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ガッツがなければ何年もかけてGoogle検索は研究できない

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昨日はブログのアクセスが午前中からとても好調で、いつもは人が多いはずの夜に同じくらいの上乗せがなかったのが悔しかったものの一ヶ月振りに一日百人に迫った。
空に重く垂れ込めていた暗雲が漸く晴れて行くような爽やかな気分を味わう。物事が考え通りに望ましく進まない人生はどれだけ辛いかを反対に思い知らされてしまう。意外と気付かなかったけれども晴れやかな気分が本当に信じられないほどの衝撃を与えている。辛かったはずだ、今此処の大きな変化から捉え返してみるかぎり。もはや気落ちすると周りが良く見えなくて自分自身の感覚でさえもぼやけて掴み難くなるといわざるを得ないだろう。
度を越した悩みと同じで、辛さも巻き込まれて抜け出そうと考え倦ねるほどにそれ自体が分からなくなって忌まわしい状態こそ当たり前に受け取られながら内面に染み付いて暫く経った頃には何一つ疑いも抱かないくらい感覚が悪いままに取り込まれるんだ。
ブログをB…

モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークを聴いて出会える神様への無邪気な心へ

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いつ頃からかは良く覚えていない。たぶんしかし高校時代だったのかも知れないというのがモーツァルトの音楽を聴きながら神様と出会った。
当時、ベートーヴェンが大好きだったので、何といっても交響曲第五番《運命》のジャジャジャジャーンが印象強いばかりだった、モーツァルトへの記憶は殆どない。クラシック音楽というとベートーヴェンが代名詞みたいな状態で、他にはチャイコスキーとマーラーくらいしか聴いた感じがしなかったはずだ。
興味や関心からいうと十代の少年期にクラシック音楽を欲したのは僕の場合はオーディオが大きかったと振り返られる。とにかく良い音とは何かを知りたかったのではないか、世の中で。愛読書も月刊HiViだったり、どんなシステムで良い音が聞けるのかを知りたくて探し回っていた。
なのでクラシック音楽は色んな音が細かく入っていて自前のオーディオが良い音を出しているかどうかを確かめる意味合いが非常に強かったし、…

生まれ付きで鼻のない赤ちゃんだったイーライ・トンプソンが残した笑顔

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Timothy Eli Thompson via Facebook
イーライ・トンプソンという赤ちゃんに生まれ付きで鼻がなかった。無鼻症という非常に稀な病気にかかっていた。出生児の一億九千七百万分の一の確率で、かつて世界中で三十七例しか確認されなかったらしい。生後五日で気管を切開して人工気管を通して呼吸が確保された。人々からは「Miracle baby」(奇跡の赤ん坊)と呼ばれて可愛がられていた。無鼻症の影響で病弱だったために二歳で亡くなってしまったけど、しかしあどけない笑顔を残していて写真から著しく引き付けられた。
アラバマ州モービルの赤ちゃんイーライ生後六ヶ月のイーライ赤ちゃんイーライのベスト
目にしながら逆しま泣いたようで、心がよもやまさか可哀想でしかないと感動し切れない部分へは詩的に素晴らしいと認めるばかりだった。
本当に詩情に満ち溢れた写真だし、何よりもドキュメントなのが驚かされずにい…

ヴァン・ゴッホの自画像の心の目に見えて来る神様

一枚だけだけれども画家一筋のヴァン・ゴッホの記事で引用したヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来たからブログに改めて取り上げておきたいと感じた。
僕の言葉遣いが霊感そのものなのと同じで、気付いた訪問者がいれば一人怪しく訝らせるのは忍びない。
ヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来ても君だけではないし、僕もそうだから間違いなく、安心して欲しい。
きっと僕の言葉遣いが霊感そのものだと気付くよりも人々にとって可能性は高いだろう。
理由は簡単だ。サイト全体のイメージに合ってないというか、些細な日常のブロガーがゴッホではないから僕ばかりの自己表現が多いところで、取り上げられた他の誰かの作品の個性的な特徴が比較的に目立ってしまうせいだ。
本当に驚くし、僕は絵から神様と出会うのは初めてだったので、ヴァン・ゴッホへも興味や関心が変わってしまう、一段とさらに素晴らしく。
ヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来るのは心…

書行による作家のための思考と存在証明

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書くことがない。ということを書く。やはりない、書くことが。
終わったと書く。書いてみる。書くことが終わった。まだ終わらない気分の中で始まった始まりを終わらせるかどうかに悩みながら書いている。書けた。ということは書けるんだ。
嬉しい、書けると。辛かった、書けなくて。なぜなのかは書きたかったためなんだろう。書かなくてはならなくて書くことがないと辛いんだ。
分かった。書くことがなくて書かなくてはならない場合には書くと良い。只々、書いて行く。どうして書けなかったのに書けるのか。
書くことがないのに書くためには行くしかない、書いて。
思考ではないのではないか。確かに思考だ、書きながら寄り添っているのは。思考がなければどうして書いていられるだろうか。無理だ、書き続けるなんて書いて行くのも。
書いて行くためには思考のそばで書き続けるか、少なくとも書く。書くと生まれるんだ、書けるような力が湧き出して暫くして嬉しいと…

宝くじのBIGで一等のキャリーオーバー六億円が当たったら望んでいた超大恋愛

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駅のプラットホームで良く見かける可愛い女性がいた。二十~三十代くらいに見受けられた、年齢としては。本当に可愛くてチャーミングでラファエロの美しき女庭師《聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ》を彷彿とさせるルックスだった。どんな人かは全く分からないにせよ、見るからに引き付けられずにはいなかったんだ。
La belle jardiniere by Raphael [Public domain], via Wikimedia Commons
僕はいつも駅で遠くを眺めていた。目が辛くて少しでも休ませるために向かい側のプラットホームの先の町並みやもっと先の森山へ焦点を合わせて目の筋肉を緩ませるように努めたかった。近視の抑制にもなるはずだし、重度の近視は眼球が前後に伸びていて網膜剥離や緑内障といった失明を伴う大病の危険性を高めてしまう。避けられるかぎりは何でも生活に取り入れるには越さないと思っている。
気付いてみる…

酷い悩みに死にたいほどの一日が有力だ

ブログに表したいことが表せなくて一日を棒に振った。酷い悩みに全てを苛まれている。神様も気の毒だ。それとも僕か。世界で僕だけが悲しみに包まれながら神様こそ優しく迎え入れる存在だったと考えると気分が和らぐのを感じる。最初から生み出さないで欲しかったはずだけれどもいじけるほどに逆らっていたようでもある。神様に愛される生き方を求めておけば良かったのではないか。希望の光が本当に素晴らしい。生きる喜びに付き従いたくなるばかりだ。
人生よりも一日が大事というか、一日なしに人生はないから比べれば小さくても台無しにしてはならない。些細な日常に道を発見した。一日を棒に振らないと気付かないなんて馬鹿らしい。台無しにしないと分からないなんて生活も阿呆だろう。しかし頷く、失敗して。失敗しなければ僕は神様だとも容易く思えたに違いない。嬉しい、自分は神様ではないとはっきり知り得たから。酷い悩みが人間性を心底と作り替えて…

ロドリーゴのピアノのアランフェス協奏曲に信じられないほどの感動を覚えては興奮にも包まれながら

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Joaquín Rodrigo. Concierto de Aranjuez via Joaquín Rodrigo ED.
素晴らしくも気に入りのアランフェス協奏曲の作曲した本人のロドリーゴの演奏が聴けるという動画をYouTubeの公式チャンネルで見付けて飛び上がるくらい嬉しかったけれどもどんな演奏なのかと最も知りたかったのはテンポだった。
かねて想像したよりも少しだけ速かったようだ。薄い薄い紙一枚分くらい気持ちが置いて行かれるような風合いの漂うロドリーゴのピアノだったという。
そして深く味わいながら考えてみるとピアノの楽器の響きに頼らずに楽譜の音符を正確に捉えている、または丹念に世界を紡ぎ出すような指捌きが個性的で、著しく伝わった気持ちの良さがやはり素晴らしいと納得させられてしまったんだ。
テンポが少しだけ速くて感じるとはいえ、厳密にはピアノの響きが弱いから音場が耳に余り残らないために曲が先…

好きな詩集を人生で一つだけ挙げるならば

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僕が銀色夏生のあの空は夏の中(詩集)をどうにも手放したくない最大の理由は神様を感じさせてくれるためだ。
恋愛詩として読めるのは受け取られたイメージの外観的な要素でしかないと気付いてから本当に素晴らしい詩人の言葉が散りばめられた詩集だとあの空は夏の中を考えるようになった。
銀色夏生の神様への内観に触れながら味わうとこの詩集は恋愛詩としても計り知れない良さを持っていたということが分かって来る。
本当に面白いのは作中の「あなた」を神様に重ね合わせて感じられるところで、一つの思いが崇高な世界を伴って表現されているせいだったんだ。
銀色夏生はきっと狙ってはいない、作者として。しかし恋人がかけがえのない存在だと詩的に追求している気持ちは率直ではないだろうか。
詩人の意向がそのような真実と汲み取られるかぎり、言葉の端々に崇高な世界を垣間見ることも断じて強ちではない。
僕は考えるけど、むしろ人生でかけがえのない存在…

ドライアイが酷いから目の負担を減らそう

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一ヵ月くらい目脂が止まらなくて目の痒みも増しているなんてドライアイが相当に深刻化しているかも知れない。コンタクトレンズを付けずに過ごしていても殆ど変わらないんだ。
朝、起きると目がガビガビで少し開け難い。スマホ/タブレットの創作活動で一日に何時間も目を労らずに使い続けてしまっているのも事実なので、十五分程度に刻んで休ませるのこそが効果的だろう、ドライアイを退けるためには。
若いうちならば、多分、耐えられたとすると現状は目の新陳代謝が衰えていてもはや目の中の水の流れも悪いと考えられる。このままだと眼圧が上がって緑内障を引き起こし兼ねないから要注意だけど、しかし飛蚊症や光視症や目の回りの痛みなどは以前よりも少ないのは大丈夫かも知れない。
黒酢だよ、何といっても助けてくれたのは。視界にうようよ覆い尽くさんばかりのあの酷い飛蚊症を抑えられる方法は黒酢にしか見出だされなかった。残される違和感は目の疲れく…

言葉から実際に作曲していた自信作と呼んで良い音楽

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結城永人 - お元気ですか via 結城永人
YouTubeで一七番目の自作曲にお元気ですかと題名を付けてミキシングも幾らか変えながら載せ直した。
いつにないことだけど、言葉から実際に作曲していたので、だから作品に題名を付けるのはいとも容易かった。
お元気ですか
貴方がいなくなって
もう大分経ちましたね
もう大分経ちましたね
出だしのところは歌詞もできていた。そこからは言葉ははっきりしてなくて鼻歌混じりでやっていてしかしラストの一小節の四分音符の四つは「ありがとう」に定まった。ありがとうの「う」は縮めて「と」に纏めて入った。およそ俳句や短歌の字数換算だと「ありがとう」は五文字だけど、音楽の音符と歌詞の合わせ方は必ずしも同じではないと気付いたりもした。
出だしの歌詞の直後の暫くは非常に面白かった。予定通りだともっと低い音になっていた。メロディーからコードを付けるようにやっていたので、これは知識がない…

ブロガーの域

十数年来、詩のホームページをやりながらブログはメインではないという気持ちがあってどこか力が抜けてしまっていたようなんだ。それはそれで一つの魅力かも知れないんだけれども詩や他の創作と比べても遜色がないくらいブログを徹底して載せても良いのではないかと考え出している。文字数も平気で千文字を越えていたりする最近、否、やろうと思えば僕には幾らでもできるし、二千、三千文字でも時間の許すかぎり、ちょっとした短編小説並みのブログ(四百字詰め原稿用紙十枚/四千文字) でも面白そうに感じる。二十代で小説ばかり書いていた頃は一日にそのくらいでやっていた。流石に五千文字以上は厳しかった。しかしブログならば必ずしもストーリーの展開みたいなものは気にならないので、疲れも来難いようだし、どんどん行けてしまうだろうとは思う。
だから本当に制限するべきではないのではないか。詩や他の創作がメインで、ブログがサブという位置付け…