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些細な日常

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松尾芭蕉の三十八歳頃の深川時代の俳句の作風

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松尾芭蕉 の約三十年に亘る俳句人生で作風の変遷が幾つかあってどんなものかを探るために本稿は三十八歳頃の深川時代の俳句について考える。 俳号は芭蕉で季語は野分の秋の句 芭蕉 by NISHIYORI 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉 仮名と訳文 ばしょうのわきしてたらいにあめをきくよかな 芭蕉の木が台風に吹かれて盥に雨漏りの音を聞いている夜とはな 松尾芭蕉/ 武蔵曲 松尾芭蕉は延宝八年(1680年)の冬に江戸(東京都)の日本橋から深川の草庵へ移り住んだ。弟子の 杉山杉風 が提供した生簀の番小屋か何かだったらしい六畳一間の小さな茅屋だった。この転居の理由ははっきりしない。俳諧宗匠として点業(俳諧の優劣を付けて報酬/点料を貰う)生活に嫌気が差したとか江戸でしょっちゅう起きていた火事で焼け出されたなどの説がある。 何れにしても草庵に入ってから深川時代が始まり、もはや仕事もせずに弟子から差…

松尾芭蕉の三十七歳頃の日本橋時代の俳句の作風

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松尾芭蕉 の約三十年に亘る俳句人生で作風の変遷が幾つかあってどんなものかを探るために本稿は三十七歳頃の日本橋時代の俳句について考える。 俳号は桃青で季語は秋の風の秋の句 Trichonephila clavata by Koo Bearhill / CC BY 蜘蛛何と音をなにと鳴く秋の風 仮名と訳文 くもなんとねをなにとなくあきのかぜ 蜘蛛は何といってどんな音を立てて鳴くのか、この秋の風に。 松尾桃青/ 俳諧向之岡 (仮名と訳文は筆者) 松尾芭蕉は故郷の伊賀(三重県)から江戸(東京都)へ下った暫く後の延宝五年(1677年)か延宝六年(1678年)に宗匠立机を果たして職業俳諧師として一門を形成するようになる。連句興行や運座(秀句を互選する会)を開いたり、弟子を取って俳句を教えたり、点業(俳諧や連歌の優劣の判定)を行う。 最初の頃、日本橋の知り合いの借家か何かに住んでいたと…

松尾芭蕉の三十二歳頃の談林派の俳句の作風

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松尾芭蕉 の約三十年に亘る俳句人生で作風の変遷が幾つかあってどんなものかを探るために本稿は三十二歳頃の談林派の俳句について考える。 俳号は桃青で季語は菊の秋の句 Kutsukibon by Nagahito Yuki / CC BY-SA / arranged from a sixteen-petaled chrysanthemum by Kyūan 盃の下ゆく菊や朽木盆 仮名と訳文 さかずきのしたゆくきくやくつきぼん 盃の下に菊の花が流れる朽木盆とはな。 松尾桃青/ 俳諧当世男 (仮名と訳文は筆者) 松尾芭蕉は延宝三年(1675年)に江戸(東京都)に早ければ数年前から来て暮らしていて同地の俳人の 西山宗因 と知り合う。西山宗因は 談林派 という俳諧の新しい流派を代表する人で、弟子たちが宗因派を標榜したのが切欠だった。貞門派のように古典に傾倒しつつも軽口や無心所着(和歌で纏まり…

松尾芭蕉の二十四歳頃の貞門派の俳句の作風

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松尾芭蕉 の約三十年に亘る俳句人生で作風の変遷が幾つかあってどんなものかを探るために本稿は二十四歳頃の貞門派の俳句について考える。 俳号は宗房で季語は山桜の春の句 奈良長谷寺の桜が満開 by みいみいE うかれける人や初瀬の山桜 仮名と訳文 うかれけるひとやはつせのやまざくら 浮かれる人が凄い、初瀬の山桜に。 松尾宗房/ 続山井 (仮名と訳文は筆者) 句中の「初瀬」は奈良県桜井市の長谷寺の桜の名所を指す。 古典に傾倒する 貞門派 として次のような短歌に準えて詠まれたようだ。 憂かりける人を初瀬の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを 仮名と訳文 うかりけるひとをはつせのやまおろしよはげしかれとはいのらぬものを 連れない人を、初瀬の山颪よ、そんな酷くあって欲しいと祈らないのに。 源俊頼 / 千載集 (仮名と訳文は筆者) これは 百人一首 にも選ばれているから日本で最も秀でた和歌の一つといえる。平安時代…

松尾芭蕉の十九歳頃の最初の俳句の作風

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松尾芭蕉 の約三十年に亘る俳句人生で作風の変遷が幾つかあってどんなものかを探るために本稿は十九歳頃の最初の俳句について考える。 俳号は宗房で季語は年内立春の冬の句 梅の花 by ERINGI51 春や来し年や行きけん小晦日 仮名と訳文 はるやこしとしやいきけんこつごもり 春が来たのか、年が過ぎたのだろうか、小晦日に。 松尾宗房/ 千宜理記 (仮名と訳文は筆者) 松尾芭蕉の俳号が宗房だった十九歳頃に詠まれて、記録上、最初の俳句と見做されている。 奉公で伊賀上野(三重県伊賀市)に暮らしていた十八歳頃から俳人の 北村季吟 に主君の 主計良忠 と共に師事して俳句を始める。すると師匠の北村季吟が俳人の 松永貞徳 に由来する 貞門派 という俳諧の流派に属していたためにそうした影響を受けて詠むことになる。当時の世の中の主流の流派でもあったらしい。貞門派は古典に傾倒して知識や教養を披露したり、俳言という…

初夏の七つの花々の写真と俳句

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久し振りにカメラを持って地元の大きな公園に写真の撮り歩きに出かけた。 前回の 初夏の晴れた公園の花々 から六年振りになる。カメラとレンズは同じで、Sonyの α5100 とZeissの Touit 2.8/50M をまだ使っていて何よりも手振れへの注意が怠れない。しかしそれだけに光の多い今の時期の屋外での写真撮影はシャッタースピードを十分に稼げるから気楽にやれるし、非常に嬉しいと思う。 七つの花々の写真と俳句の記事のリンクと抜粋 山躑躅の写真と俳句:最後の力を振り絞って生きよ 出かけた公園は東京ドーム数個分の広さで、中心の芝生の広場を階段付きの小さな山が半分くらい囲んでいる。小さな山に最も多く生えているのが山躑躅で、今の時期は真っ赤に燃えるような状態で、山火事ではないけど、とにかく衝撃的な印象を与える。 鈴蘭の写真と俳句:死んでから有名になっても 公園の小さな山の頂上に展…

白琉球の写真と俳句:二度と戻らないいつかの出会い

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 白琉球 の写真を俳句付きで掲載する。 琉球躑躅とも呼ばれる白琉球は江戸時代から栽培された花で、沖縄(元は中国の呼び名で琉球)から全国に広まって琉球の名前が付けられた。自生種か渡来種かは良く分からず、性質から 岸躑躅 と 黐躑躅 の交雑種と考えられている。 雨上がり白琉球が風の中 白琉球は輝くように真っ白で大きな花柄が特徴的で、さらに蝶の羽根のようにひらひらと風に揺れるのが優雅な印象を与える。 写真を撮った前日に雨が降っていたせいで、花弁が少し変色して茶色の染みを付けていた。真っ白なだけに少しの染みでも目立ち易くて一回でも雨に濡れてしまうとはっきり変色するのは避けられない。 純粋さを壊れたら取り返しが付かないまでに象徴的に受け取らせる。考えると切なくて本当に存在自体が詩とも過言ではないくらい今此処の一瞬に迫っ…

五葉躑躅の写真と俳句:不思議なことが起こり得る世の中

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 五葉躑躅 の写真を俳句付きで掲載する。 枝先に五枚の葉が付くことから五葉躑躅と呼ばれる。その他に白八汐とも呼ばれて白い花が美しくも葉の下に隠れるように咲くのが如何にも奥床しい感じがする。花は特徴的なのが五角形に開いて鈴のように見える。沢山、咲いて全体が白っぽくなると 雪が積もったか鈴の装飾が付けられたクリスマスツリー を彷彿とさせる。 閉じる目に五葉躑躅の涼やかさ 葉も特徴的なのは早くから赤く色付くことがあるんだ。一枚ずつの縁や全体が花の時期かその前でも緑一色とはかぎらないので、 見付けると意外な驚きを受ける。取り分け赤い葉が多い中に白い花が良く咲いていると秋なのか夏なのか季節感が飛んでしまう。 未だ嘗てこんな経験があったかというくらい珍しい。花咲く同じ木の緑と赤の葉のものが同時に見られるなんて。さな…

久留米躑躅の写真と俳句:好きな気持ちに理由なんかない

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 久留米躑躅 の写真を俳句付きで掲載する。 紅蓮の炎という感じで、赤い久留米躑躅が真っ盛りだった。以前も驚いたけれども咲き捲ると毛並みの良い絨毯のような質感があって独特な印象を与える。公園には白やピンクの久留米躑躅もあるけど、やはり 赤い花の真っ盛りのインパクト は非常に大きい。 浸るべき久留米躑躅が艶やかさ 久留米躑躅の久留米は江戸時代から福岡県の久留米市で品種改良された躑躅ということに因んで名付けられた。鹿児島県の霧島山の躑躅などから品種改良された 霧島躑躅 の一種、または別名ともなっているようで、現在は三百以上という非常に多くの品種が栽培されている。 個人的に久留米と聞くと中学時代に物凄く惹かれたバンドの チェッカーズ の出身地として思い浮かべる。 当時、バンドで日本一の人気だったのではないか。歌だけではな…

平戸躑躅の写真と俳句:救い主を待つのは大変だ

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 平戸躑躅 の写真を俳句付きで掲載する。 平戸躑躅は大きなピンクの花がまるで海中の珊瑚のようにゆらゆらと咲くのが印象的だ。写真に撮ろうとしたら他の人が寄って来て飼い犬を連れていて花の前に座らせて写真を撮り始めた。無理だと思って少し他の花を見て回りながら暫くして誰もいなくなってから写真を撮った。 貧しさや平戸躑躅へ遠回り 公園や何かで犬の散歩をする人を見かけるといつも 貧しさ が身に染みる。本当に無理というか、ある種、裕福さの象徴のような感じさえもするのがペットを持つということで、取り分け犬だと手も多くかかって大変さも増す。一人寂しく嘆かずにはいられない、いつになれば人並みの生活へ 死と隣合わせの毎日 を免れられるだろうかと。 世の中もさっさと ベーシックインカム をやるべきだと思うし、そうなれば最低限の生活費が…

春紫苑の写真と俳句: 負けたら終わりの場所がある

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 春紫苑 の写真を俳句付きで掲載する。 公園に人の手で植えられた花咲く草木の隙間を埋めるように様々な雑草も生えている。日本の春から夏にかけて最も良く知られた雑草の一つが春紫苑だと思う。余程、都会の真ん中にでも住まないかぎり、簡単に見られる花だろう。はっきり目を向けるのは児童期の通学路だけかも知れないけれども思い出すと僕にはとても馴染み深い。 雑草も一番人気か春紫苑 教育の言葉で「何でも良いから一番を目指せ」と聞くことがある。言葉遣いとして犯罪や迷惑行為でも構わないと取られ兼ねないし、昨今のお騒がせYouTuberやバイトテロなどの仕方で、知名度を上げるのは本末転倒だし、注意が必要だけれども一理はあるのかと思う。どんな分野でも二番以下では分からない世界があって一番になることで自信を以前よりももっと強…

鈴蘭の写真と俳句:死んでから有名になっても

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 鈴蘭 の写真を俳句付きで掲載する。 公園の小さな山の頂上に展望台があってその近くの脇道のそばに 鈴蘭の集落 がある。 初めて見付けたとき は本当にびっくりして大好きな花だから幸運を感じた。他の場所に全くないから雑草みたいな感じで、偶々、生えているのかも知れない。 鈴蘭の消されもしない奇跡かな 公園の鈴蘭は雑草だとすれば管理者の整備で取り除かれる恐れを免れないので、見られるのは愛するほどに奇跡だといつも感じる。 青春期を過ぎてから作家を志したのは良いけれども全く売れない。自分に近い思考を持つ作家だと特別な親近感を覚える アルチュール・ランボー (詩人)と フランツ・カフカ (小説家)が世界的に有名になって大きく売れたのは死んでからなので、そうした生き方まで近いとしたら困り果てるしかない。 今此処で断言しておきたい。本…

山躑躅の写真と俳句:最後の力を振り絞って生きよ

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地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から 山躑躅 の写真を俳句付きで掲載する。 出かけた公園は東京ドーム数個分の広さで、中心の芝生の広場を階段付きの小さな山が半分くらい囲んでいる。小さな山に最も多く生えているのが山躑躅で、今の時期は真っ赤に燃えるような状態で、山火事ではないけど、とにかく衝撃的な印象を与える。 又しても今年最後か山躑躅 何回か見ている山躑躅だけれども花咲く最後の今の燃え上がるような赤に自分の命を重ねる。僕は何といっても 貧困で自殺する可能性が避けられない毎日を強いられている ので、真っ赤に花咲く山躑躅を見るのも今年最後かと思う。 詩人としては 夢と希望を携えて と歌うし、命の本質から永遠に正しいにせよ、実生活は夢も希望もない生きる屍でしかない。良い加減にして欲しいというか、本当にもう一秒でも速く、安やかな死よりも遥かに素晴らしい生…

砂猫と作家魂に火を着ける存在への俳句

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砂猫 が可愛いと驚くほどに感じる。幅広い顔と薄茶色の毛が特徴的なんだ。中央アジア、西アジア、北アフリカなどの一部の地域にしか生息しないけれどもそうした砂の多い乾燥した風土に適応している。 砂地の暮らしに見合う砂猫の可愛さ Chat des sables by Clément Bardot / CC BY-SA 見た目から砂に混ざって外敵に捕まり難いと直ぐに分かる。全身が薄茶色の毛という周りの砂と同様の保護色で覆われているためだ。 Миколаївський зоопарк, кіт барханний by Yara shark / CC BY-SA 加えて耳の毛が長くて砂が入らないとか足の裏も毛が長くて熱い地面を歩い易いなんて利点も持っているらしい。 Sand cat by Malene Thyssen / CC BY-SA 脚や尻尾に黒い線が幾つか付いているの…

松尾芭蕉はおくのほそ道で憧れの松島へ訪れても言葉を失うほどの絶景のために俳句を残さなかった

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虚覚えというか、今夏、 松島の記事 を仕上げて 松尾芭蕉 の松島の句があれば読んでみたいと探した。 おくのほそ道 の旅で松島に訪れた感じがするのに俳句を詠んだかどうかが記憶に全く残ってなかったり、どこかで本人の作として聞いた「松島やああ松島や松島」が事実かも定かではなかったり、訳が分けらなくて本当に困ってしまう。 分かったのは調べた結果だけれども松尾芭蕉は おくのほそ道 で松島の句は詠んでなくて紀行文しか載せてなかったのと「松島やああ松島や松島」も田原坊(狂歌師)の「松嶋やさてまつしまや松嶋や」が人伝てに変化して作者も誤って広められたのとが正しかった。 松島の句は 蕉翁全伝附録 の一つだけだった Matsushima islands panorama by Ivan Mlinaric / CC BY 松尾芭蕉には おくのほそ道 以外に松島の句が全くないわけでもなくて 蕉翁全伝附録 と…

ピンクと白の芝桜で希望を引き寄せる自己啓発

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芝桜が可愛い。地面にびっしり生えて咲き出すと踏み潰して歩くのも忍びない思いに駆られる。しかし何気なく歩いている道も普段から同じではなかったか。有り難みを受け取るほどに芝桜に喜びが膨らむんだ。人生は尊いし、道なしには生活も苦しかったはずだから感謝するには越さない、神へ。 ピンクと白は気持ちに正しく当て嵌まる 芝桜は忍びない思いと人生の尊さのためにピンクと白が似合っているのではないか。自然に受け取るかぎりの神のメッセージだと感じてしまう。ピンクと白の芝桜は本当に美しいし、イメージは晩春から初夏への移り行く季節の詩そのものだ。 素晴らしかった春に別れを告げながら新しく素晴らしいはずの夏との出会いへ明るく期待して行くわけなので、それぞれが通じ合う真実の喜ぶべき繋がりに気付けば芝桜は象徴的に輝かしい花だった。 人生で道に迷うとは風向きが読めないに等しい 芝桜いとも容易…

公園での晩春の花々の写真撮影

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久し振りに写真の撮り歩きに公園へ出かけた。カメラとレンズは α5100 と Touit 2.8/50M だ。レンズは手振れ補正が付いてなくて辛いし、大分、写真を撮ったからもうそろそろというか、偶には交換しても良さそうだけれども止められない。何しろ、仕上がりの透明感が清々しくて気に入っている。 昨年、 鈴蘭を見付けた穴場 を目指した。ピントが合わなくて非常に苦しんだし、枯れかけてもいたので、もう一度、早めに行ってそして頑張ってみたかった。大好きな花なので、悔いは少しも残したくない。 しかし鈴蘭は一つも咲いてなかった。周りに生えていたはずの雑草もなくなっていて市役所で刈り取られたかも知れないので、本当にショックを受けずにはいなかった。地面を詳しく調べてみると細長い茎が幾つも伸びていたから五月に入れば大丈夫かも知れないとも感じた。 今春は寒い日が続いていたし、咲くのが遅れ…

松尾芭蕉のわびさびの俳諧はおくのほそ道が極意的だ

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気付いたら わびさびの極意は光陰矢の如し で、ぴったりの思いが 松尾芭蕉 の おくのほそ道 の書き出しに認められてならなかった。 月日は百代の過客にしてゆきかふ年も又旅人なり舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老をむかふるものは日日旅にして旅をすみかとす古人も多く旅に死せるあり 仮名 つきひははくたいのかかくにして、いきかうとしもまたたびびとなり。ふねのうえにしょうがいをうかべ、うまのくちとらえておいをむかえるものは、ひびたびにしてたびをすみかとす。こじんもおおくたびにしせるあり。 松尾芭蕉の おくのほそ道 (仮名は筆者) 松尾芭蕉の おくのほそ道 の書き出しは中国の 李白 という詩人の言葉に典拠があるらしい。 春夜宴桃李園序 の「夫天地者,萬物之逆旅;光陰者,百代之過客」だった。気持ちとしては天地は萬物の逆旅(万物の宿屋)で、光陰は百代の過客(長年の旅人)なので、全ては自然に生きながら…

布団に安らいで疲れの取れる眠りが得られると健康に繋がる

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寒くなるほどに布団が一番だ。布団よりも楽しいものは何もない。笑っていれば夜も気持ち良く眠れそうで、健康には事欠かないわけだ。 安らいで夢見る冬の布団かな 他の季節でも覚えておくにかぎる。どうすれば疲れの取れる眠りが得られるのかは精神的には安らぎにかかっているはずだ。 振り返って落ち着いて休むことは意外と難しかったと思う Futon by OpenClipart-Vectors / Pixabay 不用意にはできない。冬の布団の有り難みが安らぎをしっかり教えてくれた。漠然と眠っても落ち着きが浅かったのではないか。心の隅々まで脱力するように眠ってこそ疲れが速やかに取れそうな感じがしてならないんだ。 少しでも寄せ付けるべきではなかった、悲しみを。健康も心から詩的に捉えるときっと効果的なはずだろう。喜ばしい食事、喜ばしい運動、喜ばしい睡眠でなくては頑張って取り組んでも…

コーラと逃げ出さない俳句の極意

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夏の暑さにコーラが美味かった。健康を考えると糖分を控えたいけれども偶には良いのではないか。 炭酸が多いと驚いた。当たり前だよ、コーラだから。知っていて確かめて喜びたかったのではないか、久し振りだし。本当に喜べたから驚くしかなかったと思う、今さっきを振り返りながら。可笑しいにせよ、コーラが懐かしくも気持ち良く飲めたのは嬉しかった。 コーラの俳句を詠んでみた 八月の机に馴染む缶コーラ 言葉を詩に感じるために文章の動詞を別の何かに差し替えることがある。 水を折る などと世間一般ではあり得ない表現を行うと如何にも世界が優しい香を放って来るんだ。 ただし苦肉の策だから動詞が世間一般と同じでも人は作詩できる。感性にそぐわない文章にかぎって動詞に問題を抱えている可能性が高いのかも知れない。動詞を別の何かに差し替えると上手く行ってしまう。 今作は「置いた」で考えてどうしても缶ビー…