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株式市場のマネーゲームで世界同時株高

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日本の株式市場が高騰していて日経平均株価が1992年の二万二千九百円台を二十六年振りに更新したといわれる。史上最高値はバブル経済と呼ばれた1989年の三万八千九百円台らしいので、まだ一万六千円以上の開きが残されているにせよ、1991年にバブル経済が崩壊した直後の水準まで日本の主立った企業/二百二十五社の株価が懐かしくも上昇している。不況が続いていて2008年に六千九百円台まで落ち込んでいたからさらに十年で三倍以上と急激に持ち直して来たんだ。
日経平均株価 via 日本経済新聞社
株式市場とは何か。会社で証券取引所に資本金の株式を公開している場合に売買が可能になって実際に取り引きが行われる状態を指している。株式を公開していて誰でも売買が可能な銘柄を持つ会社は上場企業と呼ばれる。証券取引所によって格付けされたりして例えば東京証券取引所(東証)ならば一部や二部やマザーズなんて分けられるようだけれども国内で有名な会社は大抵が一部上場企業に含まれる。株式は資本金だから買う人が会社の所用者(株主)だし、適宜、代表の社長を含めて取締役を選任するなどの会議(株主総会)が開かれて経営にも影響を及ぼすんだ。取り引きされる株式は買う人が多いと値段が上がって少ないと下がるので、人気によって商品と同じように変動する価格/値動きを持っている。だから市場だけれども株式は何かを生産するわけではないし、上場企業が魅力的かどうかの評価額を示しているかぎりの株式市場そのものは生産力に基づく商品やサービスの財市場とは区別される。他の債券(借入)と併せた証券市場、さらに財市場を生産力から実体経済と捉えると反対の資産市場の方面で、外国為替(通貨価値:貨幣の対外的な交換比率)も併せた金融市場の一つに数えられる。
僕は普段から投資と縁がないし、良く分からないので、この際、改めて復習しておきたい。貧乏だから生活費すらも危うくて無理とはいえ、将来、もしかしたら投資を行わないとはかぎらないから予行学習にもなる。何れにせよ、経済を理解するための知識を得られて嬉しいのは間違いない。
巷でマネーゲームといわれるのは金融市場の取り引きが主体で、株式市場も入っている。それ以外では不動産などの実体経済での過剰な売買が投機的な意味合い(売るために商品が買われている)からマネーゲームといわれたりもする。
たぶん数学者のジョン・フォン・ノイマン…

水野真紀がカルロス・トシキのファンなのは純然な幸せのイメージが分かるせいだと考える

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爆報!THEフライデー水野真紀が出演していてカルロス・トシキのファンだと夢中になって話していた。かつてボーカルを務めたバンドの1986オメガトライブの大ヒット曲だった君は1000%を口遊んだりしながら如何にも憧れているらしい様子が微笑ましかった。現在は歌手を辞めて日本から本国のブラジルに帰って農業の会社で働きながら種の品種改良を手がけていて最も偉大なニンニクのスペシャリストの一人と呼ばれるくらい素晴らしい業績を上げているのを教えてくれた。気になってブログを観に行くと1986オメガトライブの完全版ボックスとか「カルロス・トシキにハマった乙女」(今夜「暴報!THEフライデー」)なんて載っていたから相当に本気だと感じてしまった。
君は1000%/1986OMEGATRIBE via vap official
僕もカルロス・トシキを良く知っていた。元々は杉山清貴&オメガトライブふたりの夏物語 -NEVER ENDING SUMMER-などで大人気だった。海を感じさせる作風でヒット曲を連発していたけれども暫くするとボーカルの杉山清貴が抜けたらしくて代わりにカルロス・トシキが入って1986オメガトライブに変わった。杉山清隆が爽やかな歌声だったのとは又別に甘やかな歌声なのをちょっと驚きつつも作風は同じように海を感じさせる仕上がりで、取り分け君は1000%が印象深かった。さらにカルロス・トシキ&オメガトライブに変わってアクアマリンのままでいてが再び爆発的にヒットしたのを覚えている。
当時、大して気に留めてなかったし、世の中の流行歌として聴いていただけだった。
ところが三十代前半に作詩していてアクアマリンが完成した時点でカルロス・トシキの歌が思い浮かんで来た。君は1000%やアクアマリンのままでいてなどは情感が被っているのではないか。僕は詩人として永遠を歌っているから永遠から捉えた1000%やアクアマリンという言葉遣いに通じ合う部分が受け取られるので、カルロス・トシキの歌はとても素敵だったと改めて認めるに至ったんだ。
簡単にいうと青春期を振り返った夢の世界が永遠の詩と似通っていて例えばファッションブランドのForever 21もそうだけれどもカルロス・トシキの歌は懐かしくも今正に手に入れたままに止めておきたくなる新しい真実を打ち出しているようだ。
僕にとってアクアマリンは重要な作品で、昔の…

ナサニエル・タウンスレーのドラムの演奏には飛んでもない集中力が漲っている

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Nathaniel Townsley Live at Triple Colossal Studios Part 2 via GMSDRUMSTV
ドラムはリズムを取るための楽器だし、たとえメロディーを奏でるように演奏しても音の強弱のみで高低まではさほど細かく変わらないものだと思っていたら完全に覆された。
物の見事に歌っているというか、もはや一つの世界を明らかに築き上げるほどのドラムの演奏は可能だったんだと気付かされて感動した。
ナサニエル・タウンスレーというアメリカのドラマーなんだ。数年前にModern Drummer Festival Weekend 2003のドラム演奏を観て初めて凄いと知った。微笑みながら背筋をピンと伸ばして正しく力強くも安定感のある素晴らしい音楽性に富み捲った正確無比な並外れたパフォーマンスを披露していたのが印象的だった。先ずは猛烈な速度の連打が何よりも目を瞠るけれども引き込まれて行くと次第に強弱と高低の組み合わせから成る個性的としか呼べない音作りの無限大の広がりが比類なく受け留められた。演奏そのものが千手観音さながらの畏怖を覚えるし、ステックを持つ手とペタルを踏む足が縦横無尽にドラムセットを鳴らし続けるんだ、何がどこから飛び出して来るのかも把握できないほどの魔術的な様相を呈している。名人芸とすると如何にも常人離れしているらしい。総じて飛んでもない集中力で実現されているドラム演奏ではないかと賛嘆しながらナサニエル・タウンスレーには人生を学びたい気持ちにもさせられる。
人間が望みを成し遂げるためには自己表現に漲る集中力こそ第一条件と考えて良いはずだからどんな分野でも教えて貰えるような世界に圧倒的なまでに触れられるのは有り難い。
ナサニエル・タウンスレーの生得の才能は父親の教会で年少時と途上ではなくて故郷へ帰る、この日に至るまで明らかだった、現今、世界で最も有能なドラマーの一人と考えられるが、ナサニエルの才能は音楽の本当の革新者の一人、ウェザーリポートのジョー・ザヴィヌルによって認められており、ジョーが亡くなるまでの年月を共に彼は演奏していた。ザヴィヌルのドラムの席を占めている人は純然のドラマーのドラマーと考えられてナサニエルの素敵な技巧、音楽性、そして信じられない感覚がザヴィヌルの目論見に完全に適合していた。
Nathaniel Townsley via…

ブログの人気を増すためには率先してブロガーの存在感こそ強く示すしかない

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ブログのアクセスが伸びなくて本当に困る。開設して一年を過ぎたにも拘わらず、朝から三十人を下回っている。夜まで二百人は本当に無理だろう。遅いとしかいいようがないままだ、ブログの成長は相変わらず。
どうして人気がないのか。訪問者は一日百五十人を越えているから閑古鳥が鳴いているだけだった最初の頃よりは確かに知名度そのものは上がっている。しかしまだまだ厳しい状況を強いられている。一日二百人が昨年の八月から気に留まって、半年、到達できないというか、安定して越えられないから気持ちは本当に辛い。何とか人気を増して行きたい。
何にせよ、皆が満遍なく気に入る、万人向けの仕上がりが記事に求められると思う。
ならばブロガーとして個性を出すのも大事だけれども理解されないと人気は付いて来ないのではないだろうか。
分かり易く表現するとやって来て新しく気付くのは記事だけではなくて僕自身も同じくらい理解されるべきだ
The back of a woman who faced the sea by melancholiaphotography [CC0], via Pixabay
個性を出すのとはちょっと違う。どんなテーマを扱っても作り手は僕以外の何者でもないと認められるかどうかが問われている。創作活動としては作風が大事なんだ。
従来、大して自覚せずにいた。好きな気持ちでやれば人々からは自然に受け取られるはずだし、作風はそれこそ一つの空気として味わわれるので、率先して表現しない作家でも別に構わないと考えた。
ところが人気が及ばない。訪問者があの人は何なのかと一瞬でも遠ざけてしまうのが不味いのではないか。インターネットはやはり実生活よりも情報量が少ないといわざるを得ない。たとえ出会ってもブログでは身振りまでは分からないとか無意識で伝わらない部分が大きそうだ。見ず知らずの相手だし、作者への避けられない疑わしさを晴らさないと近寄り難いままで終わり兼ねない。または嫌われ易いと懸念される。
些細な日常に僕がいるみたいに存在感を明らかに与えるほどの自己表現が重要に違いないだろうと改めて感じている。
方法は簡単だ。文章ならば言葉遣いを自分らしく持って行く。すると作詩と全く同じだったり、好きな気持ちを噛み締めながらやるというか、書きたい世界だけを書けば良いわけだ。自覚しないと言葉遣いの強度が下がるので、詩以外では当たり前に見かけない…

新産業革命と呼ばれるパリ協定に基づく脱炭素化のクリーンエネルギーへの国際的な取り組みの印象

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世界の地球温暖化対策は物凄い勢いで進んでいる。例えば世界有数の巨大な産油国だったサウジアラビアでさえも広大な砂漠にソーラーパネルを敷き詰めたりするように昨今では人々のエネルギー利用から二酸化炭素を削減する方向へシフトチェンジが根本的に行われていると分かった。
Saudi Arabia goes solar via ABC News (Australia)
従来、石炭や石油をエネルギー資源として活用しながら燃やした際に排出される二酸化炭素を減らして地球温暖化をどれだけ止められるかという仕方が主流だったはずだ。
身の周りでは町中にガソリン車が減って電気自動車が増えるから変わっているのを感じたけれども人々のエネルギー利用の大本がもはや刷新されようとしているわけだ。日々、電気が必要ならば供給する発電所に石炭や石油の火力よりも宇宙の太陽光や地上の風力を想定するのが当たり前になって来ている。
現時点で人々のエネルギー利用の大本は完全に移行してないし、世界の発電所の割合も太陽光や風力よりも火力、そして原子力も併せて他の方式に大きく依存している国が圧倒的に多いけれども将来性がなさそうな状況が本格化された地球温暖化対策を示していて凄いと驚く。
一般的に脱炭素化のクリーンエネルギーへの国際的な取り組みとして新産業革命と呼ばれるのも聞いた。
十八世紀後半から十九世紀前半にかけてイギリスで飛躍的に始まったとされる産業革命は蒸気機関の発明と工場制機械工業の拡大が印象深かった。
人類初の鉄道/蒸気機関車に象徴されるように強力な機械に必要なエネルギーとして石炭が重宝され出した。
以降、技術革新が推し進められて二十世紀に入るとガソリン車が世界中に普及したりしながらさらに扱い易い石油の利用も爆発的に加速して行った。
取って代わって新産業革命と呼ばれる所以はエネルギーとして太陽光や風力という二酸化炭素を排出しない発電所の電気を中心的に利用するためで、産出についてかつての石炭や石油の燃焼に由来するのとは全く相容れないところが脱炭素化のクリーンエネルギーを特徴的に示しているし、人類にとって画期的な手法なんだ。
因みに昔のイギリスの産業革命はそれ以前に自明の理だった工場制手工業(マニュファクチャー)に対して呼ばれている。エネルギーは人間が中心的だったし、機械といっても人力の道具こそ重宝されていた。または動物や自然の力にしても…

エド・シーラン:ホームレスから飛び出した世界トップのブリティッシュロックの新星

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イギリスで大人気のロック歌手でエド・シーランがアメリカでも同じように売れ捲って2016年の第58回グラミー賞で初めてThinking Out Loud(考えを声に出して)が最優秀楽曲賞と最優秀ポップ・ソロ・パフォーマンス賞の二つを受賞していた。音楽への影響力の大きさから名実共に世界トップのアーティストといって良いのではないか。日本でも一ヶ月ちょっと前にコンサートを華々しくやっていたらしくて知っている人は決して少ない存在だろう。
Ed Sheeran - Castle On The Hill via Ed Sheeran
YouTubeの公式チャンネルで何曲か聴いてみた。Castle On The Hill(丘の上の城)が細やかに軽やかで心地良い。エレクトロ全盛というか、DTM(デスクトップミュージック)の高性能なコンピューターを使った彩り豊かな音作りが流行っている中で、そうした新しい良さを的確に取り入れながらしかも昔ながらの歌心を人間的に打ち出しているところが凄いと驚く。グラミー賞のThinking Out Loudなどはアコースティックな生楽器のセンスが却って出色に受け留められる仕上がりの音楽にせよ、端的にいって懐かしい。バンドを組んで楽器を演奏するだけが全てだった時代、ブリティッシュロックでは個人的にビートルズが最も印象深くて同時代では聴いてなかったけれどもおよそ五十年振りに人々に帰って来たかのようだ。
青春期、ロックバンドでもテクノ寄りの曲作りのライト・セッド・フレッドが格好良くて大好きだったし、一発屋みたいな感じで、世の中で直ぐにさほど目立たなくなったものの代表曲のDon't Talk Just Kiss(何もいわずに口付けを)は未だに素晴らしいと思っている。
ブリティッシュロックは十代後半のビートルズと二十代前半のライト・セッド・フレッドを聴いて殆ど止まっていたので――音楽としてはジャミロクワイを長らく気に入っていてイギリス生まれのアシッドジャズバンドだった――エド・シーランで四十代後半と本当に久々に又触れて気持ちが動き出したと人生の巡り合わせに不思議な喜びを受け取ってもいる。
聴いて新星だと感じる。歌心の懐かしさが温故知新なんだ。ブリティッシュロックとは何か、ロック自体がイギリスのお家芸みたいな固有の音楽ジャンルだすると改めて本格的に理解される部分を持っ…

アルメリノ・アナリンが歌った尾崎豊のI LOVE YOUとMISIAの逢いたくていまは気持ちが乗っていた

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テレビの音楽チャンプで第一回の歌唱チャンプにアルメリノ・アナリンが決定したのを観たんだ。
「逢いたくていま」 (MISIA) / アルメリノ・アナリン via tvasahi
プロ歌手を目指すフィリピン人の十七歳の女子高生で、他の出場者と比べて頭一つ抜ける声量だった。安心して聴けるからプロ歌手に近いと感じた。優勝して欲しいと考えていたら本当に優勝したから嬉しかった。声が十分に出ているかどうかがプロ歌手への第一条件だとすると他の出場者に打ち負かすのは厳しかったようだ。
皆さん応援そして見てくださり本当に本当にありがとうございました😢
皆さんのお陰で優勝することができました!
本当にありがとうございました😢
アルメリノ アナリン via Twitter
総じて日本の歌手は声量が足りないと思う。僕はMISIAしか本気で真剣に聴き込まない。それでも五オクターブの音域で、七オクターブのマライア・キャリーには劣る。アメリカ人だけれども日本人はやはり頑張って自覚的に練習しないと声量は自然には増して来ないのではないか。
古来の日本の音楽は別としてロックやポップスなどの欧米の音楽は伴奏の楽器も大きな音が出るし、歌手の声は同じくらい出ないとインパクトが薄い。メインでやるならば全体で、一番、目立たないとどうしても聴きながら不安になって来てしまうわけだ。
昨今の歌謡曲は欧米のロックやポップスなどが殆どだから日本人には最初から体質に合ってなくて歌うのは難しい状況なのを気に留めておくと良いと思う。
普通では駄目だと少しでも分かっていれば歌い方はそれだけ変わるに違いないし、重力に逆らって飛び立つ鳥のように日本人離れした思いから声はすんなり出易くなりそうだ。
アルメリノ・アナリンはフィリピン人で、公用語として英語が普通に喋れるようだから声量には向いていて昨今の歌謡曲で挑まれる歌唱チャンプには日本人よりもちょっと有利だったのではないか。
英語は日本語よりも強く発音する部分があるし、慣れていれば声も比較的に出易いと考えられる。
ただし審査員から日本語の発音を注意されたりもしていて表現力では不利だったとすると歌手としての評価そのものはチャラになる。
歌唱チャンプの準決勝で尾崎豊I LOVE YOUを歌ったのが初めて聴いたアルメリノ・アナリンの歌声だった
規定の選曲だったけれども詞の内容が深いから表現力が物凄く問われた。十…

個性が他人に特別な感情を抱かせるからやはりサイトのアクセスアップや日常生活にも肝心だろう

ブログの検索エンジンからのアクセスは少しずつ増えている。一日百五十人が目の前に迫っている。微笑ましいかぎりの毎日で改めて気付くのはGoogle検索に引っかかる記事の種類が増えて来たようだ。するとブログ自体のサイト評価が上がっていると考えられる。
SEO(検索エンジン最適化)対策としてサイトのドメインのサイト評価が子ページの全てに影響するけれども前者が良くて後者も良いという傾向が増している。
面白い、やっていて。サイト広告で生活費を稼ぐにはまだまだ光の見えない暗闇の中を彷徨っているに過ぎない状況にせよ、ブログの成長を実感するかぎり、夢は死んでない。頑張れば何とかなると期待するほどに希望を強く持って前向きにブログを更新する気持ちが高まるんだ。
終わりではなくて続ける。さもなければ数百字の記事を公開しながら検索エンジンに嫌われ兼ねないブログだろう。できれば二三千文字が求められるわけで、作家活動も得てして変えざるを得ないけど、こればかりはただし致し方がない。検索エンジンからのアクセスアップを狙うブロガーとして大事なのは本当に必要以上の文字数が強いられた場合に文章をどれだけ気持ち良く仕上げられるかに尽きると思う。
すると訪問者も寄り付き易いというか、ブログの記事に興味や関心を増して助かると想像するんだ。
気持ち良いからもっと読ませて欲しい。更新しなければ既出の他の記事を見に行ってくれるかも知れない。ブログでページの平均滞在時間を上げるのもGoogle検索でのサイト評価に繋がる可能性があるから決して等閑にはしたくない。文字数にかぎらず、読んで気持ち良い文章、または気に入らずにいられないコンテンツとは何かを追求するサイト運営は一つの大きな手に他ならない。
どんな自己表現がブログのアクセスアップに役立つかを事ある毎に考えて来て一日百五十人を目の前にしながら今初めて覚えておきたいのは人々に特別な感情を抱かせる記事への思いなんだ。
触れると僕自身が心の底から分かって貰えるはずだけれどもブログにとっては世の中で他のブログでは得られない世界を与えるのではないか。訪問者がそんなふうに特別な感情を抱くほどにページの平均滞在時間が上がるのはもちろんのこと、常連/リピーターを増やすのにも非常に効果的だと感じてしまう。
自分でもブロガーとして個性がはっきり打ち出されたに等しいわけだからやっていて嬉しいので、もはや…

松島の海と象徴的に切り離せない父と息子の物語

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七月の第三月曜日は国民の祝日で海の日だ。海というと僕は出かけた経験が殆どないし、記憶も朧そのものなんだ。なぜかはやはり泳げないせいだろう。プールも同じだけれどもいつも縁がなかった。
水辺ならば魚釣りの池や川が余程と好きだったし、振り返って思い出も数知れないくらい良く親しまれていた。
Matsushima Shidaikan Sokan by Ippukucho (Own work) [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons
ところが海もとても印象に残っている場面がある。一度だけ出かけた宮城県の松島の海だった。日本三景(松島・天橋立・宮島)に含まれる国内で最も有名な絶景の一つだけれども小学時代の夏休みに父親に連れられて二人だけで訪れた。
遠くまで点在する島々が遥かに霞んで行く光景が幻想的で如何にも不思議だったと覚えている。
秋田県の祖母の家から自宅に帰る途中に車で立ち寄った。大好きなカブトムシクワガタムシをバケツに大量に捕って車の後部座席の床に置いて持ち帰るところだったし 、早く帰りたいだけだから困ったけれども父親がどうしても松島の海を僕に見せたくて二人だけの思い出を作ろうとしていたのではないかと後からは考え出した。
心を探れば日常生活で他にも似たような場面は幾つか見付かりそうだけれども何れも特別な気持ちで受け留められるかぎりは父と息子の物語だろう。
映画ならばオーバー・ザ・トップ(監督/主演:シルベスター・スタローン)が真っ先に思い当たる。
腕相撲のチャンピオンを目指して貧乏に息子と共に明るく耐えながら世の中で努力して栄光を勝ち取ってみせる父親の尊敬するべき姿を誇り高く描き出していてド派手な演出が著しく目を引くけれども父と息子の物語が却って非常に分かり易く対照的に心に静かに染みて来るのが素晴らしい映画だと感じる。
松島の海は個人的に父と息子の物語の象徴だ
Matsushima Shidaikan Reikan by Ippukucho (Own work) [CC BY 3.0], via Wikimedia Commons
何もするわけではない。ただいるだけで良いみたいに父親は何もいわないし、僕も同じように黙っている。時の流れを何なのかと問わせるのがおよそ父と息子の物語の特徴だろう。
詩的といえば詩的だし、心が静けさに触れながら世界が風になる。父と息子の物…

花々のマクロ撮影は世界が変わる瞬間を色鮮やかに写真に残せるのが嬉しい

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マクロ撮影はどんな被写体でも世界が変わる瞬間を写真に残せるのが面白いと思うけれども取り分け花々だと色鮮やかに仕上がるから今正に見方が新しく生み出されていると求められるリアリティーが増して来るようでいつも嬉しい気持ちが大きい。
ミラーレス一眼カメラのα5100にさらに等倍マクロレンズのTouit 2.8/58Mを購入して以来、写真のマクロ撮影の作例がどんどん増えて行くばかりだ。
最初は世界が変わる瞬間に怖がっていたかも知れない。被写体を傷付けるのではないかと一つの慣れ親しんだ見方の崩壊、または逸脱に心を僅かにも苛まれずにいなかったような感じがする。しかし常日頃のイメージだけが正しいわけでは決してないはずだし、写真のマクロ撮影は被写体に隠された新しい真実をはっきり引き出せるところが良いんだと考えるほどに積極的に取り組めるようになった。
とはいえ、実際に取り組んでみるとマクロ撮影によって被写体への一つの慣れ親しんだ見方が余りにも変わり果ててしまって何が写っている写真なのかも咄嗟に分からない場合には精神的な混乱を招くのが心残りだと悲しみながら又躓くように狼狽えずにもいなかった。
写真家として何をどう捉えるかのどうだけでは不味いと考え込んでしまうし。何をが改めて問い直されるんだ。

マクロ撮影を本当に望んで積極的に取り組むと常日頃のイメージを狙いの部分に切り分けるくらい被写体に近付いて行く。全体に何なのかがもはや分からなくなる瞬間が薄気味悪く受け取られもするわけで、耐え難い苦しみを余儀なくされざるを得ない。止めるべきではないかとカメラを持つ手が震えて気持ちから引き下がろうと案じる。
するとしかし驚くのは美しさが閃いたりもするんだ。
被写体から薄気味悪くて離れ去った記憶の中にたとえ部分でしかなくても新しい世界の良さが写真家として経験されたせいだろう。
全体のイメージとは必ずしも合致しないという又別の美しさが諸々の部分には潜んでいる場合があるに違いないわけならばカメラに収めずに捨て去るのは惜しいし、または忍びなくも引き付けられるかぎりは追い求めて行くしかなくなるように気持ちは情熱的に切り替えられるんだ。
被写体の部分的な魅力を捉える写真は本当にマクロ撮影でなければ殆ど不可能なスタイルなので、醍醐味といって良いと思うし、そうした特徴的な素晴らしさに気付いて取り組むほどに面白いばかりで、新しい世界との…

思想の意義としての心地良いばかりの世界

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人間は世界とは何かの思想を持つと素晴らしい気持ちを味わう。しかし信念が胸に広がったせいだとすると本当に重要なのは自分自身の思想を生活に組み込めるかどうかにかかっていたらしい。
鳥が大空へ羽搏くためには翼が必要だけど、翼だけでは得てして無理なので、どう羽搏くかを知らないままの鳥では気持ちは素晴らしいにせよ、大空からは見下ろされるかぎりの自然でしかなかった。
日本人の知性と思考の方法論的な哲学人々に大衆への理解は本当に可能か平和の原理/抽象力を有する人間性/論法そのもの人間の精神/心理のための感受性の理論
挙げると些細な日常の四つの記事が著しく目立った。思想を持つだけではなくて信念において生活に組み込むように有用な認識としての効果を高めもするためには方法、見方、原理、理論が欠かせなかったとはっきり分かって来た。
心地良さが増している、人生に。だから気持ちも現実に素晴らしいわけではなかったか。一言で知恵ならば思想の意義は他でもなく、どう生きるかの認識力にかかっていたに違いないだろう。喜ばしい魂の世界と捉え直しても良い。
注意すると頑張り方が問われたせいではないんだ。夢を叶えたくて予め案じて講じながら幾つもの思考へ励んでは来たものの直接的に必ずしも知恵ではなかった。どれも生活の知恵だけれども思想の意義へは触れてなかったわけなので、向き返すと恐ろしいほどの真実だから容易には手が付けられなかったようだ。
飛び込んでも底無し沼に匹敵する対象がある。気になると性急に取り組んでも思考は解き解せないまま、対象へはズブズブ沈み込んで行くばかりで、快適な暮らしへはもはや手を伸ばすだけが精一杯なほどの窒息を強いられてしまいそうだから不味いと直ぐに思い止まっていた。偶さか感じるのも深入せずに助かったみたいな印象ではないか。底無し沼の対象からは逃げ出した勇気というか、よもや思考こそ名折れならば生き残っては微かに憂鬱なかぎりの誇らしさだったはずだ。
躑躅の咲き乱れ via 天使のモノクローム
皆にも現時点での心地良さを受け取って欲しい。本当に強力な精神かも知れない、人間にとって。ただし思想の意義を掴むのは大変だからイメージを示して教えても翼を与えるだけで済んでしまい兼ねないし、どう羽搏くのかという方法、見方、原理、理論を自力で引き出さないときっと有用な認識として身に付かないので、知恵ならば実現してからあの人はあ…

日本人の知性と思考の方法論的な哲学

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お笑いの有吉弘行が哲学について本を出していると知った。毒舌訳 哲学者の言葉という題名で、数多の哲学者たちの言葉を題材にして自説を述べている。インターネットで偶々だったけれども紹介しているサイトを見かけたから気になって訪れてみたんだ。
哲学とは…変わり者の人が適当に言ったことをなんとか普通の人たちが解釈してあげて無理やり「わかるわかる」と納得してあげているもの
有吉弘行の毒舌訳 哲学者の言葉
心外というか、哲学は本質的に思考だから、表現上、間違っていると項垂れるしかない。しかし目を背けてはならないはずだ。お笑いとして許される気持ちを棚上げとすれば真面目に日本を過ごし易く変えるためには現時点で知性改善論のような思考が人々に求め叫ばれているのではないか。まさか興味深い世相が露呈し捲っている。有吉弘行で示し出されたというのは本当に物凄く面白いし、僕は思考が超大好きなんだ、お化けなんて呼ばせない。
笑いたい人は笑って、それが一つの狙いならば余談だけど、大きな息を吸うように。
ぷよぷよでもないにせよ、こんがらがった頭が哲学だと感じる日本人が多いとすれば有吉弘行の言葉遣いは取り立てて珍しくはない。だから哲学者を「変わり者の人」と捉えているわけだろう。思考そのものは外れてない――疑ってかかるだけでも脳味噌を置き去りにされ兼ねなくて危なさそうだ――から有吉弘行こそ哲学者と見えなくはないし、お笑いにしておくのも勿体ないくらい知性が巧みに働いているんだ。
泣きたい人は泣いて、それが一つの習いならば余談だけど、大きな空を仰ぐように。
スカウトはしない、有吉弘行を哲学者へ。白い布切れを一枚だけ羽織いながら古代ギリシャよりも現代アメリカのまるで自由の女神のように思慮深く立ち尽くしていた。どんなに可笑しくても僕はプロデュースするつもりはない。有吉弘行のイメージがお笑いから哲学者へと変貌を遂げる間際に心を素晴らしく擽られるのはなぜか。天使よ。腹を抱えるのは僕だけではないはずだ。きっと人々も感じているに違いない、思考から引き起こされる苦悩という頭がこんがらがってしまう気持ちは現世で未だ経験されない死ほどにも想像上の可能性でしかなかったと。
悲しい人は尊んで、それが一つの憧れならば本題だけど、美しい風を纏うように。
問おう。なぜ有吉弘行こそ哲学者なのか。知性が働いて思考を纏めたかぎりだけれども方法だけで人は誰も哲学者…

北川景子のInstagramが偽物で削除されて

ブログを移転していてDAIGOと北川景子の結婚式の記事を改めてチェックしたら異変に気付いた。写真が表示されなかったという。北川景子のInstagramから埋め込んでいたから咄嗟にリンク先を見に行ってみると削除されていた。調べるとアカウントが偽物だったらしい。北川景子はブログしかやってなかったんだ。
参った。写真に合わせて文章を載せたから完全にバランスが崩れてしまった。試行錯誤の結果、写真の代わりに描写を「白いタキシードと白いウェディングドレス」と言葉で載せたらイメージが逆に良くなったので、笑ってしまったよ、本当に。
諸々の部分がブログの記事の全体に合っているかどうかかが問われるし、完成度に響く。狂いないほどに作品として魅力的に仕上げられそうだ。自己表現の本質からは間違いない。皆にもきっと分かり得る。
なので気付いた、自信を持つべきだと、つまり作家・詩人として。
サイトのアクセスアップに写真や動画を載せると有利だと巷で聞かれるけれども文章だけで十分にカバーできるような実力を備えているのではないか。二十年以上も文章へ取り組んでいれば誰だって描写くらい上達するに違いないだろう。文章だけならば表示速度も下がらなくて嬉しいし、とにかく合わない写真や動画を無理に載せるよりは良いに決まっているんだ。
DAIGOさん(@daigo_breakerz_)がシェアした投稿 - 6月 8, 2016 at 5:19午前 PDT
DAIGOInstagramは本物だ。僕も警戒しているし、公式サイトにリンクが貼ってあるかどうかで判断しなくては行けない。ソーシャルメディアをやっていれば大体は相互リンクで見付かるんだ。DAIGOのInstagramはDAIGOのホームページにリンクが貼られたTwitterの「とうとう我慢出来なくて、インスタはじめました!笑」にリンク付きで紹介されていたから大丈夫だ。
大元の公式サイトが本物かどうかはホームページでもソーシャルメディアでもコンテンツで判断するしかないだろう。本人に相応しい自己表現が取られているか。すると相互リンクされた他のサイトのコンテンツも参考になる。インターネットで信用性を高めるためには公式サイトとしてホームページやソーシャルメディアは多めにやるべきというか、忙しいほどに大変ながら苦労しても決して損はしないと僕は思うよ、人々へ向けて。
北川景子については…

神の本性を世界へ見定める真夜中の祈り

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夜に少し眠って起きたらその後に全く眠れなくなってしまった。まるで昼寝で気分が冴えたみたいだ。明日に備えて眠りたいのにもう駄目だ。徹夜して朝からぐっすり眠るしかないと起き続けている。
流石に外は静かだ、深夜で。遠くの道路から、時折、車の音が小さく聞こえて来るだけで、世の中は寝静まっている。
人生を思うよ。部屋に一人で上手く眠れず、付けた明かりの下で物音も大して聞こえないなんて生きるのも精神しかないみたいだ。

本当にどうなるのか、真夜中に将来へ向けて。考えれば必要なのはつまり神頼みだろう。嘆き苦しむよりはずっと益しだし、苦難を切り抜けるにも先ず以て祈りが欠かせない。神の本性を世界へ見定めながら希望の光に存分と包まれるように喜ばしく奮起してこそ生活も何とかなりそうに初めて感じ出す。
できると信じて自然に湧いて来る力を日々の目的の実現にしっかり活かすべきだ。
内面から沈み込むのが最も頂けないし、専ら死に近付くだけの詰まらない毎日だとやる気を失うばかりではないか。

サティの三つのジムノペディで良い演奏が見付かった

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Erik Satie - 3 Gymnopedies performed live by Tania Stavreva via Костадин Щерев
タニア・スタヴレヴァというブルガリアのピアニストの演奏で、サティ三つのジムノペディを聴いて良いのではないかと思った。
咄嗟には難しくていつも直ぐには納得できないばかりのサティの三つのジムノペディなんだけれども何よりもテンポが合うか合わないかなんだ。単純といえば単純ながら音楽の基本的なところなので、もう出だしで全てが決まってしまうし、演奏者の表現したい気持ちも瞬く間に分かってしまうのではないかと感じなくはない。サティの作曲家としての真骨頂というか、楽想が完璧に再現されるほどに音楽の味わいが美しく変わるように聴きたくなる。
それこそテンポ一つで全く別の世界に込み入りそうな三つのジムノペディなので、考えると空恐ろしくもある芸術性をサティには犇々と認めずにもいられないわけだった。
個人的には正反対だろう、芸術家として。僕は誰が読んでも同じでしかない詩を本質的に目指しているけれどもサティはサティだけが聴いて良い音楽を特質的に作曲したかったのではないか。
すると無理なんだ、サティ以外に三つのジムノペディを完璧に再現する、楽譜をとことん追求してもできないし、むしろやったら間違っているに過ぎないくらい真剣そのものだからもはや正確無比に演奏するとかなんて芸当は――。
サティのスペシャリストが演奏者で、主要な作品群から分けてもピアニストでいるとすれば意味合いが反り捲っていて思いから近付きながらパフォーマンスはぐちゃぐちゃでもサティは本当に一人しかいないと教えてくれるかどうかが最低限の要件になるだろう。
三つのジムノペディは出だしから安心して聴けるかどうか、作曲家のサティという存在に触れられるかどうかに興味も関心も尽きる。
タニア・スタヴレヴァのテンポはちょっと遅くていきなり頷くのはやはり厳しい。只、サティの指定では「Lent et douloureux」(レント・エ・ドゥルルー/ゆっくりと苦しく)となっているようなので、一番目のジムノペディはちょっと遅くて合っているといえなくはないだろう。厳しいし、急いで欲しいけれども却ってサティの思いに浸りながら他の誰にも真似できない真意に内面から目覚めるのは有り難いし、良い演奏だとも感じ出した。
好んで聴い…

音楽の個々の音符が生きていて楽想が織り成されている世界を素晴らしく感じた

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自作曲の自然倍音列(Original 26)が完成した。デモ版を公開したのが去年の十一月の初めだったから完成に三ヵ月近くかかった計算になる。
大半がマスタリングの作業に費やされた。FL Studio Mobileバージョンアップで新たに追加されたエフェクトの取り分けコンプレッサーリミッターの使い方が慣れないせいだ。発見も多くて楽曲に取り入れながら大丈夫かどうかを詳しく調べながら判断せざるを得なくて時間も余分にかかってしまうわけだ。
どちらも強くかけるとパート毎の音量のばら付きを揃え易くなるけど、しかし音が変わってしまう。イコライザーも必要だし、音質を調節しなくてはならない。
パート毎に別々に度合いを変えると全体のバランスが崩れるから纏めて二重にかけて音楽として馴染ませなくてはならなくてさらに作業が増えてしまう。
今回はコンプレッサーを初めて強めにかけて音質が従来よりも物凄く変わって戸惑うけれどもシンセサイザーの音量をきっちり揃えてドラムとベースは勢いをしっかり出した。エレクトロには向いていると思った。
知らなかったけれどもドラムで皆が良く鳴らしている感じはこれだと気付いたのは大きかった。コンプレッサーを強めにかけるとアタックが抜けて快適に聞こえるんだ。響きの余韻に優れるようだけれども実際にはリリースを伸ばしているせいではないのではいか。アタックが目立ってコンプレッサーで減衰した残りがなだらかに流れるので、響きの余韻として味わわれるのは確かだと考えられる。リリースよりもコンプレッサーで平板化された部分の音が大事だし、アタックで勢い付くほどに対照的に分かり易く、聞く耳に伝わって来るんだ。
コンプレッサーはドラムやベースのリズムへは強めにかけると合っているというのが府に落ちた、自作曲でやってみて正しく。
シンセサイザーは音程での音量差が激しくて本当に辛いからなるべく均等になるようにコンプレッサーをかけた。
楽音の元々のダイナミックレンジが広過ぎるせいで、メロディアスに作曲したければコンプレッサーは必須ではないか。後からコンプレッサーで幾らでも調節できるような設計とするとFL Studio Mobileは自由度の高い本当に優れた音楽アプリと称えられるにせよ、コンプレッサーなしでシンセサイザーを広い音程で使うのだけは難しくなってしまう。
自然倍音列で最も苦しんだのは出だしのシンセサイザー…

人々の毛綿鴨の羽毛のリサイクルには泣けて来る

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King Eider by Olaf Oliviero Riemer [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
毛綿鴨の羽毛は人々の防寒に珍重される。地球の北極寄りのとても寒い地方にしか生息しないけれどもそれだけ羽毛も防寒に優れていて保温性が著しく高い。
英語でアイダーダックと呼ばれて羽毛もアイダーダウンとして人々に愛されながら防寒に昔から使われて来た。ダウンでも品質は流石に最高級らしい。アイダーダウンを多用した布団ならば数百万円にも及ぶといわれている。
しかし凄く驚いたのは毛綿鴨の羽毛の人々の採取の仕方で、資源のリサイクルとは何かを考えさせられてしまった。ふわもこの可愛いらしさに、心毎、引き付けられながらではまさかだった。毛綿鴨と人々との関係には瞠目するべき世界があって甚く尊ばれもしてしまった。
羽毛のリサイクルというそれぞれの共存共栄
ノルウェーのヴェーガ諸島がアイダーダウンの伝統的な産地(世界遺産)として知られていて人々の採取が珍重しながら非常に長く続けられて来て――九世紀頃からといわれる――今現在も殆ど変わらない。
毛綿鴨が巣を作る。特徴的なのは卵を温めるために親鳥が自らの羽毛を抜いて周りを固めるんだ。とても寒くても卵が孵り易くなっているわけだけれども雛が孵ると親鳥と共に巣を出て行く。卵を温かく囲んでいた羽毛だけが残されているのを人々が自らの生活のために貰っている。
巣として毛綿鴨に不要になった羽毛が人々の防寒にリサイクルされていると凄く驚いたし、毛綿鴨と人々との《種族の閾》を越えた繋がりにはもはや心から感動を覚えざるを得なかった。
Eider nestingboxes by Thomas Bjørkan (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
人々は毛綿鴨の羽毛を貰うために小屋を建てる。巣作りに適していて何よりも天敵に襲われ難くなるし、毛綿鴨にとっては非常に助かる。小屋を見張りながら人々は暫くして必要な羽毛が手に入るわけなので、それぞれに共存共栄が成り立っている。何年もの間、ノルウェーのヴェーガ諸島では繰り返されて毛綿鴨の小屋が文化的にも相当に大きい。
詩的にいうと自然との対話が象徴的だろう。泣けて来るほどの素晴らしさを味わう。人々と毛綿鴨が羽毛のリサイクルを介して共存共栄を果たした…

どんな写真が撮りたいかは世界に訊くしかない

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ヤン・フォゲットのYoung Indian girl Raisen district Madhya Pradesh(マディヤ・プラデーシュ州ライセン県の若いインド少女)が瞬く間に引き付けられたというか、一度、見たら忘れられなくなるような優れた写真だけれども見事な表現力だと認めた。
Young Indian girl Raisen district Madhya Pradesh by Yann Forget [CC-BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
素晴らしさが透き通るほどに全く写ってない空をも美しく想像させて止まないくらい詩的に味わわれて非常に気に入ってしまった。
写真とは何かを改めて考えさせられる
第一にはカメラではなくて世界がやはり大事なんだ。本当の意味での表現力こそ問い直さざるを得ない。
目の前に撮るべき世界がなければどうしようもないわけなので、写真家が見付け出せるかどうか、または作り出しながら始めてカメラも十分に扱えるように上達しなくては行けない。
決して難しくはない。些細な日常に幸せは幾らでも転がっている。生きる喜びは満ち溢れていて今此処で死にかけてさえも内面性は精神の強度を保ち続けているはずだ。
ヤン・フォゲットの写真が凄いのは目に見える形でイメージとして克明に打ち出していた。
若いインド少女の浅黒い肌と真っ赤な衣装と白っぽい背景の組み合わせが芸術的にインパクトが高くて鮮烈な印象を心に与えるけど、しかし驚かされるのは左手の中指の先が画面から微妙に切れていて写真だけでは終わらない世界そのものを予感させるのではないか。
なぜ生きているのかを思念する表情からすると空が美しく広がって見守っているようだ。
詩的に捉えれば遊んでいる全ての子供たちのイメージがたった一人の雰囲気によって象徴的に示されているから感動するし、心こそ釘付けにされるべき写真だった。

シロヘラコウモリの可愛らしさで心は生物多様性にも目覚ましく

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中米コスタリカの広大な森の奥には葉っぱの陰に仲間同士で身を寄せ合うようにして暮らす可愛らしい生き物を見付け出すことができる。
Ectophylla alba by Leyo (Own work) [CC BY-SA 2.5 ch], via Wikimedia Commons
小さな白い蝙蝠で、シロヘラコウモリという。何匹も押しくらまんじゅうと決して寒いわけではないだろうけれども楽しげに感じる。ふわふわでもこもこの気持ち良さが如実に伝わって来るところが非常に素晴らしいとしか呼べないくらい魅了されてしまわずにもいないわけなんだ。
欧米のサイトでは英語で「adorable」と良く出て来る。可愛らしい。今まで「cute」や「pretty」や「lovely」などが可愛らしいと英語で知っていたけれども新しく気付いた。
外国語の類義語はニュアンスが難しくて慣れないとイメージも湧かないけれども「adorable」がシロヘラコウモリに当て嵌まり易い。動詞だと「adore」は憧れるなので、珍しい驚きが殊に含まれてそうだ。滅多に出会えない何かに魅了されながら可愛らしいと感じていて好運に恵まれたとすれば如何にも尤もらしい。
普段、シロヘラコウモリと似たような生き物は他に見かけないのではないか。生き物よりは雪の玉が余程と近くて葉っぱの陰に鈴生りに受け取られる。幻想的な気分に甚く誘われるし、時空を越えた世界を味わわされる。眼差しは今此処を忘れ果てているに違いなかった。
心を奪われるほどに可愛らしくて目が離せない
かつて村治佳織Costa Rica(DVD)でシロヘラコウモリが出て来て知っていた。印象深く記憶に刻まれた。蝙蝠が黒くなくて対照的に白いというだけで衝撃的だったもののとにかく姿形が可愛らしい。暮らし振りもあどけなくて皆で助け合って生き延びるしかないと思わされるけど、著しくはふわふわでもこもこの気持ち良さこそ胸に走り出して嬉しいばかりの出会いだった。
シロヘラコウモリに目覚ましい生物多様性
蝙蝠なのに黒くないとか雪の玉にそっくりなんて可愛らしく魅了されながらイメージが果てしなく膨らむ、生き物として。
シロヘラコウモリには世界の命の在り方が様々に展開されていて予め及びも付かない広がりを持っていると目覚ましく気付かされる。
取り分けコスタリカは生き物の固有種が非常に多いらしい。他では出会えない生き物が生息し…

澄んだ眼差しの世界で自然に出会い得る天使は詩的だ

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日本アニメーションフランダースの犬のアニメの第一話を動画で無料公開していて素晴らしい。
フランダースの犬 第1話「少年ネロ」 via 日本アニメーション・シアター
オープニングの主題歌のところが凄く好きだ。分けても池に張った氷の上をネロとアロアがくるくる回りながらパトラッシュが割って入ったせいだけれども滑っているのを観ると胸が熱くなるんだ。
そして涙も溢れざるを得ない。人と人との絆は心から清らかには引き裂かれないのではないか。滑り込むほどにパトラッシュが詩になってしまっていたせいで、ネロのアロアの通じ合う言葉(胸のうち)を表現していたと味わわれる、正しく喜ばしく。
十数年来、徹して作詩しながら詩人として幾つもの詩集を仕上げて来たし、詩、または詩歌への造詣は今現在でも絶えず、深まり行くばかりにもせよ、アニメのフランダースの犬のオープニングのパトラッシュの詩のイメージは実に見事だと感嘆させられる。
人々に何かを伝えるためには子供向けでやると最も分かり易いという好例ではないか。
ただし大事なのは清らかな心だ。清らかな心からパトラッシュの詩のイメージも生み出される。ネロとアロアの澄んだ眼差しこそ世界を呼んでいたし、詩としてやって来るパトラッシュのそばには天使を感じるのがやはり自然だろう。
アニメのフランダースの犬は二人と一匹の世界を通じて天使と出会えるところが最高だったと認めるしかない、改めて日本アニメーションの動画と共に。
かつてテレビ番組で放映された当初の最終回は三十パーセントを越える視聴率だったらしい。
四十年以上前だから人々の趣味嗜好は変わったにせよ、清らかな心から見出だされる天使は気に入るし、現実に手放すわけには行かないと思う。
ネロとアロアの心の繋がりは初々しくてチューリップがぴったりではないか。
永遠に歌いたい。今だからでも昔ならばでもなく、天使が寄り付かずにいない清らかな心は非常に重要なので、生活に取り入れては自分自身も向上できるし、人々にも伝えられるときっと良いはずだ。