてのルイス・キャロルを発見して乞食娘のアリス・リデルが非常に素晴らしくて飛び抜けて良いと感じたけれどもそれに次いで記憶に残るのが椅子に腰掛けたアリス・リデルの肖像写真で、ルイス・キャロルがアリス・リデルを撮影した中では最後の一枚といわれている。
右上から微妙に見下ろしたカメラの向け方が小説の不思議の国のアリスを彷彿とさせるくらい如何にも不思議だと感じさせられてしまう。
ルイス・キャロルは数学者で普段は理知的だったのとは対照的にそうした日常生活の安定性を真っ逆さまに揺るがすほどの遊び心を持っていたとナンセンスな小説の愉快な書き方から分かる。
イギリス文学だとローレンス・スターントリストラム・シャンディが全ての小説の始まりではないかと分かり易い物語と切り放して考えられるほどに支離滅裂でナンセンスだった。そして支離滅裂でナンセンスな小説というとジェイムズ・ジョイスフィネガンズ・ウェイクが言葉遣いまで引っ括めて完全に打っ壊れたように徹底的にやっていてもはや普通に読めないところまで行っているのが世界的にも有名かも知れない。個人的にはサミュエル・ベケットを最も高く評価するけれども訳の分からない小説ばかり書いていたものの最初の特に誰にも相手にされなかった並には勝る女たちの夢がハチャメチャそのものの作風と同時に無名で貧乏なのにやっていたから小説家として《意味不明な自己表現》に人生を賭けていたと畏敬せずにいられなくなる仕上がりなんだ。哲学的にも命懸けで読み得るし――アントナン・アルトーの思考の不可能性に社会上の接線を持っているのではないか――本質的に重要な作家の一人に他ならないと僕には数えられもする。しかしイメージだけならば小人の国で理解不能に陥ってしまう主人公を描いたジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記が物語としても非常に分かり易くて日本でも子供から大人まで不朽の名作として良く親しまれていたり、イギリス文学ではナンセンス小説はおよそ珍しくなくてルイス・キャロルの不思議の国のアリスも驚くに値しないとも過言ではなかったかも知れない。
日常生活から捉えると遊び心が満載なので、写真の最後の一枚の十八歳のアリス・リデルの肖像は…

花々のマクロ撮影は世界が変わる瞬間を色鮮やかに写真に残せるのが嬉しい

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マクロ撮影はどんな被写体でも世界が変わる瞬間を写真に残せるのが面白いと思うけれども取り分け花々だと色鮮やかに仕上がるから今正に見方が新しく生み出されていると求められるリアリティーが増して来るようでいつも嬉しい気持ちが大きい。
ミラーレス一眼カメラのα5100にさらに等倍マクロレンズのTouit 2.8/58Mを購入して以来、写真のマクロ撮影の作例がどんどん増えて行くばかりだ。
最初は世界が変わる瞬間に怖がっていたかも知れない。被写体を傷付けるのではないかと一つの慣れ親しんだ見方の崩壊、または逸脱に心を僅かにも苛まれずにいなかったような感じがする。しかし常日頃のイメージだけが正しいわけでは決してないはずだし、写真のマクロ撮影は被写体に隠された新しい真実をはっきり引き出せるところが良いんだと考えるほどに積極的に取り組めるようになった。
とはいえ、実際に取り組んでみるとマクロ撮影によって被写体への一つの慣れ親しんだ見方が余りにも変わり果ててしまって何が写っている写真なのかも咄嗟に分からない場合には精神的な混乱を招くのが心残りだと悲しみながら又躓くように狼狽えずにもいなかった。
写真家として何をどう捉えるかのどうだけでは不味いと考え込んでしまうし。何をが改めて問い直されるんだ。

マクロ撮影を本当に望んで積極的に取り組むと常日頃のイメージを狙いの部分に切り分けるくらい被写体に近付いて行く。全体に何なのかがもはや分からなくなる瞬間が薄気味悪く受け取られもするわけで、耐え難い苦しみを余儀なくされざるを得ない。止めるべきではないかとカメラを持つ手が震えて気持ちから引き下がろうと案じる。
するとしかし驚くのは美しさが閃いたりもするんだ。
被写体から薄気味悪くて離れ去った記憶の中にたとえ部分でしかなくても新しい世界の良さが写真家として経験されたせいだろう。
全体のイメージとは必ずしも合致しないという又別の美しさが諸々の部分には潜んでいる場合があるに違いないわけならばカメラに収めずに捨て去るのは惜しいし、または忍びなくも引き付けられるかぎりは追い求めて行くしかなくなるように気持ちは情熱的に切り替えられるんだ。
被写体の部分的な魅力を捉える写真は本当にマクロ撮影でなければ殆ど不可能なスタイルなので、醍醐味といって良いと思うし、そうした特徴的な素晴らしさに気付いて取り組むほどに面白いばかりで、新しい世界との…

セピア色の写真が懐かしいのは古びて汚れた感じが自然なほどに

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今年は気に入った鈴蘭の写真が色々と撮れた。小さな蕾から咲き出してさらに虫も来てついに見納めるまで嬉しかったと思い出しながら又一枚を仕上げた。
Photoshop ExpressのエフェクトでセピアⅢを使ってみた。格好良いイメージだ、鈴蘭は可愛いけれども。印象がガラリと変わって薄暗い雰囲気の中で懐かしさが切なくも込み上げるのが詩情だと思う。もう二度と手の届かない記憶の世界、言葉が心に染みて来るのは確かだ。愛と優しさがなければ成り立たないと分かるから改めて自分に取り入れたくなる。セピアⅢというPhotoshop Expressのエフェクトの一つの良さだろう。詩情と共に出会いから幸せを掴むかぎりの人生の素晴らしさに匹敵するような写真が得られる。

Photoshop ExpressのエフェクトにはセピアⅡもある。気に入ってセピアを探すとセピアⅠがなくてなぜと訝る。記憶の世界と捉えると白黒がたぶんセピアⅠに相当するのかも知れない。セピアがセピアⅡからしか出て来なくても可笑しくはない。色合いはオーソドックスで、茶色がかっているのが普通に考えると間違いないくセピアⅠだと感じるし、認めてはセピアそのものだろう。
セピア色は烏賊墨に由来する
西洋で古代ギリシャの時代から筆記用具に烏賊墨が使われていた。食料として烏賊を捕まえていて墨を吐くと気付いたせいか、インクに適していると考えられたみたいだ。最初はパピルスの紙に葦の筆で文章を作成することが多かったらしくてそこに烏賊墨のインクも必要だったわけだ。インク自体は他にも煤の黒や赤土の赤が使われていたかも知れないけれども次いで古代ローマの時代でも烏賊墨は黒として多用されていたらしい。
中世になると筆に烏賊墨を付けて紙に文章を作成していた。ただし悪臭を放ったり、劣化して色褪せたりするから必ずしも便利なインクではなかったんだ。少しずつ使われなくなってしまった。黒としては煤が良かったのかも知れないし、硫酸鉄などから新しいものも出て来ていたようだ。
ところが烏賊墨のインクは終わらなかった。完全に廃れるよりも品質改善を受けて二つの難点を克服しなが再登場を果たしていた。
近代以降、西洋では全土に渡って筆記用具の必需品と大きく広まったらしい。色も変わってしまってもはや黒ではなかった。品質改善から便利で、しかも初めて茶色として使われ出したといわれる。


セピア色のサンプル…

Zeissのマクロプラナーは光の流れを巧く捉えるマクロレンズだ

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菜の花が明るく咲いていた。黄色が眩しい。何輪も一斉に風に揺れていると如何にも無邪気な可愛らしさに胸を締め付けられる。自作詩のThe blueで歌った光の切なさを体現した花かも知れない。すると菜の花の一輪ずつが素晴らしい瞬間なんだ。堪らなく詩的で、心から見逃せないと思う。
写真はマクロ撮影が上手く行って気持ち良い。菜の花は細長いからまさかだけれども真ん丸でほわほわのイメージが手に入った。世界が見違える。望ましい光を象徴するように詩的に纏められたと納得する。
描き込みが少し足りないけど、明るくてコントラストが低いせいみたいだからそのままにしている。写真には自然さを何よりも出したい。些細な日常だし、見た目通りの仕上がりが気に入っている。
カメラとレンズのα5100Touit 2.8/50Mも実力を十分に出し切れたのではないか。写真の実在感は基本的に軽くならざるを得なさそうだから撮影では光の方向に配慮するか、または空気感に置き換えようと心がける。コントラストが低くても良いとすれば空気感を重視するけれども彩りの華やかさはバッチリだから成功している。
イメージがギクシャクしてないところが流石の色乗りではないか。Touit 2.8/50Mというマクロレンズ、すなわちZeissのマクロプラナーの個性を再認識させる。光の流れを巧く捉えるから写真の空気感が増してイメージの瑞々しさにも繋がるんだ。
もうちょっと描き込みがあれば申し分ないけど、カメラがレンズに追い付いてないせいでは仕様がないので、値段も比較的に安かったし、何れは買い換えても良いだろう。
菜の花のマクロ撮影からα5100の限界をはっきり感じてしまう。明るくてもコントラストが低いと線が弱いかぎり、付けるレンズは写真に粗削りの良さを出せるような明快なタイプこそ合っているはすだ。するとキットレンズのSELP1650単焦点のSEL35F18が様々な状況で安定して気に入った写真が撮れるに違いない。
Touit 2.8/50MについてはZeissのマクロプラナーとして光の流れを巧く捉えると分かったから写真撮影に活かしてさらに向上したいと感じる。
カメラのどんなレンズでもきっと同じように大事だし、写真撮影で被写体を光の流れから表現できれば色鮮やかで生命感を増したイメージが得られるはずだ。

森の鈴蘭の集落には幸運とカメラの基本

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想定では花が咲くのは来週以降だけれども待ち切れなくて森の鈴蘭の集落を又直ぐに見に行ってしまった。
葉っぱはどんどん広がっているし、蕾の数も相当に増えている。数日前とは本当に見違えるし、花が咲くのは間近だと勢いの良さを感じさせる。

どのくらいの速度で成長するのかが分からないし、知らないので、しっかり覚えておきたいという気持ちも大きい。好きな花の鈴蘭だから少しでも見逃せないわけだけれども身近な森で集落が見付かったのは奇跡だと改めて神に感謝せざるを得ない。初めて喜んだ去年はもう既に枯れかけていたし、折角の機会ならば一年越しの巡り合わせだ。長々と待ちながら実際に戻って来られたのはやはりまさかの幸運だろう。鈴蘭の集落が素晴らしいだけではなくて自殺したいままの状態が酷くても良く生き延びている。真っ先に癒される森がある。人間にとって好きな気持ちこそ不遇に強いのではないか。希望を持てば絶望に打ち勝つのは容易いのが道理だろう。真っ盛りで数多く咲き捲っている鈴蘭の様子が新しく目に浮かぶほどに楽しみでならない。

鈴蘭は一房の下の蕾から咲いて行く。茎が伸びて行った上の蕾は出るのが遅いから後から咲くんだ。蕾と花が上と下ではっきり分かれていると如何にも神秘的な印象を与える。成長の流れが時間を止めたように伝わって来るよ。
幾つか花が見付かって必死に写真に収めたものの殆どが失敗だった。大きさは手の小指の先くらいしかないから輪郭を取るだけでやはり精一杯だろう。ピントが外れるのは辛い。
しかし一眼レフのカメラでレンズを開放絞りにしてシャッタースピードが1/1000s前後ならば良い感じかも知れない。最大限に光を取り込むと共に手振れを減らして撮影すると成功を増やすというとカメラの基本だろう。被写体が難しいほどに疎かにしてはならない。
鈴蘭から学ぶし、初心に帰るけれども写真撮影は描き込みに向いた方法を少しでも多く取り入れるようにすると有利だ。

鈴蘭の蕾に待ち遠しい初夏へのカメラ考察

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森へ行くと鈴蘭が蕾を覗かせていた。四日前の写真撮影で立ち寄ったら茎だけだったから早いと驚いた。もう直ぐに満開だろう。初夏の息吹きを感じる。鈴蘭の花が待ち遠しくも写真に収めるならば来週一杯こそ最高に違いない。再来週以降も暫くは枯れないにせよ、雨風で汚れたり、蜘蛛の巣が張ったりするので、真っ白なままを端的には狙い難そうではないか。
しかしやはり本当に厳しいのはピント合わせだ、カメラにおいて。鈴蘭の蕾を撮りながら一年振りに思い知らされる現実だった。天気は快晴で、シャッタースピードも四桁の1/1000sだから手振れの心配はなかったのに仕上がりに気乗りしないのは描き込みなんだ。似た花のスノーフレイクは四日前の写真撮影でもまずまずだったけれども鈴蘭は小さい分だけ写りが悪くなってしまう。白一色の花でコントラストも低いかぎり、カメラはフルサイズのセンサーでなければ描き込みが不足せざるを得ないようだ。
α5100では完全にお手上げだと感じるよ。高解像レンズのマクロプラナー、Touit 2.8/50Mを着けているにも拘わらず、撮影した写真がいつもイメージ通りに仕上がってくれない。数多く試しながら構図を選び出す以前に納得できないというか、どうにもかっちり写らないので、最初から無駄な努力を積み重ねないためには考え方こそ変えるべきなんだろう。
鈴蘭の花や蕾の写真撮影は輪郭だけ大きく崩れなければ上出来という仕方で取り組むしかない
愛用のカメラとレンズのα5100とTouit 2.8/50Mで、一等に好きな花の鈴蘭が弱点の少ない光の状況を克服しても望んだ写真を表現できない気持ちは悔しいにせよ、他の仕方が全くないわけではないからよもや落ち込み過ぎても頂けない人生だとはいっておきたい。
鈴蘭にはピントが合わせ辛くて狙う位置が狭いけれども、その代わり、周りのぼけは物凄く利いて来るという写真撮影が可能なんだ。
作例はちょっと寄っただけでも幻想的な雰囲気が余程と大きく広がっているのが驚かされる。ぼけで被写体を包み込むようなスタイルが大事ではないか。すると輪郭が幾らか緩んでも気にならない写真が得られそうだ。鈴蘭でなくても写真撮影でいつも考えて損はないし、仕上がりにおいて味わい深さに繋がって来る。重視して然るべきなのはまさか間違いない、写真家として。
鈴蘭は普通に表現するのは大変な被写体だけれどもカメラで周りのぼけを活か…

α5100とTouit 2.8/50Mで晩春の花々の写真撮影

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久し振りに写真の撮り歩きに公園へ出かけた。カメラとレンズはα5100Touit 2.8/50Mだ。レンズは手振れ補正が付いてなくて辛いし、大分、写真を撮ったからもうそろそろというか、偶には交換しても良さそうだけれども止められない。何しろ、仕上がりの透明感が清々しくて気に入っている。
昨年、鈴蘭を見付けた穴場を目指した。ピントが合わなくて非常に苦しんだし、枯れかけてもいたので、もう一度、早めに行ってそして頑張ってみたかった。大好きな花なので、悔いは少しも残したくない。
しかし鈴蘭は一つも咲いてなかった。周りに生えていたはずの雑草もなくなっていて市役所で刈り取られたかも知れないので、本当にショックを受けずにはいなかった。地面を詳しく調べてみると細長い茎が幾つも伸びていたから五月に入れば大丈夫かも知れないとも感じた。
今春は寒い日が続いていたし、咲くのが遅れているだけならば鈴蘭を写真に収めるチャンスはありそうだ。暫くしたら又来てみたい。

面白いのは鈴蘭と良く似ている花で、スノーフレークこそ真っ盛りを迎えていた。
写真に収めるのは構図が難しい。向きが上手く行かないし、数多く咲いているからバランスが取れない感じがする。鈴蘭と同じで、何枚も何枚も撮ってやっと一枚だけ気に入った写真が手に入るみたいな花だろう。
天気は快晴で、シャッタースピードは四桁の1/1000sを楽に越えるから手振れの心配はなかった。本当に有り難いし、室内よりもまさか写真撮影の喜びが格段に増して来る。α5100とTouit 2.8/50Mも本領を発揮するよ。

晩春だけれども水仙もまだまだ残っていた。街中で良く見かけるので、しょっちゅう写真を撮っているけれども真っ白の水仙は初めてだった。まるでケーキのクリームのような風合いが可愛らしい。明るさが十分だし、白一色でカメラもレンズも描き込みが厳しいはずだったけれども光の陰影に満足している。

地元の幼稚園で植えたみたいで、チューリップも良く咲いていた。花柄の大きな品種だと思う。丸々と膨らんでいるからコップにしてジュースを注いで飲みたくなるし、見ながら児童期を振り返った。人生に夢が満ち溢れていた記憶が幸いだった。年を取っても希望を絶やすべきではない。
チューリップの手前の一輪にピントが合っているけれども花弁の冷たさが出せたのはTouit 2.8/50Mならではの個性ではないか。日差しが…

MOTOROLAのMoto G5 Plusを使い出してのスマホレビュー

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道沿い(緑) © 天使のモノクローム
店頭で実物を確認しないで、インターネットでBIGLOBEに注文してしまったから少し焦った。二日で届いて、随分、早いと感心しながら開梱して手に取った感触はとにかく素晴らしかった。
全体的に小気味良い丸みが施されていて非常に持ち易い。以前、スマホの工場で働いていたことがあるから何種類も記憶に残っているけれどもMoto G5 Plusの感触は断トツだ。大きさと重さのバランスが巧みに取られているとしかいいようがない。5.2インチの画面だから大きくて手に合わないのがちょっと辛いくらいで、デザインを優先すれば5インチの画面のMoto G5こそ小さめで良いはずだと予想していた通りだったし、完全に納得してしまった。
背面のカメラの縁取りが大きくてそのままでは邪魔かも知れない。カバーを着ければ気にならなさそうだけど、しかし僕はやってないので、カメラを傷付けないために保護シートだけ貼った。出っ張りが机などに打つかるとやはり危ないと思う。写真に全く影響しないわけではないからなるべく避けたいにせよ、仕様がない。カメラの縁取りがしっかりしているのは撮影に適しているはずだし、性能を少しでも保たせるのではないか、良い写真が得られるとは期待している。
驚くのは背面の中央に浮き彫られたロゴだ。Moto G5 Plusを下から持つと人差し指が軽くかかったりする。ストッパーではないか。なので安心感を受け取る。カバーを着けないかぎり、持っていてスマホを地面に落とさないと心理的に仕向けられるのは有り難い。
スマホは三台目だけれどもブランドが初めてのMOTOROLAだし、Moto G5 Plusの初期設定に相当に手間取ってしまった。
マイクロSDカードの挿入が厳しかった。SIMカードも同じだけど、先ずは蓋を開けるのが一苦労だった。専用の棒が付いていて穴を押さなくてはならないとは知らなかった。スマホの上部側面で、やっても直ぐには無理だった。強力に押すべきか、よもや壊してしまいそうだから本当に参った。説明書を読んでも押すとしか載ってないから少しずつ少しずつやって開いてくれと祈るばかりだった。するとパカッとトレイが飛び出して来た。喜びながらなぜなのかと咄嗟に確かめるとトレイの留め具を専用の棒で押して外すような構造になっていた。たとえ強力でも簡単には壊れなかったみたいだ。トレイの留め具の先…

BIGLOBEの格安SIMでMoto G5 Plusにスマホも買い換え

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スマホのタッチパネルが不調だったけれどももはや画面の大半が反応しなくなってしまった。どうしようもない。最短でも四年くらい持たせるつもりで勢い込んで購入したにせよ、予定を変更せざるを得ない。
古いスマホが一年しか使わずにあるからメインに切り替えるか、または新しいスマホに買い換えるかと悩むけれども前者は今ではもう不便に感じるし、出費は嵩むものの通信契約も踏まえると後者が望ましいようだ。

ブログにも載せず、黙っていたけれども格安SIMはBIGLOBEが、一番、良かった。手持ちのスマホがauだからmineoにしていて次回からは通信契約をBIGLOBEに変えようと考えていた。
安い。調べると通話付きの6GBで二千円ちょっとだからmineoの通話付きとデータのみの3GBの二回線よりも三百円くらい下がる。一年で四千円近く助かる。
丁度、春先の入学や入社のシーズンのせいか、キャンペーンをやっていた。新しくスマホを買い換える人が多そうだけど、新規の通話付きの3GB以上と同時購入で一万円のキャッシュバックが貰える。しかも機種によって三千円のクーポンも出している。タイミングはぴったりなんだ。
因みにプレゼントもやっていてTwitterのフォローとリツイートからスマホが当たるかも知れないので、応募しておいた。
新しいスマホは何にするかが非常に重要だけれどもXperiaは止めざるを得ない。Sonyが好きで、ガラケーに参入してからずっと使ってスマホもXperiaだけしか頭になかったにせよ、今回、踏み潰しかけて駄目になったから僕のせいとはいえ、製品の耐久性に疑問が膨らんでしまった。
スマホは精密機器で、製品の耐久性がどうしても難しければいつか壊れてしまっても悲しみが少ないように最初からなるべく安いのを買っておかないと不味いのではないか。
Xperiaは高い。今までの半額の二三万で抑えたいと思う。予定外の出費なので、それでも辛い。しかし長く使えるように総合的に気に入る機種はどうしても二万円以下では厳しい感じがしてしまうんだ。
BIGLOBEのクーポン付きのスマホのラインナップでMOTOROLAMoto G5 Plus(ルナグレー)が高めで、三万円を越えるけれども性能とデザインで最も引き付けられた。
電池持ちが長い5.2インチの画面が使い易い処理速度に優れるマイクロSDカード使用可1.7F/12MPのカメラが良い纏…

写真の被写体に合った構図による臨場感

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クリオネの記事を仕上げるのに写真を引用しようとWikimedia Commonsをチェックしていたら数も少ないし、気に入ったのがなかった。
あちこち探し回っていてOpenCageというサイトが動物の写真をクリエイティブ・コモンズの商用可で提供していてクリオネの写真で幾つか気に入ったのが見付かったので、使わせて貰って非常に助かったんだ。
Chamaeleo calyptratus by Daiju Azuma [CC BY-SA 4.0], via Google+
管理人はDaiju AzumaというけれどもGoogle+もやっていた。写真はサイトと同じようにクリエイティブ・コモンズの商用可で使って構わないみたいだ。見ると画質がGoogle+ではさらに上がっているようだから嬉しかった。
写りが本当に良いと思う。被写体が分かり易くてしかも背景に甚だ溶け込んでいるから自然さが際立っている。臨場感が素晴らしい。
柔らかみが特徴的だ。カメラのレンズの円やかさが巧みに引き出されているとすると構図こそ合っているせいだろう。エボシカメレオンもあるがままの姿をしっかり捉えているんだ。当たり前にせよ、カメラは実際には難しいと思う。写真の構図はやはり少しずれただけでも仕上がりの印象を大きく変えてしまい兼ねない。きっとセンスが問われるんだ。
Daiju Azumaは被写体の気持ちを伝えているから見ていて安心できるような纏まりに秀でた写真を撮っていると好感を抱かせた。

ハシビロコウはじっとして動かずに活かす

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中央アフリカの東寄りの南スーダンやザンビアに主に生息するらしい大型の鳥で、ハシビロコウが気に入ってしまった。
Balaeniceps rex at Walsrode Bird Park, Germany by Olaf Oliviero Riemer [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
日がな一日、水辺に立ち尽くして獲物の魚を自らの気配を消しながら待ち構えるというふうに過ごしている。
個人的に動物の写真を撮るのと同じだから面白い。静止して自らの気配を消さないと動物は逃げ易い。昆虫や魚が多いけれども人に慣れてない動物を近付いて写真に収めるにはカメラ以外の知識が強く求められるわけだ。
ハシビロコウに親近感を覚えるのは何よりも姿形が人間と被っているせいだけれども体長が1m以上にも及ぶ。最長で1.5mくらいまで成長するようだから子供か、小柄の大人に等しいわけで、体型もほっそりしていて大型の鳥ならばダチョウエミューと比べても人間に余程と迫っていると思う。
顔というか、嘴が物凄く太くて大きいのも一見して厳めしいながらお菓子のチョコボールキョロちゃんを彷彿とさせるほどに愛らしく受け留められて知ってから本当に目が離せないみたいに心を持って行かれた感じがした。
余りに良く似ているからもしかしたらハシビロコウこそキョロちゃんのモデルなんだと考えさせられる。
念のために調べておくとチョコボールヒストリーによればチョコボールのパッケージの取り出し口が鳥の嘴に似ていてさらにチョコボールを目に見立てながら鳥をモチーフにしたキャラクターがデザインされたので、キョロちゃんは架空の鳥だった。イメージはチョコボールのパッケージの取り出し口とチョコボール自体に由来しているから実在する鳥のどれかと結び付くわけではなかったらしい。
ハシビロコウは人間に姿形が近いから想像力を刺激する。およそじっとして動かないというのが格好良いし、活かすと咄嗟に認めてしまう。
落ち着き払った様子に見受けられて何物にも囚われない。自分を強く持って生きているのではないか。憧れを抱かせるような風情を湛えているところが素晴らしいと認めたくなる、人生において。
動物には霊感が宿っているせいだとすれば人間にとって欠かせない知恵を授けてくれる存在に他ならないと改めて気付かされもする。
ハシビロコウの活かしたじっと動か…

観葉植物の写真を透過光で撮る

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雪も降って冷え込みも、可成、厳しい一月中旬、しかしながら今日は晴れて室内への光の流れがいつになく良かった。
日差しの角度が好ましくて写真日和とも過言ではない感じがしてしまった。
窓辺の観葉植物の葉っぱに光が透過されて幻想的な世界が浮かび上がって来たんだ。
カメラもα5100Touit 2.8/50Mで室内ではシャッタースピードが上がらなくていつも苦しんでばかりなのに楽勝だった。上手く行けば1/1000sも越えるくらいだから十二分の明るさだろう。
珍しく絞った、レンズを幾らか。カメラの面白さを久々に味わった。屋外で撮影してないし、近頃は室内で開放絞りばかり使わざるを得なかったので、明るさを減らさないためにレンズは全く絞れないという不自由さから解き放たれて嬉しい気持ちがした、本当に。
ピント内が少しぼやけているようだけど、しかし良いのかも知れない。屋外の太陽の下でビシッと取れた写真のようにはたぶん透過光だからならなさそうだ。
葉っぱの雰囲気、冬の晴れ間に見出だされた光と影の織り成す幻想的な世界こそ表現できたのが何よりの素晴らしさだ。

どんな写真が撮りたいかは世界に訊くしかない

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ヤン・フォゲットのYoung Indian girl Raisen district Madhya Pradesh(マディヤ・プラデーシュ州ライセン県の若いインド少女)が瞬く間に引き付けられたというか、一度、見たら忘れられなくなるような優れた写真だけれども見事な表現力だと認めた。
Young Indian girl Raisen district Madhya Pradesh by Yann Forget [CC-BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
素晴らしさが透き通るほどに全く写ってない空をも美しく想像させて止まないくらい詩的に味わわれて非常に気に入ってしまった。
写真とは何かを改めて考えさせられる
第一にはカメラではなくて世界がやはり大事なんだ。本当の意味での表現力こそ問い直さざるを得ない。
目の前に撮るべき世界がなければどうしようもないわけなので、写真家が見付け出せるかどうか、または作り出しながら始めてカメラも十分に扱えるように上達しなくては行けない。
決して難しくはない。些細な日常に幸せは幾らでも転がっている。生きる喜びは満ち溢れていて今此処で死にかけてさえも内面性は精神の強度を保ち続けているはずだ。
ヤン・フォゲットの写真が凄いのは目に見える形でイメージとして克明に打ち出していた。
若いインド少女の浅黒い肌と真っ赤な衣装と白っぽい背景の組み合わせが芸術的にインパクトが高くて鮮烈な印象を心に与えるけど、しかし驚かされるのは左手の中指の先が画面から微妙に切れていて写真だけでは終わらない世界そのものを予感させるのではないか。
なぜ生きているのかを思念する表情からすると空が美しく広がって見守っているようだ。
詩的に捉えれば遊んでいる全ての子供たちのイメージがたった一人の雰囲気によって象徴的に示されているから感動するし、心こそ釘付けにされるべき写真だった。

マクロ撮影はカメラのピントが狭くて周りがぼけ易い

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姫女苑(ひめじょおん)の花の間に花潜(はなむぐり)が挟まり込んでしまった。
α5100Touit 2.8/50Mでのマクロ撮影は本当に面白い。屋外で晴れの日だとプログラムオートでシャッタースピードが楽に上がるので、手振れ補正がなくても何の心配も要らないだろう。作例の絞り値はf/6.5で、シャッタースピードが1/625sだった。普通にやっていて手振れするとは考えられなくて虫が幾らか動いたり、花に微風が吹いたりしても写真ではピタッと止まる。抜群の描写力で世界の一瞬を余すところなく伝え届けられるかのようだ。
ところでマクロ撮影だとピントが狭くなるらしい。被写体の僅かな前後差でぼけが広がる。作例は上の姫女苑の下側の花弁にピントが合っていて花芯の盛り上がった中央でも大きめにぼけている。絞り値を上げるとピントは広くなるといわれているけれどもf/2.8からそこそこ絞っているf/6.5でも相当なものだ。
最初に知らなくて開放絞りのf/2.8で写真を撮りながらピントのそばからあっという間にぼけて行くので、びっくりしていたけれどもマクロ撮影はピントが狭いからそうならざるを得なかったわけだ。絞り値で調節することもできるということだから使い方の一つとして覚えておきたい。カメラのピントには大きさがある。
マクロ撮影にかぎらず、レンズの絞り値を上げればピント外のぼけは減るというのも原理は同じらしい。ピントが広くなるほどに周りはぼけ難くなり、反対にピントが狭くなるほどに周りはぼけ易くなる。絞り値によってレンズの解像力や明るさだけではなくてピントの大きさからぼけも変わって来る。

白詰草に蜜蜂が飛んで来た

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公園に写真撮影に出かけた。α5100Touit 2.8/50Mで作例はベストショットではないか。見事なリアリティーだ。蜜蜂白詰草の花を動き回るからシャッタースピードが要求される。結果は1/250sだった。ちょっとした水の流れが1/400sといわれるので、半分程度で大丈夫みたい。快晴の自然光ならばプログラムオートで十分だ。シャッタースピードは上がる、周りが明るいほどに。輪郭が微かに甘いのはカメラのセンサーのせいにするしかないと思う。α5100では超細密にまでは描き切れないだろう。しかし全力の画質を得られた。蜜蜂が白詰草の花の蜜を集めているけれども一つの懸命さを物語るような仕上がりになった。表現に躍動感が漲った。
僕にとって写真でやりたかったことは全てできた。この先は躍動感、あるいは生命感を踏まえながら取り組んで行くべきだ。写真におけるコンセプトを掴んだわけで、白詰草と蜜蜂の出来映えは無上の喜びといって良い。

ツァイスのソニーEマウント用の等倍マクロレンズ:Touit 2.8/50Mのマクロプラナーを手に入れてしまったよ

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本当に高いし、十万円もするので、α5100にキットのズームレンズと望遠レンズに加えて単焦点の35mmも持っているので、当面は要らないのではないかと感じた。しかしマクロレンズということで、室内の物撮りや何かに適しているのは間違いなかった。
Touit 2.8/50Mを買うとなるとカメラも考えた。α5100はセンサーがAPS-Cなので、フルサイズのものにした方が十万円のレンズでは合っているのではないか。しかしカメラもフルサイズで買うとなると三十万円近くの出費は避けられない。α5100も買ったばかりなので、もはや止めるべきかと悩んでしまった。
ソニーのEマウントに気に入ったマクロレンズはツァイスしかない。APS-Cのものだけど、他に好ましいのはフルサイズのGレンズでもうちょっと高いんだ。しかし大き過ぎて幾ら何でも僕には厳しそうだった。カメラの機動性をなるべく損いたくない。
α5100にTouit 2.8/50Mはどうかと迷った。フルサイズのカメラと比較した場合にAPS-Cで足りないのは写真の厚みで、色調の豊かさといっても良い、これがもしかすると十万円クラスのレンズだったら出せると予測された。α5100は画素数が24.3MPなので、センサーがAPS-Cならば十二分だろうから安めのレンズでは実力がまだむしろ眠ってないともかぎらない。Touit 2.8/50Mでフルサイズ並みの画質を狙えるとしたらα5100のままで気持ちは賄えるし、カメラも全力で写真撮影に挑めるならば有り難いに越さないというふうに触手が伸びて来た。
Touit 2.8/50Mは手振れ補正が付いてないとか大きくて重たいなんてところが値段以外では気がかりになった。とはいえ、前者についてはレンズが明るめだから室内の蛍光灯の下でもシャッタースピードを大きく落とさずに使えるのではないか。α5100は本体に手振れ補正が付いてなくてレンズの機能に頼るしかないけど、さもなければ自分で写真撮影の腕を磨いて行くのに役立つとも思われる。後者についてもキットの望遠レンズくらいだから案外と大丈夫ではないか。普段の取り回しに辛かったり、気持ちに合わないわけでもなかった。α5100は小さくて軽いわけで、反対にレンズが大きくて重いとカメラをしっり構え易いという利点は得られる。
性能についてはフォトヨドバシのCarl Zeiss Touit 2.8/5…

α5100とSELP1650で室内の蛍光灯での写真撮影に進展が得られた

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カメラのISO感度をマニュアルで設定してやってみた。蛍光灯が真上だとオートでもまずまずの仕上がりだけど、逸れて来ると上がって来てノイズも避けられないので、jpegファイルでは甚だしくは感じないにせよ、画質のためにはたとえスローシャッターでもマニュアルでISO感度を下げるべきだと考えた。
コンパクトのW170と同じように大きめにやると写りは素晴らしい。しかしながら手振れもしょっちゅう出てしまう。カメラはセンサーが大きいほどに手振れが出易いといわれるし、取り分け一眼カメラだとISO感度を余りに下げ過ぎるのも厳しそうだ。
作例は400のISO感度で成功した。しかし800や1250でも良かったと思うし、撮影としてもその方がまだ無難だろう。 デジカメinfoのDxOMark にソニーα5100のセンサースコアが掲載によると1340が画質の分かれ目になっているようで、実用上の目安になると思う。
カメラに明かりの足りないところでISO感度を低くしてもスローシャッターで手振れを起こしては写真は取り返しが付かない。シャッタースピードを稼ごうとするとISO感度を少しでも上げるには越さないわけだ。
ホワイトバランスもモニターでオートは合ってないと思ってマニュアルで変えたら写真そのものはタブレットで確認してみると合っていたので、参った。α5100のモニターは画質は悪くないけど、色味は幾らか合ってないようだ。調節はしてない。モニターに写真そのものがちゃんと反映してないとすると撮影でホワイトバランスを合わせるのは勘が頼りかも知れない。
蛍光灯が二組の明るいものだとホワイトバランスがオートでも合い易いようだ。一組の暗いものだと外れることがある。カメラのホワイトバランスがオートで被写体に合ってないことに気付いたというけれどもマニュアルで合わせておかないと撮影結果に満足できず、後から色温度などの編集を余儀なくされるんだ。ただしα5100でも明るいレンズのSEL35F18ならば大丈夫なので、SELP1650が暗めだから難しいのではないかと思う。
作例はrawファイルを使って色温度などでホワイトバランスを調節した。撮影でISO感度を下げたし、ノイズも全くといって良いくらいなかったので、編集は順調だった。頓挫しなくてむろん助かった。
α5100とSELP1650は室内の蛍光灯でISO感度やホワイトバランスをマニュアル…

一眼レフは写真の深みが素晴らしくて石にも感動だ

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一眼画質を覚えると他のカメラには後戻りできなくなるようだ。分けてもセンサーの大きさが写真の出来映えを決定的に左右するのではないかしら。
作例の石はα5100SELP1650で撮影した。センサーはAPS-Cで、35mmフルサイズよりは小さいにせよ、写真の深みが素晴らしい。1/2.3のスマホやコンパクトのカメラでは出し切れるものではないだろう。曇り空で暗く翳った質感も申し分なくて惚れ惚れするほどのリアリティーを与える。一眼レフは少しくらい大きくて重くても普段使いせざるを得ないようだ。
感動や石の深みの美しさ
固くて壊れ難いので、永久のイメージが石にはあると感じる。幾つもの年月を経て風雨に晒されながら深みを帯びて行くけれどもそこに特有の喜びが味わわれる。永久のイメージ、不変のものが宿っているんだ。年月に抗うように美しさが醸し出されて僕なんか感動さえも受け取ってしまうという。
心が震えるほどの喜びだった。石が教えてくれる、尊くも。そして終わりのない美しさは無限の宇宙にまで広がって行くようなんだ。途方もなく大きな静けさに囲まれては石のポエジーに目を丸くするばかりだろう。取りも直さず、自然の贈り物に他ならなかったと思う。

晴天の菜の花は光り輝くばかりの黄色が目に染みる

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W170を使っていて近めの菜の花にピントを合わせてみた。センサーが1/2.3と小さいので、背景ぼけは余り期待できないけと、しかし近めのピントだと流石に円やかさも出て来た。全体が菜の花で、写真としては印象的に仕上がって満足している。
菜の花は黄色と緑でどこまで気持ち良く纏められるかが考えどころだった。黄色と緑が馴染んで生き生きと描き出せた。太陽の恩恵に他ならない。春の一時がまるで夢のように味わわれもしたわけだった。素晴らしい世界に感謝したい。