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水野真紀がカルロス・トシキのファンなのは純然な幸せのイメージが分かるせいだと考える

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爆報!THEフライデー水野真紀が出演していてカルロス・トシキのファンだと夢中になって話していた。かつてボーカルを務めたバンドの1986オメガトライブの大ヒット曲だった君は1000%を口遊んだりしながら如何にも憧れているらしい様子が微笑ましかった。現在は歌手を辞めて日本から本国のブラジルに帰って農業の会社で働きながら種の品種改良を手がけていて最も偉大なニンニクのスペシャリストの一人と呼ばれるくらい素晴らしい業績を上げているのを教えてくれた。気になってブログを観に行くと1986オメガトライブの完全版ボックスとか「カルロス・トシキにハマった乙女」(今夜「暴報!THEフライデー」)なんて載っていたから相当に本気だと感じてしまった。
君は1000%/1986OMEGATRIBE via vap official
僕もカルロス・トシキを良く知っていた。元々は杉山清貴&オメガトライブふたりの夏物語 -NEVER ENDING SUMMER-などで大人気だった。海を感じさせる作風でヒット曲を連発していたけれども暫くするとボーカルの杉山清貴が抜けたらしくて代わりにカルロス・トシキが入って1986オメガトライブに変わった。杉山清隆が爽やかな歌声だったのとは又別に甘やかな歌声なのをちょっと驚きつつも作風は同じように海を感じさせる仕上がりで、取り分け君は1000%が印象深かった。さらにカルロス・トシキ&オメガトライブに変わってアクアマリンのままでいてが再び爆発的にヒットしたのを覚えている。
当時、大して気に留めてなかったし、世の中の流行歌として聴いていただけだった。
ところが三十代前半に作詩していてアクアマリンが完成した時点でカルロス・トシキの歌が思い浮かんで来た。君は1000%やアクアマリンのままでいてなどは情感が被っているのではないか。僕は詩人として永遠を歌っているから永遠から捉えた1000%やアクアマリンという言葉遣いに通じ合う部分が受け取られるので、カルロス・トシキの歌はとても素敵だったと改めて認めるに至ったんだ。
簡単にいうと青春期を振り返った夢の世界が永遠の詩と似通っていて例えばファッションブランドのForever 21もそうだけれどもカルロス・トシキの歌は懐かしくも今正に手に入れたままに止めておきたくなる新しい真実を打ち出しているようだ。
僕にとってアクアマリンは重要な作品で、昔の…

村治佳織のPlays Bachをバッハの作曲家としての表現力のリアリティーから聴く

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村治佳織 - 主よ、人の望みの喜びよ(演奏 ver.) via UNIVERSAL MUSIC JAPAN
村治佳織のアルバムで最もお勧めの一枚はPlays Bachだ。十八世紀のヨーロッパ、バロック時代の作曲家で、ヨハン・セバスティアン・バッハの作品を取り上げてクラシックギターで演奏している。
バッハは近代音楽の父とも呼ばれるけれども楽器の調律を始めとした二十一世紀の今現在でも頻繁に活用されずにいない人々の音楽の一般的な基礎を確立した作曲家だったらしい。本人は必ずしも狙ってなくて好きな音楽を気儘にやっていたようだから後世の作曲家たちが心酔してしまって追従せずにいられなかったせいだろう。概してバッハ自身はドイツから一歩も出ずに細々と暮らしていたし――音楽で有名だったのも専ら教会や宮廷の楽士/オルガニトとしてだから作曲家としては殆ど無名に近い存在だった――生前から現代に至るまでの変わらない脚光を浴び続けていたとはかぎらない。
取り分け注目されるバッハの調律法の平均律が作曲の転調を簡単に可能にしてくれた。主に鍵盤楽器で従来の純正律よりも音程は僅かに濁るけれども作曲の転調がどうも不可能だったのを打破して音楽に新時代を齎した。バッハは平均律クラヴィーア曲集で実現したとされるので、確かにクラヴィーアという鍵盤楽器(ピアノ以前)のために考え出していた。
バロック時代に次いで古典派時代のヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが作曲に積極的に取り入れて転調だらけの音楽で人気を博したりして音楽の表現力が増したわけだ、バッハの平均律の簡単に可能な転調によって。
何が良いかというと和音と音符の組み合わせの楽想が転調で構成的に変わるので、ドラマに例えると場面が幾つも切り替わるように作曲できる。モーツァルトならば世界とは何か、ベートーヴェンならば人間とは何かと音楽で知覚しているのではないかというくらい表現力にリアリティーが得られたようだ。哲学並みに真実を追い求めるとも過言ではない。方法上、言語と言葉の無限大の繋がりに似ているし、楽想の扱いについて多種多様性こそ感じるのは明らかだ。
総じてバッハの平均律から聴いて気持ち良いだけが音楽ではなくなったと捉えてみると芸術的にも影響力は大きいだろう。現今の歌謡曲でも気持ちを表現するために転調を入れれば幅広く仕上がるから納得…

野生の砂猫の赤ちゃんのこんにちはみたいな感じが神々しく透き通る祈りだった

準絶滅危惧種で数を減らし続けている野生の砂猫の赤ちゃんが貴重にも世界で初めて撮影された動画(Sand Cat Kittens Spotted in the Wild for First Time/初めて野生で見付かった砂猫の子猫)を観た。

Sand Cat Kittens Spotted in the Wild for First Time via Panthera Cats
砂猫そのものが言葉を失うくらい可愛いと気付いた切欠だったけれども赤ちゃんだけにさらに輪をかけたようにどうしようもなく可愛くて印象深かった。
親猫が餌を探しに出かけた隙に巣の草むらから少し出て来て追いかけたかったのかも知れない。良く分からなくて右往左往するといっても殆ど動かないから気持ちこそ受け取られた。カメラに気付いたのか、視線が不意に固まったり、数多くのフラッシュを浴びつつも意に介さず、辺りを静かに窺ったりしている様子が如何にも幼いらしくて微笑みを誘われないわけには行かなかった。
こんにちはみたいな感じがした。何もないし、ただ潜んでいた草むらから出て来て親猫を探そうとしているだけにも拘わらず、世界へ存在を小さくも明らかに刻んでいるせいだろう。よもや挨拶が詩的に交わされてそうではないか。包み込むような時空の個物への不断の優しさが胸に広がって来るほどの砂猫の赤ちゃんの世界で初めて撮影された動画による野生での発見だった。
神々しい、一言では。自作詩のパンと牛乳を読み返したくならせるのは迫真だけど、とにかく本当に可愛いとしかいえなくて誰でも心底から思考が止まってしまい兼ねない。祈りも透き通る経験が得られては大満足の人生だろう。
僕にとっては少なくとも疑いを差し挟む余地は全く残されてない。素晴らしい瞬間に巡り会えたと野生の砂猫の赤ちゃんに思う。今此処の全てに感謝するのは些かも造作ない。延いては好運が訪れるとか予想以上の喜びに与るなんて浮き立ちさえもする気持ちにまでなって来てしまう。
最高とも過言ではないし、他の猫の赤ちゃんと大きく変わらないはずなので、砂猫にかぎってどうしてと驚きもするにせよ、好きだからこそ気に留まり易かったせいならばやはり本音を大事にする生活が良いんだ。

松尾芭蕉はおくのほそ道で憧れの松島へ訪れても言葉を失うほどの絶景のために俳句を残さなかった

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虚覚えというか、今夏、松島の記事を仕上げて松尾芭蕉の松島の句があれば読んでみたいと探した。
おくのほそ道の旅で松島に訪れた感じがするのに俳句を詠んだかどうかが記憶に全く残ってなかったり、どこかで本人の作として聞いた「松島やああ松島や松島」が事実かも定かではなかったり、訳が分けらなくて本当に困ってしまう。
分かったのは調べた結果だけれども松尾芭蕉はおくのほそ道で松島の句は詠んでなくて紀行文しか載せてなかったのと「松島やああ松島や松島」も田原坊(狂歌師)の「松嶋やさてまつしまや松嶋や」が人伝てに変化して作者も誤って広められたのとが正しかった。
Matsushima By Ivan Mlinaric [CC BY 2.0], via Wikimedia Commons
松尾芭蕉にはおくのほそ道以外に松島の句が全くないわけでもなくて蕉翁全伝附録という本に「島々や千々に砕きて夏の海」(しまじまやちぢにくだきてなつのうみ)が旅の後で残されていたらしいんだ。
味わいが薄くて印象も弱いから松尾芭蕉が詠んだとしても特別に優れた言葉遣いとは認めない。日本三景という有数の絶景、松島への渾身の一句には相当に物足りないだろう。俳聖の駄作と退けざるを得なければ最初から知らない方が良かったと逆に後悔させられる。
ただし考えると違うのではないか、晩年のモーツァルトの音楽のように普通とは。当たり前には計り知れないはずの澄明な世界を余人の追随を許さないほどに精妙に捉えている自己表現に他ならなさそうなんだ。極めて細やかな心遣いによって紡ぎ出された言葉からのみ出来上がってないわけではないと受け取ると「島々や千々に砕きて夏の海」は本当に想像を絶する素晴らしさを持っていると認めるのに無理はない。詩的にいうと宇宙が泣いてしまうに等しい。人間が到達する感動の限界まで痛感させる芸術性を教えてこそ止まないから松尾芭蕉ならではの松島にも相応し過ぎる余りの仕上がりの俳句だったし、驚くべき言葉遣いだったわけだ。
松尾芭蕉の松島への思いを理解するために
Basho Matsuo by Kyoriku Morikawa [Public domain], via Wikimedia Commons
おくのほそ道の二十四章目に「松島」が出て来る。全体が五十章だから、丁度、中頃に松島への思いが綴られていた。
抑事ふりにたれど松島は扶桑第一の好風にして…

ベーコンのアトリエはゴミ屋敷なのに格好良い

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Francis Bacon's studio at the City Gallery The Hugh Lane, Dublin, Ireland by antomoro (Own work) [FAL], via Wikimedia Commons
本当に困るというか、ベーコンの絵は怪奇的で余り長く見ていたいとは思わないけれどもアトリエには普通にアートを感じる。片付けて欲しがりながら思いはゴミ屋敷でしかない。ところが散乱している画材に少しでも手を伸ばそうとすると心の中で動かしてはならないし、一瞬に全てが成り立った《世界の生命力》を味わわされるのも確かなんだ。またはリアリティーの引き潮によって写真だけれども目の前のベーコンのアトリエに自分自身が急速に巻き込まれてしまう。諺にある通り、住めば都とゴミ屋敷かどうかはもはや苦にならないのが不思議だ。実際に生活するのほ考えても厳しいかも知れないにせよ、アートとして捉え返してみるとベーコンが細部の先の先まで仕組んだようにも受け取られてずっと見ていたいと率直に感じる。
Francis Bacon's studio at the City Gallery The Hugh Lane, Dublin, Ireland by antomoro (Own work) [FAL], via Wikimedia Commons
ベーコンのアトリエは格好良い、アートながら作り上げたのは彼にとっては偶々で、普段の生活に合わせて画材が勝手気儘に配置されたはずだとありがちに考える。すると神が降臨したように認められもする。ゴミ屋敷と根本的に異なるのはベーコンのアトリエを埋め尽くした全てが絵描きに必要だからで、それぞれが似ているのは乱雑さというスタイルに過ぎない。只単に雰囲気が重なっているから感情移入が高まるほどに参って息詰まりながら困らざるを得なくなるけど、とにかくイメージでは出会ってしまっている神が本当に凄いと感心させられるんだ。アトリエがアートとしてなぜ作り上げられたかを当のベーコンよりも自然の美しさの一つに数え上げている気持ちに呼応しながら目に浮かんで来るわけだった。知るや否や避けられない。
Francis Bacon's studio at the City Gallery The Hugh Lane, Dublin, Ir…