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タイの菩薩像の眼差しの心洗われる美しさにマインドフルネスの到達点を覚える

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A statue of Bodhisattva in Thailand by naidokdin [CC0], via Pixabay
ブログでマインドフルネスを取り上げて引用する仏像の写真を探していたらタイの仏像の一枚が印象深かった。宝冠を戴いているからきっと修業の身としての菩薩だろう。何よりも眼差しに心洗われる美しさを湛えるほどの表情を見せていたのが息を呑ませた。
日本の仏像の造形よりもほっそりしているようで、慈しみの代わりに清らかさを多く受け取る。仏教の捉え方は国や地域によって千差万別だと思うし、信じる人たちの気持ちを反映して仏像の造形も逐一と変わるはずけれどもタイの趣向は本当に素晴らしい。
かねて写真家のジェス・フォアミで「透き通った世界の清らかさ」を知っていたんだ。タイの国柄と結び付いていると想像された真実が今やマインドフルネスの依拠する仏教的な瞑想の在り方と重なり合って一際と鮮やかに認められる。念、または気付きへの研ぎ澄まされた内面が重宝されているのではないか。
タイの仏像ならば全て同じではないにせよ、気に入ったタイの菩薩像の眼差しの心洗われる美しさにかぎっては高貴としか瞬く間にいえない。
御仏の有り難みが本当に良く分かるし、涙ながらに拝みたいばかりの風貌なんだ。
マインドフルネスは感じるままに生きる存在を得るための瞑想だから真っ先に受け取るというか、上手く行ったと認める到達点は何よりも清らかさに含まれているようで、心が淀みなく安定した状態とは何かをタイの菩薩像の高貴さを通じて計らずも教わってしまう。
望むかぎり、手に入れるべき清らかな世界の判断基準として心洗われる美しさを湛える眼差しを覚えておく他はない、もはや。
タイは仏教が非常に盛んな国で、国民の大半の九割五分近くが仏教徒らしい
ただし日本の伝統的な仏教とは宗派が違うんだ。釈迦が紀元前450年頃の古代インドで悟りを開いて始まった仏陀(目覚めた人)としての教えが主にアジアの各地へ広まる大本の源流から袂を分けている。
仏教が現代まで伝来した二つの源流
上座部仏教(南伝仏教):スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオスなど大乗仏教(北伝仏教):チベット、ベトナム、日本など
最も明白な特徴として上座部仏教は修業が、大乗仏教では説法が重視されるらしい。前者は信者の全てが僧侶に近くて後者は僧侶とそれ以外の信者は遠い。日本だと大…

ジェス・フォアミの写真は透き通った世界の清らかさが理想的な創作活動で感動する

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タイの写真家でジェス・フォアミの写真がとても良いと引き付けられた。写真を載せているPixabayのアカウントがcunconというので、辞書で調べてみると「cun con」はタイ語で赤ちゃんを意味するらしい。写真の趣きからすると天真爛漫なイメージを表現したいのではないか。
A girl in white clothes by cuncon [CC0], via Pixabay
または天使の情感ともいえる。心の味わいが詩的なのが素晴らしくて目が離せない。透き通った世界の清らかさが被写体の全てに広がっているような写真だと思う。
目に移る自然の光景があるがままで素敵だと良く分かるという撮り方で、些細な日常の良さを的確に示しているのは個人的にも愛さずにいられないわけだ。
Summer beach by cuncon [CC0], via Pixabay
臨場感が心地良いから写真を見ながらそうしたイメージの中へ行ってみたいと感じるのは自分も表現者としてジェス・フォアミと同じように皆を引き付けられると有り難いととても参考になる。
写真家のPixabayのアカウントの付け方で考えると赤ちゃんならば赤ちゃんという必要性をしっかり引き受けて創作するのが大事なんだ。
若いうちは簡単だけれども年を取ると難しい。自分にできないことが分かり過ぎる状態ではないか。だからできることにも迷ってしまい易い。悲しまなくて本当は良いんだろう、老いの情けなさを。思い切って自分にできることに挑みかかれば若々しい気持ちがして来るのも明らかだし、人生に頑張り甲斐を新しく掴み取る。
A man watching a smartphone by cuncon [CC0], via Pixabay
ジェス・フォアミの写真にはいつかどこかで見たような既視感が不思議な懐かしさを湛えながら漂っている。きっと人々が無意識に求めている喜びを写真家として捉え切っているせいだろう。タイの国柄もあるにせよ、天真爛漫なイメージ、または天使の情感が真実だから胸に共鳴するに違いない。
誰が受け取っても疑い得ない表現力を発揮できるのは理想的な創作活動だと憧れてしまう。
上手く行っていると天国に、一番、近い島と歌って良いはずだし、清らかな思いから他でもなく、感動する写真家のジェス・フォアミの写真は美しくて麗しい光の恵みを封じ込めている。

乞食娘のアリス・リデルの湿板写真から逆算するルイス・キャロルの不思議の国のアリスへの本当の願い

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ルイス・キャロル不思議の国のアリス(小説)にはモデルが実在していたらしい。主人公のアリスと名前が同じのアリス・リデルという。他にも兄弟姉妹が、九人、いて作者のルイス・キャロルは数学講師で在籍していたイギリスのオックスフォード大学のクライストチャーチを出会いの場として当時の学寮長だったヘンリー・リデルの一家と交流していたんだ。休日には子供たちとも良く遊んでいたらしくて不思議の国のアリスの成立には取り分けロリーナとアリスとイーディスの三姉妹(リデル家の長女と次女と三女)が大きく関わっていたといわれる。
Edith, Ina and Alice Liddell on a Sofa by Lewis Carroll [Public domain], via The Metropolitan Museum
しかし中心的な位置を占めていた子供が小説の主人公と同名のアリス・リデルだったようで、元々は地下の国のアリスとして個人的に「クリスマスプレゼント」と贈っていた作品が知人の出版への勧め――ある日、作家のジョージ・マクドナルドの夫妻と居合わせた息子のグレヴィルの目に喜ばしく留まったせいで――から加筆修正を施されて小説として完成したのが不思議のアリスだった。
経緯がとても面白い。世界中に広まって数え切れない人々に読み継がれていている作品が元々はたった一人のために作り出されていたという。人生で成功を爆発的に収めたければモチーフもやはり皆を考えては駄目なのではないか。それこそ個性が他でもなく引き付けるようにたった一人のための思いを掴んでおくと良いとはっきり分かってしまうような実例を与えている。
自己表現でモチーフまで作者の個性に合わせると作品の人気は皆の好き嫌いに左右されるはずだし、尊ばれるかどうかは運任せになりそうだから、丸っきり、失敗を余儀なくされる危険性もあるかも知れないし、するとルイス・キャロルの不思議の国のアリスが不朽の名作と人々に十九世紀の後半から歴史的なまでに知れ渡った現実は一か八かの賭けに他ならなかったとも過言ではない。
本人は最初から期待してなかったわけで、小説が売れなくても数学者としてオックスフォード大学から生活費を得ていたし、平々凡々、どうでも構わなかったみたいだ。なので小説家としては無邪気な成功を偶さか上手く収めた格好ではなかったか。無難といえば無難なばかりの人生設計…

白詰草の花言葉のイメージは乙女心の恋物語が微笑ましい

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公園の片隅に白詰草が良く咲いていて驚いた。大きな集落を見たいと以前からずっと思っていた。自作詩のCloverのせいだから十年以上も経った。敢えて探しはしてなかったにせよ、待ち望んでいた気持ちは嬉しかったし、白詰草の大きな集落は素晴らしい出会いなのは間違いない。
白詰草の花言葉はとても可愛いらしい
私を思って約束
乙女心を如実に思わせる。聞くや恋物語を彷彿とさせて微笑ましいかぎりだろう。どちらも慕わしさが溢れている。二人の世界が相思相愛ならばいうことはないのではないか。恋が人を詩人に変えるとしたら透き通った言葉しか出て来ないし、受け取らないはずで、情感は沈黙にかぎりなく近付く。穏やかな日々と思いの清らかさという緑と白から白詰草を、常々、感じるんだ。花言葉も同じならば心から見出だされる詩情に相応しい。
四つ葉のクローバーだと白詰草の花言葉に「幸運」や「私のものになって」が付け加わる。花の色が赤や紫でも同じだけれども非常に興味深い。恋物語として決定的な瞬間へのリアリティーが想像される。二人はどのように結ばれるのか、それぞれの世界において。乙女心にとっては一つの思いが祈りに代えて示されているようだから本当に素敵だ。普段は珍しい。祈りに代えて一つの思いを抱くという生活は滅多になくて恋物語においては如何にもの真実だろう。相手が他の誰でも良いわけではない。思いが一つの世界は特別なんだ。四つ葉のクローバーの「幸運」や「私のものになって」のイメージは特別な世界を捉えていて思いで結ばれる間柄を教えている。恋物語からは二人の絆といって良い。
翻って四つ葉のクローバーを見付け出すくらい尊いと分かるのも素晴らしい。二人の絆の有り難みこそ永遠の恋物語ではないか。本当に手に入れるというと難しいにせよ、白詰草から想像するだけでも嬉しい。四つ葉のクローバーには詩的な夢を受け取る。
白詰草の花言葉はクローバーとして全般的には「私を思って」や「幸運」や「約束」や「復讐」が含まれる。目を引くのが「復讐」なんだ。白詰草自体と四つ葉のクローバーの花言葉にも共通してない。他のイメージと比べて恐ろしい響きを持っている。乙女心から捉えるならば恋物語に及ばない貴方との出会いの以前の自分自身が「復讐」ではないだろうか。知らなければ知らないで何も感じてなかったかも知れないにせよ、かけがえないのない二人から振り返ると悲しみなのは間違…

ヴェラスケスのラス・メニーナスの受け留め切れなかった芸術的な衝撃へ

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謎多い絵として真っ先に思い浮かぶヴェラスケスラス・メニーナス(女官たち)は画面全体が不思議な構成に覆われている。描かれた主要な人物たちが部屋の天井から押し潰されたように感じさせるとしたらゴッホの烏のいる麦畑の大変な空の様子と同じくらい悩ましくも美しいかぎりだから作風は天才的だとも過言ではないだろう。
ただし比べてみればヴェラスケスのラス・メニーナスが翻って愛するほどに優しく味わわれてしまうのも構図というスタイルだけに止まりそうなので、絵よりは芸術として概略的に捉えるべき認識が正しいのではないか、考え出すと印象はちょっと薄いようだし、デザインこそ特徴的に個性的に認められる。
分かり易いはずだし、ゴッホ烏のいる麦畑のように全ての対象が《圧縮された詩情》と共に展開された正に自然な構図ではないから理解するために例えばランボーイルミナシオンを参照しながら超言語的に解読するような手間は省かれてしまうらしい、なるほど普遍的には謎多いわけでもなかったといい直しては可笑しいにせよ、ヴェラスケスのラス・メニーナスは人間そのものにとって。
Las Meninas by Diego Velázquez [Public domain], via Wikimedia Commons
ヴェラスケスは十七世紀のスペインの画家で、バロック様式を代表するような絵を描いていた。ヨーロッパに近代科学が芽吹き始めたのと呼応してか――ガリレオが「真理はすべてひとたび発見されれば容易く理解される。問題はそれを発見するという事にある」と諸々の自然現象を実験的な手法で観測した頃だった――人々は理論から事実を初めて捉え直したともいってみたくなる知覚の新しさならば精緻なイメージが溢れているのは確かだろう。反対に精神の外側へも同時に恐ろしく気付いたかも知れないし――レンブラント夜警こそ何もかもぴったりに味わわれるようだ――精緻なイメージだけではなくて厳重なイメージも切り放しては理解できなさそうに思われる、バロック様式については。王室に仕えていたヴェラスケスは宮廷芸術を体現する存在だったけれども当時のスペイン国王のフェリペ四世に厚遇されてよもや他の誰にも自分の肖像は描かせないと心底に惚れ込まれながら悠々自適に暮らしていたらしい。
どこか楽観的で、息苦しさを持たない様子に見受けられる絵なのが自己表現としてはユニークな所以では…

澄んだ眼差しの世界で自然に出会い得る天使は詩的だ

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日本アニメーションフランダースの犬のアニメの第一話を動画で無料公開していて素晴らしい。
フランダースの犬 第1話「少年ネロ」 via 日本アニメーション・シアター
オープニングの主題歌のところが凄く好きだ。分けても池に張った氷の上をネロとアロアがくるくる回りながらパトラッシュが割って入ったせいだけれども滑っているのを観ると胸が熱くなるんだ。
そして涙も溢れざるを得ない。人と人との絆は心から清らかには引き裂かれないのではないか。滑り込むほどにパトラッシュが詩になってしまっていたせいで、ネロのアロアの通じ合う言葉(胸のうち)を表現していたと味わわれる、正しく喜ばしく。
十数年来、徹して作詩しながら詩人として幾つもの詩集を仕上げて来たし、詩、または詩歌への造詣は今現在でも絶えず、深まり行くばかりにもせよ、アニメのフランダースの犬のオープニングのパトラッシュの詩のイメージは実に見事だと感嘆させられる。
人々に何かを伝えるためには子供向けでやると最も分かり易いという好例ではないか。
ただし大事なのは清らかな心だ。清らかな心からパトラッシュの詩のイメージも生み出される。ネロとアロアの澄んだ眼差しこそ世界を呼んでいたし、詩としてやって来るパトラッシュのそばには天使を感じるのがやはり自然だろう。
アニメのフランダースの犬は二人と一匹の世界を通じて天使と出会えるところが最高だったと認めるしかない、改めて日本アニメーションの動画と共に。
かつてテレビ番組で放映された当初の最終回は三十パーセントを越える視聴率だったらしい。
四十年以上前だから人々の趣味嗜好は変わったにせよ、清らかな心から見出だされる天使は気に入るし、現実に手放すわけには行かないと思う。
ネロとアロアの心の繋がりは初々しくてチューリップがぴったりではないか。
永遠に歌いたい。今だからでも昔ならばでもなく、天使が寄り付かずにいない清らかな心は非常に重要なので、生活に取り入れては自分自身も向上できるし、人々にも伝えられるときっと良いはずだ。

いつもフランダースの犬の清らかな心には感動を覚える

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児童期にアニメで観て大好きだったフランダースの犬ウィーダ)は本当に素晴らしい作品だった。人間の心の清らかさが主人公のネロからはっきり受け取られた。
他の作品では意外と珍しくなくてテレビの時代劇のドラマで母親が亡くなって父親が病気で寝た切りで子供はどうやって生きて行くのかと思わせる場面が良く描かれている。江戸時代の貧しい庶民生活の典型的なイメージだけれども政治的に立て直せないせいだとすると世界中の難民と変わらないから極めてリアルな悲しみを伴って味わわれずにもいない。
ネロも全く同じだ。両親がいなくて祖父のジェハンに代わりに養われていたものの病気というか、高齢で望んだような形では殆ど財産もないし、育てることは儘ならない状況に陥っている。なので子供はどうやって生きて行くのかと思わされて仕様がないわけだ。
清らかな心はフランダースの犬では何よりも絵に象徴されていてネロは絵描きとして生きて行こうと考えていた。
Antwerp Cathedral by Teseum (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
アントワープ(ベルギー)の教会/ノートルダム大聖堂(聖母大聖堂)にルーベンスキリストの昇架キリストの降架の二つの祭壇画が飾られていて理想として表現されている。
ネロは人生の救いを感じて自分も同じように人々に救いを与える絵描きになりたかったのではないか。しかしコンクールで落選して目標を失いながら最終的には祖父も亡くなって貧しいばかりの雪の日の夜に力尽きて死ぬ他はなかった。
時間がないせいだ。もう一度、コンクールに挑戦して絵描きを目指すわけには行かなかった。祖父の死が非常に大きくて自然の流れで老いながら長々と見守り続ける気持ちは果たされないという。だからフランダースの犬で最も素晴らしいのはネロが夢を諦めなかったところだ。結果としてプロにはなれなかったにせよ、この世を去ったのは決して救いへの志を捨てたせいでもないし、自然の流れで時間が待っていてはくれなかったとしか感じられない。
臨終では愛犬のパトラッシュと共にアントワープの教会でルーベンスの二つの祭壇画の前で神に召されるけれども物語は正しい。なぜネロは死ななくてはならないのか。自然の流れだからやはり神が原因と認識するべきだし、ネロの清らかな心こそ誰よりも理解しながら一人ぼっちの極限…

宝くじのBIGで一等のキャリーオーバー六億円が当たったら望んでいた超大恋愛

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駅のプラットホームで良く見かける可愛い女性がいた。二十~三十代くらいに見受けられた、年齢としては。本当に可愛くてチャーミングでラファエロ美しき女庭師《聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ》を彷彿とさせるルックスだった。どんな人かは全く分からないにせよ、見るからに引き付けられずにはいなかったんだ。
La belle jardiniere by Raphael [Public domain], via Wikimedia Commons
僕はいつも駅で遠くを眺めていた。目が辛くて少しでも休ませるために向かい側のプラットホームの先の町並みやもっと先の森山へ焦点を合わせて目の筋肉を緩ませるように努めたかった。近視の抑制にもなるはずだし、重度の近視は眼球が前後に伸びていて網膜剥離や緑内障といった失明を伴う大病の危険性を高めてしまう。避けられるかぎりは何でも生活に取り入れるには越さないと思っている。
気付いてみると彼女が向かい側のプラットホームの階段を下りて来て僕の目の前の方を通り過ぎていた。
ただし僕が目線を感じたはずだった、先に。向かい側のプラットホームは全く見てないから誰が通り過ぎても気付かなかったので、彼女だけが特別に視界に入る理由もなかったという。
記憶は朧ながら誰かに見られていると気にかけながら向かい側のプラットホームの人たちへ目を向けるようにたぶん変わったんだ。
もしも自分が誰かに見られているとしたらどんな人なのか、相手を突き止めたいという気持ちが湧いて来て暫く探していて目に留まったのが彼女だった。他には誰も当て嵌まっては来なかったし、僕を見ているなんて素振りの欠片も感じられずにいた。
彼女が僕を見ているというか、予め見ていたから気付かされたように受け留めれば真偽を確かめてみたくなり、知らない振りをしながらチラチラ注目せざるを得なくなってしまう僕だった。余り見ていて逆に気持ち悪がられても悲しいかぎりなので、本当にそれだけはあってはならないと考えていた。僕は自分が誰かに見られていると、現実に彼女なのかを突き止めたいだけなので、およそ好奇心ならば誤解を招く恐れを孕んだ多くの事柄に留意しながら目線も送らなければならなかった。
僕が非常に驚いたのは彼女とやはり目が合った瞬間だった。チラチラでも見続けていることがバレたから恥ずかしくて仕様がなかったし、知られては気持ち悪がられる可能性も群を抜いて…