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男と女の恋模様ならばルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレットへ身投げするように

十九世紀のフランスの印象派を代表する画家で、ルノワールが三十五歳で仕上げたとされる代表作のムーラン・ド・ラ・ギャレットは本当に見ていると心が絵に吸い込まれて行くかのような素晴らしい魅力を称えていて忘れ難い印象を正しく残してくれる。


ピエール=オーギュスト・ルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレット

考えると不思議なのはルノワールはなぜムーラン・ド・ラ・ギャレットのように素晴らしい絵を描いたのか。他の気持ちが物凄く、または非常に少ない。感想を述べるのに言葉が副詞でさえも神経を使わされてしまう芸術とは何か。驚くべき美しさを発見した気持ちなんだ。


きっと恋愛に例えれば男と女が身投げするように飛び込んで行くしかない世界の抜き差しならない喜びが強固に生きられていたせいだろう。


パリのモンマルトルにムーラン・ド・ラ・ギャレットというダンスホールがあって人々が楽しげに集う様子を目にして自分でも良く出向いていたようだけれども気に入ったルノワールは絵に描きたくなったらしい。


だから分かり易い。ムーラン・ド・ラ・ギャレットの絵が素晴らしいのは画家が気に入っているだけなんだ。見たままに最初から素晴らしいダンスホールがモチーフになっているわけだからちゃんと味わわれる表現力こそ凄かったと考えられる。


他面、芸術への素直さ、一つの解放感も大きかったかも知れない。気に入らない/偏屈とか世の中で決まり切った/従順なんて何かを描くようなスタンスでは画家の様相も又変わって来たはずだろう。


ルノワールは人生からすれば余りに当たり前過ぎるような見識を持った画家だったといって良いと思うし、人間的には朗らかな性格だったと想像されてならない。


個人として幸せだったかも知れないけど、ただし社会的には決して十分に楽な生活は果たされなかったらしい。


モネと共に印象派の魁と目されるルノワールは人々に直ぐには相応しく受け入れられず、かねて新古典主義の流れによって屈強に打ち固められた芸術アカデミーの見方からはよもや出来損ないの絵として叩かれる嵌めにも陥った。


調べると唸るけど、そもそも印象派という呼び名もモネやルノワールという当人たちが付けたわけではなくてフランスで芸術を取り囲んだ周りの誰彼から世間並みにちゃんと描けない――絵の輪郭がどうにもぼやけていてイメージが完成したにしては大雑把な仕方の――画家だから印象しか捉えられないと酷評されたせいだったとされる。


ピエール=オーギュスト・ルノワールの陽光を浴びる裸婦

ルノワールとしては陽光を浴びる裸婦で打ち出した木漏れ日の人肌への光と影の様子が一部の人たちから腐った肉のようだと露骨に嫌われたらしい。


確かに見えなくはないと思うし、取り分け人肌の影の風合いが何かの痣とも見分けが付き難いのではないか。


考えれば感動的だし、詩的に見るかぎりは人間は誰でも本当は傷付きながら生きていて心から祈らずにはいられないと陽光を浴びる裸婦は平和の象徴こそ非の打ち所もないほどの速やかさで優しくも歌い上げていたとまさか立ち上がって拍手を贈らざるを得ない。


ルノワールにとっては転機が訪れた作品ではないか、たぶん芸術家として。そして画家としては世界の平和を大事にするかぎりはおよそボードレール悪の華も宜しく詩的に見なくても分かるという絵を明らかに求め出したような切欠を感じるんだ。


するとヴィジョンが問われたといい得る、陽光を浴びる裸婦から。絵的に見て気持ちがしっかり伝わるかどうか、退廃志向が素晴らしければベーコンに特徴的なスタイルも二十世紀には出て来るけど、ルノワールはどんどん離れて行くので、追いかけてどんな画家だったかというと心のままに素敵な何かを世界の平和として打ち出したかったみたいに受け取る。


朗らかな性格ならば全ては自然な成り行きだったはずにせよ、ムーラン・ド・ラ・ギャレットには《人生を立ち返った潔さ》が本当に見事に溢れ返っていた。つまり陽光を浴びる裸婦が一部の人たちに貶されたもののきっと自分こそオリジナルのヴィジョンを掴んだ結果として画家の新しい旅立ちを宣言するような将来への門出を祝うような仕方で華やかに味わわれる趣きを伴って完成されたに違いないと思うわけなんだ。


木漏れ日の光と影の印象が爽やかさを示していて苦しさを相当に抑え込んでいる。少しだけ眩暈を感じさせるところがルノワールならではの優しさのエッセンスとして芸術的に結実しているのではないか。


陽光を浴びる裸婦には底知れない嘔吐感が齎されていてそれこそ人間の実存へと迫っていたし、現実性を引き剥がされた精神の痛ましさを認めさせるくらい意義深かった。ルノワールの本当の良さというには可愛らしい絵ばかり望んでいたようだから本人は気付いてなかったかも知れないけど、しかしながら人間の実存なしには素敵な何かも嘘臭くなるとすれば無邪気でも作風は現代的に切り放しては理解できなさそうだ。可愛らしい絵の全ては感性が純朴と心温まる以上に飛んでもない洞察力に基づいていると一際と高く評価するべきだろう、ルノワールにかぎっては。


ピエール=オーギュスト・ルノワールの自画像

ムーラン・ド・ラ・ギャレットには世界の平和と眩暈を避けられない優しさが広がっていて本当にやはり詩そのものだった。絵そのものだからヴィジョンが効果的なゆえにそうなってしまうところが印象派は面白いとも良く分かる。


いつしかゴッホが絵を詩に近付けたいと考えた気持ちも頷かれる。どうして絵がイメージを介して詩になるのか、または耳で聴かれる音楽ような感触を与えるのかが問われた。彼は後期の画家だったけれどもそうした印象派の魁としてはモネとルノワールで風景と人物のモチーフの重要度が大きく分かれるとされる。ただしどちらにしても絵の雰囲気が固有の世界を生み出して画家を含めた人々を一つの見る目から紛れもなく人生ごと引き込んでしまわずにいなかったせいみたいなんだ。


芸術を恋愛に置き換えるかぎり、もはや身投げした男と女も歴史的に素晴らしい気持ちの中で感じ取られる。


ルノワールはムーラン・ド・ラ・ギャレットで画面の前方に知り合いの何人かを配置している。全体のイメージを決定漬付けるくらい大きく描かれていて斜めに分割すると右下を完全に占めている。そして左上には見知らない誰かが小さく多めに描かれていてダンスホールの雰囲気を楽しげに盛り立てているけれども男女で恋模様と踊っているわけなんだ。


オリジナルのヴィジョンから芸術とは何か、どんな絵を描くのが自分らしいかを創作したのではないかと察せられる。


素晴らしい気持ちが絵になって目に見える形で経験されるとするとそこに逆に招き寄せられる。さもなければ詰まらないし、自己表現は上手く行ってないから画家は腕前のかぎりを尽くして成功した状態で芸術的な魅力が純然と掴まれたはずだ。


ルノワールはムーラン・ド・ラ・ギャレットで何よりも男と女の恋模様にイメージとして託したのではないか


頬を寄せ合って踊っている二人が何組みか見易く描かれているけれども画家と絵の人生を暗示していてルノワールにおいては素晴らしい気持ちに他ならない。皆が同じならばそれこそ世界の平和かも知れないし、祈りにも等しく、夢のように素敵な光景を本当に教えてくれているとムーラン・ド・ラ・ギャレットを通じて学びながら感心してしまう。


生活の花園といって良い。知り合いの何人か、親しみを込めた感謝から幸福感に包まれた人々へ思いを馳せるという構図なのは人間性が振れてないせいだ。信頼できるし、認識において優れた射程だと今此処での真実を踏まえながらきっと確実に到達し得るという将来を望ましく見据えているように感じる。踊る男女から芸術も恋模様と捉え返せば何もかもが花咲くほどに印象深いわけだ。


ルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレットは砂漠の中のオアシスにも匹敵する有り難みを持っているし、誰にとっても出会い甲斐のある崇高な作品ではないかと一人では計り知れない畏怖こそ頷いてしまうにせよ、掴み損ねては惜しいばかりの光栄を今正に待ち構えるように湛えているのは確かだ。


参考:ピエール=オーギュスト・ルノワール ムーラン・ド・ラ・ギャレット

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