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松任谷由実の瞳を閉じては長崎県立奈留高等学校へ作詞作曲された愛唱歌だった

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もう十年以上前かも知れないけれども松任谷由実の二枚組のベストアルバムのsweet, bitter sweet YUMING BALLAD BESTを佳く聴いていたんだ。昼間のオーロラみたいな、または光目映い貝の白い内側に似た色彩のジャケットが印象的なCDで、松任谷由実ならではのバラードの心地良い名曲の数々が収められている。
個人的に守ってあげたいで大泣きしたのが稀有な思い出になっていて松任谷由実は本当に凄い歌手だし、アーティストだと納得する切欠にもなったベストアルバムたった。乙女心をしっかり捉えているのではないか。運命の恋(詩集)に当て嵌めてみると天使的な人の思いに重なって来るから相当に凄いし、完全に抜け目のない優しさが女性としても可愛いとしかいいようがなくなる。
芸術ではタマラ・ド・レンピッカ(画家)がアール・デコのスタイル(直線や原色を駆使した理知的な感じ)で的確に表現していてイメージとしては緑のブガッディの自画像が象徴的なんだ。
松任谷由実も中央フリーウェイを聴くと格好良いながら乙女心のリアリティーを表現しているはずだから守ってあげたいの優しさは飛びっきり()に違いないと知るほどに素晴らしく泣けて来る。
端的にいって心の繋がりを透き通らせるのが特徴なので、本人は幸せを問いかける世界から歌を作り出していると考えられる。優しくない人には無理だし、すなわち独り善がりとかなんて自分本意では手に付かない曲や詞を実体験に則るか、少なくとも想像しながら仕上げているようだ。
sweet, bitter sweet YUMING BALLAD BESTは優しさが疑いもなく味わわれるし、正しく心地良いばかりの音楽を聴かせてくれるベストアルバムだけれども一曲だけ毛色というか、雰囲気の異なる作品が含まれているのが瞳を閉じてで、どうも不可解だった記憶が残っている。
Naru-cho, Goto-shi, Nagasaki by kiyoojapan (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
松任谷由実が音楽家の松任谷正隆と結婚して改名する前の荒井由実の頃に発表したとても古い曲(1974年)だったけれどもテレビで瞳を閉じて~ユーミンが贈った“旅立ちの歌”~(あの日 あのとき あの番組)を観たら長崎県立奈留高等学校の愛唱歌だと分かってびっくり目…

イースター島で気になるモアイの五つの鑑賞スポット

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イースター島(ラパ・ヌイ国立公園)のモアイについて好んで調べてみると先祖の霊を祀っていて島民の守り神だったと分かったけど、しかし一つの謎が解けても又別の謎が生まれて来るようで、モアイそのものの造形から芸術的な関心、または存在から文化的な興味を受け取りながらとても興味深い気持ちに駆られ続けてしまう。
モアイはイースター島のあちこちに点在していてそれぞれに趣きが異なっているので、気になるモアイの鑑賞スポットとして五つを選び出しながらどんな感じなのかを纏めておきたいと思う。
鑑賞スポット①アフ・トンガリキ
Easter Island, Ahu Tongariki by Arian Zwegers [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons
イースター島で最大の祭壇/アフで十五体のモアイが並んでいる。海を背にして著しく連なる巨大な佇まいが見るからに島民の守り神らしい様相を呈している。崇高そのものとも過言でないだろう。
胸を締め付けられる感じがする、計らずも。海鳥の声がどこからともなく聞こえて来るようで、果てしなく心に染みる詩情を湛えているモアイの魅力を象徴的に示している。
本当に行ってみたくならせる。モアイは不思議なロマンを与えるけれども顔自体が体というイメージの美しさに惚れる。気持ちが全てみたいな人々の生き方が反映してそうで、命が燃え上がる瞬間を未来永劫に捉えているのではないか。嬉しくて実物からかけがえのない幸せに肖りたいと引き付けられずにいない。
鑑賞スポット②アフ・アキビ
Los Moais de Akivi, Isla de Pascua by Claire Provost (Own work) [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
七体のモアイが精妙に並んでいる。イースター島では珍しく海に向かって立っているらしい。高台から海を見下ろすような感じで、唯一ともいわれる。
大空と比べると流石に小さいようだ。七体ではモアイも祭壇では圧倒され過ぎないせいか、人間に近いという情緒が漂っている。余白が際立ってこの世とをあの世を結び付けながら魂が飛び交っていると想像してしまう。
正しく霊感が刺激される配置では目に見えない神殿の支柱そのもののモアイがアフ・アキビだろう。厳粛な祈りに誘われる。自分も先祖と同じようにいつかは死んで世界に別れを…

詩を降りる気持ちは皆から離れ去りながら初めて掴まれるように生きられていた

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世界を止めるわけでもなければ決して難しくはなかったはずなのに降りた詩は口に直ぐに出なかった。
慣れるし、あっという間にペラペラだから忘れっぽい天使クレー)だったかも知れない、詩人として向き返して観想するかぎり。
Vergesslicher Engel by Paul Klee [Public domain], via Wikimedia Commons
どこから降りたのか。自分からだと人間は教える。ならば聞いたのは沈黙だった。しかし元々の詩は内面にはなかったはずだ。手に入れたのは自分の言葉からではない。言葉そのものが皆から来ていたわけなので、詩も同じだし、自分の言葉は最初から霊感ではない。
降りる気持ちの詩は霊感だ。だから人間も自分からだと見詰めるにせよ、霊感の詩を遡るかぎり、皆からしか妥当には認識されない。
人間は苦しむ。間違っていたのか。詩を降りる僕へ偽物のイメージを指摘していた。霊感が分からなかったために早合点したならばもう二度と気持ちだけを他人の言葉から汲み取るのは止めるべきだ。貴方は狼狽えるばかりかも知れない。
僕は反対に見詰めた。途中からは正しかった。思考の皆から降りるまでの間に詩は霊感に置き換えられた。つまり霊感に置き換えられなかった詩の雰囲気は気持ちではなかったとはいい切れない。部分的には非の打ち所のない認識だったし、十二分に妥当だった。
なぜか吠える犬が人間性の暗闇の崖に姿を現すと世界が凍り付いた束の間に和らぎが少しずつ返されて行った。水田から蛙の合唱も鳴り響けば夏の夜中のだろうか。風流な趣きに触れながら人間は言葉を呑み込むしかなかったようだ。
僕にとって詩を降りる気持ちとは皆から来ている言葉を自分らしさに相応しく作り直す作業といって良いだろう。自分の言葉を持つために真実の世界を離れ去り、夢見られた風流な趣きでさえも身を捩って消え失せるように後にしてしまうせいなんだ。
思う、貴方は死んだかと。または自殺行為に等しくて眉間に皺を寄せながら安否を念じるばかりだ。
人々は三輪車に乗り出した幼児を転んでも可笑しくないと仲睦まじくも付き添っている。
自分の言葉を持つための作業が危ないのは確かだ。しかしながら一人でなければそれを上りながら作詩できないし、詩人も思考の最初から最後まで皆と、丸っきり、同じでは無責任でしかないだろう。
だから皆から離れて詩を降りる気持ちは一つの孤独な作…

書行による作家のための思考と存在証明

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書くことがない。ということを書く。やはりない、書くことが。
終わったと書く。書いてみる。書くことが終わった。まだ終わらない気分の中で始まった始まりを終わらせるかどうかに悩みながら書いている。書けた。ということは書けるんだ。
嬉しい、書けると。辛かった、書けなくて。なぜなのかは書きたかったためなんだろう。書かなくてはならなくて書くことがないと辛いんだ。
分かった。書くことがなくて書かなくてはならない場合には書くと良い。只々、書いて行く。どうして書けなかったのに書けるのか。
書くことがないのに書くためには行くしかない、書いて。
思考ではないのではないか。確かに思考だ、書きながら寄り添っているのは。思考がなければどうして書いていられるだろうか。無理だ、書き続けるなんて書いて行くのも。
書いて行くためには思考のそばで書き続けるか、少なくとも書く。書くと生まれるんだ、書けるような力が湧き出して暫くして嬉しいと感じ取るまでに至れば気分に相当に乗っているに違いない。

畢竟、書くことがないと辛いけれども書かなければならないのも大変だから書いて行きたい。書くこともなく、只々、書き続けるように書けるだけではなく、書いて行けるかどうかが重要だろう。
笑ってしまう。なぜならば思考が必要だからだ、書くことへは寄り添っていたに過ぎなかったにも拘わらず。本当に重要な知識を得るために役立つのは思考しかなさそうだ。今此処では間違いなく思考が訪れているし、他には何も取り上げられなどしなかった。
書いて行けるかどうかを問う。思考と共に書いて行くのは辛い。書くことがないのに書かなければならないのと同じだ。只々、書かせてくれ。書いて行けるだけで良いはずだ。書いて行くことと一体化してない思考こそ疲れが大きい。気楽に書きたいかぎり、思考は案外と厄介だ。勢い付いて書き続けるのには助かるけれども休まなくてはならなくて結局は途絶えがちに書いて行くばかりだから書けないに等しくて気分が滅入ってしまう。
思考よ。振り返ると本当に重要な知識のために呼び寄せたけれども書くことそのもののに支障を与えるかぎり、気楽には書けなくなり易いから気分に溶け込ませるべきなんだろう。書くことと一体化した思考だけが面白いように書かせてくれる。どんなに書いても疲れないみたいな元気を与える思考こそ僕にとって有り難いわけなんだ。
書いて書いて書き捲る。偶には良いというか…

霊感へ訴えかける言葉遣いは人々へ明け渡されたはずの真実から生まれた

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いっておくべきではないかと思う、先月の後半から些細な日常の言葉遣いが人々の霊感へ訴えかけているかも知れなかったと。
貴方だけではなく、僕も認めているのだから実際には余り驚き過ぎないで欲しい。
気付いた頃から数週間を経て最近はもう怪しまれもしなくなったようだ。ただし些細な日常というか、ブロガーとしての作家の僕自身の表現力が変わったわけではなさそうだ。考えるとむしろ言葉遣いの霊感への効果は完全に広がってしまってそれ自体で目立なくなっているに過ぎないはずだ。

不思議な気持ちならば世界を部分よりも全体で味わうほどに違和感が薄らいでしまうのと同じだと思うよ。
振り返るとブログのアクセスアップへ向けた人々のため猿でも分かる日本語で明け渡される真実を伝え届けるという自己表現の三つの段階を経てついに生み出されたようだ。
僕は予測してなかったにせよ、文芸的に面白いし、霊感までは気付かない人もいるとしても記憶され易い言葉遣いだと考えられるかぎり、アクセスアップに役立つはずだから止めるつもりは全くない。
案外、本当に初めてではないか、霊感で物事を知覚するという経験そのものは。
驚くのは自分の中に取っ掛かりがないみたいなんだ。感じとしては自分の中のどこに来ている霊なのか。非常に定まり難くて言葉遣いから与えられるイメージが世界の暗闇をぷかぷか漂いながら受け取られるともなく、認められてしまうわけだ。結局、不思議な気持ちとしかいいようがない。
嬉しいのは確かなので、一人だけで味わうと寂しいし、誰でも経験するはずでなければ雰囲気を高めるべきだと思う。
文章に霊感の言葉遣いを組み込んで行く。すると言葉の数だけ霊感同士が繋がって孤立するよりも気付いた人の寂しさを紛らわすし、誰が接しても文章そのものから愉快な印象を与えるように嬉しく変わって行きそうだ。
作家・詩人としても新しい発見に他ならない。考えると自分らしさの自己表現のスタイルとして率先して身に付けると良いかも知れない。
文章に受け取られる趣きは相当に和めるので、霊感の言葉遣いと共に人々に気に入られて僕も同じだとすると申し分なく有り難い人生だし、自己表現で常日頃から立脚する境地としては理想的だ。

ソクラテスの死は如何にも哲学者らしい威厳を放っていた

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古代ギリシャでブラトンアリストテレスと並んで三大哲学者の一人と考えられるソクラテスは西洋哲学の源流とも過言ではないほどの存在だった。彼の弟子がプラトンで、その又弟子がアリストテレスだったからソクラテスがもしもいなかったら、全員、消えてしまって西洋で哲学が歴史的にどう流れたかが相当に変わっただろうと震撼させられる。
人々の考え方に大きな影響を哲学は与えている。何等かの主義を持つかどうかは別としても社会に共通する枠組みは一般的にあるのではないか。古代ギリシャの三大哲学者は現代でも通用するような原形を示している。
ソクラテスの知識(エピステーメー)プラトンの理想(イデア)アリストテレスの論理(オルガノン)
当時は宗教と結び付いていて何が良いのかを探求しているから必ずしも哲学そのものではないはずだ。しかし抽象化すれば知性と観念と方法という哲学者の条件が出揃っているのは明らかだし、超越論的にいえば認識と概念と判断によって今直ぐに誰でも哲学に取りかかれるような能力が身に付いたに等しいと思う。
注意するとプラトンの理想は多義的なので、それを例えば概念と捉えるとアリストテレスの論理が理性になってソクラテスの知識も対象と捉え返されながらカントの超越論的な認識の方法が全てみたいな思想系の哲学にぴったり当て嵌まってしまう。
もしもプラトンが哲学者ならば彼の理想は観念でしかないはずだったんだ、本質的にいって。観念にどうにも手が届かないから理想と呼ばれていたに過ぎないのではないか。古代ギリシャでは精神が人間にとってまだ十分に知られてなかった(物事を身体、または情動から無意識に知覚していた)せいだと理解されるべきだと僕は考えている。
プラトンの理想については理性とも捉えられるし、するともはや哲学は生き方と結び付いてしまう。ソクラテスの知識もアリストテレスの論理も正しくなければならないと味わわれ得るし、哲学者だけが偉いみたいな状態にもなり兼ねない。彼、または彼女の独断論から社会に差別と偏見が増やされるとしたら本当に恐ろしい。
僕は哲学が好きだし、良いと思うけれども独断論を引き起こす危険性が全くないわけではないから精確に把握しなくてはならない。根本的には思想と切り放せるかどうかにかかっている。思想系の哲学から理想を口にしたら政治と変わらないし、理論としては《教祖の見えない宗教》か、または否定神学の構造で終わ…

ハシビロコウはじっとして動かずに活かす

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中央アフリカの東寄りの南スーダンやザンビアに主に生息するらしい大型の鳥で、ハシビロコウが気に入ってしまった。
Balaeniceps rex at Walsrode Bird Park, Germany by Olaf Oliviero Riemer [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons
日がな一日、水辺に立ち尽くして獲物の魚を自らの気配を消しながら待ち構えるというふうに過ごしている。
個人的に動物の写真を撮るのと同じだから面白い。静止して自らの気配を消さないと動物は逃げ易い。昆虫や魚が多いけれども人に慣れてない動物を近付いて写真に収めるにはカメラ以外の知識が強く求められるわけだ。
ハシビロコウに親近感を覚えるのは何よりも姿形が人間と被っているせいだけれども体長が1m以上にも及ぶ。最長で1.5mくらいまで成長するようだから子供か、小柄の大人に等しいわけで、体型もほっそりしていて大型の鳥ならばダチョウエミューと比べても人間に余程と迫っていると思う。
顔というか、嘴が物凄く太くて大きいのも一見して厳めしいながらお菓子のチョコボールキョロちゃんを彷彿とさせるほどに愛らしく受け留められて知ってから本当に目が離せないみたいに心を持って行かれた感じがした。
余りに良く似ているからもしかしたらハシビロコウこそキョロちゃんのモデルなんだと考えさせられる。
念のために調べておくとチョコボールヒストリーによればチョコボールのパッケージの取り出し口が鳥の嘴に似ていてさらにチョコボールを目に見立てながら鳥をモチーフにしたキャラクターがデザインされたので、キョロちゃんは架空の鳥だった。イメージはチョコボールのパッケージの取り出し口とチョコボール自体に由来しているから実在する鳥のどれかと結び付くわけではなかったらしい。
ハシビロコウは人間に姿形が近いから想像力を刺激する。およそじっとして動かないというのが格好良いし、活かすと咄嗟に認めてしまう。
落ち着き払った様子に見受けられて何物にも囚われない。自分を強く持って生きているのではないか。憧れを抱かせるような風情を湛えているところが素晴らしいと認めたくなる、人生において。
動物には霊感が宿っているせいだとすれば人間にとって欠かせない知恵を授けてくれる存在に他ならないと改めて気付かされもする。
ハシビロコウの活かしたじっと動か…

黄色で運気上昇を認めた福徳の霊能力

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美輪明宏の占いのTwitterで、リツイートすると幸運が訪れるといわれていてテレビのオーラの泉に出演していた時分は良く観ていたし、如何にも超人的なパワーを持ってそうだから本当だったらというか、人生が幾らかでも上向きになれば有り難いし、良いし、もう何もいうことはないみたいな感じで、手を伸ばしたくなった。
Twitterだけではなくて共有すれば結果は同じだろうからさらに幸運が訪れる機会が増えれば効果的ではないかと麗人だよりのTwitterを載せられる他のソーシャルメディアで、Google+Tumblrはてなブックマークでもやってみながら締めにというか、夢見るアクセスアップの大本命として上向きな人生そのものだけれども天職の作家活動の中心とも考え出したブログの些細な日常でもやっておかなくてはならない気持ちは間違いないし、外すわけには行かないと強く感じた。
お給料とはガマン料なのです。楽な仕事など、この世にはありません。 pic.twitter.com/HovUHo1saP— 美輪明宏 (@akihiro_miwa__) 2017年1月22日
美輪明宏がそばに付いているように思えば取り上げる対象は何でも構わなくてそれ自体も麗人だよりのTwitterにかぎらず、超人的なパワーという霊感の恩恵に与って幸運が訪れるかも知れないはずだ。
只本当に個人的に画面一杯の黄色が溢れ返った写真が見る者の気持ちを晴れやかにして運気上昇を普段の生活から如実に受け取らせてくれるようにすんなり認めてしまうんだ。
心理学の自己暗示(できると思えばこそ物事に意欲も増して来るだろう)や病理学のプラシーボ(治ると思った病気が本当に治り易くなる場合がある)といわれるような状態とも重なるわけだし、美輪明宏で人生が上手く行くかどうかは別としても気持ちが明るくなれば夢は叶うと望んで良いのではないか。
黄色は風水占いで運気上昇の色とされるけれども取り分け貧乏だと家の中を黄色だらけにすると金持ちになるかも知れなくてそれと全く同じだろう。
美輪明宏は占いのTwitter以前からもう既に超大金持ちだったはずなので、真っ黄色の写真は霊感ならば後付けてやっているとも見做されるにせよ、ただし莫大な貯金を維持するのも手に入れるのと同じくらい大変なはずだから(何となれば周りから人生を狂わされ兼ねない空気だし)彼自身がご利益を証明しているとも考…