詩を降りる気持ちは皆から離れ去りながら初めて掴まれるように生きられていた 結城永人 - 2017年4月1日 (土) 世界を止めるわけでもなければ決して難しくはなかったはずなのに降りた詩は口に直ぐに出なかった。 慣れるし、あっという間にペラペラだから忘れっぽい天使(クレー)だったかも知れない、詩人として向き返して観想するかぎり。 Vergesslicher Engel by Paul Klee / Public domain どこから降りたのか。自分からだと人間は教える。ならば聞いたのは沈黙だった。しかし元々の詩は内面にはなかったはずだ。手に入れたのは自分の言葉からではない。言葉そのものが皆から来ていたわけなので、詩も同じだし、自分の言葉は最初から霊感ではない。 降りる気持ちの詩は霊感だ だから人間も自分からだと見詰めるにせよ、霊感の詩を遡るかぎり、皆からしか妥当には認識されない。 人間は苦しむ。間違っていたのか。詩を降りる僕へ偽物のイメージを指摘していた。霊感が分からなかったために早合点したならばもう二度と気持ちだけを他人の言葉から汲み取るのは止めるべきだ。貴方は狼狽えるばかりかも知れない。 僕は反対に見詰めた。途中からは正しかった。思考の皆から降りるまでの間に詩は霊感に置き換えられた。つまり霊感に置き換えられなかった詩の雰囲気は気持ちではなかったとはいい切れない。部分的には非の打ち所のない認識だったし、十二分に妥当だった。 なぜか吠える犬が人間性の暗闇の崖に姿を現すと世界が凍り付いた束の間に和らぎが少しずつ返されて行った。水田から蛙の合唱も鳴り響けば夏の夜中のだろうか。風流な趣きに触れながら人間は言葉を呑み込むしかなかったようだ。 僕にとって詩を降りる気持ちとは 皆から来ている言葉を自分らしさに相応しく作り直す作業といって良いだろう。自分の言葉を持つために真実の世界を離れ去り、夢見られた風流な趣きでさえも身を捩って消え失せるように後にしてしまうせいなんだ。 思う、貴方は死んだかと。または自殺行為に等しくて眉間に皺を寄せながら安否を念じるばかりだ。 人々は三輪車に乗り出した幼児を転んでも可笑しくないと仲睦まじくも付き添っている。 自分の言葉を持つための作業が危ないのは確かだ。しかしながら一人でなければそれを上りながら作詩できないし、詩人も思考の最初から最後まで皆と、丸っきり、同じでは無責任でしかないだろう。 だから皆から離れて詩を降りる気持ちは一つの孤独な作業かも知れない。 人間としての自覚を目指して思考するために避けてはならなかったというと美談にも感じられる。歌い出すまでは確認されなかった沈黙が今此処では芸術的なんだ。貴方も去り行く僕に神経を逆立てる必要はなかったし、まごつかされる場合でもなかった。たとえ狼狽えながらでも呼び覚まされた悲しみは人生を日々の細目から豊かに織り込んでいた。手持ちの言葉の全てが無言で深みを増して行くかぎり、取り敢えずとも慌てて追いかけなくて良い。 きっと涙を忍んで待ってくれていた 皆こそ優しさに光り輝いているならば一旦は降りてから自分の言葉を解き放つように霊感を伴って仕上げられる詩だけが素晴らしい世界を実現できるのではないだろうか。 生きられるのは摩訶不思議で奇妙奇天烈だと知覚する内面からは認識されなし、翻って言葉遣いが功を奏するほどに自然体の自己表現を逸早く手中に収めていた。 天使が覚えている沈黙こそ無駄にせず、降りた気持ちの詩によって再び巡り会えた人々の中で、そして貴方と一緒にどんなに幸福を味わっているてしても考えたいと僕は願う。 クレーが忘れっぽい天使に描いたのは 恐ろしくも薄められた瞬間の触れ合いの真実だったに違いない。表情が微かに綻んでいるのはなぜか。詩人は帰って来る。さもなければ名前も呼ぶな。僕は貴方よりも痛感された責任が本当ならば自分言葉で近寄るそばから明かさなければ誠実ではなかった。 引き潮の海のように人々も背を向けて降りる気持ちの詩へは判断を下し兼ねるばかりの思いを余儀なくされていた。 僕も同じだ。貴方かも知れないし、人々の一員だろう。そして詩人でなくても変わらない。人間は自分の言葉を上るのが生来の姿だと端からは飛び出されるかどうかに拘わらず、真っ先に個性だと感じる。 コメント 新しい投稿 前の投稿
コメント