浅田彰がやられた坂本龍一の美し過ぎる物語 結城永人 - 2023年4月12日 (水) どうも坂本龍一(音楽家)が亡くなってから妙な虚しさに心が包まれている感じがする。 僕は彼のファンではなかったし、彼の音楽に嵌まって何時間も何日も聴き続けるようなことも一回もなかった。生まれて初めて気付いた美しい音楽が彼のラストエンペラーだったことは唯一無二の経験として、生涯、忘れ得ないにせよ、亡くなられて普通に喪失感を受けるほどの関わり合いは持たなかったはずなんだ。 考えると自分よりも日本が大事な人と別れて悲しんでいるみたいだ。落ち込んでどうしようもない日本に暮らさなくてはならないから自分も虚しくならずにいられない。 本当かどうかは良く分からなかったけれども坂本龍一と友達だった浅田彰(社会学者)の追悼のインタビューの動画:浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一を観たらやはりと感じた。 浅田彰の坂本龍一への追悼のインタビューの動画浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一浅田彰が語る、あの映画のサントラが坂本龍一のピークだった浅田彰が語る、ディカプリオと坂本龍一が死ぬ気で取り掛かった狂気の映画浅田彰が語る、今の日本に欠けているのは天才芸術家ではなく天才プロデューサー 日本が悔やむとも過言ではないくらい坂本龍一が如何に大きな存在だったかが音楽家としての生涯を中心に良く分かる話を聞くことができたので、ブログに取り上げて個人的に纏めながら覚えておきたい。 浅田彰の話①坂本龍一とポストモダン 坂本龍一っていう人は、元々、1970年に芸術大学に入った、東京芸術大学に入ったわけで、ま、所謂、大学紛争の直、ま、真っ只中ですよね。で、あの、だけど、72年になると連合赤軍事件とか起こると。で、ま、所謂、左翼、新左翼みたいなものが袋小路に入るってことがあったわけですよね。且つやっておられた音楽の方でもそれこそクラシックからロマン派、そして近現代音楽を経ていわば前衛音楽っていうのが直前まで物凄く盛り上がってたんだけれども、ま、坂本さんが子供のとき、聴いた、ヒーローだと思ってた高橋悠治さんみたいな人はいわば前衛を突き抜けてね、もうマオイズムで、水牛楽団で、下手で良いんだみたいなことをやっていた。そこまで行っちゃったら、あるいは映画でいうと、その、ゴダールみたいな人が、全部、ぶっ壊すとこまで行っちゃったらですね、その次に俺たちはどうしたら良いんだという世代ですよね。で、簡単にいうとそれはポストモダンといわれたわけでしょ。で、今まで、左翼、新左翼の延長だけでは駄目だ、あるいは今までの、その、前衛で、どんどんどんどん過激にやって行って誰にも分かんない孤独な実験の中で、崩壊して行くだけでは駄目だみたいなところにいたわけですね。だから凄く簡単にいうと、その、モダニズムの前衛がいわば政治的にも芸術的にも行き詰まった段階でね、もう、文字通り、ポストモダンになった。で、その中で、いわば、あの、特に芸術の方でいうと、いわば、こう、自分がやりたい音楽ってなものは良く分からない、というか、やるべき音楽っていうものの方向がもう分からないわけですね。で、万能のスタジオミュージシャンになってフォークでもロックでも良い、テクノでも良い、あるいはゴージャスな映画音楽を作って欲しいっていうならそれでも良いっていうね。で、あの、いわば、それ、全部、仮面なわけですけど、完璧な音楽機械としてどんなジャンルの音楽でも、全然、シュミレートできますよという。 浅田彰/浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一|Straight Talk【JBpress】 坂本龍一は浅田彰と友達になるくらい知性が高かったわけで、象徴的なのはポストモダンを理解している。 僕が彼に注目した切欠のDifferenciaも思想家のジャック・デリダの「差延」に着想を得ている音楽だったからポストモダンに含まれる。 浅田彰はすんなり話しているけれども現実は誤解する人が物凄く多いと思うので、注意しておくと「行き詰まった段階」というのは本来ならばアントナン・アルトー(作家)の不可能な思考のような経験とかジル・ドゥルーズ(哲学者)のリゾームのような概念なんて途方もない世界を示すだろう言葉だから只単に八方塞切りの人生とか良く聞く上手く生きられない悩みなんてものではない。 普通の人間的な部分、つまり気持ちそのものが全て吹き飛ばされたところに「モダニズムの前衛」というようなものもあるわけで、それこそ自分自身が空っぽにならざるを得ないような現実を条件付けるものなんだ。 浅田彰の話し振りからすると誰でも同じみたいに聞こえるけれども坂本龍一みたいな人は音楽家でなくてもちょっと他に思い浮かばない。能力的に「万能のスタジオミュージシャン」というと希少だと分かるにせよ、それを目指すというか、実際にやってみようとすることだけでも決して多くないと思う。 坂本龍一は音楽家の高橋悠治の反体制的な動きなどから浅田彰がいうように「自分がやりたい音楽ってなものは良く分からない」と気付いたのかも知れない。しかしながら「完璧な音楽機械」へ向かうということは時代から誰にでも起こり得ることではなくて非常に個人的な問題、いい換えれば才能の結果ではなかったかと感じられてならないんだ。 ところで言葉遣いとして「完璧な音楽機械」の「機械」は浅田彰が信望するドゥルーズ哲学の概念から来ているんだろう。欲望を機械と呼ぶ。1980年代に日本にポストモダンの新風を巻き起こした浅田彰の構造と力で最も重視されたドゥルーズ哲学の概念も「機械」だった。今、世界中に広まっているので、逆に欲望に戻して完璧な音楽欲望といった方がもっと分かり易いかも知れない。気持ちが伝わる。とはいえ、ジル・ドゥルーズが掴んだ欲望は機械として飽くまでも理性を失ったか常軌を逸したものと捉えないと根本的に間違っているし、普通に経験できる世界に含まれると考えると精確ではないだろう。 浅田彰の「完璧な音楽機械」という言葉自体は坂本龍一の音楽家としての圧巻の手腕という印象が強いけれどもドゥルーズ哲学の「欲望=機械」を想定しているとすると法外な欲望か凄まじい気持ちか何れにしても飛んでもない情熱も認めていると受け取ることができる。 浅田彰の話②何でもできるが自分はない だけど、貴方自身の音楽は誰、何ですかっていうと答えはないっていうね。そういう感じのいわば非常に、こう、洗練されたポストモダンな、ま、音楽機械として出発したという感じがしますね。何というか、ある意味でいうとそれまでのありとあらゆる音楽の形式みたいなものをちゃんと知っていて、で、自分でそれをもっと上手くシュミレートできるみたいなことがある。で、逆にいうと、だけど、余りにもあらゆる様式、それからあらゆる、こう、例えば、その、ピアノソロから、えー、タンゴのバンド、あるいは大オーケストラに至るまで何でもやってるので、ま、坂本龍一というのはこの人だっていう顔は見え難いわけです。で、その顔の見え難さっていうのを端的に非常に良く表した言葉が「ビハインドザマスク」というですね、つまり仮面の下に。で、仮面の下には何もないんですよ。 浅田彰/浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一|Straight Talk【JBpress】 坂本龍一がYMOで作曲したビハインドザマスクを例として匿名性を取り上げている。 何でもできるから何にもできないというと語弊があるけれども自分らしさが少ないから僕は彼の音楽には余り興味が湧かないのかと考えさせられる。 感涙できる作品は多くて普通ならば一曲でも泣けたら十分だと喜ぶはずが坂本龍一にかぎって物足りなさが残る。入り込み切れないというか、胸一杯になるところでもなぜか隙間を感じてしまわずにいない。 Ryuichi Sakamoto - Merry Christmas, Mr. Lawrence|Decca Records 代表曲の戦場のメリークリスマスなんか特にピアノヴァージョンが心に染み易くて出だしから直ぐに泣けるし、大変な感動物だと認めては聴かずに想像しただけでも泣けて来るほどの美しさをもはや湛えているんだ。 それにも拘わらず、何かジグソーパズルのピースが一つ抜けたような充足できなさに襲われる。 浅田彰がいうように作者の顔が見え難いから聴きながら安心できない部分が出て来て喜びが打ち消されるように減ってしまうせいかも知れない。 ブログに取り上げて坂本龍一の音楽の素晴らしさやその他の政治的な主張などから音楽家として人間として多く理解するほどに気持ち良く聴けるようになっているのは事実だ。 浅田彰の話③Behind The Mask だから、その、仮面、あらゆる仮面を被れる非常に精密なポストモダン音楽機械という印象を僕は持ってました。で、結論に行くとそれが幸か不幸か、ま、二度の大きなご病気を経てね、いわば、あの、最後に、その、素の自分に戻ったというか、もはや仮面は必要ない。痛みを捕らえた姿を晒し、で、あの、ま、苦しくて闘病の中で、痛みに苦しんで泣いたりというようなことも隠さず、で、身体を持った一人の人間がこの地球の上で、歩いてて、で、この地球の響きを、全部、全身で受け止めて、それをいわば、こう、綺麗に音楽に纏めるというよりはもう響きごとね、もう音楽にしちゃうみたいな感じになった。だからいわば、その、完璧な、今でいうとAI作曲家ですよね、作曲家、演奏家ですけど。 浅田彰/浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一|Straight Talk【JBpress】 坂本龍一は自分はなくて良いというくらい音楽を客観視していたんだろう。 僕も自分らしさを大切にしなくては行けないと思いながら実際は大して出さないという状態だから芸術家として似ているようだけれども違うのは表現が他人に伝わり難いせいだから現実にはきっちり出しているところだ。 文芸でも何でも気持ちを、そのまま、痛いとか痒いなんて表すことが極めて少ないだけなので、一つ残らず、作品という作品には気持ちが完全に詰まっていることに変わりがない。 他方、坂本龍一はそうではないと思う。自分を作品に出さないというよりも作品に出すべき自分がない、というと嘘なので、この世に生きるかぎり、どこかにあるとしても見当たらないし、ならば別に探す必要もないという仕方で、創作活動に取り組んでいるようだ。 浅田彰も「素の自分」をもっと評価するということは裏返すとそれ以前に不満があったかどうか。同じようなことをフランシス・ベーコン(画家)の絵について話していたので――人間の痛みや苦しみをあるがままに救いと呼べる境地まで持って行った――もしかすると「非常に精密なポストモダン音楽機械という印象」は最高ではなかった。 少なくとも満足できたのは僕ではない。自分を出さない作品は信用できないし、作者との出会いを求めるかぎり、作品のどこかに存在感がないと詰まらなさを否定できない。しかし様々な事情から自分なんか要らないみたいな感じで、芸術を喜ばしく捉えることもあり得るから一概にどちらが良いともいえない。 坂本龍一の音楽の美しさは音楽以外の何物でもないところが神様を呼び寄せるほどのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(作曲家)の音楽の美しさに匹敵すると驚く。後者は音楽とは何かを普遍的に追求しようとする人一倍の純粋な心が出たためだとすれば前者は手に入れた音楽の美しさを無我夢中で比類なく研ぎ澄ましたためだろう。 純心と無心は音楽を含めてあらゆる芸術において同じくらい魅力的で、人の心をとことん揺さぶるものだし、そのうちのどちらの喜びでも与えてくれる芸術家が有り難い存在なのは間違いなくて尊敬しないわけには行かないと思う。 浅田彰の話④音楽マシンから表現するヒトへ その、完璧な音楽機械だった人が一人の傷を背負った、痛みを背負った人間として最後に自分の音楽に、ま、いわば到達したというか、非常に美し過ぎるほど美しい物語で、やられたという感じはありますね。で、ま、実際上、その、何ていうんでしょう、えぇ、ま、テクノのときは別に、その、あれは細野さんに頼まれたからやったんですよって感じですよ、実際。で、あの、格好良い、売れる曲、作れっていわれたら幾らでも作りますよと。で、あの、だけど、それは自分の音楽かといわれたら知ったこっちゃないよという感じだったと思いますよね。で、ま、だから、そのとき、Tong PooというのがYMOで、いわばショーピースみたいになって、それは、その、若い頃、あの、ま、バンドでやった奴もあるし、あるいはピアノの連弾で、あれ、富家哲か何かかな、もう本当に力任せで弾き抜いて、凄い爽快ってこと、あったんだけど、いわば、今、そんなふうに弾けなくなったときにね、あのショーピースを要は、こう、晩年のブラームスかラヴェルみたいな感じの物凄く、つまり必要最小限のところまで、こう、縮小されてるけど、その分、物凄い深い音楽として、あの、作り直すわけですね。で、あれ、Plaing the Piano 2022かな、に、あの、入っていたわけですけど、ま、やられたって感じはありましたよね。で、だから、ま、あの、もちろん両方ともご自分の音楽なんでしょうけど、あの、若い頃はいわば、ある種、その、若さゆえの、そしてポストモダンの時代だったということで、ある種のシニシズムはあったと思うんですよ。あの、私のアイデンティティーなんてないよと、仮面の下は空っぽだよと。どんな仮面でも完璧に演じて見せるよっていう感じだったのが全く、あの、仮面も被る必要もない、で、あの、ボロボロになって、で、ピアノもご自分でいっておられましたけど、あの、ちゃんと正面に弾けてないんだけど、しかし、あの、その必要最小限の形に組み替えられたTong Pooというのが、あのショーピースはこんな深い音楽だったのかっていうような感動的なものになってるというのが、ま、何ていうかな、幸か不幸かっていうことなんですけどね、あの、病気ゆえに、あの、深まったとは僕は、絶対、いいたくないですけども、ま、偶々、そういうことだったんではないかと思います。 浅田彰/浅田彰が語る、完璧な演奏マシンから最後にヒトになった坂本龍一|Straight Talk【JBpress】 浅田彰が坂本龍一の音楽人生をまるで総括するかのような感じで、根底的に振り返っている。 とにかく「非常に美し過ぎるほど美しい物語で、やられたという感じ」が本当に衝撃的だ。 僕の気持ちは今此処で悉く吹き飛ばされてまだ生まれもしなかった「モダニズムの前衛」の頃の状況を疑似体験させられるとも過言ではない。 本当にどうするのか。何をするべきかと悩まされる。まさか自由の刑とでもいってみたくなる感じで、できることが多過ぎる余り、何をやってもしっくり来ない。すれば自分なんかどうでも良くて手当たり次第に生きるのが、一番、面白そうだ。世界に当たるという。 坂本龍一は何十年も匿名性に沿って生きて来たかも知れないけれども二度の癌闘病によってそれまでとはすっかり変わったということを浅田彰から知れた。 なぜと考えると浅田彰はフランス・ベーコンの絵について痛みや苦しみを直に生きることを「救済がないことが救済だ」といって前々から絶賛していたわけなので、当然、友達として知的な関係もあった(繋がりは深いから親友といっても良い)坂本龍一は知っていただろうから影響を受けたことは大きかったのではないか。 そういった意味も含めて「やられた」といっているようでもある。つまりやってくれた、どうせ悲しむならば自分が望んでいるようにして欲しいと最初から思っていたかどうかは別にせよ、浅田彰にしてみれば「痛みを背負った人間」として「ボロボロ」になって生きることを選んだ坂本龍一を知れたことは正しく不幸中の幸いだったわけだ。 坂本龍一も意図的に浅田彰の考えを汲み入れたかどうかは分からないにせよ、結果としていう通りになったし、僕も最晩年の窶れた様子での演奏や何かを観ると現在の自分に可能なかぎりの芸術を望んで敢えて飾り気なくやっているのかと感じてはいた、とにかく浅田彰が気付いたということは二人の友情が上手く働いたと想像したくなる。 本当に素晴らしいと感涙するし、谷川俊太郎(詩人)の言葉で「魂の交感」みたいな印象を与える。 詩を贈ろうとすることは空気を贈ろうとするのに似ているもしそうならその空気は恋人の唇の間から音もなくこぼれおちたものであってほしいまだ言葉でなくすでに言葉ではないそんな魂の交感にこそ私たちは焦がれつづけているのだからこんなふうに言葉に言葉を重ねながら 谷川俊太郎の詩を贈ることについて 浅田彰が気付いた最晩年の坂本龍一に友情は本当に良いものだと改めて受け取る。 そして実際の繋がりがあってもなくも個々の相互作用が喜ばしく生み出される世界、つまり幸せが波及的に広がってそれぞれが人生を謳歌できる社会、さらに全ての生き物が命の尊さをを速やかに全うできる地球こそ理想的ではないかと考えさせられる。 神様の最高の贈り物とも呼べる心底と衝撃的で胸に強く刻まれる認識を得る。 コメント 新しい投稿 前の投稿
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