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ガッツがなければ何年もかけてGoogle検索は研究できない

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昨日はブログのアクセスが午前中からとても好調で、いつもは人が多いはずの夜に同じくらいの上乗せがなかったのが悔しかったものの一ヶ月振りに一日百人に迫った。
空に重く垂れ込めていた暗雲が漸く晴れて行くような爽やかな気分を味わう。物事が考え通りに望ましく進まない人生はどれだけ辛いかを反対に思い知らされてしまう。意外と気付かなかったけれども晴れやかな気分が本当に信じられないほどの衝撃を与えている。辛かったはずだ、今此処の大きな変化から捉え返してみるかぎり。もはや気落ちすると周りが良く見えなくて自分自身の感覚でさえもぼやけて掴み難くなるといわざるを得ないだろう。
度を越した悩みと同じで、辛さも巻き込まれて抜け出そうと考え倦ねるほどにそれ自体が分からなくなって忌まわしい状態こそ当たり前に受け取られながら内面に染み付いて暫く経った頃には何一つ疑いも抱かないくらい感覚が悪いままに取り込まれるんだ。
ブログをBloggerに移転してアクセスが初めて完全に伸び悩んでいるのがやはり厳しいだけでしかない内情だったと認める。
自信がないというか、絶えず、未知の領域に踏み込んで行っているサイト運営なので、数字は昔のホームページで一日三百人くらいまでのアクセスを経験済みだけど、人々と交流するよりも検索エンジンを重要するという仕方が本当に慣れてないし、どうなるかが歴史から直ちに予測できずにいるのが精神的に危うい。
良ければ別に構わないものの悪いとなぜかと災いにどんどん引き摺り込まれる。蟻地獄に落ちた蟻もさながらの悲劇的な状況を強いられてしまう。足掻いても足掻いても望んだ世界へは戻り切り得なさそうではないか。もはや思いはお陀仏でしかないままに力尽きると内面から叶わない夢の嫌らしさに押し潰されるばかりなんだ。
素晴らしい経験がないからブログに人が減る度にどうもこうもないし、やはり駄目に決まっていると瞬く間に気落ちせざるを得ない。
初めて検索エンジンから本格的にアクセスアップを求めているとすれば期待をかけながら必死に研究するGoogle検索の理論を何よりも重視するべきなんだ。
つまりは僕自身の自己流のSEO(検索エンジン最適化)対策を疎かにしない心構えが大切だといって良い。
上手く行くと思考して何もかも取り組んでいるわけだから努力しながらかりに結果が気持ち良く付いて来ないとしても未来へ手を伸ばす信念まで捨て去る必要は決…

モーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークを聴いて出会える神様への無邪気な心へ

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いつ頃からかは良く覚えていない。たぶんしかし高校時代だったのかも知れないというのがモーツァルトの音楽を聴きながら神様と出会った。
当時、ベートーヴェンが大好きだったので、何といっても交響曲第五番《運命》のジャジャジャジャーンが印象強いばかりだった、モーツァルトへの記憶は殆どない。クラシック音楽というとベートーヴェンが代名詞みたいな状態で、他にはチャイコスキーマーラーくらいしか聴いた感じがしなかったはずだ。
興味や関心からいうと十代の少年期にクラシック音楽を欲したのは僕の場合はオーディオが大きかったと振り返られる。とにかく良い音とは何かを知りたかったのではないか、世の中で。愛読書も月刊HiViだったり、どんなシムテムで良い音が聞けるのかを知りたくて探し回っていた。
なのでクラシック音楽は色んな音が細かく入っていて自前のオーディオが良い音を出しているかどうかを確かめる意味合いが非常に強かったし、真っ先に捉えるべき第一条件とするとやはりベートーヴェンは音の強弱が激しくてダイナミックレンジが超人的な音楽を作り出していから引き付けられない理由もなかったと認める他はなくなる。
モーツァルトへは逆に対照的な印象を微かに持たされながら不思議がっていたようだ。今にして思い返してもベートーヴェンとは似ても似付かないところの静けさがユニークな作曲家だろう。どんなに大人数の楽団を擁する交響曲やオペラを作曲しても心の空白地点というか、何となく時間が止まったような思いを抱かされるんだ。
気に留めると音も聞こえない感じがするから正しく不思議がりもするわけだけれどもイメージが音楽を越えて生み出されているとしかいいようがない。または楽想が素晴らしくてクラシック音楽はメロディーが分かり難くて何をやっているのかと考えても詰まらなくていつも聴かない人にとってはベートーヴェンの運命のジャジャジャジャーンみたいな明白なフレーズこそ好ましいかぎりにせよ、もうちょっとだけ重なり合う同じような部分もモーツァルトの作曲には含まれていたせいだろう。
Mozart: Eine Kleine Nachtmusik: McGill Symphony Orchestra Montreal conducted by Alexis Hauser via MGSOconcerts
人々に最も有名なモーツァルトの音楽はアイネ・クライネ・ナハトム…

生まれ付きで鼻のない赤ちゃんだったイーライ・トンプソンが残した笑顔

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Timothy Eli Thompson via Facebook
イーライ・トンプソンという赤ちゃんに生まれ付きで鼻がなかった。無鼻症という非常に稀な病気にかかっていた。出生児の一億九千七百万分の一の確率で、かつて世界中で三十七例しか確認されなかったらしい。生後五日で気管を切開して人工気管を通して呼吸が確保された。人々からは「Miracle baby」(奇跡の赤ん坊)と呼ばれて可愛がられていた。無鼻症の影響で病弱だったために二歳で亡くなってしまったけど、しかしあどけない笑顔を残していて写真から著しく引き付けられた。
アラバマ州モービルの赤ちゃんイーライ生後六ヶ月のイーライ赤ちゃんイーライのベスト
目にしながら逆しま泣いたようで、心がよもやまさか可哀想でしかないと感動し切れない部分へは詩的に素晴らしいと認めるばかりだった。
本当に詩情に満ち溢れた写真だし、何よりもドキュメントなのが驚かされずにいない。信じられないほどの笑顔と出会って生まれ付きで鼻のない悲しみのゆえに命の尊さのみから世界が透き通って行くのを経験してしまう。すなわち現実に詩があるとはっきり味わわせるんだ、驚きながら見るだけでも端的に。
些細な日常としてはベーコンの絵に匹敵する強度が込められた真実に他ならないだろう。
美しさとは何かを問い直させる。人生において必要な芸術が自分らしさを基礎付けるとしたら表現力の真実と心から呼ぶべきだ。生きる喜びの夢見られた情熱を差し置いたような美しさはなくて良い。だから詩もやって来て魂を与えるに違いない。歌うかどうかはさほど重要ではないはずだし、気持ちは誰もが沈黙の詩人に成り代わっているような時空へ正しく送り込まれている感じがする。
精神の夜に抱き抱えよう、笑顔を残したという生まれ付きで鼻のない赤ちゃんだったイーライ・トンプソンを
See miracle baby born in Alabama with rare facial anomaly breathe and coo via AL.com
貴方はまるで一本の蝋燭のような存在を教えてくれる。炎と輝いた生きる喜びの詩が聞こえるかぎり、もはや涙は砕け散った星屑に席を譲るだけだ。金平糖が降って来るまで祈りを捧げる神様に初めて訪れる夜明けこそ懐かしい趣きではないだろうか。永遠ならばバッチリにせよ、瞬きと共に全ては色付いて行く透き通っていたは…

ヴァン・ゴッホの自画像の心の目に見えて来る神様

一枚だけだけれども画家一筋のヴァン・ゴッホの記事で引用したヴァン・ゴッホ自画像に神様が見えて来たからブログに改めて取り上げておきたいと感じた。
僕の言葉遣いが霊感そのものなのと同じで、気付いた訪問者がいれば一人怪しく訝らせるのは忍びない。
ヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来ても君だけではないし、僕もそうだから間違いなく、安心して欲しい。
きっと僕の言葉遣いが霊感そのものだと気付くよりも人々にとって可能性は高いだろう。
理由は簡単だ。サイト全体のイメージに合ってないというか、些細な日常のブロガーがゴッホではないから僕ばかりの自己表現が多いところで、取り上げられた他の誰かの作品の個性的な特徴が比較的に目立ってしまうせいだ。
本当に驚くし、僕は絵から神様と出会うのは初めてだったので、ヴァン・ゴッホへも興味や関心が変わってしまう、一段とさらに素晴らしく。
ヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来るのは心の目でしかないはずだけれども普段とはちょっと違う。例えばモーツァルトの音楽のように普遍的な芸術作品ではないのではないか。ブログの記事で取り上げる以前にも良く見ていたのに似通った気持ちは全く湧かなかった。神様と出会うという可能性は基本的に想定されないし、ヴァン・ゴッホ自身も絵を描きながら意図してなさそうだったんだ。
すると些細な日常の記事の画家一筋という文脈から引き出され得た真実になっているといって良い。
この世だけで神を判断してはいけないとだんだんおもうようになった。世界は彼のしくじった試作なのだ。
作者を愛していれば、失敗した習作でも――それほど非難せずに――黙って居るだろう、そうじゃないか。
でも、もっとよいものを要求する権利はある。
テオ宛のゴッホの手紙(硲伊之助訳)
絵の見方が特別に指定されるためにヴァン・ゴッホの自画像に神様が見えて来たのではないか
心の目からすると最も重要なのは顔の表情が包括されていた。普遍的な芸術作品と受け取られる内容を備えているせいだ。ヴァン・ゴッホは一筆毎に色や形を変えながら自画像を精密に制作していて天才としか呼べないけど、それは珍しくない。集大成としては烏のいる麦畑が完璧だし、世界は容易には汲み尽くせないくらい自然と不可分なまでにリアリティーを超常的に高められている、いい換えれば一筆にメッセージが込められていて互いに寄せ集められながらイメージを無限大に展開…

書行による作家のための思考と存在証明

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書くことがない。ということを書く。やはりない、書くことが。
終わったと書く。書いてみる。書くことが終わった。まだ終わらない気分の中で始まった始まりを終わらせるかどうかに悩みながら書いている。書けた。ということは書けるんだ。
嬉しい、書けると。辛かった、書けなくて。なぜなのかは書きたかったためなんだろう。書かなくてはならなくて書くことがないと辛いんだ。
分かった。書くことがなくて書かなくてはならない場合には書くと良い。只々、書いて行く。どうして書けなかったのに書けるのか。
書くことがないのに書くためには行くしかない、書いて。
思考ではないのではないか。確かに思考だ、書きながら寄り添っているのは。思考がなければどうして書いていられるだろうか。無理だ、書き続けるなんて書いて行くのも。
書いて行くためには思考のそばで書き続けるか、少なくとも書く。書くと生まれるんだ、書けるような力が湧き出して暫くして嬉しいと感じ取るまでに至れば気分に相当に乗っているに違いない。

畢竟、書くことがないと辛いけれども書かなければならないのも大変だから書いて行きたい。書くこともなく、只々、書き続けるように書けるだけではなく、書いて行けるかどうかが重要だろう。
笑ってしまう。なぜならば思考が必要だからだ、書くことへは寄り添っていたに過ぎなかったにも拘わらず。本当に重要な知識を得るために役立つのは思考しかなさそうだ。今此処では間違いなく思考が訪れているし、他には何も取り上げられなどしなかった。
書いて行けるかどうかを問う。思考と共に書いて行くのは辛い。書くことがないのに書かなければならないのと同じだ。只々、書かせてくれ。書いて行けるだけで良いはずだ。書いて行くことと一体化してない思考こそ疲れが大きい。気楽に書きたいかぎり、思考は案外と厄介だ。勢い付いて書き続けるのには助かるけれども休まなくてはならなくて結局は途絶えがちに書いて行くばかりだから書けないに等しくて気分が滅入ってしまう。
思考よ。振り返ると本当に重要な知識のために呼び寄せたけれども書くことそのもののに支障を与えるかぎり、気楽には書けなくなり易いから気分に溶け込ませるべきなんだろう。書くことと一体化した思考だけが面白いように書かせてくれる。どんなに書いても疲れないみたいな元気を与える思考こそ僕にとって有り難いわけなんだ。
書いて書いて書き捲る。偶には良いというか…

宝くじのBIGで一等のキャリーオーバー六億円が当たったら望んでいた超大恋愛

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駅のプラットホームで良く見かける可愛い女性がいた。二十~三十代くらいに見受けられた、年齢としては。本当に可愛くてチャーミングでラファエロ美しき女庭師《聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ》を彷彿とさせるルックスだった。どんな人かは全く分からないにせよ、見るからに引き付けられずにはいなかったんだ。
La belle jardiniere by Raphael [Public domain], via Wikimedia Commons
僕はいつも駅で遠くを眺めていた。目が辛くて少しでも休ませるために向かい側のプラットホームの先の町並みやもっと先の森山へ焦点を合わせて目の筋肉を緩ませるように努めたかった。近視の抑制にもなるはずだし、重度の近視は眼球が前後に伸びていて網膜剥離や緑内障といった失明を伴う大病の危険性を高めてしまう。避けられるかぎりは何でも生活に取り入れるには越さないと思っている。
気付いてみると彼女が向かい側のプラットホームの階段を下りて来て僕の目の前の方を通り過ぎていた。
ただし僕が目線を感じたはずだった、先に。向かい側のプラットホームは全く見てないから誰が通り過ぎても気付かなかったので、彼女だけが特別に視界に入る理由もなかったという。
記憶は朧ながら誰かに見られていると気にかけながら向かい側のプラットホームの人たちへ目を向けるようにたぶん変わったんだ。
もしも自分が誰かに見られているとしたらどんな人なのか、相手を突き止めたいという気持ちが湧いて来て暫く探していて目に留まったのが彼女だった。他には誰も当て嵌まっては来なかったし、僕を見ているなんて素振りの欠片も感じられずにいた。
彼女が僕を見ているというか、予め見ていたから気付かされたように受け留めれば真偽を確かめてみたくなり、知らない振りをしながらチラチラ注目せざるを得なくなってしまう僕だった。余り見ていて逆に気持ち悪がられても悲しいかぎりなので、本当にそれだけはあってはならないと考えていた。僕は自分が誰かに見られていると、現実に彼女なのかを突き止めたいだけなので、およそ好奇心ならば誤解を招く恐れを孕んだ多くの事柄に留意しながら目線も送らなければならなかった。
僕が非常に驚いたのは彼女とやはり目が合った瞬間だった。チラチラでも見続けていることがバレたから恥ずかしくて仕様がなかったし、知られては気持ち悪がられる可能性も群を抜いて…

酷い悩みに死にたいほどの一日が有力だ

ブログに表したいことが表せなくて一日を棒に振った。酷い悩みに全てを苛まれている。神様も気の毒だ。それとも僕か。世界で僕だけが悲しみに包まれながら神様こそ優しく迎え入れる存在だったと考えると気分が和らぐのを感じる。最初から生み出さないで欲しかったはずだけれどもいじけるほどに逆らっていたようでもある。神様に愛される生き方を求めておけば良かったのではないか。希望の光が本当に素晴らしい。生きる喜びに付き従いたくなるばかりだ。
人生よりも一日が大事というか、一日なしに人生はないから比べれば小さくても台無しにしてはならない。些細な日常に道を発見した。一日を棒に振らないと気付かないなんて馬鹿らしい。台無しにしないと分からないなんて生活も阿呆だろう。しかし頷く、失敗して。失敗しなければ僕は神様だとも容易く思えたに違いない。嬉しい、自分は神様ではないとはっきり知り得たから。酷い悩みが人間性を心底と作り替えてしまう。ならば感謝するべきだろう、僕は僕のうんざりに――。
一日を潰すな、ブログでなくても。人生は正しい道を進むべきだ。二十年も作家活動で物事を必死に考え続けて来て狼狽えている場合ではない。自分らしさを保持すればハッピーパラダイスなのに酷い悩みに囚われていてどうするつもりか。本当に自殺するしかない。
だから立ち直るんだ。富士山麓の樹海ならば神様と共に抜け出すんだ。美しく手を繋ぐように笑えるならばむしろ富士山の水に健康を感じるために赴いたことにしよう。自宅に帰れるだけでも有り難い世の中に触れる。いうと酷い悩みは僕以外にも数多く察知される。皆を助けなくては行けなかったはずだ。可哀想で放ってなんかおけないと認める。
自分を救うことが他人を救うことに繋がるとは実に尤もだ。落ち込みながらでは何もできない。そんふうに自殺しないで、僕は長らく生き延びて来た。無能力こそ心の大きな支えだった。しかし無能力では誰にも理解されないし、サイトのアクセスも伸びない。人生の荒波に思い遣りを込めて助け船を繰り出すつもりならば有力にならないと駄目だろう。沈没していては何一つ役に立たない。どんなに使命感に燃えようと知られないかぎり、気持ちさえも伝わらなかった。

ロドリーゴのピアノのアランフェス協奏曲に信じられないほどの感動を覚えては興奮にも包まれながら

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Joaquín Rodrigo. Concierto de Aranjuez via Joaquín Rodrigo ED.
素晴らしくも気に入りのアランフェス協奏曲の作曲した本人のロドリーゴの演奏が聴けるという動画をYouTubeの公式チャンネルで見付けて飛び上がるくらい嬉しかったけれどもどんな演奏なのかと最も知りたかったのはテンポだった。
かねて想像したよりも少しだけ速かったようだ。薄い薄い紙一枚分くらい気持ちが置いて行かれるような風合いの漂うロドリーゴのピアノだったという。
そして深く味わいながら考えてみるとピアノの楽器の響きに頼らずに楽譜の音符を正確に捉えている、または丹念に世界を紡ぎ出すような指捌きが個性的で、著しく伝わった気持ちの良さがやはり素晴らしいと納得させられてしまったんだ。
テンポが少しだけ速くて感じるとはいえ、厳密にはピアノの響きが弱いから音場が耳に余り残らないために曲が先に進んで思われるだけなので、正しく作曲通りに演奏されたアランフェス協奏曲の第二楽章ではないか。
表現力として驚くべきは音楽のピアノの不要な味付けを完全に取り除いた聴かせ方だろう。第二楽章にかぎらず、アランフェス協奏曲が極めて美しい作品だけれどもロドリーゴの自作自演が端正そのものだし、そうした人柄が出ているとすれば本当に素敵な貴方としか呼びようがなくて出会えて心から幸せだといみじくも絶賛せざるを得ない。
全ては神様の思し召しで世界平和に匹敵する生活こそ手に入ったわけならば感謝感激雨霰の境地とも過言ではなくて本当に信じられないほどの感動と興奮に包まれながら命懸けで祈りを捧げるだけだ。
ロドリーゴの自作自演を知ってしまうと思いが天空へ旅立って行くようだ。
自然のままに夢見心地だし、音楽という一つの芸術/創作活動の喜びに打ちのめされるばかりだから入り浸ってとにかくも立ち上がるよりはゆっくり有り難く休ませて貰うしかない。

好きな詩集を人生で一つだけ挙げるならば

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僕が銀色夏生あの空は夏の中(詩集)をどうにも手放したくない最大の理由は神様を感じさせてくれるためだ。
恋愛詩として読めるのは受け取られたイメージの外観的な要素でしかないと気付いてから本当に素晴らしい詩人の言葉が散りばめられた詩集だとあの空は夏の中を考えるようになった。
銀色夏生の神様への内観に触れながら味わうとこの詩集は恋愛詩としても計り知れない良さを持っていたということが分かって来る。
本当に面白いのは作中の「あなた」を神様に重ね合わせて感じられるところで、一つの思いが崇高な世界を伴って表現されているせいだったんだ。
銀色夏生はきっと狙ってはいない、作者として。しかし恋人がかけがえのない存在だと詩的に追求している気持ちは率直ではないだろうか。
詩人の意向がそのような真実と汲み取られるかぎり、言葉の端々に崇高な世界を垣間見ることも断じて強ちではない。
僕は考えるけど、むしろ人生でかけがえのない存在に触れた瞬間の記憶、数えるしかないほどに衝撃的な経験の素晴らしい自分らしさから詩人は生まれて来るべきだとさえもいえるかのようだ。
銀色夏生のあの空は夏の中と付き合っていると人間も美しいと今更ながら認められて来てしまう。神様と同じように信じられるはずだし、すれば愛し返されもしないとはかぎらないという。安らぎを覚えるには正しく十二分の彼方だった。
今此処では奥深い気持ちの言葉にせよ、僕こそ真剣に、または眉間に皺を寄せながら詩集を手にする天使にせよ、互いに信じ合い、愛し合われて知り出し得た安らぎにとっての崇高な世界ならばおよそ何も変わることはないだろう。
一人の詩人と出会っていた。生まれたままの姿で、しかもだけれども星の光と見紛うばかりの輝きを放って聞こえて来る歌声の先に銀色夏生を見出だすこと、果たしてcite>あの空は夏の中でなくては不可能だったみたいだ。優しさに満ちた有り難い印象と相俟って心から惹かれないわけには行かない。
すなわち好きな詩集に他ならない。認めるほどに手放したくないと僕は本当に思う。
つめたくしてごめんね
つめたくすることしかできなかったの
あなたをとても好きで
あなたをずっと待っていたことが
とても悲しくて とてもくやしくて
うれしかったのにどうしようもなくて
つめたくしてしまったの
銀色夏生のあの空は夏の中
二十歳の終わり、僕は天使的な人に運命の恋を感じたけれども考えると…

ドライアイが酷いから目の負担を減らそう

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一ヵ月くらい目脂が止まらなくて目の痒みも増しているなんてドライアイが相当に深刻化しているかも知れない。コンタクトレンズを付けずに過ごしていても殆ど変わらないんだ。
朝、起きると目がガビガビで少し開け難い。スマホ/タブレットの創作活動で一日に何時間も目を労らずに使い続けてしまっているのも事実なので、十五分程度に刻んで休ませるのこそが効果的だろう、ドライアイを退けるためには。
若いうちならば、多分、耐えられたとすると現状は目の新陳代謝が衰えていてもはや目の中の水の流れも悪いと考えられる。このままだと眼圧が上がって緑内障を引き起こし兼ねないから要注意だけど、しかし飛蚊症や光視症や目の回りの痛みなどは以前よりも少ないのは大丈夫かも知れない。
黒酢だよ、何といっても助けてくれたのは。視界にうようよ覆い尽くさんばかりのあの酷い飛蚊症を抑えられる方法は黒酢にしか見出だされなかった。残される違和感は目の疲れくらいか、およそ。
念のために断っておけば緑内障は自覚症状を伴うとはかぎらないので、目に違和感があってもなくても自分はかからないと安心することはできない。原因も良く分かってない病気みたいだけど、眼圧が高いと危ないらしくて本当に心配ならば病院で検査する以外には細かくは知り得ない。
僕は実感として大丈夫かも知れないと病気へは行かずに過ごしている。ドライアイが緑内障の引き金になる可能性は十分にあり得るから目の疲れも含めて気にかけて気にかけて生きて行かなくては仕様がないだろう。
緑内障は若ければ少ないようだから老化との関係が大きいはずだし、アンチエイジングの取り組みも怠ってはならない。すると他の様々な病気も免れ易くなるから良い。人生を有意義に送るためにも止められるわけがない。
創作活動でスマホ/タブレットと必死ににらめっこせざるを得ないかぎり、途中で目を長めに閉じたり、深い瞬きを多く繰り返して行くことが求められるんだ。
やる気が削がれるというか、乗りに乗って勢いがまるで蒸気機関車のように如何にも大きく奮発しているところで、少しでも妨げられたくないと思う。ただし目を閉じれば瞑想できて精神統一に役立ちそうだから自然は良くできているとも思うし、神様は面白い。
就中、精神統一で引っ張ってこそスムーズな創作活動が得られるのではないか。するとスマホ/タブレットでの目の負担も減るし、生活において全てが上手く回って行く…

言葉から実際に作曲していた自信作と呼んで良い音楽

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結城永人 - お元気ですか via 結城永人
YouTubeで一七番目の自作曲にお元気ですかと題名を付けてミキシングも幾らか変えながら載せ直した。
いつにないことだけど、言葉から実際に作曲していたので、だから作品に題名を付けるのはいとも容易かった。
お元気ですか
貴方がいなくなって
もう大分経ちましたね
もう大分経ちましたね
出だしのところは歌詞もできていた。そこからは言葉ははっきりしてなくて鼻歌混じりでやっていてしかしラストの一小節の四分音符の四つは「ありがとう」に定まった。ありがとうの「う」は縮めて「と」に纏めて入った。およそ俳句や短歌の字数換算だと「ありがとう」は五文字だけど、音楽の音符と歌詞の合わせ方は必ずしも同じではないと気付いたりもした。
出だしの歌詞の直後の暫くは非常に面白かった。予定通りだともっと低い音になっていた。メロディーからコードを付けるようにやっていたので、これは知識がないと本当に難しいし、経験も大きいと思う。音階を周りに合わせて本来の味わいが薄くなったのは悔しいけれども元々は《神様との出会い》を表現していたし、そのような雰囲気は少なくとも残っているわけなので、人生で崇高としか呼べない音楽には仕上げられたんだ。僕としては愛する人への手紙のような形で、構想しながら詩的にも良いと考えながらモチーフとして優先することにした。
ホームページのテーマ曲にも採用してProfileに載せたり、自分らしさという点でももはやこれしかない感じで、音楽では自信作と呼んで良いと思っているわけなんだ。
創作活動をやっていて生活の励みになるような作品が手に入ることは素晴らしいし、飛行機のエンジンならば推進力を付けて自由に空を飛び回れるような形で奮って役立てて行きたい。

ブロガーの域

十数年来、詩のホームページをやりながらブログはメインではないという気持ちがあってどこか力が抜けてしまっていたようなんだ。それはそれで一つの魅力かも知れないんだけれども詩や他の創作と比べても遜色がないくらいブログを徹底して載せても良いのではないかと考え出している。文字数も平気で千文字を越えていたりする最近、否、やろうと思えば僕には幾らでもできるし、二千、三千文字でも時間の許すかぎり、ちょっとした短編小説並みのブログ(四百字詰め原稿用紙十枚/四千文字) でも面白そうに感じる。二十代で小説ばかり書いていた頃は一日にそのくらいでやっていた。流石に五千文字以上は厳しかった。しかしブログならば必ずしもストーリーの展開みたいなものは気にならないので、疲れも来難いようだし、どんどん行けてしまうだろうとは思う。
だから本当に制限するべきではないのではないか。詩や他の創作がメインで、ブログがサブという位置付けを取り払って少なくとも同じくらい一生懸命に頑張りたくなった。毎回ではないけれども気が向いたら強いて字数を減らしてコンパクトに纏めなくてもというわけだ。文章を削るとすると意味合いが変わるし、短く切り詰めながら完全に表現できるかどうかは作詩のように楽しいはずにせよ、創作として捉えれば長くするべきところを長いままにして置いておくことは又別の趣きを与えるに違いないんだ。
ブロガーの域に達したかも知れないと専ら感じたりするけど、やはり長いところを長いままでの文章が特徴的だろう。喋りに近い。普段、僕は人と余り殆ど喋らない。ただし心で物凄く喋っていて独り言か、作家活動だと次から次へと浮かんで来る言葉を選んで詩でも小説でも流れを生み出して行くわけなんだ。本当、認識に即して一本調子で続けて行くだけではなくて壁に打ち当たると様々な可能性も考えなくては結論は導き出せなくなってしまう。況んや十数年の経験ですっかり身に付いていて極端な話ではなくて朝も昼も夜も考えているし、言葉は浮かぶのを止めない。良い加減に勘弁して休ませて欲しいくらいなんだ、神様には。いつもいつも作家活動というのに等しい。独り言もおよそ口には出さずに考えている状態と変わらない。
そうこうしているうちに千文字に差しかかった。二三時間くらいで、僕には丁度という具合か。長文のブログもやっていると気持ち良いものだ。充足感がある、仕上げては振り返ってみて…