鈴蘭の写真と俳句:死んでから有名になっても 結城永人 - 2023年5月5日 (金) 地元の大きな公園で初夏の花々の写真を撮って来たので、その中から鈴蘭の写真を俳句付きで掲載する。 公園の小さな山の頂上に展望台があってその近くの脇道のそばに鈴蘭の集落がある。初めて見付けたときは本当にびっくりして大好きな花だから幸運を感じた。他の場所に全くないから雑草みたいな感じで、偶々、生えているのかも知れない。 鈴蘭の消されもしない奇跡かな 公園の鈴蘭は雑草だとすれば管理者の整備で取り除かれる恐れを免れないので、見られるのは愛するほどに奇跡だといつも感じる。 青春期を過ぎてから作家を志したのは良いけれども全く売れない。自分に近い思考を持つ作家だと特別な親近感を覚えるアルチュール・ランボー(詩人)とフランツ・カフカ(小説家)が世界的に有名になって大きく売れたのは死んでからなので、そうした生き方まで近いとしたら困り果てるしかない。 今此処で断言しておきたい。本当に死んでから売れても何の意味もないから止めて貰って結構だ。アルチュール・ランボーもフランツ・カフカも最終的に売れないまま、自分の作品を捨てるつもりだったんだ。それを誰かが持っていて後世に伝えて今や人類の宝みたいになっているわけだ。僕の場合もインターネットで公開しているから自分の作品が人々に残される可能性はあるけれども死んでから売れるのは決して本意ではない。 鈴蘭や死に物狂いで一人言 考えると自分が作家として生きられることを確かめるために作品があるし、それを知るために書いているんだ。少なくとも僕は死んでから受け入れられて納得することはない。人々にとって作品を理解するために作者が生きているかどうかは必ずしも重要ではないにせよ、今此処が作家という僕を認めてくれる世界でなくてはもはや生きるための動機付けそのものを失わざるを得ない。 窮極的にいえば自分らしさが問われているに等しい。公園の鈴蘭が雑草ならばいつ消されるとも分からないみたいな状態では誰も生きた心地がしないわけで、どんな場合でも速やかに受け入れる世界であるべきだろう。自分らしさが本物で、一人の人間の本性に他ならないかぎり、または善悪を越えて存在をその根底から把握するためにはたとえ神であっても邪魔するのはおかしいといいたい。 初夏の七つの花々の写真と俳句 コメント 新しい投稿 前の投稿
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