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ソクラテスの死は如何にも哲学者らしい威厳を放っていた

古代ギリシャでブラトンアリストテレスと並んで三大哲学者の一人と考えられるソクラテスは西洋哲学の源流とも過言ではないほどの存在だった。彼の弟子がプラトンで、その又弟子がアリストテレスだったからソクラテスがもしもいなかったら、全員、消えてしまって西洋で哲学が歴史的にどう流れたかが相当に変わっただろうと震撼させられる。


人々の考え方に大きな影響を哲学は与えている。何等かの主義を持つかどうかは別としても社会に共通する枠組みは一般的にあるのではないか。古代ギリシャの三大哲学者は現代でも通用するような原形を示している。


  • ソクラテスの知識(エピステーメー)
  • プラトンの理想(イデア)
  • アリストテレスの論理(オルガノン)

当時は宗教と結び付いていて何が良いのかを探求しているから必ずしも哲学そのものではないはずだ。しかし抽象化すれば知性と観念と方法という哲学者の条件が出揃っているのは明らかだし、超越論的にいえば認識と概念と判断によって今直ぐに誰でも哲学に取りかかれるような能力が身に付いたに等しいと思う。


注意するとプラトンの理想は多義的なので、それを例えば概念と捉えるとアリストテレスの論理が理性になってソクラテスの知識も対象と捉え返されながらカントの超越論的な認識の方法が全てみたいな思想系の哲学にぴったり当て嵌まってしまう。


もしもプラトンが哲学者ならば彼の理想は観念でしかないはずだったんだ、本質的にいって。観念にどうにも手が届かないから理想と呼ばれていたに過ぎないのではないか。古代ギリシャでは精神が人間にとってまだ十分に知られてなかった(物事を身体、または情動から無意識に知覚していた)せいだと理解されるべきだと僕は考えている。


プラトンの理想については理性とも捉えられるし、するともはや哲学は生き方と結び付いてしまう。ソクラテスの知識もアリストテレスの論理も正しくなければならないと味わわれ得るし、哲学者だけが偉いみたいな状態にもなり兼ねない。彼、または彼女の独断論から社会に差別と偏見が増やされるとしたら本当に恐ろしい。


僕は哲学が好きだし、良いと思うけれども独断論を引き起こす危険性が全くないわけではないから精確に把握しなくてはならない。根本的には思想と切り放せるかどうかにかかっている。思想系の哲学から理想を口にしたら政治と変わらないし、理論としては《教祖の見えない宗教》か、または否定神学の構造で終わりだから現実に問題を抱えているのは作者だけではないかとニーチェの哲学批判みたいな虚無的な立場から思考もおよそ前進できなくなりそうだ。


ソクラテスが面白いのは方法は古いけれども西洋哲学の源流として哲学そのものが非常に分かり易い。たぶん宗教と拮抗しながら自らの思考を表現しているために思想もそうした神学的な言葉遣いに含まれながら一緒に薄められてしまったんだ。哲学そのものを知るためには却って新しいとさえも驚かされずにいない。


哲学と思想がなぜ結び付いたかは歴史的にプラトンの理想が多義的だったせいだとすればそれ以前のソクラテスがそれ以降のアリストテレスよりも哲学者として純粋なのも間違いないのではないか。


性格によるけれども調べてみると相当に凄くて分けても死に際に象徴的に感じられた。純粋な哲学者のソクラテスと認められると同時に最期に放たれていた威厳に胸打たれずにいなかった。開眼とも過言ではないくらい存在の著しいまでに炸裂した様子が芸術的にも美しいばかりなんだ。


ジャック=ルイ・ダヴィッドのソクラテスの死

ダヴィッドソクラテスの死を見れば何もかも解き明かされていて口を挟む余地はないだろう、もはや純粋な哲学者というイメージにおいて。諺の百聞は一見に若かずとはこのことではないか。世界の筆舌に尽くし難い相貌が目にありありと描き出されてしまっていた。ドラマチックな絵だし、ソクラテスから哲学とは何かを真実に思い知らされるような衝撃が広がり捲っている。


絵として不可解なのは落ち込んでいるのは信望者ばかりなんだ。ベッドの端で一人ぼっちで横向きに目立って憔悴しているのもソクラテスではないという。今正に死にそうなはずなのに落ち込まないどころか、ベッドの真ん中で威勢良く起き上がりさえもしていたんだ。


白い服を着ているけれども信望者に囲まれながらソクラテスは自らの死を目前に控えてもまだ熱弁を奮うように自説を唱えていた、生きるかぎりは哲学を自分では続けるし、他人には教えて止まないという常人離れした格好で、ダビッドのソクラテスの死には古代ギリシャのソクラテスという一人の純粋な哲学者のイメージが迫真に表現されていた。


ソクラテスの命知らずの哲学の凄さ


死をも恐れない哲学だからソクラテスの方法は本当に凄いと思う。意義深い、普遍的にも人生にとって。どんな悲しみも乗り越えられるとすれば哲学者として威厳を放つのも当然だったはずだ。人々の求める気持ち、すなわち必要性においては最有力ではないか。


古代ギリシャの不敬神の法律に違反して死刑が宣告された。社会的に思想・表現の自由が確立されてない時代だったけど、ソクラテスの認識が神々に逆らいながら若者も駄目にする――政治的に許せない向き(ペロポネス戦争を引き起こしたアルキビアネスや三十人政権の恐怖政治を主導したクリティアスなど)へ入れ知恵を働いて自国を現実に不幸へ貶めた張本人とも見做されたせいか――アニュトスとメレトスとリュコンという三人から裁判所に訴えられて有罪者に仕立て上げられてしまったらしい。


ソクラテスは、ポリスの信ずる神々を信ぜず、別の新奇な神霊(ダイモーン)のようなものを導入することのゆえに、不正を犯している。また、若者を堕落させることのゆえに、不正を犯している。



ソクラテスの哲学は知識を重視していたけれども元々は神託に依拠していてソクラテスは誰よりも賢いと天の声を聞いた/カイレフォンがデルフォイのアポロンの神託所で巫女にソクラテスよりも賢い人はいるかと訊ねた際の応えを後から受け取った経験を本当かどうかと確かめるところに特色があった。


神託から人々にすんなり何かを説き出すと宗教だから自己批判を通じて方法として完全に哲学を手に入れていたし、哲学者ならば根本的に純粋と考えられる所以にもなっている。


どうやって確かめるかが独創的で、ソクラテスは何よりも無知だと自分は知っているために賢いと判断した。すなわち「無知の知」が本物の知識として重宝されるという結果に繋がって来た。知識を重視するといっても本当に哲学的な仕方でしかない(世間での情報の収集家ではあり得ない)わけだけれども思考としては捻れているために、または論理的に矛盾したままの概念以前の判断に基づいているゆえに知から逆に無知を求める必要に迫られていたようなんだ。無知を捨て去ると賢くなくなるべき哲学なので、本物の知識を保つのにも「無知の知」を想定しながら知覚するかぎりは方法上の真偽において無知こそ不断に欠かせなくなってしまうのではないか。


ソクラテスは知ってか、知らずか、世の中を歩き回って人々の無知をしょっちゅう指摘していたとされる。誰彼に問答を持ちかけながら実際は口だけみたいに納得できないほどに自分こそ虚勢は張らないし、それこそ賢くて神託の通りだと「無知の知」にも目覚ましく気付かざるを得なかったかも知れない。本来ならば自分の無知を追求するのが合理的な世界だろう、哲学者としては。しかしおよそ二千年後のデカルトのように方法的な懐疑までは抱かなくてソクラテスは自分の無知を問い詰めない代わりに他人の思考の粗探しともいうべき生活を繰り返してばかりいたのではないか。


自分は無知を知って賢いと納得するならば無知によって反証されないうちは概念的に成り立たないし、哲学者にはなれない(言葉遣いが理知的ではない)けれどもソクラテスは素朴にも他人に見出だされる無知によって方法そのものを実質的に掴んでいたわけだろう、きっと。


もう一つ哲学者としてソクラテスが個性的なのは著作が全く残されなかった。時代的には必ずしも無理ではなかったものの彼についての事実そのものは弟子のプラトンやクセノポンなどの執筆した本から引き出されるしかなくなっているんだ。


ソクラテスは言葉に記すと思考は誤っていると捉えていたらしい。これも素朴な見方に由来するとすればおよそ当然だろう。他人の無知なしには持ち前の「無知の知」の概念が方法論的に自己批判の弱さ(認識論的には知覚の超越性が足りない)から判断力において決定不可能に陥るのは明らかだ。


ソクラテスは「無知の知」が妥当な認識だと示すためには他人の無知から導き出すしかない状況だったはずだから本の言葉だけで思考が成り立つような自己表現を望まなかったのは正しい選択だったと認められる、まさか哲学にとっては。


いい換えると本当にソクラテスは哲学者でしかない。方法は素朴だけれども思考が全く矛盾してない。他人の無知を指摘しながら言葉を残さなかったという二つの事実に鑑みてソクラテスの知識、すなわち「無知の知」は概念として十分に成り立つと受け取って良いのではないか。


難儀なのは主体性だけだ。自分の無知を捨象するために本という証拠を残さなかったところがひょっとすると又別の思考の可能性を呼び寄せずにはいない。ソクラテスは哲学者ではなかったとも感じてしまうんだ。


しかし純粋だから主体性は抜きに動物もさながらに何もかも一直線に知覚するしかなかったとするとやはり哲学者でしかないと感じ返される。


ソクラテスは思考が正しいけれども主体性から一つの方法が人生に有意義かどうかについては厳密には問題視しなかったに過ぎないという気持ちこそ純粋そのものの哲学者だったのではないか。


なぜって、いつもそうだったんだけれど、僕はただ倫理的に考えてみて一番善いと思える言論にのみ従う、そういう人間なのだよ。だから、今この時になって、自分自身の言葉を裏切るなんてできないよ。僕が今まで尊敬してきた原則、それはいまだに尊重するに値するものだ。だから、僕たちが他にもっと善い原則を見つけられないかぎり、僕は君には同意できないよ。たとえ大衆が、その力でもって、監禁とか、財産没収とか、死刑とか、そんなものをちらつかせて、子供たちをお化けで脅かすように僕たちに迫ってきても、僕は退かないつもりだ。



ソクラテスは不敬神の裁判で自分から死刑を受け入れていたらしい。自説を撤回しながら謝罪すれば追放刑で済んだかも知れなかったにせよ、彼自身の「倫理的に考えてみて一番善いと思える言論にのみ従う」という「尊敬できる原則」から法廷では無罪を主張するように人々からかけられた容疑へは頑固一徹に譲らなかったんだ。


思想的には神の使命という信念が非常に大きかったようで、元々の神託から「無知の知」という本物の知識を掴んだ思いを手放さないために有罪で死刑になっても構わないという立場へ向かってしまっていた。


本当に命知らずの哲学だし、世界の真実だけを目指して全力で思考しているところがソクラテスは凄いとしか感じられない。


世の中に思想・表現の自由がないからこその結果だとすれば二度と繰り返すべきではないと政治的にも厳しく受け留められるだろう。


通例では判決から即日に執行される死刑の習慣が古代ギリシャにあったものの偶然にもアポロンへの祭りに重なって一ヶ月くらい延期された。ソクラテスがかつて耳にした神託もアポロンから来ていたから超常的な巡り合わせを否定できないし、まるで救いの手が差し伸べられたように神への畏れを奇跡的に抱かせる場面なんだ。知己のクリトンや信望者がやって来て脱走するように呼びかけるけど、やはり聞き入れはしなかった。様々に議論を尽くしながら死ぬ間際まで哲学を生き抜いていた。


純粋な哲学者の感動する言葉遣い


ソクラテスはクリトンに「僕たちが他にもっと善い原則を見つけられないかざり」といっていた。


考えさせられる。ソクラテスの認識が古代ギリシャの不敬神の法律を免れなかったのはなぜか。死に際のクリトンとの議論を踏まえれば哲学的な正しさが問われてしまったせいなんだ。つまり真実を求めるために知識だけではなくて人生でも思考を曲げてはならなかった。法廷で自説を撤回したり、後から脱走したりすればソクラテスはもはやソクラテスはないように哲学者でもなくなったはずなので、それだけは許せなかったわけだ。


純粋なのは気持ちだけで、方法論的に素朴だったし、かりに自己批判が弱くなければ問答で打ち負かされた人々から悔し紛れに歯向かっているような反感を買わず、憎悪も招かずに済んだのは間違いなかったのではないか。


哲学としては自分の無知を対象化できなかった/他人の無知から自説を唱えてしまったところが原則的にはまだもっと改善される余地があったはずだし、近代以前の古代ならではの哲学者の方法だと追い越して評価せざるを得ない思考に止まっているんだ。


ただしソクラテスの「僕たちが他にもっと善い原則を見つけられないかぎり」の言葉遣い、渾身の自己表現からすれば新しさにうっすら気付いてもいたようだからとても素晴らしいと感動する。


心から見習いたいし、まさか霊感が思考を変えて行くとは俄かには信じ難いにせよ、現代から振り返ってみては真実かも知れない。


参考:ソクラテスの弁明 ソクラテスの思い出 ソクラテスの死

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