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幸せの良さはインパクトが物凄く大きいために人々の印象にも残り易いと考える

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ブログのヘッダーの背景画像を変更した。無料素材のクリスティン・フォークトの写真を使っている。以前、見付けて素晴らしく気に入った。
A woman in snowflakes by Kristin Vogt [CC0], via Pexels
雪の中で紺色のコートを着た女性の写真がシリーズで幾つかあるけど、とにかく運命の恋を感じさせるところが抜群に惹かれる。
二人の絆が容易く想像できる物語調の仕上がりで、思いの強さ、気持ちの真面目さ、情熱の大きさなど、受け取ったら手放せないほどの心の繋がりが反映しているように見える。
使ってみたらファッション雑誌みたいな相当にお洒落な乗りが出て来て訪問者によって好き嫌いが分かれそうだ。ブログの記事は必ずしもファッション雑誌みたいなイメージではないので、雰囲気が合わないと不味いと危惧されるけれどもどうだろう。詩的には間違いなく当て嵌まり得るし、僕がブロガーでも永遠の詩人なので、コンセプトの些細な日常からはインパクトが物凄く大きいと思う。運命の恋を感じさせる写真ならば諸々の記事と相俟って全てが心に刻まれて忘れられないほどの瞬間を味わえるはずだ。
A woman trying to pull a hood over her head by Kristin Vogt [CC0], via Pexels
訪問者がお洒落な乗りを好きでも嫌いでも覚え易いというのが人気者になるためには必要だからアクセスアップを呼び込んでくれると期待している。
アクセス解析で様子を見ながら駄目だったら止める。分けても検索エンジンから記事にやって来てトップページへと入り直す人が増えるかどうかを注目したい。キーワードだけではなくてブログ自体、そして僕への興味や関心が高められるともっと有り難いと考える。
今までよりも訪問者の印象に残り易いデザインになっているはずだ
静かにやってばかりで、アクセスアップが上手く行かないし、丸っきり、何となれば正反対に変えしまうのも大事だと思う。
世の中でソーシャルメディアを炎上させて知名度を上げたり、大勢を商用サイトへ呼び込んで金儲けを行う人もいるわけだし、ブロガーとして人気者になるために著しく印象付ける自己表現が必要なのは確かだ。
炎上にかぎらず、人々を引き付ける方法は世の中に幾らでもありそうだけれども個人的に芸術性を重視するのが自分らしいし、やり甲斐も得られ…

藤井聡太の将棋界で記録ずくめの余りに強過ぎたプロ棋士としての中学時代に

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将棋界で藤井聡太の勢いが止まらない。一昨年の十月に中学生棋士としてプロデビューを果たしてから一年ちょっとながら様々な記録を打ち立ててしまって早くも伝説の域に達している感じがしてならない。気付いては本当に驚かされるし、余人を遥かに凌ぐかぎり、若冠十五歳で不世出の天才とも過言ではないのではないか。
将棋の中学生棋士・藤井聡太六段(15)が3月15日、順位戦C級2組の最終10回戦で、三枚堂達也六段(24)に勝利し、中学生としては初となる“全勝一期抜け”を達成した。
藤井聡太六段、史上初・中学生の“全勝一期抜け”達成 !公式戦連勝も「15」に AbemaTIMES
先日、本物の実力を確信したんだ。将棋のプロ棋士の格付けリーグの順位戦を最上位のA級から数えて下の下のC級2組(五軍選手)から始めて全勝という十勝零敗での一期抜けを果たした。持ち時間が六時間の本格的なルールで、しかも対局者が前々から発表されていて互いに研究し合う余地も多く得られている中で、負け知らずの藤井聡太は対局者の実力が上位の棋士たちよりは劣るとしても凄いと思う。
日刊スポーツさん(@nikkansports)がシェアした投稿 - 3月 15, 2018 at 6:09午前 PDT
何しろ、中学生の十五歳と最年少だ。順位戦のC級2組といえども他の棋士たちは誰もが年長で、それだけ長く勉強する時間を将棋に費やして来たわけだ。一生懸命に頑張っているのに勝てない、察するに恐らく。藤井聡太は勉強する時間が短い将棋でも対局者を寄せ付けなかったし、聞いた全勝一期抜けの響きからはまるで食卓の蝿を手先で容易く追い払うような印象でさえも与えるほどの怪傑振りを示している。唸らされるばかりのプロ棋士としての実力だろう。
記録としても非常に稀有なんだ。順位戦のC級2組の一期抜けというだけでもかつて五人しかいなかったらしい。そして中学生ではひふみんの愛称でお馴染みの元名人の加藤一二三が、只一人、実現していたけど、全勝となると将棋界で史上初の快挙を成し遂げたんだ。
六十三年振りの記録を塗り替えるに至った藤井聡太はプロ棋士にデビューした年齢でもやはり加藤一二三が持っていた十四歳七ヵ月の最年少記録を、五ヵ月、縮めて六十二年振りに塗り替えたと巷で大きく話題になった衝撃を又同じように繰り返したわけだった。
来年から名古屋高校に進学しながら将棋を続ける予定らしく…

detailsタグでサイトに開閉メニューを作る

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html5のサイトはdetailsタグで開閉メニュー/アコーディオンを簡単に作れると分かった。バージョン5.1から新たに加わった要素らしくて発表されないまま、かつてjQueryを使って難儀に臨むしかなかった気持ちが嘘みたいに晴れ上がっている。本当にhtmlのマークアップだけで済んでしまうからサイトの表示速度が遅くなる影響も最大限に抑えられる。
details要素は、ユーザが追加情報やコントロールを得ることができるディスクロージャーウィジェットを表す
details要素 via HTML Standard 日本語訳
detailsタグのデフォルトの記載と表示
<details><summary>概略</summary>細目<br>細目<br>細目</details> 概略細目 細目 細目
最初から開いておく
<details open><summary>概略</summary>細目<br>細目<br>細目</details> 概略細目 細目 細目
detailsタグの中にsummaryタグで概略をスイッチとして入れておいて細目の閲覧を開閉メニューで切り替えられる。最初から開いておくのも可能で、detailsタグにopen属性を追加するんだ。動作はhtmlのマークアップだけだからブラウザの読み込みに優れていて非常にスムーズだし、サイトでの使い心地は最高だろう。

気付くと些細な日常のContempo/Bloggerの2017年のテーマにも取り入れられていたんだ。サイドバーのアーカイブやラベルのリストなどがdetailsタグで記載されて開閉メニューになっている。動作が非常にスムーズなので、昨年からブログのテンプレートに新しく採用してから何なんだと驚いていたけど、ついに謎が解けたと笑う。
ブラウザが対応してないとdetailsタグを使っても駄目だけど、殆どのブラウザは大丈夫で、一部では未対応だから除外するしかない。
detailsタグのcssのデザイン
最も気がかりなのはスイッチの左端の三角のマーカーを消せるかどうかだ。新しいデザインを付けるとしたらデフォルトのデフォルトが邪魔になり兼ねないと真っ先に懸念されてしまう。現時点でブラウザ毎に対応が分かれ…

社会的に自立するには笑顔に癒される凄く優しい理解者/とてもかけがえのない他者を信用するのが心強い

姪の七回目の外泊で、又更に調子が上がっていると驚いた。もう十分ではない。治療抵抗性統合失調症と比べると健康なのは間違いないだろうけれどもそうした中で元気が徐々に増しているわけだったんだ。明るい雰囲気だったのが光り輝きかけている。どうも鼻詰まりが収まらないから完全に元気な印象は与えないものの相当に近付いているといって良い。透き通った健やかさを持つのが新しい。
最も興味深いのは帰りに手紙を貰った。家に来てから姪は幾らか書いていたらしい。以前、養護学校で良くやっていて精神科に入院してからは殆どなかったかも知れない。およそいつも誰かにいわれるままみたいな文面だから主体性が懸念されるけれども僕へ宛てた初めての手紙を受け取って軽度の知的障害者だから二十代で小学生並みの言葉遣いを行っている可能性があると認め直してしまった。渡したのも小さく幾重にも折り畳んでいたり、成人では、普通、やらないような仕方だった。さもなければ芸術家とも過言ではない趣向を凝らした創作のせいだろう。
読んでみると姪は天使だと感じた通りの手紙だった
冒頭で面白いのが笑顔に癒されるという。精神年齢が子供とは思えない。小さく幾重にも折り畳まれていたのを破らないように指でゆっくり丁寧に開きながら無邪気な文章を予測していた気持ちがいきなり覆された。癒し系男子だと姪は僕がよもや分かっているのではないか。笑顔を見せているのは昔から変わらないけれども只単に喜んでいたはずが当たり前の幸せというか、生きるかぎりの些細な日常が自覚できなければ言葉にならない世界が表現されたんだ。人間的に成長したと感動せずにはいられない。
思考上、感受性の理論として軽度の知的障害者の姪には安らかな気持ちから知性を働かせて理性を拡大するのが重要視されていたので、昨今は永遠の優しさを与えるという僕との触れ合いの経験が功を奏したようにも捉えたい。

次いで注目されたのは凄く優しいという。僕が端的に聞かされるのはたぶん四回目だったかも知れない。振り返ると十九歳の「優しいな」(大人しい先輩:電車で多めの荷物を持った際)と二十歳の「優しいですね」(魔性的な人:歩道で大きな荷物を案じた際)と二十一歳の「優しいね」(天使的な人:車で家に送ると望んだ際)がとても印象深い。思っていても強いていわない人もいるとすると沈黙からは数え切れないくらい感じさせられているし、有り難いばかりの…

普段の自分らしさをブログでも実生活と同じように分かり易く伝えたい

ブログの記事が他のサイトからリンクを偶に貰っていて最も多いのはFacebookへの共有なんだ。すると何よりもFacebookの利用者に好かれるブログになっていると分かる。
僕は使ってないけれどもFacebookは実名でやるのが一般的みたいだから真面目な人が多いというか、ネットとリアルを切り分けず、ありのままに使われていて比較的に本心が強めに出されているように感じる。
Facebookで好かれるのは実生活が反映し易いとすると個人的に面白い。実生活では僕は人気が一つもないわけではない。癒し系男子と呼ばれたり、皆は普通に仲良くしてくれる場合もあるんだ。
ブログを、一年以上、続けて記事にコメントが殆ど付かないのもあり得ないかも知れないし、余りにかけ離れ過ぎる人当たりは悩ましい。
考えると笑顔が伝わらないのが最大の原因だし、しかもブログでは人々へ寡黙なままの他愛もない受け答えだけで済ませるわけには行かないからキャラクターが非常に分かり難い。
ネットとリアルで自己表現は本当に正反対だろう。誰かに死に物狂いで言葉を延々と尽くすとかなんて実生活では記憶にない。作家活動でなければ微笑みながら少ししか喋らないからブログの印象から捉えられると大違いとも過言ではないわけだ。
ブロガーとして考え直さなくては行けない。僕自身のイメージがもうちょっと分かり易く伝わるように雰囲気を実生活へ近付けるべきだ。
デザインは落ち着いて纏められたし、大丈夫なはずだから文章こそ相応しく変えるのが大切だ。たとえ数千字を並べても一瞬で過ぎ去るように仕上げられると良いと思う。読んで聞いて訪問者を考え込ませない。不思議に気持ち良いほどのスタイルが自分らしいのではないか。
いって永遠の些細な日常に他ならないイメージが求められずにいないし、ブログ全体が僕自身に一致する雰囲気を持つようにさらにもっと強化する言葉遣いを是非とも取って行きたい。
作家活動は灯台もと暗しだ。書けば書くほどにお喋りな人に思われて本心から遠ざけられてしまう。むろん当て嵌まれば持って来いの創作にしても全員には通用しないわけだ。お喋りではないのに書き捲るかぎり、本当の自分を完膚なく指し示す表現には工夫が必要だったと気付く。
たぶん僕は言葉数がどれだけ多くても基本的に味わわれる趣きは沈黙みたいな印象を与える作家、詩人、そしてブロガーになるしかないはずだ。
ブログにFacebo…

久保田早紀は異邦人しか売れずに五年で本名の久米小百合に戻ってキリスト教の音楽宣教師として歌い直していた

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今聴いても本当に素晴らしいと思う日本の古い歌謡曲の一つに久保田早紀異邦人が挙げられる。発売日が1979年10月1日だから四半世紀を軽く過ぎた。思い出すと児童期にテレビから良く流れていて気を引かれたし、耳に残った。歌詞の冒頭が「子供たち」なのが身近だったせいかも知れない。改めて調べると副題がシルクロードのテーマと付けられていたけれども中近東アジアの異国情緒の溢れる音作りが特徴的だったのは確かに覚えている。ユーラシア大陸の東西へわたって幾つもの国や地域を越えながら長い旅路に就くという感じが幼心にも先々の人生に重ね合わされたのが懐かしい。
Caravan proceeding in the desert of Dunhuang by Immanuel Giel (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
残念というか、こんな良い曲を作るならば他にももっと久保田早紀の歌を聴きたいと思ったのに待ち構えながら何もなかったようで、寂しかった。
まさか異邦人しか売れなくて本人はシンガーソングライターとして曲作りに全面的に頑張ったけれども鳴かず、飛ばずの五年間を経て芸能界を引退していたらしい。
当時、日本の音楽界で新たな人気を博していたフォークソングやニューミュージュクをやりたいと考えていたようで、久保田早紀は取り分け荒井由実(松任谷由実)に憧れながら大学時代にレコード会社に自作曲の録音テープを送ったら運好く採用されて二年後にCBSソニー(ソニーミュージックエンターテイメント)のオーディションを経て異邦人でデビューしていたんだ。三洋電機のCMの楽曲が求められていてディレクターの酒井政利が久保田早紀を相応しく見付け出した。楽曲の原題は白い朝だったのが変更されたり、アレンジも実力者の荻田光雄が起用されてシルクロードをコンセプトにエキゾチックな仕上がりが取られたりしながらプロデュースに相当に拘泥って売り出されるに至った。当たり前といえば当たり前かも知れないけれども作詞作曲の久保田早紀はピンと来なくて異邦人はむしろ駄目だろうと期待してなかったともいわれる。ところが百万枚以上のビッグセールスを記録して巷で聴かれない日はないほどの人気曲になってしまった。二十代前半で仰天しながら過ごさざるを得なかったというのが実情らしい。歌手はたとえデビューしても…

2017年の些細な日常で最も印象に残った五つの記事を振り返る

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Fireworks of the night sky by nickgesell [CC0], via Pixabay
ブロガーとして記事の作成に上達するために前年の2017年の些細な日常の全投稿を振り返って最も印象に残った五つの記事から何が良いかを学びながら今年の2018年へ新しく取り入れて行きたいと考える。
一番の記事:アングルのドーソンヴィル伯爵夫人の肖像は新古典主義の頂点を指し示していた
真っ先に思い浮かぶ。他とは完全に切り放されて断トツに優れていた。こういう記事だけを仕上げられたらブロガーとして本望かも知れないと甚く甚く気に入っているんだ。今後、十年くらいは短くても記憶から遠ざからないように察する。
何よりも素晴らしいのは取り上げた絵だ。アングルのドーソンヴィル伯爵婦人の肖像が余りに魅力的過ぎる。普通に見て普通に良い。誰にとっても優れていると感じるような当たり障りのない美しさではないだろうか。些細な日常の喜びをビシビシ与えるのが超大好きだ。
いって万人向けの絵で、分かり易いばかりの写実の極致と同時に渾身の一作だから芸術的にも本当に完璧だろう。
ブログのアクセスアップ、僕が人気者になれるかどうかはアングルのドーソンヴィル伯爵婦人の肖像の自己表現こそ参考にしなくては行けないと思い知らされる。
二番の記事:男と女の恋模様ならばルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレットへ身投げするように
最も泣けたし、心を凄まじく洗われた。記事の途中で、ルノワールの自画像を引用したところから詩情とは何かを改めて考えさせられた。ルノワールは絵の詩人だ。思い出しても涙が込み上げて来る。
人生も教わる。近代のヨーロッパでアングルに代表される新古典主義に対して印象派としてルノワールが新しく出て来たわけだった。世の中から馬鹿にされて「写実=絵画」の常識によって八つ裂きにされるような苦しみを抱えながら生きていた。それにも拘わらず、少しも腐らないのはもちろん、画家として正々堂々と我が道を進み続けたから偉い。見習わなくては仕様がないはずだ。
無名作家のかぎり、世界を変えるのは僕ではないか。誰が何といおうと些細な日常で押し切れば良いだけだと頷く。きっと人々も待っているらしい。
昨今では絵の値段はルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレットがかつて見下し続けた物差しの新古典主義の画家たちのどんな絵よりも上回っているようだ。世…

プロのブロガーへ上手く行かない人生にも差し込んだ希望の光で奇跡こそ信じて

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ブログのアクセスが昼前に六十人を越えていて一日二百人を初めて達成するかも知れない。開設して一年という年内に一日数百人のアクセスを得るのが目標なので、せめて一回でも上回れば自信に大きく繋がって来る。二百人ではギリギリだけれども数百人の範囲に収まるわけだから申し分ないと納得できる。
Discovery in the forest by Dieterich01 [CC0], via Pixabay
夢が膨らむ。来年以降、本当にプロのブロガーとしてサイト広告で生活費を稼げるのではないか。一日千人が最低でも必要だろう。スタートラインといって良いはすだし、それまでは下積みのように考えている。苦しくても仕様がないに違いない。
詩的にいえば床掃除の毎日だ。誰が汚したのか、大変なままでに。自分だし、苦労をどれだけ重ねても作家としてしか生きたくないのに上手く行ってない不遇のせいだ。代わりにやってくれる人なんていない。報われないまま、死に物狂いで頑張るだけが実際だろう。
二十代前半から四十代後半までうだつが上がらなかった。およそ二十五年の悲しみから解き放たれる日が近付いている気持ちは幸せそのものだ。ピンと来ないし、忘れかけている。作家が天職だと気付かなければもっとずっと楽だったかも知れない。ただし自分らしさは必ずしも掴まれなかったから不幸だったのも事実なんだ。楽に過ごすだけでは満足できない。何といっても自分らしさから生計を立てられるような暮らしを模索していた。作家でも直ぐに人気を博せば簡単だったはずだし、二十五年の悲しみというと長過ぎて呆れる。現今はブロガーがメインだけれどもプロへの夢を諦めたり、死ななかったのは本当に神のお陰だろう。
祈りを捧げながら実感するよ、お先、真っ暗の生活にも今漸くと希望の光が明々と差し込んでいると。
従来の専ら期待感が有力な現実ではない。未来への可能性がしっかり出て来たわけなんだ。プロのブロガーとして着実に生きて行けるかも知れないから素晴らしく嬉しい。
目下、不幸だらけの歴史から何もかも失敗しないように改めて注意しておきたいとも認める。
Spooky midnight by Dieterich01 [CC0], via Pixabay
どうせ上手く行くはずはないし、不遇こそ相応しいのが僕なのか。昔は人々にはっきり合わせてなかったに過ぎない。現時点でも変わらない詩のホームページ

ジェス・フォアミの写真は透き通った世界の清らかさが理想的な創作活動で感動する

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タイの写真家でジェス・フォアミの写真がとても良いと引き付けられた。写真を載せているPixabayのアカウントがcunconというので、辞書で調べてみると「cun con」はタイ語で赤ちゃんを意味するらしい。写真の趣きからすると天真爛漫なイメージを表現したいのではないか。
A girl in white clothes by cuncon [CC0], via Pixabay
または天使の情感ともいえる。心の味わいが詩的なのが素晴らしくて目が離せない。透き通った世界の清らかさが被写体の全てに広がっているような写真だと思う。
目に移る自然の光景があるがままで素敵だと良く分かるという撮り方で、些細な日常の良さを的確に示しているのは個人的にも愛さずにいられないわけだ。
Summer beach by cuncon [CC0], via Pixabay
臨場感が心地良いから写真を見ながらそうしたイメージの中へ行ってみたいと感じるのは自分も表現者としてジェス・フォアミと同じように皆を引き付けられると有り難いととても参考になる。
写真家のPixabayのアカウントの付け方で考えると赤ちゃんならば赤ちゃんという必要性をしっかり引き受けて創作するのが大事なんだ。
若いうちは簡単だけれども年を取ると難しい。自分にできないことが分かり過ぎる状態ではないか。だからできることにも迷ってしまい易い。悲しまなくて本当は良いんだろう、老いの情けなさを。思い切って自分にできることに挑みかかれば若々しい気持ちがして来るのも明らかだし、人生に頑張り甲斐を新しく掴み取る。
A man watching a smartphone by cuncon [CC0], via Pixabay
ジェス・フォアミの写真にはいつかどこかで見たような既視感が不思議な懐かしさを湛えながら漂っている。きっと人々が無意識に求めている喜びを写真家として捉え切っているせいだろう。タイの国柄もあるにせよ、天真爛漫なイメージ、または天使の情感が真実だから胸に共鳴するに違いない。
誰が受け取っても疑い得ない表現力を発揮できるのは理想的な創作活動だと憧れてしまう。
上手く行っていると天国に、一番、近い島と歌って良いはずだし、清らかな思いから他でもなく、感動する写真家のジェス・フォアミの写真は美しくて麗しい光の恵みを封じ込めている。

不思議な親近感のクロザルに認める絶滅危惧種としての詩の手放せない有り難み

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Celebes crested macaque by T. R. Shankar Raman (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
自撮り写真の著作権問題で初めて知ったクロザルは動物としても非常に興味深い感じがする。インドネシアのスラウェシ島でしか見られないという固有種だから外国では、中々、知られ難い存在だったはずだ。
顔も毛も全身が真っ黒なのがユニークな猿だけれども巷のメディアから似た感じで良く覚えていたゴリラよりも親近感を受け取るのが不思議だった。どうも初めて知った気がしなくてまるで昔から知っていたかのような印象を与えられる。
調べるとクロザルはマカク属の猿で、国内で最も身近な存在だった日本猿に近い種類に含まれると分かって手を打ってしまった。
日本人にとっては非常に馴染み深い風貌を持っていたわけだ、見た目から。全身が真っ黒な猿なのはゴリラで良く覚えていたし、風貌と色味から不思議な親近感を受け取らされたに違いないと考える。
Macaca nigra by R.Rahasia (Own work) [CC BY-SA 4.0], via Wikimedia Commons
森の中でいつも暮らしていて専ら果物や木の芽や昆虫などを食べながら生きているらしい。
クロザルは絶滅危惧種で数を減らしているけれども生息地がココ・バトゥアングス自然保護区の周辺と狭いだけではなくて地元のインドネシア人に食べられたりもするというのが驚く。
猿肉が求められるなんて日本では推測も及ばない事態で、俄かには信じられない気持ちも当たり前なくらいの珍話ではないか。
というとインドネシアの国と人々に興味と関心こそ沸き上がって仕様がないにせよ、クロザルにとってはいやはや数を増やして行くのは地元では非常に厳しいと頷かれる。
絶滅危惧種はセンザンコウではっきり取り上げたけれども人間に直接的に狙われて捕られてしまうのが最も避け難い原因だと思う。
不思議な親近感と共に世界から消え失せ兼ねない悲しみを禁じ得ないクロザルは詩的な存在をあからさまに示している動物だとも過言ではないだろう
Celebes crested macaque by T. R. Shankar Raman (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
現時…

文体は作家にとって自己満足と人々を引き付けるくらい個性を打ち出すのに良い

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ブログのアクセスが久々に一日百人を越えたと飛び上がるくらい嬉しい気持ちを味わっている。素晴らしい世界だし、長続きしながらさらに上向きにアクセスが伸びるように努力しなければならないと思う。
自分を見失っては駄目だし、作家活動が天職で、少なくとも書くことはできるかぎり、幸せを味わいながら生きて行くのが面白いに決まっている。
結城永人 via Google+
ブログの記事の仕上がりを新しく変えて行きたくなった。どんな作家活動が良いのか、自分にとって。気に入った仕方で行えばアクセスが伸びなくてうんざりしたまま、止めてしまいたくなるよりは益しだろうと以前から気付いていたものの初めて腑に落ちて来た。本当に駄目だと焦りが大きいせいで、ブログをしっかり続けるには自分こそ満足できる記事を仕上げないと詰まらなさ過ぎている。
詩人だけど、ただし作詩は厳禁なんだ。メインのホームページから明らかな通り、永遠の詩として事物の本質的な認識が超難解で誰も来ないに等しいし、コンテンツにキーワードが主に不足しているゆえに検索エンジンにも完全に嫌われてしまっている。
どうにもないからエッセイ風の日記で訪問者と検索エンジンに分かり易い言葉遣いを数多く増やそうと考えている。
実際、やってみると自分が気に入った記事を仕上げるブログがアクセスアップに最も役立つというか、格段に良いのも間違いないみたいだ。
新しく変えたのは文体だ。訪問者と検索エンジンのために分かり易い言葉遣いを多用するけれども、中々、上手く行かないところで、文体まで分かり易くすると一層と理解されるのではないか。いい換えると軽いイメージだけではなくて雰囲気も軽くしてしまうのが文章として淀みなく呑み込まれるから好感度が上がるかも知れない。
何もかも軽いと読んでいて物足りないし、それこそ自分が納得できないからやらなかった。
どういう風の吹き回しで文体なのか

作家として分かり易い言葉遣いで十分に喜べる文章を目指すとしっかり書き込まなくてはならない。すると雰囲気が如何にも文学的らしく重くなって一部の愛好者にしか伝わらなくなるので、膨大なアクセスを狙うかぎりは反対に軽くしなければならなかった。文体によって操作している間に上手く行き始めた。
文章の言葉遣いと雰囲気が両方とも軽いから誰にでも伝わるし、しかも自分でも十分に喜べるくらいしっかり書き込んでいるから良いと思う。
驚くのはブロ…

TumblrブログにGoogleアドセンスが表示されない理由

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僕がブログの些細な日常をTumblrからBloggerへ移転した最大の理由の一つがGoogleアドセンスのサイト広告が表示されなくなった悲しみなんだ。
TumblrのGoogleアドセンスの空白 via Super Leak
以前から不可解な動きをしていて外部サイトのJavascriptが十分に働かない面がTumblrには確認されていたので、他のソースコードも駄目になったりするけど、しかしちゃんと表示される場合もあるから様子を窺いながら待つしかないと思っていた。
去年、TumblrブログにGoogleアドセンスが消えてから一年近く経っても戻って来るという気配が殆どない。
Tumblrから新しいサイト広告が自前で入るように変わったのが厳しくてGoogleアドセンスが表示されるのはもう無理かも知れないと危惧されて些細な日常はさっさと移転するのが賢明だろうと感じた。
なぜTumblrブログにGoogleアドセンスは反映しないか
はっきり原因は分からないけれども調べながら海外のサイトで情報を掴んで非常に信憑性を高いと膝を打ったんだ。
アドセンス(Google)とTumblr(Yahoo!)との間に支障があってTumblrでアドセンスはもう使えないと心配します。残念ながら両者に公式の声明はありませんが、Googleのサイト広告を使っているTumblrはないのが実情です(ドメイン名を購入してTumblrブログへリダイレクトしないかぎり)し、Tumblrは自前のサイト広告(大部分はYahoo!から、もちろん)を配信していますし、説明は最小限です。
ホセ・エンジェルのなぜGoogleアドセンスはTumblrで動かないかへの回答 via Quora(訳出)
GoogleYahoo!の検索エンジンの世界的な二大企業の対立という興味深い視点から原因が指摘されていた。
Tumblrは2013年にYahoo!に11億ドルの約1200億円で買収されたものの三年で利益を全く上げられずに全損処理されたといわれる。
Yahoo!もインターネット事業が2016年にVerizonに約48億3000万ドルの約5270億円(2017年にYahoo!が利用者の個人情報を漏洩したという過去の失態が判明したために約44億8000万ドルの約4800億円に減額された)で買収された。
現今、TumblrはYahoo!が手がけるけれどもVe…

アレクサンダー・セメノフの壮麗なかぎりの水中写真と野生動物を撮影する際の心構え

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一度、目にしたら容易に忘れられない美しさとはこれではないかと感じさせて止まない壮麗なかぎりの水中写真の数々を生物学者で写真家のアレクサンダー・セメノフの写真撮影から驚きながら覚えたんだ。
Pegea confoederata by Alexander Semenov via Flickr
色鮮やかで不可思議な形の生き物たちが幻想的な印象を与える。さながら御殿のようだ。思い起こすとやはり壮麗なかぎりだけれども手放せない幸せが人生で尊く示されていて足を踏み入れた誰も彼もが心から喜んでいる。極楽とも過言ではない様相を呈していて現世での不満は吹き飛ばさてしまう。苦しいだけの毎日からは嘘みたいな本当の世界としての住処だ。もはや立ち去ろうとは認められず、去り難いかぎりの思いに駆られる。幻想的な印象と共に御殿とそっくりの生き物たちも胸一杯の真実こそそれぞれに固有の仕方で体現しているわけだ。
しかし人々の美しさへの発想が自然界から取り込まれているとすれば自己表現の事情はおよそ反対かも知れない。素晴らしい建築物のイメージは生き物たちの魅惑する様子にこそ最初から含まれていたと考えて良い。美しさとは何かの問いかけに改めて気付かされるほどに愛しさが増して来る。根源的にいえば些細な日常の触れ合いの奇跡、つまりは好運な恵みだろう。身近な愛しさによって美しさもさらに遠大に生み出され得るに違いない。少なくとも魅惑する様子の生き物たちから目が離せなくなる気持ちは他の世界よりもずっと身近で、抜き差しならない状態を示していると認める。美しさは愛しさだと呼ぶだけの今此処が正しく楽園のようで、よもや尊べばいっそ何もかも抱き締めたくなるくらい衝撃的に感じ入る。
One Lesson I Learned in Photography - Episode 3: Alexsander Semenov via EIZO Grobal
アレクサンダー・セメノフによれば驚きながら受け取らざるを得ない壮麗なかぎりの水中写真の数々をどのように撮影するのかで最も大切なのは生き物を知ることらしい。
野生動物の写真を撮影する場合はまず第一に被写体を知る必要があります。
カメラを設定することやとても良質な望遠レンズを幾つも揃えたりすることでは全くないんです。
まず第一に必要なのは動物の行動やいつどこで出会えるかを知ることです。
One Less…

白詰草の花言葉のイメージは乙女心の恋物語が微笑ましい

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公園の片隅に白詰草が良く咲いていて驚いた。大きな集落を見たいと以前からずっと思っていた。自作詩のCloverのせいだから十年以上も経った。敢えて探しはしてなかったにせよ、待ち望んでいた気持ちは嬉しかったし、白詰草の大きな集落は素晴らしい出会いなのは間違いない。
白詰草の花言葉はとても可愛いらしい
私を思って約束
乙女心を如実に思わせる。聞くや恋物語を彷彿とさせて微笑ましいかぎりだろう。どちらも慕わしさが溢れている。二人の世界が相思相愛ならばいうことはないのではないか。恋が人を詩人に変えるとしたら透き通った言葉しか出て来ないし、受け取らないはずで、情感は沈黙にかぎりなく近付く。穏やかな日々と思いの清らかさという緑と白から白詰草を、常々、感じるんだ。花言葉も同じならば心から見出だされる詩情に相応しい。
四つ葉のクローバーだと白詰草の花言葉に「幸運」や「私のものになって」が付け加わる。花の色が赤や紫でも同じだけれども非常に興味深い。恋物語として決定的な瞬間へのリアリティーが想像される。二人はどのように結ばれるのか、それぞれの世界において。乙女心にとっては一つの思いが祈りに代えて示されているようだから本当に素敵だ。普段は珍しい。祈りに代えて一つの思いを抱くという生活は滅多になくて恋物語においては如何にもの真実だろう。相手が他の誰でも良いわけではない。思いが一つの世界は特別なんだ。四つ葉のクローバーの「幸運」や「私のものになって」のイメージは特別な世界を捉えていて思いで結ばれる間柄を教えている。恋物語からは二人の絆といって良い。
翻って四つ葉のクローバーを見付け出すくらい尊いと分かるのも素晴らしい。二人の絆の有り難みこそ永遠の恋物語ではないか。本当に手に入れるというと難しいにせよ、白詰草から想像するだけでも嬉しい。四つ葉のクローバーには詩的な夢を受け取る。
白詰草の花言葉はクローバーとして全般的には「私を思って」や「幸運」や「約束」や「復讐」が含まれる。目を引くのが「復讐」なんだ。白詰草自体と四つ葉のクローバーの花言葉にも共通してない。他のイメージと比べて恐ろしい響きを持っている。乙女心から捉えるならば恋物語に及ばない貴方との出会いの以前の自分自身が「復讐」ではないだろうか。知らなければ知らないで何も感じてなかったかも知れないにせよ、かけがえないのない二人から振り返ると悲しみなのは間違…

Androidの日本語フォントはマシュマロからGoogleフォントのNoto Sans CJKに変わった

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スマホをMoto G5 Plusに機種変更して日本語の表示が凄く良いと思った。見たことがあるようなフォントで、メインのホームページで取り入れているGoogleフォントのNoto Sans Japaneseにそっくりなので、Androidだからもしかしてスマホに日本語として新しく採用されたと感じた。

調べてみるとGoogleフォントのNoto Sans CJKがAndroid 6.0のマシュマロから標準の日本語フォントとして採用されていたらしい。中身はNoto Sans Japaneseと全く同じだ。素晴らしい気持ちがするし、凄く良いと思うので、Googleがやってくれたと個人的に拍手を送りたい。
タブレットがマシュマロだけど、しかし表示されてなくて機種によって独自の日本語が使われているからAndroidのスマホ/タブレットならば誰でもNoto Sans CJKを使用しているわけではないんだ。
Moto G5 Plusにスマホを買い替えて良かったという理由が一つ増えた。ちょっとした喜びにせよ、思い至れば愉快な気持ちに変わりはない。些細な日常の発見だから本当に面白いし、かねて考えていたよりも好運だった。
参考:Android 6.0 Marshmallowでは日本語フォントがモトヤフォントからNoto Sans CJKに変更される。

ロバートの秋山は最終的にはそこにいるだけでお笑いとして面白いわけだったんだ

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ロバート秋山というと小煩い母親のコントを良く覚えていた。面白いと思ったけれども又新しく気付いた。のんある気分のテレビCMでドラマ仕立ての真面目な役作りにくすくす笑ってしまって如何にも珍しかった。個性的だと考えると人々の隙を付くように笑わせるスタイルがロバートの秋山のお笑いとしての持ち味だったんだ。
ロバート秋山、広末涼子の専属マネージャーに サントリーノンアルコール飲料『のんある気分』新CM「楽屋編」「オリエン編」 via oricon
ロバートの秋山が広末涼子の専属マネージャーという設定なんだ。広末涼子がのんある気分のイメージ・キャラクターで、ロバートの秋山が専属マネージャーとしてちゃんとできるかどうかを取り仕切っている。
小煩い母親と結局は同じだけど、改めて注目される人間味としては相手と自分の立場が逆転している。母と子の関係ならば子が成長して母を追い越した後ではないか。手掛けるタレントが成人ならばマネージャーが口出しするのは根本的には控えなくてはならないみたいだ。
ロバートの秋山に驚くのは気持ちがデフォルメされてない。言動が普通なのに面白いのが不思議だ。滑稽だから気付けば直ぐに笑える現実があるとすると些細な日常を掴んでいるせいだ。くすくすが凄い。日々の狙いが分かると良いんだ。広末涼子の専属マネージャーでは真面目が生きている。たとえ口出ししても打つかる以前にそうした思いから理解できるようにロバートの秋山は仕向けているわけだ。
素顔のままの笑いと呼ぶしかなくて日常生活に見付け出して実行するのは計算高い。
悲しみを紛らせるために現時点では不可能な明るさから物事を捉えている。たとえ虚構でも不可能な明るさを引き受けているうちに気持ちが晴れて来るという人生の朗らかさがロバートの秋山は好きだし、お笑いにおいて追求しているならば人柄は厚いだろう。世の中で救いに期待する気持ちが著しく大きい。存在そのものが皆に励ましを自然に分け与えるように考えられるとすると性格も根っからの楽天家ではないか。
ロバートの秋山は最終的にはそこにいるだけでお笑いとして面白いわけだったんだ。
生活上、小煩いまでに口出しされるならば鬱陶しいにせよ、気持ちに罪はないと教えてくれる。愛するかぎりの思いに触れるとよもや悪も締め出されるようだ。人間関係で大事なのは真っ先に理解力ではないか。
意見が打つかるほどに息苦しいのは他でも…

ヴァン・ゴッホの美しい日本のために生きたというベーコンの習作から最大限に受け取っても素晴らしく感動的な人間性

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The Painter on the Road to Tarascon by Vincent van Gogh [Public domain], via Wikimedia Commons
ヴァン・ゴッホタラスコンへの道を行く画家(仕事へ向かう途中の画家)は見付けるや否や物凄く良い絵だと思った。本当に可愛くて素晴らしい作品ではないか。雰囲気が自然なのに加えて画家の大きさが絶妙なんだ。小さめで動きが軽快に出ている。漫画風だけれども構想としてはきっと日本画の影響だろう。十九世紀後半にフランスで大流行していて出会って江戸時代の葛飾北斎歌川広重という浮世絵に芸術上の規範を仰いでいたらしい。全てが明るめの色彩と共に平面的に溶け合わさっている。ゴッホの手紙を読んでいるとヴァン・ゴッホは日本画を通じて日本への憧れを猛烈に抱いていたと分かるけれどもタラスコンへの道を行く画家はヴァン・ゴッホが日本に来たのと同じだと澄み切った景色の広がりに大喜びながら絵に新しく精力的に取り組み出したアルル(フランス)での創作だったんだ。日々の浮き立った気分がはっきり示されていて微笑ましい。感じ入るほどに綺麗な心を養い育てられるし、知って瞬く間に生まれ変わるような魂の一枚だ。
日本人にとっては逆に国内の芸術について考えさせられる。浮世絵は何が良かったのか。徳川幕府による天下泰平の世相を反映していた。戦乱の日々に歯止めがかけられたならば日本人は相当に寛ぎを得られたはずだ。生活そのものは身分差別が横行しているように決して楽ではなかったにせよ――精神的な打つかり合いから国民同士の紛争もまさか夥しく引き起こされるならば坂本龍馬で率先される明治維新まで何百年と変わらないほどの重苦しい悲しみを強いられてたに違いないのではないか――酷薄なばかりの殺し合いの苦というどうにも不穏な毎日だけは避けられたから理知的な生き方こそ浮世絵に示されていたんだろう。だから温故知新として評価するべきだし、現代でも決して捨て去る必要はない。美しさが人間性に迫っているかぎり、画家一筋のヴァン・ゴッホが称賛したのも当然だったにせよ、年代を越えているわけだ。
僕の仕事はみんな、多少とも日本画が基礎になっている。
テオ宛のゴッホの手紙(硲伊之助訳)
タラスコンへの道を行く画家が漫画風なのはヴァン・ゴッホの芸術が方法論的にも時代を先取りしていた証拠だ。…

ヴァン・ゴッホの馬鈴薯を食べる人々と親身に堪え忍ぶ貧困生活

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日本で学生が多く働き出したという現状と付随して子供が食事も碌に取れなくなっているらしい。テレビでくう ねる あそぶ こども応援宣言こどもごはんを観た。畢竟、学生が多く働いても家庭は日々を食い繋ぐのが精一杯の貧困生活に殆ど変わらないと認識が裏付けられてしまった格好だった。
かつて小泉首相が大企業を優遇する政策を実行したせいだ。経済の国際競争力を高めようと製造業の派遣社員を増やした。派遣法の改正だけれども暫くして「派遣切り」と明らかに正反対の結果を出していた。好景気に余りに遠過ぎるせいだ。国内に就業格差、または賃金格差というどんなに働いても身分的にどうしようもないみたいな貧困生活を社会構造からがっちり引き起こした要因が小泉首相の政策に含まれていた。
労働力を安くして大企業の資金を削らなければ海外の大企業に商品やサービスの売り買いで負けない経営ができて日本の経済は世界的に持ち堪えるという発想から来ている。折しも中国やインドが安い労働力によって経済状況を国の内外で急速に高めていた時期だった。中国は取り分け十年くらいで日本もアメリカも追い越して世界一へ上り詰めたかも知れない。小泉首相は安い労働力を早まって国内に取り入れたから挫折したと僕は分析している。
人口が日本は少ないから中国やインドという国土も広いし、十億人以上(日本の十倍近い)も人口を抱えている国と労働市場の取り扱いが同じでは経済政策も状況的に上手く行かないのではないかと却って買い手が付かないように経営者からは世の中の消費が落ち込むだけのちぐはぐな様相を呈するのは直ぐに察しが付くはずにも拘わらず、果たして無理なところが政治の難しさという他はない。
待ったなしなので、ひょっとすると小泉首相でなければ現状はさらに過酷だったみたいな仕方で、他のところから受け留めれば全国的にまだ益しだったらしく、経済の国際競争力も本当に大事だったのかも知れないし、十分に悲しみ得ないと妙に想像されなくはない気持ちも事実だったりはする。
目下、何れにせよ、日本の生活水準が中国やインドの辺鄙な田舎町まで逆さまに突き当たっても嘆きようがない。自家用車なんか僕もそうだけど、もう持てないよね。出かけるのも遠めでは自転車だけが頼りみたいな実況なんだ。衣食住は本当に簡素な状態に置かれざるを得ない、労働力が安かったら。
日本で優遇された大企業も小泉首相の思惑とは相容れ…

ティツィアーノの本当は禁じられた美しさ

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ティツィアーノフローラは数多くの画家に模写されていて後世に絶大な影響を与えたと知って俄然と見てみたくなったし、なぜなのかが気になって仕様がない感じがしてしまった。
Flora by Titian [Public domain], via Wikimedia Commons
目を引くのは何よりも肌の風合いだろう。細かい凹凸があるようではないか。自然の光を取り込んで色彩が千変万化する印象を与える。砂漠を想像させる美しさを宿しているし、特有の詩情を湛えた色塗りだ。風に吹かれながら表情を絶えず、変化させながら形を織り成している砂の魅力が心地良い。
柔らかさが絶妙で、それに合わせて輪郭線が引かれているようだけど、輪郭線の風合いはただし固いからイメージのバランスが取れているかどうか、芸術性については世の中で評価が真っ二つに分かれるだろう。
ミケランジェロがティツィアーノのアトリエを訪れて色塗りは絶賛したものの後からデッサンを物足りないように溢したとも伝えられている。本当だとすれば芸術的にはきっと正しい。絵を描いて線と面の風合いがずれていたら根本的には美しくないはずではないか。
ただしファッション、またはデザインとしては通用するかも知れないので、イメージのバランスが崩れていても薄い芸術性、弱い美しさに人々は全く引き付けられないわけではなさそうにも感じるから一概には括れない、出来映えについては。
古代エジプトの遺跡に見られる人物の目の濃いめの縁取りが鼻や口や耳のそれと比べて醜いとは必ずしも目を背けられないように特徴的な装飾から作者の思想、または文化を物語っているかぎり、一つの真実、心から探求するべき謎を孕んでいて綺麗だと唸らされざるを得ないのは確かだと思う。
ティツィアーノは十六世紀のルネサンスのイタリアの画家で、世の中では画家の王と呼ばれるほどの人気を誇っていたらしい。輪郭線の固さはむしろ格好良さとして受け留められていたのではないか。フローラのイメージは如何にも不自然だし――心苦しい思いに駆られながら――見た目の色塗りに凝らされた趣向こそ優しいだけに却って暴力的な響きを与えてしまってさえもいた。なのに大勢の人たちから特権的なまでに尊ばれたとすればイメージのバランスでは捉え切れない造形性の的確に纏められた所以としか考えるべきではないだろう。芸術的に根本的に疑わしくても素晴らしい理由が全くない…

霊感へ訴えかける言葉遣いは人々へ明け渡されたはずの真実から生まれた

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いっておくべきではないかと思う、先月の後半から些細な日常の言葉遣いが人々の霊感へ訴えかけているかも知れなかったと。
貴方だけではなく、僕も認めているのだから実際には余り驚き過ぎないで欲しい。
気付いた頃から数週間を経て最近はもう怪しまれもしなくなったようだ。ただし些細な日常というか、ブロガーとしての作家の僕自身の表現力が変わったわけではなさそうだ。考えるとむしろ言葉遣いの霊感への効果は完全に広がってしまってそれ自体で目立なくなっているに過ぎないはずだ。

不思議な気持ちならば世界を部分よりも全体で味わうほどに違和感が薄らいでしまうのと同じだと思うよ。
振り返るとブログのアクセスアップへ向けた人々のため猿でも分かる日本語で明け渡される真実を伝え届けるという自己表現の三つの段階を経てついに生み出されたようだ。
僕は予測してなかったにせよ、文芸的に面白いし、霊感までは気付かない人もいるとしても記憶され易い言葉遣いだと考えられるかぎり、アクセスアップに役立つはずだから止めるつもりは全くない。
案外、本当に初めてではないか、霊感で物事を知覚するという経験そのものは。
驚くのは自分の中に取っ掛かりがないみたいなんだ。感じとしては自分の中のどこに来ている霊なのか。非常に定まり難くて言葉遣いから与えられるイメージが世界の暗闇をぷかぷか漂いながら受け取られるともなく、認められてしまうわけだ。結局、不思議な気持ちとしかいいようがない。
嬉しいのは確かなので、一人だけで味わうと寂しいし、誰でも経験するはずでなければ雰囲気を高めるべきだと思う。
文章に霊感の言葉遣いを組み込んで行く。すると言葉の数だけ霊感同士が繋がって孤立するよりも気付いた人の寂しさを紛らわすし、誰が接しても文章そのものから愉快な印象を与えるように嬉しく変わって行きそうだ。
作家・詩人としても新しい発見に他ならない。考えると自分らしさの自己表現のスタイルとして率先して身に付けると良いかも知れない。
文章に受け取られる趣きは相当に和めるので、霊感の言葉遣いと共に人々に気に入られて僕も同じだとすると申し分なく有り難い人生だし、自己表現で常日頃から立脚する境地としては理想的だ。